弘治元年(乙卯)

一月

一日 大雨が未の刻から雪に変わり二日の午の刻まで降り続く。例年のように御一門、旗頭が観音寺城に出仕する。

七日 今年から年始の挨拶はまず当屋形へ、次に前屋形、三番目に箕作義賢へ行うよう定められる。これは義賢が今年から屋形の後見人になったためである。旗頭の中で京極家だけは箕作に挨拶をしなかった。その理由は江州屋形の御両所がおられるのに義賢に挨拶をする必要はないということである。

十五日 当屋形が箕作、八幡山、その他御一門、旗頭等を供奉に引き連れて佐々木神社、八幡宮両社に参詣される。佐々木神社の拝殿にて箕作殿と京極武蔵守高秀との間で先後の争いがある。このとき前屋形義実公は病気のため参詣されていなかった。人々が言うには、年始の氏神への参拝で両家が威勢を争う事は非常に不吉な例であるという。

二十日 申の刻に地震がある。

二十一日 屋形が上洛される。今月は一日から晦日まで一日も雨が降らなかったので、先月までの大雪も残らず消え失せる。

二十四日 当屋形が比良山の愛宕へ参詣される。旗頭等が供奉する。

三十日 当屋形が朽木宮内大輔貞綱に先登という鎧を与えられる。これは貞綱の娘を屋形が密かに思っておられるためであるという。この先登という鎧は佐々木家十一代信綱公が承久の乱の最宇治川を渡河した時に身に付けていたものである。関東からの先登(さきがけ)ということで名付けられた鎧である。このような当家の家宝を恋愛のために朽木に与えられることは屋形が若年であるとはいえ道理に背くことであり、非常に当家にとって悲しむべきことであると噂される。

二月

四日 屋形が上洛され、のち江東に帰城される。天下で大疫病のため多くの死者が出る。洛中では二万余人が死亡し、これは前代未聞のことである。このため江州志賀郡雄琴庄にて疫神を祀る。

十日 月の傍に星が八個あり、さながら九星のようである。

二十日 若州一国だけに泥の雨が降ったと守護の武田義総が将軍家に申し上げる。

二十五日 将軍家が病気のため諸社へ奉幣使が立てられる。

二十九日 箕作義賢が自邸にて堅田権内兵衛を討つ。その罪状の軽重は分からない。

三月

三日 佐々木神社にて祭礼がある。本日屋形が嫡男義秀公へ家督を譲られる。御一門並に旗頭の面々は観音寺城に出仕して当家の末代までの繁栄を祝う。

四日 旗頭の面々がそれぞれ太刀一振りづつ当屋形に献上する。

一 万歳丸   国次作      箕作殿

一 宇治河   国俊作      八幡山殿

この宇治河という太刀は佐々木高綱が木曽誅伐の際宇治川を渡る時に佩いていたものであり、その後高綱の子孫に伝えられてきたものであるが、永正年間に大野木越前守が前屋形氏綱公に献上した。氏綱公は、八幡山義昌は末子であるので庶流の高綱が佩いていた太刀がふさわしいとしてこの太刀を義昌へ与えられる。

一 足利丸   正宗作      京極武蔵守高秀

この太刀は京極家の先祖佐渡判官道誉が数々の戦功によって足利高氏から贈られたものである。このため道誉はその人の名をとって足利丸と名付けたという。

一 龍尾    貞宗作      高嶋越中高泰

一 山蛇    信国作      永原大炊頭実高

一 白龍    一文字作     大原中務大輔高保

一 血吸    正恒作      梅戸左近大輔高実

一 朽木    長義作      朽木宮内大輔貞綱

一 銅炎    助宗作      種村刑部少輔氏秀

一 大龍    月山作      蒲生右兵衛太夫氏方

この他にも旗頭から献上された太刀は多いがいずれも名物ではないので記さない。古来より伝わる名物のみを記す。

五日 屋形が当屋形義秀公へ佐々木家代々の家宝である飛龍丸という太刀を渡される。この太刀は佐々木大明神から代々家督を譲る際に渡されてきたものである。同じく佐々木大明神から伝えられてきた江龍という鎧も渡される。この他に二尊の御旗、団扇、采配なども全て馬渕を使者として当屋形に伝えられる。

八日 当屋形が家督を継いで初めて佐々木神社、八幡宮に参詣される。供奉の様子は省略する。

十四日 江州八幡宮の社が鳴動する。

十五日 屋形、当屋形の御両所が上洛される。将軍家から当屋形へ石龍という太刀が与えられる。これは将軍家代々の宝である。言い伝えでは東山殿が北山にて遊ばれたとき石で作られた龍に驚かれ、この龍が動くように見えたので太刀を振るって斬りつけたところ石龍が半ばまで斬れた。この時からこの太刀を石龍と名付けたという。この太刀の鞘に東山殿は一首の古歌を自ら書き付けられる。

思ひには石に立矢も有物をなと吾恋の通らさらまし

二十五日 夜、大阪の浦にたくさんの星が落ち海中に沈むと将軍家に報告がある。

二十八日 屋形御両所が江州に帰国される。

二十九日 高嶋越中守実綱死去。享年五十五歳。この人は江北の旗頭として数度の戦功を立て、屋形に諱字を賜ったほどの人である。

四月

十日 屋形は吉田出雲守重綱をお召しになり和田山にて町を測られる。出雲守の放つ矢は和田山から箕作城まで飛ぶ。この吉田は近代に並ぶ者のない強弓の者である。

十二日 西国から将軍家に報告がある。それによると長門国阿武郡全域で今月四日の夜男女一万三千人が急死したという。皆口から血を吐いて死んだということである。

十九日 屋形が江北下坂村の鍛冶八郎を観音寺城に召し出して太刀を打たせられる。屋形が旗頭等に命じて仰せになるには、名匠の太刀を好んで用いるべきではない、これは最も良将の戒めるところであるということである。そして当国にふさわしい上手な鍛冶であるとして八郎を賞讃される。これによって屋形は名匠の作を好まれない。

二十日 西の方角に紅白の雲があり、その形はどれも龍のようである。

五月

三日 安芸国厳島神社から大白龍が二頭現れ、先月二十五日の酉の刻に海中に消えたと守護の富田刑部少輔実綱が将軍家に申し上げる。

五日 天気は快晴。佐々木神社にて例年のように祭礼があり、屋形並に御一門の面々が参詣する。

十八日 飛騨国の住人である天野民部少輔遠光が木曽の支配に圧迫され、今月四日に国を退く。本日江州に来て屋形に拝謁し扶助を請う。

二十日 長子口という唐人が南蛮から琉球に渡海し鉄砲という術をその国の者に伝える。それから種子島に渡り、日本人に鉄砲の術を伝え、先月洛中に参る。長子口は将軍家に謁見を賜り鉄砲の術を伝える。将軍家は長子口を江州の屋形に預けられる。本日長子口が江州に着き屋形に拝謁する。

二十八日 屋形は長子口を江北国友村に赴任させ、知行として百貫の土地を与えられる。

六月

七日 江州坂田郡鹿田村に三頭一身の子が生まれたと京極家から屋形に報告がある。その子供を京極家から屋形に御覧に入れようと申し上げるが、大人は違例を見ずという古人の言葉があるとして断られる。次に将軍家がこの子供を見せるよう仰せになるが、屋形は今こそ後見の務めを果たすべきであるとして将軍家の要望を諦めさせられる。

十日 唐人長子口が鉄砲の術の詳細を記して屋形に献上する。屋形はこれを厳重に秘密にされる。

二十日 屋形は本日長子口が伝えた術を余すところなく旗頭達へ伝えられる。馬渕家の日記に屋形義秀公から伝えられた法が記してあり、今ここに記す。


鉄砲の仕様についていろいろ書かれていますが、翻訳困難のため省略します。


以上の計算を利用して様々な伝受が世に多くある。後人のためにここに記す。

七月

九日 雲光寺にて前屋形氏綱公の追善が行われる。屋形は病気のため出席されず、当屋形、箕作殿、八幡山殿並にその他の旗頭は残らず出席する。

十四日 本日から十六日までの三日間、江州の浦々にて殺生を止めさせる。

十五日 下京にて二十九町が焼ける火事があり、六角の館や将軍家の四条の遊興地が失われる。

二十五日 義賢の息女が能登国主畠山へ輿入れする。箕作から楢崎石見守賢光を女佐の臣として遣わす。屋形は息女へ様々な嫁入道具を贈り、野洲郡戸田庄を化粧領に与えられる。

八月

十日 将軍家が江東に下向し観音寺城に十九日まで滞留される。相州の守護北条氏康から将軍家に使節が参り申し上げるには、先月二十七日三浦郡に長さ二丈余りの百足が現れたということである。その頭は蛇のようで、尾は剣のようであり、詳細な絵図にして献上する。前代未聞のことである。

十五日 屋形が将軍家と同船にて竹生島に渡り、月を観賞される。将軍家が歌を詠む。

十七日 屋形が将軍家を満足させようと江東武佐の野にて犬追物を催される。その詳しい様子は多いので日記には記さない。

十九日 将軍家が帰洛する。

二十日 安房国主里見義全法師が先月晦日に家来石垣権内によって討たれたと報告がある。

二十五日 池田丹後守実政死去。享年五十四歳。江州旗頭の一人であり、屋形はひどく悲しまれる。

三十一日 目加多相模守入道宗清が遁世する。この人は山門恵心院の僧正と懇意にして天台の奥義を極めた人である。

九月

三日 藤井豊前守定房入道覚雲斎死去。享年七十三歳。江州旗頭の一人である。

十三日 近衛稙家公が江州に来られ、今月二十日まで観音寺城に滞留される。

十五日 観音寺城にて稙家公をもてなすために観菊の会が催される。

十七日 稙家公が多賀大社に参詣される。

十九日 三井寺大泉院法印が天狗にさらわれ山門中堂の庭にて発見される。この法印は千日の修行の間一時女人の事を思うことがあったためにこのような目に遭ったのであろうか。

二十五日 江州長命寺の尼上人妙円が死去する。この人は屋形の一族である。江州三河村の杜若の花が盛に咲く。

二十六日 大地震があり小谷城内の曲輪の石垣が崩れたと城主浅井下野守祐政から観音寺城へ報告がある。京都妙顕字の上人が女難によって将軍家から伊豆国大島へ流される。

十月

九日 江州三上山の山頂に大蛇がいて山に入る人々の多くが捕われたと三上伊予守が観音寺城に申し上げる。屋形はこれをお聞きになって、国家にとって大きな害であるので速やかに退治するよう三上に仰せ付けられる。江州三河村の池の水が血になったと澤田兵庫頭忠頼が申し上げる。

十日 和爾越後守信方死去。この人は江州旗頭の一人である。

十一日 三上伊予守が平川采女正を遣わして件の大蛇を退治したと申し上げる。大蛇は長さ九尺二寸余、太さ二尺八寸あった。前代未聞のことである。

十五日 大蛇の頭を切り落として地車に載せ将軍家に献上される。そして天皇が御覧になる。その後洛中を引き回し人々にお見せになる。

二十日 泉州堺の港に二頭四手三足の子供が生まれる。本日公方家に御覧に入れようというのを、大人は怪しいものを見るものではないと管領義実公が止められる。このため公方が御覧になることはなく、子供はその姿を空しく洛中にさらす。

二十五日 田中坊左衛門尉定成入道是斎死去。この入道は江州旗頭の一人であり、屋形の伯父定頼が烏帽子親として定の字を与える。数々の軍功を立て三代の屋形から二十五通もの感状を賜る。

二十七日 種村高盛が受領して大蔵大輔に任ぜられる。屋形から諱字を賜って実高と名乗る。

十一月

三日 屋形が和田山に一宇の寺を建立し、江源院と名付け山門の末寺とされる。ここに恵心院の僧正を招きいつも天台の法義をお聞きになる。近年屋形は病気がちであるのでこのようになされるのであろうか。

十一日 武州池上の堂が一揆のために焼失したと報告がある。これは北條の家来加地右馬頭顕季が一揆を起こしたためである。

十五日 大雪になり江北では四尺余積る。星が月を貫通する。酉の刻に西から東へ青い筋が三本走り、その後南から北へ三本の青筋が走って十文字になる。戌の刻に中央から四方へと消え失せる。今まで聞いたことのないような事である。

二十四日 浅井祐政が屋形の代参として愛宕山に参詣する。これは屋形が病気のためである。

二十八日 甲賀の和田角内左衛門尉氏冬が短尺のような紙に和歌が一首書かれたものを献上する。これは伝教大師の自筆の詠歌である。

波母山や小比叡の杉の独居は嵐も寒し問ふ人もなし

この詠歌はその昔伝教大師が比叡山を選んで小比叡の峰に杉の庵を結び住んでいた時に詠んだもので、庵の壁に貼り付けたものだという。それをこの度和田が捜し求めて屋形に献上する。屋形は非常に大切にされ、後に山門の伝教大師の廟に納められる。

十二月

四日 箕作義賢を屋形の連枝とされる。この義賢は屋形の伯父箕作弾正定頼の嫡男であるが、今このようなことになる。屋形の亡父氏綱公が逝去された時義実公は幼少であったため、箕作定頼が管領職を預かり屋形の後見となった。現在屋形は病気のため国政を執ることが難しく当屋形も若年であるので、この先例に倣って義賢を当屋形の後見とするために連枝とされたのだと思われる。屋形は羽根田の鎧と蛇頭という太刀を義賢に与えられる。これより箕作義賢の権勢が大きくなって屋形の号を預かり、非義が少しずつ現れ始める。

十日 山崎左馬允家資に上和田の庄五百貫の地を与えられ、その上屋形の諱字を与え秀資と名乗らせられる。

二十日 青地駿河守に山中の庄を与えられる。同日浅井祐政に下野の庄を与えられる。この他にもたくさんの加増の沙汰がある。

二十九日 義賢の嫡男四郎が右衛門督に任ぜられ、将軍から諱字を賜り義弼と名乗る。



巻第六・完