永禄元年(戊午) 改弘治四年

一月

一日 本日から十五日まで儀式は例年通り行われ、記すに及ばない。

十六日 屋形が後藤但馬守を代参として勢州に遣わされる。同日屋形、後見義賢、その他御一門の面々が佐々木神社に年始の社参をする。

十九日 屋形が上洛される。

二十日 後見義賢が病気のため屋形が江東に帰城される。

二十九日 屋形が上洛される。

二月

三日 大洪水が起こり、戌の刻に地震がある。東光寺にて前屋形義実公の追善が行われる。当屋形、御一門、旗頭等が残らず東光寺に参詣する。

五日 今川義元から使節として赤坂左近丞という者が参上し、将軍家に北條家との縁組の儀を申し上げる。同様に観音寺城へも報告に参る。

十八日 清水寺の内陳が鳴動する。

三月

三日 佐々木神社の祭礼は例年通り行われ、記すに及ばない。

十八日 江州三上山の山頂から煙が立ち昇る。

二十八日 木村佐渡守入道承頓死去。享年九十三歳。この入道は当屋形が幼少の頃より守役として忠義を尽くしてきた者である。このため屋形は非常に悲しまれ、一宇の寺を建立し承頓寺と名付けられる。このようにして入道を厚く弔われる。

四月

八日 屋形の後見である左京大夫義賢が江雲寺にて出家する。この寺は義賢の父定頼の廟寺である。義賢は入道となり抜関斎承禎と号す。義賢はこのように出家をするが国政については評議から退くわけではない。

二十日 六角の館が焼失したと馬渕源太郎が早馬にて観音寺城に申し上げる。

五月

三日 江雲寺の和尚が急死する。これはこの上人の弟子覚円の仕業であると噂される。これによって承禎は覚円を召捕り、野洲の河原にて五躰を火焙りにして殺す。

五日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。申の刻に大雨が降る。

十日 高宮備中守秀重が箕作城にて急死する。大量の血を吐いて死ぬ。この秀重は当屋形が特に目をかけている人である。当家の庶流にあたり、武の才能に優れた勇士である。人々は、義弼が将来当屋形を滅ぼし国を奪い取るために秀重を毒殺したのだと密かに噂する。近年大唐から砒霜石という猛毒薬が伝わって、これによる毒殺が上下を問わず行われる。真に嘆かわしいことである。

二十一日 永原氏高入道死去。享年七十三歳。この人は屋形の一族である。

六月

天下に疫病が流行し多数の死者が出る。江州では八千人に及ぶ。

二十九日 二月四日から今日まで一滴も雨が降らないので天下でひどい旱魃になる。このため米五升が銀銭百文で取引される。前代未聞のことである。餓死する者が道路にあふれる。

七月

四日 箕作義弼が伊達采女正秀武を箕作城にて討つ。その罪状はわからない。承禎公は息子の不義を諌めず、その本心が知れないと人々は疑う。朝鮮国と大明国の間で戦争になったと噂が伝わる。

二十五日 能州の畠山が江州に来る。この者は後見義賢入道の婿であるが、婚姻後初めての当家への見参である。

八月

一日 尾州斯波の家来織田大和守の弟である織田左近将監が尾州を出奔し本日江州に来て屋形の扶助を蒙る。その理由は先月十二日織田上総介信長と兄大和守信武が尾州浮野にて合戦に及び、大和守が大敗して三州岡崎へ退いたため弟左近将監も国を退いたものであると申し上げる。

二十日 小雨が降る。春から降雨がなかったがついに本日申の刻に雨が降り、草木が潤うさまは飢えている人が食物を与えられたかのようである。

九月

八日 片桐七内左衛門尉光武死去。この人は江北の奉行である。

十三日 屋形が澤田江兵衛尉忠武を甲州の武田へ遣わされる。密状の内容は分からない。

二十一日 山門浄全坊法印が葛川に入って生身の不動明王に見えたという。

二十二日 洛西の壬生というところに小馬を産む女がおり、本日将軍家へ参上する。前代未聞のことである。

十月

十三日 後見承禎公と後藤但馬守が観音寺城にて口論になる。これは承禎公が自ら取り立てた上月源八という者に南條下総守の名跡を、屋形の下知を仰ぐことなく与えた事に後藤が強硬に反撥したためである。屋形はこれを御存知なく、この時から後藤と承禎父子の不仲が始まる。

二十八日 後藤但馬守が若州へ行き、武田大膳大夫義統を語らったという。

十一月

十日 大雨が戌の刻から雪になり、翌十一日の申の刻まで降り続く。四尺余り積る。

十九日 丹後国一色家の家人前野と矢野が合戦し、前野が討死する。これによって丹州は非常に騒然となる。このため将軍家から検使として中村右馬允が遣わされたということである。

二十一日 今上天皇が病気のため近江国兵須社において、今日から三十日の間毎日七座ずつの護摩を修すように将軍家から屋形へ書状が下される。近国の大名は残らず上洛するが、この儀のため屋形は上洛されない。

十二月

今上天皇の病気快癒の御祝として、将軍家は下松に仮屋を建てて国主、諸公家、その他洛中の人々に能をお見せになる。午の刻に将軍自ら能を演じられる。

十四日 将軍家が参内し、この度在京している国主に官位を請い与えられる。


永禄二年(己未)

一月

一日 本日から十四日まで天気は快晴である。

十五日 屋形が佐々木神社に参詣される。後見承禎公の息子箕作義弼、八幡山義昌、その他御一門の面々、家来の旗頭達は残らず供奉する。後藤但馬守はただ一人社参の供奉に参加せず、観音寺城に留まる。

十八日 屋形が上洛される。旗頭の中から進藤山城守、目加多摂津守、高宮三河守、蒲生右兵衛大夫、浅井備前守、朽木宮内大夫の六人がこれに供奉する。

二月

十四日 駿州今川義元から使節が参り、来月三月に上洛する旨を申し上げる。屋形は返書にて上洛の道を遮ると仰せになる。今川家は今年一、二月の間に尾州の織田信長と国境を争い二度三州、尾州の境にて合戦をしているということである。

二十八日 浅井下野守祐政が本日屋形に申し上げるには、尾州の織田上総介信長の妹を息子浅井備前守に娶わせたいとのことである。屋形はこれをお許しになりその準備を調えようとされたところ、後見承禎公父子が揃って反対する。屋形がお許しになった以上はということで後藤但馬守が強引に話を進め、晦日には早くも結納の使節を尾州に遣わす。

三月

三日 佐々木神社で祭礼が行われるが、屋形は病気のため参詣されない。後藤但馬守が代参として遣わされる。後見承禎公父子、八幡山義昌並に一門の面々、旗頭等は残らず参詣する。

十日 尾州織田備後守信秀の娘で信長の妹が江北の祐政の小谷城へ輿入れし、息子備前守に娶わせられる。

十四日 後藤但馬守が浅井父子を引き連れて出仕し屋形へ厚く礼を述べる。後見承禎公父子へは礼の儀はない。これは年来の対立の感情のためかどうかはわからない。

二十日 山崎源太左衛門尉が屋形の諱字を賜り秀家と名乗る。この者は江州旗頭の一人である。先祖山崎因幡守高家から現在の源太左衛門尉秀家まで九代に亘り当家の御旗を預かって、度々軍功を立てた家柄である。

四月

十三日 屋形は久徳左馬允光成に諱字を与えて秀成と名乗らせる。この者は前屋形義実公の代には近習であり、特に調度掛の役人であった。

十九日 後藤但馬守が屋形に注進し、逆心の罪で久徳秀成を討つ。

二十三日 東光寺仏殿が鳴動したと、この寺の和尚尊光が観音寺城に申し上げる。

五月

五日 佐々木神社の祭礼は例年通りである。今年は蒲生、野洲の二郡から神事の渡物が演奏され、近年よりもさらに美を尽くしたものになる。屋形並に後見承禎公、八幡山義昌、一門の面々、旗頭等が参詣する。

六日 午の刻に地震があり、長命寺の御廟が鳴動する。これは当家第九代の管領兵部秀義の廟である。この廟が鳴動するたびに国に大事が起こるので江州の旗頭達は各々非常に心配する。

七日 今日から七日間長命寺の廟にて毎日七座ずつの護摩が修される。山門恵心院の僧都がこれを修す。

三十一日 後藤武蔵守入道道卜死去。享年七十三歳。この者は前屋形が取り立てた江州旗頭の一人である。

六月

二十日 濃州土岐家から使節が来る。その申し上げる内容は来月七月に上洛するつもりであるということである。それには下心が感じ取れるため、屋形はこれに承知されない。このことについて後藤但馬守が密かに屋形に何かを申し上げる。土岐は後見承禎公の妹婿である。

二十七日 大津の町屋二十九棟が落雷のため焼失する。

七月

九日 屋形が雲光寺に参詣される。旗頭等がこれに供奉する。この寺は氏綱公の廟寺である。

二十一日 屋形が上洛され、後藤但馬守が観音寺城に入る。これは思うところあってのことである。二十六日に屋形が江東に帰城される。

八月

五日 勢州国司が桑名十兵衛尉を討つ。これは桑名が次男を今川義元の内臣赤田刑部の養子に出したためであるという。このために桑名一族が津城を取り囲んで近辺を焼き払ったと国司から後見承禎公へ使者が参る。国司は承禎公の婿である。

九日 箕作義弼が三千騎を率いて勢州へ向かう。江州旗頭の内からは三雲の他は一人も随わず、逆に観音寺城に出仕して義弼の行動について話し合う。これは後藤が内々に計画した事である。

十二日 後見承禎公が観音寺城の居所を引き払って箕作城に移られる。

二十七日 尾州から山口右馬允という者が参り屋形に扶助を請う。この者は織田武蔵守に味方をした者である。この者が申すには、今月二十四日に織田上総介信長が尾州清洲城において合戦し、一門の多くを滅ぼしたという。近年尾州の屋形である斯波武衛が織田一族に国を押領されてからというもの、尾州では一日たりとも平穏な日はないという。

九月

十日 八幡山義昌の嫡男河端左近大夫が公方の近習になる。

十五日 将軍家が一色淡路守を江州に下し、屋形と承禎公の和解を仰せ付けられる。承禎が申すには、屋形に対して全く二心はないという。

二十八日 東方に燃えている星が現れる。

十月

十四日 鳥居丹後守という者が九州から上京し、将軍の御所に参上して様々な秘術を行う。この者は九歳から伯耆国大山に登って天狗の法を学び常に木食したという。

十九日 岡田助右衛門尉は屋形の近習であったが、非義があったため国を引き払う。後、尾州に下り織田家を頼るという。

二十日 濃州の斎藤山城守が使節を立てて屋形へ申すには、尾州の織田が濃州へ度々乱入し困っているので急ぎ加勢の軍勢を送っていただきたいとのことである。同日午の刻に八幡山義昌を大将とし、馬渕、楢崎を差し添えて四千余騎を濃州に遣わされる。

二十八日 濃州から飛脚が到着し八幡山義昌の書状を届ける。その書状によれば来月三日に尾州が占領している大柿城を攻めることに決まったということである。

十一月

四日 美濃国より報告があり、昨日三日に大柿城が落城したと告げる。

十日 美濃国へ加勢に参上した面々が江州に帰国する。同日斎藤山城守は使節を送って、生前の面目を施せたと厚く礼を述べ、近日中に参上する意志を伝える。

十九日 浅井小四郎が蒲生十兵衛を討ち、江州を出奔して逐電する。後に伝え聞くところでは尾州に下り織田上総介信長に属して一手の大将になったという。

今月尾州織田と駿州今川との間で二度合戦があったが、その詳細はわからないので記さない。

十二月

三日 将軍家の御台所が女子を出産する。

十五日 三好修理大夫が将軍家から諱字を賜る。

二十四日 大雪が降る。

二十七日 細川六郎が将軍家の不興を蒙り高野山に入る。


永禄三年(庚申)

一月

一日 本日から三日まで大雪が降り、十五日まで少しずつ降り続ける。観音寺城への出仕の様子は例年通りである。

十六日 屋形が上洛される。旗頭の中から五人がこれに供奉する。

二十七日 即位式の様子等は多いので記さない。翌日諸国の国主が太刀一振りを献上して今上天皇の即位を祝し奉る。将軍家が参内し、近国の国主がこれに供奉する。行列等は多いので記さない。

二月

四日 屋形が京から江州に帰国される。

五日 大雨が降り、長さ五寸ほどの毛を降らせる。江西の比良山から龍が天に昇る。

六日 佐々木黒田下野守重隆死去。享年五十七歳。この者は備前国赤坂福岡にて生まれる。父は黒田右近大夫高政であり、この高政は江州旗頭の一人であったが屋形高頼公の下知に背いて国を出奔した人である。

十日 馬渕遠江守実綱が病死する。享年五十一歳。

十五日 山門東塔谷から伊吹山権現堂へ光るものが飛ぶ。

二十一日 寺田掃部盛時が舎弟若狭守と喧嘩になり、観音寺城の下馬にて死亡する。喧嘩になったのは箕作義弼に頼まれた事について若狭守が諫言したためである。

三月

三日 佐々木神社の祭礼は例年通り行われる。屋形、御一門の面々、旗頭等は残らず参詣する。後見承禎公は病気のため参詣せず、義弼も同様に病気を理由に参詣しない。

十一日 平井備中守に屋形が諱字を与えられ秀定と名乗らせる。平井の先祖は当家の一族である。

二十三日 黒田伊賀守重友死去。享年四十三歳。この者は江北の奉行である。

四月

十日 本日から二十一日まで毎日夕方西方に青気が立ち、まるで虎のようである。また夜には南方に光があり、まるで電光のようである。

二十九日 屋形が病気のため御一門並に国中の旗頭が残らず観音寺城に集まる。

五月

五日 佐々木神社の祭礼は例年通り行われる。今年は志賀郡と高嶋郡が当番であり、例年以上に美を尽くしたものになる。

七日 尾州の織田上総介信長から使節が参る。その書状で申すには、駿州の今川義元が数万騎を率いて近日上洛するらしい、信長は小身といえども上洛の道を阻もうと思っている、ただ軍勢が微小なため江州より加勢をいただければ真に生前の面目を施すことができるであろうということである。

八日 尾州へ加勢の軍勢を遣わされる。後藤但馬守は屋形に対し、加勢には前田右馬頭と池田庄三郎を遣わされるのがよろしいでしょうと申し上げる。屋形はこの意見に賛同され、両将に自ら金の采配を与え甲賀七人衆を差し添えて総勢二千三百騎を翌九日卯の刻に尾州へ遣わされる。

十二日 尾州への援軍の大将である前田、池田両将から飛脚が到着する。その書状には次のように書かれている。

前田、池田が飛脚を立てて申し上げる。今月八日、九日両日に今川義元は三州の吉田岡崎まで上洛、近辺に放火し、今日三尾の境川に到着して陣を敷いたと伝え聞くところである。近日織田家は三州表へ出陣して今川軍を攻めるということであるが、まず今川の上洛する道々を防御するために織田家の諸旗頭等をそれぞれに配置するということである。それは次の通りである。


一 丹家城   水野帯刀、山口海老丞、柘植玄蕃允     この軍勢合わせて三百四十三騎

一 善照寺   佐久間右衛門尉、同左京助          この軍勢合わせて四百五十騎

一 中嶋城   梶川平左衛門尉、澤田右近助        この軍勢合わせて二百六十騎

一 丸根城   佐久間大学助、山田藤九郎         この軍勢合わせて百五十騎

一 鷲津城   飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允     この軍勢合わせて五百二十騎

   以上全て方々から加勢に集まった軍勢を入れたものである。

一 中村、鳴海両城   山口左馬助、子半内を入れておいたところ、この両者が寝返ったため今川の手に落ちたと注進がある。


以上の旨よろしく申し上げていただきますよう 恐惶謹言

五月十一日卯上刻                   池田庄三郎 在判

                                  前田右馬頭 在判

                               軍奉行 乾兵庫介 在判

馬渕伊賀守殿

目加多摂津守殿

後藤但馬守殿

十四日 尾州から飛脚が到着する。池田、前田両将が書状にて次のように申し上げる。

今月十三日今川義元は既に尾三の間まで進出し、大高、沓懸両城を攻め落とす。その他に義元が軍勢を入れて守備させている城は以下の通りである。


一 笠寺城   葛山播磨守、岡部五郎兵衛尉、三浦左馬、飯尾豊前守、浅井小四郎、澤田掃部介、今川中務丞


以上七人に八千騎を与えて配置するということである。織田家が我々二人に評議して申すには、当国内に引き入れて合戦しようということである。以上の旨申し上げていただきますよう 恐惶謹言

五月十三日午刻                        右三人

馬渕伊賀守殿

目加多摂津守殿

後藤但馬守殿

二十日 尾州から飛脚が到着する。その書状は次の通りである。

今月十七日今川義元は尾州愛智郡沓懸城に着陣し、翌十八日酉の刻に大高城へ兵糧等を運び込む。ここで評議をして今朝鷲津、丸根両城を攻めることに決まったと佐久間の方から織田家へ報告がある。そこで織田家は現地へ出陣し、江州の軍勢は右備を頼まれたためいち早く出立した。以上の旨よろしく申し上げていただきますよう 恐惶謹言

同月十九日卯上刻                       右三人

馬渕伊賀守殿

目加多摂津守殿

後藤但馬守殿

二十一日 平井備中守定重入道覚雲死去。享年七十三歳。この入道は定頼公の烏帽子子であり、数回軍功を立てる。先祖は当家の一族であり、江北の旗頭である。同日未の刻尾州から飛脚が到着し、池田、前田が書状にて次のように申し上げる。

今月十九日、二十日の合戦の事

一 織田家が今月十九日卯の刻に清洲城を出立する。旗本の軍勢一千二百余騎。左備は江州の援軍前田右馬頭、池田庄三郎。右備は織田大隅守、同四郎次郎。前陣には織田造酒丞、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八兵衛尉、山口飛騨守、加藤采女正、同彌三郎、河尻右馬允、同與兵衛尉、簗田出羽守等である。

一 手合の一戦で佐々隼人正、千秋四郎大夫が討死する。酉の刻になって岩室長門守が討死する。味方は八百三十騎が討死する。

一 今朝味方が守っていた鷲津、丸根両城が落城する。

一 織田家の敗色が濃厚になって信長が諸将に申すには、今夜今川家が陣を置く山の後背に回り込んで夜討をかけるということである。皆この案に賛同する。味方は二備になって旗や腰印等を捨て、馬の轡に紙を巻き、軍卒は残らず兜を捨て置く。そして行くと言えば進むと答える合言葉を取り決め桶狭間の山の後方に登り、十九日子の刻に義元の本陣に攻めかかり大勝利を得る。

一 味方で手柄を立てた面々については追々申し上げることとする。

一 今川義元を討ち取った織田家の近習については服部小平太と申す者が太刀にてこれを討つも、毛利新介と申す者が二の太刀にかかり義元の首を取る。このため先後の争いとみなし織田家は両者共に證文を与えられない。

一 織田家近習下方九郎左衛門尉と申す者が義元の同朋衆である林阿彌という者を生捕りにする。この林阿彌に討ち取った首を見せたところ、この者が見知っていたために判明したものは次のとおりである。


久野半内     義元甥     江原美作守    旗大将     神原宮内少輔   義元伯父

吉田武蔵守    軍奉行     岡部甲斐守    左備大将    藤枝伊賀守    前備内

嶋田左京進    義元近習    阿部藤内左衛門尉 義元近習    三浦左馬助    旗頭

浅井小四郎    義元妹婿    葛山播磨守    後陣旗頭    岡部五郎兵衛尉  近習頭

飯尾豊前守    尾州浪人    澤田長門守    江州浪人    乾安房守     旗頭内

岡崎十兵衛尉   義元近習    上和田雲平    義元小姓    金井主馬介    甲州浪人

江尻民部少輔   義元一族    相良角内左衛門尉 近習内     伊豆権守   鑓大将義元師

長瀬吉兵衛尉   平岩十丞兄   平岩十之丞    義元近習    平川左兵衛尉   江州浪人

福平主税介    伊豆北條浪人

この他 士分五百八十三人、雑兵三千九百七人


一 江州援軍内   山田十兵衛尉、弓削左内、上月兵部

 以上三人は深手を負い本日戌の刻に死亡する。この他雑兵三十七人が討死する。負傷者は二百七十二人である。

以上の旨よろしく申し上げていただきますよう 恐惶謹言

五月二十日                          池田庄三郎

前田右馬頭

後藤但馬守殿

進藤山城守殿

目加多摂津守殿

二十五日 尾州へ遣わしていた前田右馬頭兼利が江州に帰国する。甲賀七人衆も同じく帰国する。織田家から使節が参り、織田造酒丞という者である。この度加勢を送っていただき大勝利を得、殊に大将義元を討ち取ったことは生前の幸慶であると書状にて慇懃を尽くして礼を述べる。

二十六日 屋形は御国の間にて尾州の使節織田造酒丞に対面し、細かく合戦の様子をお聞きになる。池田庄三郎の行方が未だ知れないのでお尋ねになると、織田家に留め置いていると使節造酒丞が申し上げる。

二十七日 屋形から織田家へ返書が送られる。この書状にて池田をいつまでも織田家へ留め置かれるよう仰せになる。これより池田庄三郎は織田家の家臣となる。後に尾州鷲津、丸根両城を預けられ八千人の大将となる。

三十一日 大雨が降る。大原丹後守定縄入道休夢斎死去。享年七十三歳。この者は屋形四代に奉公した人である。九歳で高頼公に仕え、続けて氏綱公、義実公、現在の義秀公まで仕える。江州旗頭の一人であり、先祖は当家の一族である。

六月

四日 先月尾州に加勢に差し向けられた面々に対し、本日屋形はそれぞれの働きを吟味して恩賞を与えられる。中でも堀伊豆守の軍功が抜きんでていると前田が詳しく申し上げたため感状を与えられる。その文面はこうである。

去月八日織田上総介の援軍要請により池田、前田両将を差し向けたところ、同月十九日三尾の境桶羽佐間の山において其の方数輩を下知し義元の四万有余騎の強勢を攻め崩す働きをなし、その手柄は数えることもできないほどである。よってその恩賞として赤井の領八千貫の地を与える。この上は専ら忠義に励むよう申し付けるものである。

永禄三年六月四日                          義秀御在判

堀伊豆守殿

同日前田右馬頭に屋形が諱字を与えられ、秀利と名乗らせる。その上高嶋郡平井中村の庄を与えられる。尾州合戦で功を立てたその他の面々も感状を賜るが記すには及ばない。堀の感状は他の者と異なるためここに記すものである。

二十八日 夕陽が朝陽のようであり、太陽が山に入ろうとすることがある。

三十日 浅井左近入道死去。享年八十三歳。

七月

十三日 将軍家が亡父の為に清水寺の山に万燈を掲げる。洛中の人々が群をなす。

二十三日 今上天皇が病気のため北野天神の社にて今日から七日間の読経が行われる。

八月

十四日 陸奥国から六本足の白馬が将軍家に献上される。今日江州鳥本にこの馬が泊まる。

二十一日 雲州の亀井新十郎茲矩という者が江州に来て後藤但馬守を介して屋形に面会する。茲矩が申し上げるには、吾は元来御当家の一族である、生国は雲州で佐々木五郎義清から十六代の子孫である、生前の面目に御当家代々の系図金泥の巻に書き入れていただければ本望であるということである。そして懐中から一巻を取り出して屋形に献上する。屋形がこれを御覧になったところ確かに五郎義清から代々記されており、すぐに金泥の巻に書き入れられる。亀井茲矩は謹んでこれを受ける。亀井はこの他に雲州の軍伍について語る。亀井が記し伝えてきた代々の者は次のようである。


庶流は多いので記さない。雲州は塩屋の嫡領である。義清の系統は十七家である。


屋形は乾加賀守に詳しく金泥の巻に書き加えさせられる。加賀守は江州一の能書であり、既に皇聞に達してその筆を認められた者である。

二十七日 亀井茲矩が屋形の諱字を賜って秀矩と名乗る。茲矩は武の才能を持つ勇士である。

九月

十八日 尾州から織田家の別腹の兄大隈守信廣が江州に参る。これは伊勢国司へ信長の次男を養子に入れる相談である。国司は後見承禎公の婿であるためこのように相談に来たのであろうか。屋形は賛同の返事をされたという。

二十四日 将軍家が愛宕山に参詣する。在京の面々は残らずこれに供奉する。

十月

十日 浅井備前守長政の計らいで、尾州織田上総介の息女を当屋形の奥方に迎えようとの評定が行われる。後藤但馬守、進藤山城守等はよいことであると賛同するが後見承禎公は承知しない。しかしながら当家の御一門並に旗頭等が残らず賛同する旨を述べたため今月十五日に結納の使節を送ることに決定する。

十五日 後藤但馬守、浅井備前守長政両名が尾州へ発つ。後見承禎公は大いに怒るという。

二十一日 尾州へ遣わされた両使が江州に帰国する。織田家は大いに悦んでおり、すぐさま今月二十九日の吉日を撰んで輿入れすることが決定する。後見承禎公は病気と称して婚儀の相談に出席されない。後藤但馬守は、承禎公が国にいなければ屋形は立つことができないのかと荒言を吐く。浅井備前守も一緒になって荒言を吐く。浅井は織田家の婿であるのでこのことを第一に考えて計らうという。

二十二日 後見承禎公が御一門の面々へ申すには、織田は今でこそ大身であるが元来は斯波家の家臣であり、その上当家の家来浅井にとっては兄弟分である、この婚礼の儀が成就するならば承禎父子は屋形にとって必要ないだろうということである。屋形の伯父八幡山義昌も、承禎公の申すことは尤もであると賛同する。このため婚礼の儀は実現する事が困難になったが、浅井の計らいで京極高吉を語らって京都に上らせ、将軍家の御内書を取りつけ江州に下させる。御内書の内容は次の通りである。

尾州織田上総介信長の娘を江州に迎えると聞いたが、これは内々に思っていたことで何よりの幸せである。速やかに婚礼を実現させ、後喜を期待するものである。

永禄三年十月二十四日                                 義輝御在判

近江管領修理大夫殿

一門之面々中

二十四日 酉の刻に将軍家の御内書が観音寺城に到着する。後見承禎並に八幡山典厩も、将軍家の御内書が下された上は是非に及ばず、と諦め輿入れの儀が成立する。江州の御一門がそれぞれ思うとおりに行動したために国に兵乱が起こりそうになったが、一通の御内書によって事無きを得る。このことが承禎公父子と京極高吉、浅井備前守、後藤但馬守、進藤山城守、蒲生将監らの不仲の原因となる。

二十六日 輿迎として後藤、進藤の両藤が江州を発ち、尾州に下る。

二十九日 午の刻に織田家の息女が観音寺城に輿入れする。その次第は多いので記さない。

十一月

一日 当家の御一門並に家来の旗頭が婚礼を祝す。屋形へは太刀一振り、奥方へはそれぞれ思い思いの品を献上する。尾州からの女佐の臣は織田作内兵衛尉、同十兵衛尉の二人である。両人とも織田家の一族であるという。

三日 今日まで箕作承禎公父子が観音寺城出仕を引き延ばしていたため、何者かが箕作城大手門の扉に次のような落首を書きつける。

輿入は後藤浅井かままなれはよしかたうとも承禎もなし

箕作殿は義賢入道承禎であるのでこのように詠んだものである。この度の婚礼は全て後藤但馬守と浅井備前守両人の談合にて進められたものであるので承禎公とは火を摩る間柄の二人である。このためこのような事が起こるのであろうか。何度もあってはならないことであると古老の勇士は語る。

四日 箕作殿父子、八幡山殿が観音寺城に出仕し、この度の婚儀を祝し喜びを述べる。承禎公は白波という太刀を献上する。

六日 将軍家から上使として細川兵部大輔藤孝が江東に参り、上意の旨を述べる。それによれば、この度の屋形の婚礼を祝して龍華という太刀を与えるとのことである。この太刀は先代の屋形が前将軍義晴公に献上されたものであり、元来当家の重器の中でも随一のものである。

二十三日 勢州国司から使節がある。前野右近という者である。その旨は来年上洛するということである。密状の内容はわからない。

十二月

三日 後藤但馬守の子喜三郎に屋形が諱字を与えられて、秀勝と名乗らせる。

十一日 目賀多采女正氏秀入道道雲死去。享年七十三歳。この人は先々代の屋形氏綱公の代に舟岡山合戦で先陣を務めた人である。何度も軍功を立て氏綱公から諱字を賜り氏秀と名乗る。目賀多摂津守には伯父に当たる人で、江州旗頭の中でも特に勇士に選ばれる人である。

二十五日 和田兵庫助光時と苗鹿主馬助が長光寺にて喧嘩になり、苗鹿がその場で死亡する。和田は箕作義賢入道の許へ駆け込む。承禎公は和田を泉州今木の館へ落ち延びさせる。これは後藤、浅井と不和であるためこのように下知するものである。

二十八日 大雪が降る。川曲又一郎が屋形に諱字を賜り、秀時と名乗る。


永禄四年(辛酉)

一月

一日 天気晴。諸礼は例年通り行われる。

二日 天気晴。十五日まで晴天が続く。

十五日 屋形が伊庭に若兵を集め弓始を催される。同日江州の八幡宮に参詣される。

二月

四日 前田右馬頭と和爾豊後守との間で所領の境界についての争論がある。これを本日評定の面々が屋形に申し上げる。屋形は両人を観音寺城に召し寄せて、その争論を直々にお聞きになる。その結果前田の方に非が多かったため、争論の土地を和爾に与えられる。前田は江雲寺に入る。

十八日 大雪が降る。雲州の尼子兵部大夫忠高が江州に浪人としてやってくる。屋形に拝謁し扶助を蒙る。この人は尼子の嫡流であるが毛利元就に国を奪われてこのように浪人となる。江州今井に住み今井兵部秀高と呼ばれるのはこの人である。

三月

三日 佐々木神社にて祭礼があり、屋形並に御一門の面々、旗頭等が残らず参詣する。箕作殿父子は参詣せず。

十九日 八幡山義昌死去。享年四十二歳。この左馬頭義昌という人は前屋形義実公の実弟であり、当屋形の伯父に当たる。江州八幡山に住んでいたため八幡山典厩と呼ばれる。しかし後見義賢に味方して屋形とは本心では仲が悪いという噂があり、このため後藤但馬守と浅井備前守が申し合わせて典厩を毒殺したという。

二十日 八幡山典厩の遺体を東光寺に移して葬礼が行われる。旗頭等は思い思いに寺に向かう。浅井備前守祐政の諫言により屋形は東光寺に参られないという。後見承禎公父子は東光寺に参詣する。

二十九日 勢州梅戸殿が江州に来る。これは屋形と後見承禎公との仲を修復しようということである。

四月

十日 勢州の梅戸殿が江州高宮にて急死する。この人は高頼公の四男であり勢州梅戸家を継ぐ。後見承禎公と特に仲がよく、したがって後藤、浅井とは大いに不仲である。このためいろいろな噂が飛び交う。

二十日 屋形が国中の旗頭等を観音寺城に召集し、六十三箇の兵雲の気を伝授される。この雲気の巻は長年旗頭達が伝受を望んでいたが前屋形が秘密にして伝えられなかったものである。屋形は秘密にしても用を為さずと各人へ伝えられる。こうしてこの雲気の巻は旗頭の家々に伝わる。後人のために日記に載せる。

六十三箇之兵雲巻

伝に申すには気というものは呂律の二字から起こるものである。四気四節五所の気を以って本と為す。


一 春 黄色い気が方々に散り虚空に消えるのが見られればその地の主将は滅ぶ。病気の者はすぐに死ぬ。城を攻めている時は落城する。これは当死雲といい、他の季節に見られれば吉兆である。

一 夏 白い気が立つのが見られればその季節の間に大凶事がある。もし春の間に立てば夏に入って不吉な戦が起こる。合戦の最中に立てば立った方が負ける。常に屋根の上に立つのは言争いの気であるという。

一 秋 青い気があればその季節中に戦が起こる。合戦の最中に現れれば立った方が負ける。春、夏に立つのが見られれば秋に入って戦、凶事が起こると知るべきである。

一 冬の赤い気は言争い、戦の気である。気が南方に靡けば火が関係する。秋に立てば冬に入って万民が病を得る。

以上口伝の事が多い。


伝に申すには気というものは天にも地にもつかず、雲かと思えば雲でもなくひとかたまりに立つものである。正気虚気の見方は伝受がなくては知るのは困難である。


一 甲の日 寅卯の方角に青色の雲がひとかたまり立つ中に赤い雲が丸くあれば、三日のうちに凶事がある。辰巳の方角に黄色の雲が四角に立てば天下の吉兆である。午未の方角に白雲の中に少し赤が三角又は丸く立てば、味方の中に逆心の者が出る兆しである。申酉の方角に白雲が船のように立てば、七日間のうちに味方に大勝利がある。大いに吉である。戌亥の方角に青、黄を交えて四角に長く立てば五日のうちに陣が敗れる。慎むべきである。子丑の方角に黒雲が丸くかたまって立てば味方に同士討ちがある。中央に四角く長く雲が立つのは良い事である。これを慶高の気という。

一 乙の日 寅卯の方角に青雲が人型に立てば、陣中七日のうちに主将が大勝利するという。辰巳の方角に白雲の中に黄色が交ざり動かずに丸く見えれば味方が戦に勝つ兆しである。鬼神もこれを裂くことはないという。午未の方角に白雲の中に黒く馬の形に立てば味方に雑多な噂が流れ敗北は必定であるという。人馬共に大きく失われる。申酉の方角に青雲の中に白雲が鉾のように立てば、敵に遭うまでもなく三日のうちに敗北する兆しという。戌亥の方角に青雲の中に黄雲が交じり霞の橋を渡すように雲気が立てば、敵が味方に変わる兆しである。子丑の方角に赤雲の中に黒雲がひとかたまり高山のように立てば長陣の兆しである。大将が孤立するので慎むべきである。

一 丙の日 寅卯の方角に青雲の中に白が薄くあり青い雲が張弓のようであれば、敵に遭わずして敗れる兆しである。辰巳の方角に青雲の中に黒雲がひとかたまり四角に立てば三日のうちに戦に敗れる兆しであるという。午未の方角に青雲の中に黒が薄く三角に山のように立てばよい兆しである。又、赤が布を引き伸ばすように立てば長陣である。申酉の方角に赤、白の雲が立って方々に散れば、必ず敵味方共に大勢が死ぬ。散雲には見方があり、伝受無き人にはわかりにくい。戌亥の方角に白黄雲が四角に立ち中に鉾矢を立てたような雲が一筋立てば戦勝の兆しという。子丑の方角に黄雲の中に黒雲ひとかたまりが丸く、あるいは四角に立てば、軍中に噂が飛び交い凶事があるという。しかし丑の方角に黄雲が四角に立ちその中に黒い雲が少しあれば、七日間の内に味方が勝利する兆しであるという。

一 丁の日 寅卯の方角に黒青雲の中に水牛のような形をした雲があれば、必ず軍勢を進めるべきである。進めた方が勝つという。辰巳の方角に青黄の雲が四角に長く一筋立てば戦勝である。動く方角に赤黄雲が立ち錦のようであれば必ず味方に吉事があるという。未申の方角に黄白雲が立ち流水のようであれば、敵味方が相引する兆しであるという。酉の方角に薄い黒色に灰を散らしたような雲があれば大凶である。戌亥の方角に白青の雲が反橋のようにあれば和談の兆しであるという。子の方角に白い雲が丸く立てば大将が勝利する兆しである。丑の方角に三角か四角に赤黒雲が立てば、味方の軍中に逆心の者が出る兆しであるという。

一 戊の日 寅卯の方角に青雲の中に鳥の形をした雲が立てば軍を進めるのがよい。勝利するという。辰巳の方角に黄雲が一筋立てば主将の思い通りの勝利が得られる兆しである。午未の方角に赤白の雲の中に黒雲ひとかたまりが円相のように立てば、陣中が意気盛んになりよい兆しである。申酉の方角に白い半月のような雲が立てば、味方の勢いが盛んになり大勝利する兆しである。戌亥の方角に黄雲がひとかたまり立ち黒雲が横に一筋引けば大いに味方の軍陣が破れる兆しである。慎むべきである。子丑の方角に黒雲が一筋立てば軍を進めて戦うのが良い。大勝利を得る兆しであるという。

一 己の日 寅卯の方角に青黄の雲が丸く長く立てば、敵の将が寝返って味方に降る兆しである。辰巳の方角に黄雲が四角に立てば七日間の内に味方に戦勝がある。午未の方角に白黒赤が鱗形に三角に立てば味方の軍を破って敵に走り入る者が出る兆しである。申酉の方角に白雲の中に牛のような形に立てば七日のうちに味方に勝利がある。戌亥の方角に青黄雲が二筋立てば敗北する。子丑の方角に黒雲が丸く立ちその中に白赤で月星のような気が立てば軍を進めるのが良い。大勝利を得る兆しである。

一 庚の日 寅卯の方角に青黒雲が人型に立てば合戦が起こる兆しである。敵味方共に多勢が死ぬ兆しであるという。辰巳の方角に白黄雲が山のようにあり角のようなものが多く出ていれば軍を進めるのが良い。大勝利を得る兆しであるという。午未の方角に白黒の雲が立ちその中に馬の形をしたものが見えれば人馬共に病を得る。申酉の方角に青白雲が鉾のように立てばその日のうちに陣が破れる兆しであるという。戌亥の方角に黄赤雲が見られれば味方の敗軍の兆しである。子丑の方角に黒赤雲が立ち馬、山のようであれば味方の将たる者が死ぬと伝わる。ただし軍は勝利を収めるという。古来よりこの気に当たる事、当家は二十八回である。

一 辛の日 寅卯の方角に白雲が立ち丸く長く張弓のようであれば敵に遭わずして味方が敗れる兆しである。慎むべきであるという。辰巳の方角に青黒の雲が四角に立てば味方に逆心する者が出る兆しである。午未の方角に赤い気が三角に山のように立てば大いに味方の軍が勝利する兆しである。申酉の方角に白雲が雪山のように見られれば味方が大勝利を得る兆しである。子丑の方角に黄黒の雲が丸く四方に立ちその中に少しだけ薄く赤い雲があれば、敵味方の勝負がつかず長陣になる兆しである。

一 壬の日 寅卯の方角に黒雲又は薄く青みがかった黒雲の中に水牛のような形の雲があれば味方の軍は勝つ。軍を進めるのがよいという。辰巳の方角に青黄の雲が長く幾筋も立てば必ず陣中に疫病が流行する。諸卒の気を励ます伝受がある。午未の方角に青黄赤の雲が立ち錦を引き伸ばしたようにあれば味方が大勝利を得る兆しである。申酉の方角に白い中に黒い雲がひとかたまり立って虎のようになれば七日間の内に軍が破れる兆しである。慎むべきである。戌亥の方角に白黄の雲の中に黒雲ひとかたまりが丸くあれば戦で不思議な勝利を得る兆しである。子丑の方角に赤黄の雲の中に馬が臥せたような形の雲があれば兵卒を進めてはいけない。大凶である。このことについて口伝が多い。

一 癸の日 寅卯の方角に青雲が立ち中に鳥の形をした雲があれば軍を進めるのがよい。大勝利を得る事は必定である。古来より符節を合わせたように確実である。当家においてこの気を計って戦で勝利を得た事は定綱から数代のうちに十三度もあると言伝えに申すという。辰巳の方角に黄雲が二筋立てば軍を進めるのが良い。大勝利を得る事は必定である。伝えには横に立つのは凶事の兆しであるという。午未の方角に白黒の雲の中に赤い気がひとかたまりあれば戦が静かで長陣になる兆しである。申酉の方角に白い半月のような雲が立てば軍を進めるのが良い。将を討ち取る兆しである。戌亥の方角に黒雲の中に黄色の雲がひとかたまりあれば敗軍の兆しである。子丑の方角に黒雲が現れて魚鱗のように溜まるのは吉である。雲が散らなければ凶事の兆しであるという。

六十三箇之兵雲気 終

以上旗頭達へ屋形が伝授されたものである。口伝が無ければそれぞれの気を知ることは難しい。子孫のために日記に書き留めておくものである。後見承禎公はこの事を聞いて、平井加賀守を通じて屋形に諫言する。その内容は、どうして前屋形の代にも伝授されなかった兵気などを今軽々しく諸将に伝えられるのか、大いに誤りである、第一に前屋形は天下無双の名将と言われたほどの管領であるが、その前屋形が我々旗頭の者に伝授されず一生秘密にされた事は仔細あっての事であるのに今このように伝えられるのは親不孝の第一である、第二に兵雲の気というものは鬼神の業であり人知の及ぶところではないと伝え聞いている、ならばたとえ諸旗頭が伝受されてもその心が雲気に通じなければ何の役に立つであろうか、第三に万事について前管領が仰せ置かれたことを守ることこそが国家の恒久の繁栄につながるのである、ということである。平井加賀守は理を尽くして申し上げる。これに対し屋形は何の思案にも及ばずに次のように仰せになる。確かに先代が伝えられなかった事を今諸将に伝える事は非義に似ているが、その実正義である。兵法を伝えずに空しく置いておくのは愚者のするところである。このように申せば先代が伝えなかった事を愚であると申すように聞こえるかもしれないがそうではない。前屋形の時代には旗頭の中に一人も伝受を望む者がいなかったが、現在は皆が強く望んでいるというのを聞いてこのように伝えたのである。また、雲気は鬼神の業であり人知の及び難いものであると申すがこれは人によるのである。神と鬼と人は一つのものであり違いは無い。迷いの眼で見ればそれぞれが別のものに見えるのである。今既に本朝は国乱れており、人知は皆兵気を知らない者はいない。これよりどんな事も秘密にすることは無い。家来の中に才能がある者がおり兵術を望むのであれば、一事も残さず伝えるつもりである。屋形はこのように仰せになって諫言を承諾されない。このため承禎公の本心はますます打ち解けることはない。

二十八日 午の刻に地震がある。青地駿河守が自領に小牛を産んだ女がいると申し上げる。この女は夫の飼っていた牛をどんな理由があったのか田野に出して喉に針を突き刺して殺したという。これによってこの女は懐胎し三月でこの牛を産んだという。世にも珍しい事であるとして観音寺城に召し寄せられる。

五月

五日 佐々木神社にて祭礼があり、屋形並に箕作後見承禎公父子、御一門の面々、旗頭等が参詣する。佐々木神社の拝殿にて京極長門守高吉と後見承禎公の嫡男右衛門督義弼の間で着座の争論があり、喧嘩に及びそうになる。京極には後藤但馬守、右衛門督には浅井備前守が取りついて太刀は抜かせない。屋形は争論の次第をお聞きになり、京極に対しては浅井下野守祐政を番につけて観音寺城出仕を止められる。右衛門督は江雲寺の妙典和尚に預けられる。このことについて承禎公は屋形に不満を抱く。その理由は京極は当家の一族といえどもその血縁は遠く、愚息右衛門督は屋形に非常に近い一族である。どうして京極と同座に着く理由があるだろうかということである。

十日 屋形が後藤但馬守を後見承禎公へ遣わして仰せになるには、京極をその領内に押し篭め右衛門督を江雲寺に入寺させたことを承禎が内心不満に思うことは尤もである、しかしこの度の争論においては右衛門督の方に非が多かったが血縁が近いことを思い他人の評もかまわずに両者を対等に裁いたのである、これは血縁が近い一族であるためにそのように計らったのである、ということである。京極長門守高吉は浅井下野守祐政の婿である。浅井は前屋形が取り立てた者で、さらに近年屋形と承禎の間は不和であるので、屋形は京極を贔屓してこのように裁いたのだと箕作方の家人は専ら話すという。

十六日 尾州の織田上総介信長から柴田権六という者が参り告げるには、今月十三日に濃州森部にて合戦し、長井甲斐守、日比野下野守を討ち取り大勝利を得たということである。七百三十余の首を討ち取ったということである。この者共は皆美濃国の侍で土岐の家来である。

二十四日 南都の門主が江州に来て観音寺城に遊ぶ。この門主は将軍家の連枝であり、屋形の母公の弟である。大乗院の御門主と申す。

六月

十三日 屋形が南都の門主と同船して竹生島に参詣される。江北の旗頭から船の警護を出す。

二十三日 南都の門主の御言葉にて右衛門督義弼と京極長門守高吉が赦免され、今日観音寺城に出仕する。

二十七日 南都の門主が帰京する。目賀多摂津守が帰路に差し添えられ、門主に供奉して上洛する。

七月

十四日 本日から十六日までの三日間、屋形は旗頭に申し付けて江州の浦々での殺生を止めさせられる。

二十日 蒲生の館から出火する。南風が強く吹き観音寺城下の侍屋敷十七軒、寺社三ヶ所を焼失する。

八月

十七日 屋形が江州の名取川にて鷹狩りをされる。屋形が京極長門守に、ここは古来より名所であると言われるが誰か古人の中でこの名取川を詠んだ名歌はあるかと尋ねられたところ長門守は、定家卿が名取川を題にして詠んだ歌があると答える。

名取川春の日数はあらはれて華にそしつむ瀬々の埋木

屋形は非常に楽しまれる。平井加賀守は学問に心を苦しめている人であるが、屋形がこの地で狩りをして名取川の一首を京極家に聞いた事などを詳しく書き留めて、年号月日を記し名取川の千手堂に納める。優しき勇士であると人々は語り合う。

二十八日 老曽社を建立するよう馬渕與右衛門尉に仰せ付けられる。三日から着工するようにとのことである。

九月

三日 越後の長尾景虎から使節がある。その旨は今年上洛するということである。景虎から屋形へ一通の書状があるが、密状のためその内容等は分からない。

八日 山田豊後守定兼入道死去。享年七十三歳。この者は後見承禎公の父定頼の近習であったが、永正年間の舟岡山合戦で定頼に属して先駆けを果たした功を賞されて一手の大将に取り立てられ、定頼の諱字を賜って豊後守定兼と名乗る。元は若名藤五郎という者である。江州、河内にて五千貫の土地を領した。

十八日 越国の長尾景虎から使節として澤田美作守という者が参る。それによると今月九日越信の境へ景虎が出陣し、武田入道信玄も信州川中島に陣を張る。互いに合戦を始め景虎入道謙信が大勝し、武田入道信玄の弟左馬頭信繁の首を越後へ奪い取る。長尾は自ら諸卒に抽んでて信玄の本陣に駆け入り、太刀にて信玄を討ち取りかけた事が何度もあったということである。詳しいことは遠国の合戦であるのでわからない。以上の内容は越州の使節が申したことである。謙信はついに上洛する旨を申し上げる。屋形から返書があるが、密状であり内容はわからないので記せない。

二十五日 東の方角に毎夜赤い気がある。晦日まで続く。

十月

十日 雲州において尼子の家臣三澤権守頼忠、水戸谷太膳泰成、飽浦伊豆守利綱等が徒党を組み、その軍勢三千七百で毛利家が支配する松江城を攻め落とし、家守蔵人という毛利家の旗頭を討ち取る。さらに近辺に放火し暴威を振るうと今日将軍家に報告がある。

十二日 上意によって屋形が申の刻に上洛される。江州の旗頭は残らずこれに供奉する。後藤、進藤の両藤は城の在番として観音寺城に入る。

十一月

七日 屋形が江州に帰国される。午の刻から大雪が降る。近年にない大雪である。屋形は旗頭の歳末の出仕を免じられる。

二十八日 細川兵部太輔藤孝が江州に来て将軍家の密意を述べる。内容は知らないので記さない。

十二月

十日 上京今出河から出火して三條まで広がったところで消し止める。町屋八十三棟と禁裏の西御門が焼失する。公家の屋敷も十二軒焼失する。二百余年の間なかったほどの大火事である。将軍家は火の勢いを見て禁裏に参上し、十四日に帰座する。

十四日 屋形が再び上洛される。二十五日に江州に帰国される。

二十八日 屋形が近習十八人に倍の領地を与えられる。さらに組と黄色の母衣を預けられる。

三十一日 夜、地震がある。戌の刻から大雨が降る。非常に不吉な兆候であると易者が嘆く。



巻第九・完





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