【井下清と鳥居龍蔵との関係】
日本初公園墓地である多磨霊園構想の中心にいて開設者である井下清(8-1-18-18)は、「武蔵野会」創立者であり郷土文化伝承に尽力していた鳥居龍蔵と意気投合。互いの合致する見解を双方協力、あるいは励みにし互いの理念に尊敬し合える仲であった。
そこで、多磨霊園公園計画のひとつの案に、碑石形像建立計画があり、鳥居龍蔵没後、井下清自らが発起人となり鳥居龍蔵の功績を称える記念碑を建立した。
*鳥居龍蔵の墓所は徳島県鳴門市妙見山にある県立鳥居記念博物館の敷地内にあり、きみ子夫人と共に眠っている。お墓は、龍蔵のアジア研究の原点となったドルメンの遺跡をかたどった巨人の墓。
*鳥居龍蔵記念碑の横に鳥居の長男で21歳でフランス留学中に客死した鳥居龍雄を偲んで建立された碑が建つ。その隣に長野清秋と山井精渓の碑が続いて並ぶ。道路を挟むと神野信一、岩谷莫哀、吉田久庵の碑も並び、この一角だけで計7基の碑石形像が建つ。
鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう
1870.5.4(明治3)〜 1953.1.14(昭和28)
明治・大正・昭和期の考古学、人類、民俗学者
徳島県出身。小学校を7歳で中退し、中学までの課程を独学。後に英語・フランス語も独学で修得。
人類学者の坪井正五郎と16歳の時に出会い、坪井から貸しあたえられた「金属器以前の人々」の本に感銘し、人類学の道へ進む。
1893(M26)坪井の誘いで、東京帝国大学人類学教室の標本整理係として入り、後に助教授にまで認められる。
1895より遼東半島、台湾、中国西南部、シベリア、千島列島、沖縄、満州、蒙古、東アジア各地を調査。
今までにない調査手法として写真機や鑞管蓄音機などを導入した。1918(T7)武蔵野会(武蔵野文化協会)を創設し、機関誌『武蔵野』を創刊。
武蔵野会には多磨霊園開設者の井下清の他、考古学者を志していた若き日の杉原荘介(10-1-13-26)、'20パリ学士院からパルム・アカデミー受賞。
'21「満蒙の有史以前」の研究で文学博士。学歴がない助教授職であったため、大学との対立に巻き込まれ、'24東京帝国大学助教授を辞して、自宅に鳥居人類学研究所を設立。
國學院大學教授、北京の燕京大学の客座教授などを歴任。満州の石器時代から漢代までの遺跡調査や蒙古地方の遼代文化の研究、日本石器時代人アイヌ説などが有名。享年82歳。
1月17日に日本人類学会、日本民族学協会、日本考古学会、日本考古学協会、国学院大学考古学会、武蔵野文化協会による合同葬が行われた。
鳥居の収集した資料は、徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。
'01(M4)きみ子(本名はキミ。旧姓市原。1881.2.13〜1959.8.19)と結婚。
きみ子も女性人類学者として、鳥居の調査助手や蒙古カラチン王府女学堂の教師に招かれる人物であった。
第319回 碑石形像 鳥居龍蔵記念碑 鳥居龍雄君碑 長野清秋君之碑 記念碑巡りツアー 多磨霊園開園100周年
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