弘治二年(丙辰)
一月
一日 本日から五日まで雪が降る。近年に例のない大雪である。
六日 江西平野宮が鳴動したと観音寺城に報告がある。
十五日 当屋形と後見職義賢、八幡山義昌が上洛する。これは公方が病気のためである。
十六日 将軍家が病気のため諸社において大般若経を読経するよう各国に仰せ付けられる。近国の大名は残らず上洛する。
二十二日 屋形の伯父定頼の追善が行われる。忌日は今月一日であったが政務が繁多であったため本日江雲寺にて執り行われる。
二十五日 大地震のため江州和田山城の本丸城門の石垣が百余間に亘って崩れる。同日山門横川の中堂が半壊する。この他にも皇居や将軍家御所にて多くの殿門が倒壊する。
二月
十日 永原氏高の子大炊頭が屋形の諱字を賜って実高と名乗る。この永原という者は屋形の一族であり、江州旗頭の一人である。今月六日西国の大名達が将軍家に報告したところによると、今年の春頃から赤松の残党が大明に渡り現地の人間をことごとく討って村里八百余に放火したということである。
二十四日 高頼公の弟である種村伊予入道高成が死去する。享年八十九歳。
三月
三日 佐々木神社にて例年通り祭礼がある。
十四日 石見国安濃郡にて小牛ほどの大きさの白鹿が見つかり、今日将軍家に献上される。この後天皇に献上される。
二十五日 月が酉の刻から出る。
四月
十三日 日吉神社にて祭礼があり、三好家の若兵五十三人と箕作義賢の若兵三十二人が互いに婆娑羅を尽くして口論になり争いになる。坂本の地下人達は自国の兵を討たせてなるものかと三好家の兵を取り囲んで一人残らず討ち取る。この時三好は在京していたが知らせを聞いてすぐ馬に乗り、山中越えで三里余の道を馳せる。これを聞いて志賀郡の旗頭和田中書貞縄が三百騎を率いて坂本に駆けつけ、この他にも大津、勢多の御家人が集まり江州勢は一万余の軍勢が坂本に集結する。三好は即座に和田に攻め懸け両軍火花を散らして戦う。和田が備えを立てて戦っているところへ在京していた三好家の一門が知らせを聞いて馳せ参じ、三好勢は一万五千騎になる。江西の旗頭七人総勢一万二千の軍勢は三好勢を志賀の細川に追い立てて南北より挟撃する。三好勢は大敗し、旗本の勢三千を率いて山中越えに京へ退く。これを志賀合戦という。
目録 一 首 四百八十三 和田中書貞縄 一 首 五百三十一 田中丹後守実重 一 首 三百九十八 和爾越後守秀成 一 首 二百二十九 大津伝九郎秀資 一 首 四百五十七 坂本七人衆 一 首 二百六十三 真野土佐守信重 一 首 四百三十五 舩木十兵衛尉氏信 一 首 三百五十九 間宮若狭守信冬 討ち取った首 合わせて三千二百五十五 |
以上のように江西の旗頭が文書にて観音寺城に申し上げる。この他に味方の討死も文書に記す。
前田主膳正重信 同権兵衛尉重武 安元安徳斎 佐藤内匠輝成 谷口武兵衛尉兼條 九巻三之助 永田主殿頭成重 志賀甚内左衛門尉忠実 上房貞林斎 同新兵衛尉氏国 彦坂忠兵衛尉 上坂主税助実成 藤井豊前守貞英 |
この他八百二十三人の雑兵が討死した事を観音寺城に申し上げる。
十五日 屋形は箕作義賢を招き寄せて、将軍家の使節が下向する前に上洛して事情を説明するよう仰せになり、今日箕作殿が上洛する。屋形はこれに江東江北の旗頭を添えられる。義賢の考えでは、上京して将軍家の仰せが意に染まぬ場合は三好もろともに討ち取るための支度であるという。
十八日 京都から使者が参り、義賢の書状を届ける。
将軍家の仰せで昨十七日の夜三好家との間で和睦が成立し事無きを得ましたので、御屋形様におかれましては御安心くださいますよう。詳しくは種田刑部少輔が申し上げます。また、私は将軍家の許しがあり次第帰国し、尊顔を拝し奉る所存でございます。 早々言上恐惶謹言 四月十八日卯上刻 箕作義賢在判 後藤但馬守殿 |
二十五日 箕作義賢が江東に帰城する。
五月
五日 佐々木神社の祭礼は例年通りであるため記すに及ばない。
八日 先月志賀郡にて奮戦した江西の面々に加増の沙汰がある。感状はその働きによって文章が長いので記さない。坂本七人組には山上松本の庄を与えられる。この七人組というのは日吉七社で各一人ずつ神事頭として祭礼を司る者である。今までは屋形から領地は与えられていなかったがこの度の働きによって所領を賜る。これより神事頭の七人組が観音寺城に出仕する。
二十日 三好修理大夫が日を置かず江州に押し寄せようとしていると公方の近習である野村越中守が屋形に申し上げる。このことは全て京都の噂であるという。
二十一日 箕作殿が三好勢を遮るため兵を率いて上洛しようとしていると聞いて、屋形は大いに怒りこれを止められる。屋形は、どうして噂が真実かどうかを確かめずに兵を挙げてよいものかと仰せになり、義賢の上洛はなくなる。江州は大騒ぎになり、天下にはいろいろな噂が飛び交い、畿内は不安定になる。
二十四日 三好家が国に退く。畿内にはまたいろいろな噂が立つ。
六月
十一日 将軍家が江東に下向し観音寺城に六日間逗留される。屋形は近年病気により上洛していないため、将軍家自ら下向されたのであろうか。真に至極の礼である。屋形は将軍家の後見であるためであるといわれる。屋形は将軍家の後見であり、三好は近年天下の執権である。このため三好家は屋形を妬む気持ちが強く、ともすれば両家の家人が畿内で喧嘩になることが多い。三好が自国にて屋形を呪詛しているという噂を屋形がお聞きになり、命は天にあり人力の及ぶところではないと大いに嘲笑される。
七月
九日 屋形と義賢が雲光寺に参られる。これは前屋形氏綱公の廟所である。
十日 澤田兵部少輔氏忠が自分の知行所において田村権内を殺害する。この旨を今日江北の面々が申し上げる。屋形は詳しく糾明して沢田を謹慎させ、長命寺伝空上人に預けられる。
二十日 将軍家が川で遊び、二頭の亀を捕まえる。
八月
三日 織田上総介信長が斯波殿を追い出し、同族の者共を討ったと東国へ派遣した山伏が今日屋形に報告する。前屋形の時代から江州国内の山伏、陰陽師に扶助を与えて諸国に忍ばせ情報を集められる。その山伏の一人が今日このように申し上げる。
十九日 越後国長尾家の家来村山美作守が誅殺される。このため越州が大いに動揺すると越前の朝倉弾正忠が観音寺城へ今日報告する。この村山という者は長尾景虎の姉婿であるが、甲州の武田晴信に内通したため、その罪を問われたものである。
二十七日 尾州より報告があり、二十四日に織田上総介信長が同国稲生にて家来等を討って大勝利を得たとのことである。
二十九日 山田掃部頭秀成死去。享年五十八歳。江州評定人の一人であり、その器を認められて屋形の諱字を賜り秀成と名乗る。元は宗成といい山田刑部左衛門三成の三男である。
九月
三日 本日から九日まで雨が降り続き、水位が八合に達する。
十二日 真如堂が一揆のために焼失する。これは真如堂の采地である松崎において課役が度を越えることが度々あったので百姓等が一揆を起こしこの寺を焼いたものである。
十五日 将軍家より下知があり高木右馬頭、駒井左近大夫氏宗の両名に仰せ付けて真如堂領松崎の百姓等を北白河の辺りで残らず誅伐する。全員で男女三百五十三人である。
三十日 屋形が病気のため将軍家が上野輝重を江州に遣わす。
十月
十日 和田兵内左衛門定秀と永田右近大夫重秀は観音寺城在番であったが、今日浅井下野守祐政の与力である上田和泉の事で口論になり、結局双方刺し違えて死亡する。
十一日 屋形は浅井祐政を観音寺城に召し寄せ、昨日の喧嘩によって祐政の心得違いの事実を確定し出仕を差し止めて領内に押し込められる。
二十日 木村佐渡守定景が鬼神記という書物を作り、今日屋形に献上する。屋形は非常に大切にされる。
二十九日 苗鹿社が鳴動する。この社は番神の一つである。
十一月
十日 屋形の伯父勢州梅戸左近大輔高実、箕作義賢、京極高吉ら三人の訴えにより、屋形が今日浅井下野守祐政を赦免する。祐政の子左兵衛尉長政は屋形の近習に加えられていたが先月父下野守が嫌疑を受けてからは江雲寺に入って謹慎していた。今日父が赦免されたので長政も観音寺城に出仕する。
二十四日 当屋形が上洛する。江西、江南の旗頭が供奉する。
三十日 屋形が江州に帰城される。
十二月
四日 永原氏高の息子源四郎を大炊頭に任じ、屋形の諱字を与え実高と名乗らせる。永原は屋形の一族である。
八日 種村大蔵大夫高盛に真野伊加達の庄を与えられる。
二十日 屋形の名代として箕作義賢が上洛し、江北の旗頭三名がこれに供奉する。これは年末の挨拶である。
二十四日 比良山の愛宕大権現へ当屋形の代参として種村大蔵大輔が参拝する。これは本屋形の病気快癒の祈願のためである。
弘治三年(丁巳)
一月
一日 本日から十五日まで御一門並に旗頭が例年通り観音寺城に出仕する。ただし本屋形は病気のため諸礼は受けるが対面はされない。
十六日 当屋形が江州の八幡宮へ参詣される。行列の様子は例年通りである。旗頭達は二列になって供奉する。
十七日 本屋形が病気のため今日将軍家から医師二人が江州に下される。
十八日 本日から二十日にかけて大雪が降り一丈余積る。江州ではこれまでにない大雪だといわれる。この間子供達が雪老婆という化け物が夜毎道に立って人を捕ると言って非常に怖れる。後に年長の百姓等までが子供達のように騒ぎ出し、真にただ事ではないといわれる。
二十日 目加多攝津守と後藤但馬守が両屋形の名代として年始の挨拶に上洛する。本屋形は病気がひどく、当屋形は本屋形の病気が心配であるのでこのようにされる。
二十一日 箕作義賢、八幡山義昌が上洛する。二十三日に帰国する。
二十八日 本屋形の病状がひどいため近国の旗下の面々が観音寺城に参上する。北陸道管領の国々から重臣が昼夜を問わず観音寺城に出仕する。江州の旗頭は一人残らず観音寺城に在番する。同日申の刻竹生島の宮が鳴動する。同日戌の刻兵須宮から光るものが飛び出て山門横川の中堂に入る。国中の者がひどく不安に思う。
二十九日 本屋形の病状が危険な状態になり箕作義賢、舎弟八幡山義昌、その他御一門、旗頭等を寝所に召集し、遺言として十七ヶ条を仰せ下される。本屋形が仰せになるには、愚息義秀は若年であるので義賢がこれを後見し管領職を預かり国務を司ること、国政の評定は八幡山左馬頭義昌、京極高吉、大原中務大輔高保、後藤但馬守に義賢を加えた五名で審議し禁制を定め政を行なうこと、評定にて結論が出た後は義秀に上申し道理を守り上下よく助け合って諸政を行うようにとのことである。屋形は、近年病気がちであったため愚意を書き付けておいたものであると文箱より小冊子を取り出させて先の五人とその他の旗頭に渡し、各々に向かって、義秀が道理を外れた事をすれば強く諫言するように、それを用いないときは国を逐い当家一門の中からふさわしい者を管領とせよ、そうなっても少しも恨むことはないと仰せになる。同日午の刻日吉の社家権頭が御幣を持って観音寺城に参上したところ、大手門にて美しい童子が一人出てきて、吾は本屋形の近習である、その御幣をこちらに渡せと言って跳びかかり幣串に触れるや否や御幣が炎上する。近習と言った童子は姿を変え、吾は近習ではない、代々屋形の守護神としてこの山に数百年安座している大悲観世音であると言って武佐の方へ飛び上がる。空中から社家に告げるには、本屋形がまもなく亡くなれば江州はすぐに乱れ一門はばらばらになり当城も森の木屑となって野狐の住処となるであろうことは仏力を失ったがためである、こうなってしまえば汝の奉公する日吉の宮も悪徒のために亡ぶことになるだろう、当家の氏神である佐々木大明神はその後胤が絶えることを悲しんで先月から勢州の宗廟に参られ神力を尽くしておいでになる、汝は常に誠を尽くしているので知らせるものであると言って飛び去ってしまう。社家権頭はまるで夢から覚めたような心持ちで大手の坂に立ちつくす。平井加賀守が城から下ってきたところ権頭があっけにとられたように立っているので、何かあったのかと問い詰め、今起こった事を逐一話させる。加賀守は、余人には他言無用でありこのような事はとにかく秘密にするようにと申し付け、この話は誰にも伝えられない。後に国が騒がしくなってから権頭に尋ねて記すものである。同日佐々木大明神の額が落雷のため燃える。正一位佐々木大明神と書いてある中で、神の字だけを残して後は全て焼け失せる。これはただごとではないと観音寺城に報告されるが、義賢が制して本屋形の耳に入らないようにする。この額は木工頭道風の筆跡である。この他にも不審な出来事は多いが記す余裕はない。
二月
三月
二月、三月の日記は紛失する。
四月
四日 屋形の母公青樹院殿が江東に帰座される。
十日 志賀郡雄琴大明神の宮を造営するよう和田源内左衛尉貞氏に仰せ付けられる。この宮は屋形の母公青樹院殿の氏神であり、壬生氏の元祖である。
五月
五日 佐々木神社の祭礼は例年のように行われ記すに及ばない。本日蒲生郡にて三足の子が生まれたと観音寺城へ報告がある。
十五日 将軍家が白髭明神に参詣され、十六日に観音寺城に入られる。十七日に屋形の一族から九人を諸大夫に任じられる。
二十九日 乾采女正の女房が天狗にさらわれてから今年で三十一年になるが、その女房が故郷に帰ってきて異国の有名な事などを語る中に、朝鮮国全羅道の光朝子が作った狗犬記の話があった。このことを今日観音寺城に申し上げたところ屋形の後見義賢の仰せとして近日観音寺城に召し出されることになった。
六月
三日 伊庭民部少輔実宗入道永春死去。享年七十八歳。この入道は前屋形義実公の代に数度軍功を立て屋形二代の間で十八通の感状を賜り、前屋形の諱字を賜って実宗と名乗る。
二十日 河内国堀江河内守実遠が今月十八日に死去したと観音寺城に報告がある。この堀江は数年間当家の旗下に属した器量のある勇士である。
七月
九日 屋形が雲光寺に参詣される。この寺は屋形の祖父氏綱公の廟所である。
十三日 申の刻に大地震がある。酉の刻に西の方の地面と雲の間に火の筋が立つ。宿老の真儒が言うには天下大火事の強い兆しであるという。果たして十六日将軍の御所から出火して洛中五十六町が焼失する。
二十五日 将軍家が北野神社へ参詣される。行列等の様子は多いため後に記す。
八月
三日 東光寺にて前屋形義実公の追善が行われる。万部の妙典の読経があり、導師は山門恵心院の僧正である。先月から今日まで七日間行われる。本日屋形、後見義賢、その息子義弼、屋形の伯父八幡山義昌、その他御一門、旗頭等が同寺に参詣する。
九月
五日 未の刻に今上天皇が崩御され後奈良院と号される。諱は知仁であり、御柏原院の皇子である。母親は豊楽門院で左大臣教秀公の娘である。大永六年四月二十九日に太子として践祚され、その元年は丁亥(大永七年)である。天文五年二月二十六日に正式に即位される。在位年数は三十一年である。
六日 将軍家が天皇の廟寺に参詣する。
七日 屋形が上洛され、旗頭や七手組等が供奉する。近国の大名は残らず上洛する。後見義賢は病気のため上洛せず。
二十四日 屋形が将軍家から諱字を賜って義秀と名乗る。
二十五日 江州の旗頭達が観音寺城に出仕し祝辞を述べる。
十月
二十三日 屋形の伯父である左馬頭義昌が上洛し、息子河端中務大夫晴時を討つ。これは将軍家の仰せであるという。そして再び将軍家の仰せとして次男左近大夫に河端の家督を継がせる。後に輝綱と呼ばれるのはこの人であり、将軍家の近習である。
二十七日 辰の刻に皇太子が践祚される。紫宸殿の庭上に万歳楽の大旗を立て七星の公卿が立ち並ぶ。今上帝が玉座にお出ましになり土用八専の表仁が庭中に現れ、十二人が十二神殿の前に二列に並ぶ。宵晨の両明星が東西に行き、南門を開いて貴賎を出入りさせる。天子の玉座の左右には二十二人の雲女が蓋柄を捧げて二列に並ぶ。詳しくは別巻に記す。記す内容があまりにも多くて日記に記すのは困難である。
二十八日 将軍家が参内し先祖代々の重宝足利丸という太刀を献上する。正宗の作で三尺二寸の太刀である。これは当佐々木家が秘蔵してきたものである。
二十九日 諸国の国主が太刀一振りに白金を添えて献上し、時の伝奏がこれを受け取る。同日屋形が従四位侍従に任ぜられる。この日任官された国主は全部で十一人である。
十一月
一日 本屋形の病状が十に一つ助かるかどうかの危険な状態のため、御一門や旗頭に至るまで形見の品が与えられる。
二日 将軍家から上野輝時が上使として江東に参り、本屋形の病気を見舞う。将軍家の懇志の書状が下される。本屋形は前将軍義晴公の仰せで当将軍家の後見となり、北陸道管領職に任ぜられ宰相にまで進まれた方であるので、当将軍家の悲しみは当屋形よりも大きいのであろうといわれる。
六日 本日から八日まで天皇の御代初の能が催される。
十一日 禁裏において御代替の修法が行われる。妙法院の門主がこれを修する。
十五日 屋形の御一門が江州に帰国する。
十九日 江州津田の入江にて白い菖蒲の花が咲いたと現地の地頭である乾兵部少輔実忠が観音寺城へ申し上げる。
二十二日 天気快晴。辰の刻に本屋形が逝去される。享年五十一歳。奥方と当屋形がひどく悲しまれる。
二十四日 本屋形を野洲郡幸津河の庄に移す。後藤進藤の両籐が棺の左右に供奉し、旗頭七人が先導する。これは本屋形の遺言に従ったものであり、幸津河の庄に葬られる。二十騎の組を十組合わせて二百騎が棺の番に就く。本屋形在世時の近習から僕に至るまで残らず剃髪する。
二十五日 葬礼が行われる。鎖龕は山門恵心院尊空僧正、起龕は三井寺勧学院石田僧正、下火は威徳院東光和尚が務める。諡号東光院殿、贈権中納言三品崇山大居士。この贈官は将軍家から下される。同日将軍家の名代として細川刑部少輔輝賢が江東に来る。将軍家は悲しまれて自筆にて次の歌を贈られる。
江州の太守佐々木二十一世(異説に二十四世という)の家嫡北陸道の管領三木源義実朝臣は予か慈父のことし此人世にありしほとは天下の後見として武威のたかかりし事なとおもひいつるについておしともかなしともいかにいふへきわさかはおろか成一首を追善のためにつつりかく物なり たらちねとおもひおきてしその人も今日はなき身と聞そかなしき |
東光院殿の葬儀の段取りについては二十五日に転経、二十六日に頓写施餓鬼、二十七日に懺法、二十八日に入室、二十九日に闍維、晦日に宿忌である。
十二月
一日 昇座拈香が行われる。
三日 佐々木神社で臨時の祭礼がある。屋形は服喪のため参詣されず、その他御一門の面々も誰一人参詣しない。屋形が今日義実卿の廟所に参られる。
十五日 当屋形の母公が剃髪し青樹院殿と号す。御師は山門恵心院の僧正である。
十七日 義実卿の廟寺を東光寺と名付ける。
十八日 東光院殿の遺言により箕作義賢が観音寺城に移り住む。箕作城はその息子右衛門督義弼へ譲り与えられる。本日将軍家病気のため当国から両籐を上洛させる。同日京にて二十九町が焼失する。
二十日 義賢と八幡山義昌の間で着座の論争がある。義賢は当屋形が若年であるため管領職を預かり、特に前屋形の仰せで連枝とされた。これにより義昌よりも年齢やその他の事で上回り義賢が上座に着く。義昌は前屋形の実弟であり、義賢は前屋形の伯父定頼の子すなわち従弟である。それが現在連枝とされ上座に着くのを義昌が不満に思うのは尤もな事であると国人たちは言う。このことから義賢、義昌の仲が悪くなり始める。同日三井豊前守氏春覚雲軒死去。享年八十三歳。氏綱公義実公当屋形の三代に仕え忠義を立てたものであるので屋形は非常に悲しまれ、その妻に日野の穴村を与えられる。
二十四日 屋形の母公青樹院殿が上洛する。池田日向守氏政が供奉する。剃髪後最初の上洛である。
二十五日 子の刻に上菩提院が焼失する。
巻第七・完