天文二十一年(壬子)
一月
一日 屋形は伯父箕作定頼の病気がひどいので箕作の館に移り留まられる。
二日 定頼の病気が重症のため、江州の一門衆、旗頭が残らず急いで箕作城に集まる。酉の下刻に定頼が死去する。今晩屋形は遺体を菩提所に送られる。
三日 午の刻に定頼の葬礼を行い、江雲院殿光室亀公と諡号する。この定頼という人は屋形の亡父氏綱公が他界したときに幼少である屋形を伯父として補佐し、管領職を預かり数年間国政を執られた。屋形が成長された後も後見として見守られ、旗頭達は屋形に対するのと同じように定頼を尊敬した。
八日 今日まで七日間毎日追善供養が行われる。定頼公から屋形へ十三ヶ条の遺言を記した書状があり、子息義賢へは二十五ヶ条の遺言があった。密書であるためその内容は分からないので記すには及ばない。
二十一日 今年初めて年始の挨拶をお受けになる。義賢は生前の定頼のように左の座に列する。
二十九日 屋形が箕作義賢を連枝にされる。これは定頼公の遺言に従ったものである。元々義賢は屋形の従弟である。今このような儀に及んだことは、国の危うい状態を収めるための屋形の配慮であるとか、伯父定頼の恩を感じそれに報いるために義賢を連枝にされたのだといわれる。
二月
二日 定頼公の廟所を江雲寺と名付け今日から普請等を始める。奉行は浅井下野守祐政である。
十一日 戌の刻に星が月を貫通する。子の刻に地震がある。
二十三日 江州国分尼寺の修築を屋形が馬杉丹後守に仰せ付けられる。この寺ははるか昔天平十一年七月に初めて国々に建立された尼寺であり、代々屋形の一族の女性が上人として継いでおられる寺である。
二十八日 越国の朝倉弾正忠が朝倉刑部大輔を遣わして、定頼の廟寺に参詣させる。
三月
三日 佐々木神社にて祭礼が行われる。屋形は去年から御曹司の病気快癒を祈願されており、金銀の神器三組を神殿に納められる。義賢から紅白の騎馬武者三百騎が出され神輿の前を二列になって行進する。この他にも御一門や旗頭から祈願のために奉納されたものは数多く、記すには及ばない。
十四日 大洪水が起こる。
十九日 山州長岡の地頭木村刑部左衛門尉貞兼が将軍家の勘気を蒙り、屋形に身元を預けられ本日交北小谷郡全光房に入る。
二十日 午の刻に地震がある。酉の刻に西の空に赤い筋が三本立つ。
四月
一日 本日から十日まで雨が降り続き、江州の湖水が九合に達する。
二十一日 強風により公方の殿門が倒壊する。
二十四日 将軍が愛宕山に参詣する。在京の大名、小名が残らず供奉する。その面々については記すに及ばない。
五月
五日 佐々木神社にて祭礼が行われ、屋形が参詣される。箕作義賢は定頼公の喪がまだ明けていないため参詣しない。
十一日 一條兼冬公が江東に来訪し、観音寺城に滞留する。
二十一日 屋形の奥方を本願として山門横川の中堂が建立される。奉行は和田中務少輔貞縄、苗木河内守頼光である。
二十九日 小野宮が震動し、この旨を京都に報告される。
六月
十日 卯の刻に砂石が降り草や木がことごとく被害を受ける。噂では信州浅間山が数日間激しく噴火したため諸国で同じような事が起こっているという。
二十二日 和田兵部少輔貞光入道覚全死去。享年八十三歳。同日屋形の旗下、河内国の若江下野守行綱が死去する。
七月
八日 高木右京亮義里と宮脇伝兵衛尉が将軍家の西門にて喧嘩になり、双方の家来数十人のうち多くの者が傷を負う。これによって高木、宮脇は等持寺に入り謹慎する。十一日になって両名に切腹が申し付けられる。
二十日 永田午助が国を出奔する。これは非義を積み重ねたためである。妻女達は永田刑部少輔に預けられる。
八月
十五日 本日から龍光寺において屋形の祖父高頼の三十三年忌の追善が行われる。万部の妙典の読経が行われ、経中の奉行には浅井下野守祐政、山崎源太郎家綱の両名が任命される。
二十九日 永原左近大夫が出家し、法名を義全と名乗る。この人は屋形の一族である。
九月
九日 江南の大津宮で祭礼が行われる。江南の旗頭の家来が狼藉を働く神人と激しく戦い、多くの死傷者を出す。このため悪徒共は難を逃れるため三井寺光浄院に逃げ込む。屋形はこれをお聞きになり後藤を三井寺に遣わして悪徒共を引き渡すよう求められる。これに対し寺からは引渡しには応じられないと返答する。事態は大きくなって将軍の耳に入り、ついに悪徒共の身柄を屋形が受け取ることになる。三井寺の所業はけしからぬものであり、悪人共は茨川の河原にさらし者にされる。
十三日 大津奉行の大津伝九郎頼長方から観音寺城へ報告が入る。その内容は、この度茨川にて罪人をさらし者にしているが、昨夜三井寺から悪僧が忍び込みことごとく縄を切り逃がしたという事である。屋形は憤慨され、どうして国の政務が寺から軽々しく妨げられてよいものであろうかと後藤、進藤の両名を召し出して、三井寺を攻めるよう仰せ付けられる。両名は本日午の刻に三井寺へ出発し、大津にて軍議を行う。その結果後藤隊は南院の大門から、進藤隊は北院の大門から、大津伝九郎隊は山上口からそれぞれ合図を交わして十四日の卯の刻に攻めかかる。三井寺の悪僧共は三方に打って出て防戦する。ここで三井寺門主円満院の御方から京都へ使僧が遣わされる。また同日屋形に対し頼全房という僧を遣わして戦を止めるよう申し入れる。屋形の仰せによって使僧頼全房は種村の館にて討たれる。十五日になって将軍家より上使が江東に来着し、屋形が上洛される。屋形は三井寺の合戦を止めるよう大津にて両籐に仰せ付けられる。
十六日 将軍家の仰せにより三井寺の悪僧三十一人が茨川にて誅殺される。このため三井寺の僧達は大いに怒り、将軍家は武家であり理非なく寺を滅ぼそうとしていると天皇に訴える。公家や智證の門徒達は佐々木家を潰そうと盛んに論ずるが、五岳の長老五人が天皇の勅命により間を取り持ち将軍家を通じて、以後三井寺の成敗は佐々木家が自ら判断すべしと申し伝える。これによって寺は道理を失い、全て屋形の指揮下となる。このたびの三井寺合戦で僧五十余人が討たれたが、その理由は長くなるので日記には概要のみ記す。
十月
二日 子の刻に地震がある。
十日 江州に近年見られないほどの大雪が降る。
十五日 坂田美濃守頼秋が観音寺城にて屋形の仰せにより討たれる。これはこの度の三井寺合戦において寺側に通じたためである。坂田美濃守の次男因覚法師は三井寺門主の弟子である。この坂田の罪状については義賢の近習建部伝吉が詳しく、義賢に報告したものが屋形の耳に入ったのである。
二十四日 子の刻、東の空に長さ一丈余の流星がある。翌晩は現れない。
二十六日 会津の大名盛高から近松左馬助という使節が参り白鷹三羽を献上する。屋形は対面され返書を渡される。この使節が申すには、最近会津で声が出なくなり死ぬ者が多く、これは日吉の祟りだという者があるので日吉神社に参詣したいということである。そこでこの使節は案内を受け日吉神社へ参詣し牛王等を貰い受けて会津へ帰国する。その詳細は分からない。
十一月
三日 能登国の長平五郎重冬が畠山に国を追放され江州に来て、今日屋形に拝謁する。屋形は非常に親切に応対される。この者は長氏の惣領であったが、庶流の者に讒言され国を追われたものである。
二十日 今日から二十五日まで六日間志賀宇佐山から煙が立つ。このため宇佐八幡宮にて護摩を焚くよう三井寺の尊空法印に仰せ付けられる。
二十九日 午の刻まで夜のように暗く、人の顔を見分ける事ができないほどであった。
十二月
十日 観音寺城にて日吉の社人と比良社の神主の間で着座の議論がある。双方は屋形に訴え、このため御国の間にて真儒の者達が双方の代々の官位や天皇の宣旨を改めた結果、日吉社の側に道理が認められる。これより比良と日吉の社人たちは不和になり、堅田の社領職を争い始めることになる。
二十一日 石山の尊綱上人が死去する。この人は屋形の一族である。同日鯰江又十郎実定の館から出火して観音寺城下の侍屋敷十九軒が焼失する。
天文二十二年(癸丑)
一月
一日 本日から十四日まで例年通り旗頭の礼節が行われる。
十五日 屋形と箕作義賢、八幡山義昌並にその他の御一門が江州の八幡宮へ午の刻に初詣を行う。その他の江州の旗頭も残らず参詣する。
十六日 佐々木神社にて馬揃えがあり、組馬の節会が行われる。これは今年から始められるものである。
二十日 屋形と御一門が上洛し、二十八日に江東に帰城する。
二月
朝鮮国から白菖蒲が贈られる。国使の名は梅西軒という。今年一條兼冬公が死去する。
二十四日 屋形が伊吹権現に参詣される。
二十五日 屋形が亡母のために高嶋郡に四十九体の石仏を作らせる。奉行は田中伊豆守資光である。
三月
三日 佐々木神社にて祭礼がある。屋形は病気のため参詣されず、箕作殿、八幡山殿、その他旗頭衆は残らず参詣する。
二十日 将軍家から国々の守護に対し下知が下される。その内容は国々の所領を改めて書状を以って申告するようにとのことである。これによって国々の知行を自他領の区別なく国ごとに記したものが作られる。
天文二十二年高木光資、上野晴時両名が諸国の申告を受け、改めて日本国中の知行高を記し、 これを将軍家に献上する。 五畿内五ヶ国 一 二十二万五千二百六十二石 山城国八郡 一 四十四万八千九百四十五石 大和国十五郡 一 二十四万二千百五石 河内国十五郡 一 十四万千五百十二石 和泉国三郡 一 三十五万六千六十九石 摂津国十三郡 五ヶ国合 百四十一万三千四百三十三石 東海道十五ヶ国 一 十万六百二十三石 伊賀国四郡 一 五十六万七千五石 伊勢国十五郡 一 一万七千八百五十四石 志摩国二郡 一 五十七万千七百三十七石 尾張国八郡 一 二十九万七百十五石 三河国八郡 一 二十五万五千百六十石 遠江国十四郡 一 十五万三千八百石 駿河国七郡 一 二十二万七千百六十石 甲斐国四郡 一 六万九千八百三十二石 伊豆国三郡 一 十九万四千三百四石 相模国八郡 一 六十六万七千百六石 武蔵国二十一郡 一 四万五千十五石 安房国四郡 一 三十七万八千八百九十二石 上総国十一郡 一 三十九万三千二百五十五石 下総国十二郡 一 五十三万二千百石 常陸国十一郡 十五ヶ国合 四百四十六万四千五百四石 東山道八ヶ国 一 八十二万五千三百七十九石 近江国十三郡 一 五十四万三千石 美濃国十八郡 一 三万八千百五石 飛騨国四郡 一 四十万八千三百五十八石 信濃国十郡 一 四十九万六千三百七十七石 上野国十四郡 一 三十七万四千八十三石 下野国九郡 一 百六十七万二千八百六石 陸奥国五十四郡 一 三十一万八千九十五石 出羽国十二郡 八ヶ国合 四百六十七万七千十三石 北陸道七ヶ国 一 八万五千三百十石 若狭国三郡 一 六十七万九千八百七十石 越前国十二郡 一 三十五万五千五百七十石 加賀国四郡 一 二十一万五千石 能登国四郡 一 三十八万二千九十八石 越中国四郡 一 三十九万七百七十石 越後国七郡 一 一万七千三十石 佐渡国三郡 七ヶ国合 二百十二万五千六百四十八石 山陰道八ヶ国 一 二十六万三千八百八十七石 丹波国六郡 一 十一万七百八十四石 丹後国五郡 一 十一万七百七十三石 但馬国八郡 一 八万八千五百二十石 因幡国七郡 一 十万九百四十七石 伯耆国六郡 一 十八万六千六百五十石 出雲国十郡 一 十一万千七百七十石 石見国六郡 一 四千九百八十石 隠岐国四郡 八ヶ国合 九十七万八千三百十一石 山陽道八ヶ国 一 三十五万八千五百三十四石 播磨国十四郡 一 十八万六千十八石 美作国七郡 一 二十六万千七百六十二石 備前国十一郡 一 十七万六千九百二十九石 備中国九郡 一 十八万六千百五十石 備後国十四郡 一 十九万四千百五十石 安芸国八郡 一 十六万七千八百二十石 周防国六郡 一 十三万六百六十石 長門国六郡 八ヶ国合 百六十六万二千二十三石 南海道六ヶ国 一 十四万三千五百五十石 紀伊国七郡 一 六万二千百四石 淡路国二郡 一 十八万三千五百石 阿波国九郡 一 十二万六千二百石 讃岐国十一郡 一 三十六万六千二百石 伊予国十四郡 一 九万八千二百石 土佐国七郡 六ヶ国合 九十七万九千七百五十四石 西海道九ヶ国 一 三十三万五千六百九十石 筑前国十五郡 一 二十六万五千九百九十八石 筑後国十郡 一 十四万三千七十石 豊前国八郡 一 四十一万八千三百十三石 豊後国八郡 一 三十万九百三十五石 肥前国十一郡 一 三十四万二百二十石 肥後国十四郡 一 十二万八十八石 日向国五郡 一 二十八万三千四百八十二石 薩摩国十四郡 一 十七万五千五十七石 大隅国八郡 九ヶ国合 二百三十八万二千八百五十三石 惣日本六十六ヶ国合 二島合一万三千五百七石 一 五千三百二石 壹岐島 一 八千二百五石 対馬島 日本惣高合 千八百六十九万七千二百四十二石 |
この他にも島々は多いが年貢等を納めていないので記さない。将軍家から国々へ検使が遣わされて詳細に調査されたこの出来事を人々は天文の縄と呼んだ。
四月
三日 志賀の宇佐八幡宮の社の左側に大きな穴ができて、そこから火炎が噴出し三丈ほど立ち上ると志賀山城守が観音寺城に申し上げる。屋形は記録所の獨養斎に古記を調べるよう仰せ付けられる。獨養斎が旧記を見て申し上げるには、その昔建長四年壬子八月十八日山州北野神社の後方の芝から火炎が出て高さ五丈ほども燃え上がり杉の梢にまで達したという出来事があったという。屋形は古来あった事であればと心配するのをお止めになる。
十日 乾河内守盛国入道覚雲死去。享年九十三歳。この人は佐々木家四代、すなわち政頼、高頼、氏綱、当屋形義実公の四世に仕えた人である。一生のうち四代の屋形から三十二通もの感状を頂いたほど武功のあった入道であるので旗頭の童子などは必ずその諱名を付けるほどである。このため屋形は盛国寺という寺を建立し、この入道の忌日には必ず参詣される。
二十日 田中房貞成が急死したと高嶋の八人衆が申し上げる。貞成は常に愛宕を信仰していたが、今月十九日から願を懸けるため比良の山に詣でたところ、自宅で思わず猪を食べてしまう。そのとき人と一緒に食事をしていたが一言も発せず死んだということである。このほかにも悪い兆候がたくさんあったというが記さない。
五月
五日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われ、屋形と御一門、旗頭の面々が残らず参詣する。
七日 将軍が病気のため屋形が上洛される。
八日 酉の刻に大風のため天皇家や将軍家の殿門がたくさん倒れ、江州でも各地の堂塔が多数倒壊する。
九日 上京で大きな火事がある。今出河殿の館が燃え、その北の方が焼死する。
二十四日 竹生島から箕浦へ白い筋が一本通る。古記によれば康安元年辛丑、天下大乱の時に竹生島から箕浦までの三里余りの湖上に石の橋が浮かび上がってきた事があったという。そのため今回はいったいどういうことが起こるのかと人々は非常に不安に思う。
六月
三日 本日から志賀一松の明神を造営するように屋形が江西の旗頭に仰せ付けられる。
十四日 屋形が石山寺に参詣される。屋形は粟津原にて木曽義仲の墓を訪ね、その地に一寺を建立し自ら義仲寺と名付けられる。この寺を石山寺の末寺とするよう仰せ付けられる。
十九日 屋形が朝妻にて遊ばれ、この地の目代に仰せ付けて兵船十余艘を作らせたところ不思議な事が起こる。朝妻の港から少女が一人忽然と現れて屋形に向かって、平和に治まっている国において兵船を作るのは兵乱の兆しであると言う。そしてかき消すように失せる。屋形は野狐の仕業であると笑われるが、人々はとても不安に思う。
二十日 屋形が細江村の安楽寺にお出でになる。この寺は破損がひどいため修築するよう浅井下野守祐政に仰せ付けられる。
七月
九日 屋形の父雲光寺殿の追善が行われる。
十四日 本日より三日間屋形の奥方が前将軍義晴公のために江州の津々浦々で米三千石を貧民に施される。
二十日 夜に地面が揺れる。伊賀の上野城が倒壊したと報告が来る。
二十一日 夜が明けても月が消えずに残る。
二十四日 田上甲斐守実国死去。この人は数度の武功のため屋形の諱字を賜るほどの人である。元は将軍家の近習であったが同朋を討って江州に逃れ来て屋形に仕え、長年に亘って奉公する。元の名を上野左近大輔是秋という。
八月
四日 観音寺城の下馬の橋にて馬渕源太重綱と礒野五郎三郎宗清が喧嘩になる。磯野はその場で死亡し、馬渕は雲光寺に駆け込んで自害する。
十日 近年に例のない大洪水のため、江州で田畑に大きな損害が出る。
十五日 光るものが南から酉の方角に飛ぶ。
二十五日 屋形が自ら坂田兵部少輔高秀を手討ちにされる。その罪状は分からない。
九月
十二日 和田源内左衛門尉貞縄が神原直世の百首を屋形に献上する。屋形は非常に大切にされる。この百首は軍術を詠んだ秘歌である。
十五日 錦織民部常義入道死去。享年六十三歳。この人は新羅三郎の二十三代の子孫であるが後嗣がいないため、澤田兵部少輔重宗の次男二郎丸に錦織入道の名跡を継がせられる。
二十一日 南の方角に赤い光が現れ、まるで牛車のようである。
十月
江州にて山々の桜の木に青葉が繁る。人々は非常に不安がるが、易者はとてもよいことであると言う。
四日 春日神社の神木が風もないのに百本余り倒れたと南都から将軍家に報告がある。
二十四日 蒲生忠次郎氏定死去。享年六十三歳。この者は江州の旗頭であるが生涯受領を受けなかった。毎回武功を立てるので屋形は二度和泉守に任じようとされたが、不肖の身であるとして受領を固辞しつづけた。この人はいつも通の端ですら歩く事を遠慮するような道理を悟った人であったのでこのように固辞しつづけたのであろう。
十一月
四日 江西の藤井豊前守定房が観音寺城へ申し上げたところによると、今月一日の未明志賀雄琴の北にある赤坂山の峰から一体の石仏が掘り出され、それには天照皇と言う三文字が刻まれており四方に光を放っているということである。屋形は和田五郎兵衛尉を現地へ遣わしてその真偽を糺させたところ藤井は間違いないと断言する。このため屋形は箕作殿と同船して志賀郡へお出でになる。この話を聞くとすぐに御一門や旗頭の面々も志賀郡へ向かう。本当に珍しい事である。
十五日 屋形が藤井に仰せ付けて赤坂山に一社を建立され、新岩戸と名付けられる。これを非常に崇敬される。
二十九日 屋形の奥方が新岩戸に参詣される。後藤、進藤の両籐が供奉する。
十二月
十日 黒田下野守重澄の許から使節が来る。その伝えるところによれば、備前国にて加地と飽浦の間で嫡庶の争いがあり合戦に及んだ結果、飽浦が負けて国を退いたということである。この黒田下野守重澄という人は備前赤坂福岡城に住む屋形の一族で、黒田高政の次男であり、黒田家元祖宗清から二十七代の子孫である。
十九日 備前の飽浦美作守信清が加地備前守盛氏に国を追われ、江州に来て屋形に拝謁する。備州の加地、飽浦というのはどちらも佐々木盛綱の子孫である。
二十四日 その昔佐々木盛綱は元暦年間に備州の小嶋に渡り平行盛朝臣を討ち取るが、そのとき海上にて差していた太刀を藤戸丸という。この太刀は子孫が代々伝えてきて現在十一代飽浦美作守信清が所持している。この太刀とこの戦で盛綱が右大将家より賜った書翰一通を錦の袋に入れて本日屋形に献上する。屋形は昔日の盛綱の偉大な武功を偲び落涙される。右大将家のに書翰は次のように書かれている。
今月七日平氏左馬頭行盛五百余騎軍兵を相随て備前小嶋之城にたてこもるの処盛綱藤戸の海を渡して行盛以下之者ともを追討之事まことにむかしより河水を渡事はあれといまた馬にて海をわたすの例をきかす盛綱ふるまい希代之勝事こそおほへかへくはしき事はなをあとより一々申也 元暦元年十二月二十六日 頼朝在判 佐々木三郎殿 |
屋形は、過去の名将の感状であるので常に見ることが出来るようにと、一幅の掛軸として国の間に飾られる。これを江州旗頭の面々が書き写し、昔日の盛綱の武功を思い自分もそうありたいと願う。この書翰を仮名の一字まで違えることなく原文のまま日記に書き留める。
天文二十三年(甲寅)
一月
一日 本日から十五日まで旗頭が出仕して例年のように慣例行事が行われる。
十七日 屋形と箕作義賢父子、八幡山義昌、御一門並にその他の旗頭が残らず佐々木神社に参詣する。
二十二日 屋形が上洛される。箕作、八幡山両名が同行する。
二十七日 楢崎越前守実春死去。享年五十八歳。この人は江州旗頭の一人であり、屋形の諱の一字を賜るほど武功を立てた人である。
二月
十一日 江北の植村久作が天狗のために死亡する。
十五日 百済寺に悪徒が押入って経巻や寺門の重器を強奪する。この悪徒共が奪い取った財宝を甲賀の西山にて分配しようとしたところ、これを聞いた藤堂村の藤堂善兵衛という者がただ一人で太刀を抜いて飛び掛り散々に駆け回って悪徒十五人を討ち取り、残りの者には傷を負わせ財宝を取り返し、元のように百済寺に納める。これを蒲生が観音寺城へ報告してきたのを聞いて屋形は、比類なき勇者であると藤堂善兵衛を召し出して感状を与え、藤堂の庄を与えられる。それだけでなく諱の一字を与えて実成と名乗らせ近習に加えられる。
三月
三日 竹生島で縄張りが行われ、佐々木神社で例年通り祭礼がある。祭礼の場で京極武蔵守高秀の家来落合十兵衛と馬渕久内左衛門尉秀家が口論になり、馬渕は落合をたやすく討ち取るが、このため大騒ぎになる。馬渕は屋形の近習であるため咎められず、京極家は怒りを抑えて清瀧寺にて謹慎する。
十日 鷹司忠冬公が江州に来て観音寺城にてお遊びになる。翌日岡山に移り長命寺に詣でられる。この寺にて鷹司公は三首を詠み秀義の廟に納められる。
二十日 関東の小山兵衛尉親長が佐竹によって国を追われ浪人となり、本日江州に着いて進藤を介して屋形に扶助を請う。屋形は対面して小山を箕作義賢に預けられる。小山は鳥本の庄に住むことになり、鳥本兵衛尉実長と呼ばれるようになる。
二十八日 波多野前司定泰は長年にわたり多くの非義があったため、京極主馬助高三に申し付けて洛西山崎の宿にてこれを誅殺する。将軍家の怒りは殊の外強く、その一族二十三人を即座に誅殺される。
四月
五日 佐々木神社にて大神楽があり夜まで続く。屋形は近習の若者共に仰せ付けて太刀打を楽しまれる。
十四日 匹田十五郎朝光を武田義統へ遣わされる。これは屋形が若州武田を招いて密談をするためだといわれる。
二十日 若州の武田家が江東に参り、屋形は厚くもてなされる。どんな理由かは分からないが若州への使節匹田十五郎朝光が酉の刻に箕作義賢の館にて誅殺される。
二十四日 将軍家が愛宕山に参詣する。供奉の行列等は記すに及ばない。
二十五日 将軍家が下山する。
五月
三日 将軍家が江州にお出でになり、屋形は非常に歓待される。
五日 将軍が佐々木神社に参詣される。屋形と箕作義賢、八幡山義昌は将軍の左右に侍す。江州の旗頭の内二十歳以下の若武者達に紅白の目印を腰に付けさせて双方五百騎ずつ四備えに仕立てて太刀打合をさせる。将軍の喜ばれる様はひととおりでなく、太刀打が終わったあと若武者達に褒美を与えられる。
八日 将軍が比良山に登る。
十三日 将軍が帰洛する。
二十三日 野村丹後守高家死去。この者は江南の旗頭である。
二十四日 本日から白山が噴火する。
二十五日 東北の空に大星が現れる。その四方には角がある。
六月
大明国の真羅軒という者が来朝し入洛する。今月十日に将軍家の御所に召し出されて異国の話をするが、言葉が通じないため筆談にて将軍家の質問に逐一答える。将軍家が、汝はいつ大明を出発したのかと問うと真羅軒は、去年の三月上旬であると答える。また将軍家が、大明国はよく治まっているかと問うと、近年小人が国の周辺で小乱を起こしていると答える。将軍家が、日本の風俗はどうであるかと問えば、非常に美しいが国の様子は変化が急であると答える。将軍家が、世界中で人間の住んでいる国はどれくらいあるかと問うと真羅軒は筆をとって一々記して将軍家に差し出す。そこに記されている国々は次のようである。
高麗国、女直国、日本国、琉球国、西蕃国、安南交趾国、・・・・・ 表現できない漢字等が含まれているので途中省略します。 ・・・、阿黒驕国、懸渡国 全部で百二十八ヶ国 |
この他様々な事を将軍家に語る。将軍家は真羅軒を非常に賞讃される。
七月
九日 雲光寺にて屋形の父氏綱公の追善が行われ、江州各地で銭、米が施される。
二十日 屋形は山門恵心院に参詣され、翌二十一日に志賀旧都に移られる。あれこれと見てまわりその昔志賀寺の上人が住んでいた旧跡をご覧になって、苗鹿権内を召し出しこの上人のために一宇の堂を建立される。絵師を召してこの上人の肖像を描かせるに、屋形は世俗に語り伝えられることを思いつかれてこの肖像の横に京極御息所を美しく描かせ、自ら筆をとって次の古歌二首を書き加えられる。
初春の初音の今日の玉箒手に取からにゆらく玉の緒 (返して)極楽の玉の臺の蓮葉に吾をいさなへゆらく玉の緒 後世ノ出家可見之可謹々々 |
二十四日 屋形が江東に帰城される。本日申の刻に地震があり、東方に赤い気が三本立つ。戌の刻にも地震があり勢多の橋が半壊する。
八月
十一日 後藤但馬守の館の門に何者かが、富貴家鬼睨之、という言葉を書き付ける。この後藤但馬守は前屋形氏綱公が取り立てた者である。元々は以前江州の重臣で後藤という者がいたが子孫が続かず断絶してしまったので氏綱公が目加多の次男を取り立て後を継がせられたものである。その後江州旗頭の中では御一門といえども肩を並べるものがいないほど登りつめ、余りにその権勢が盛んなことを妬まれてこのような落書きをされたのであろうか。
二十日 大津の奉行大津主膳正清宗が死去する。享年五十九歳。この者は駒井定清の三男であるが、物事の道理によく通じよく知恵の働く人であったので前屋形氏綱公が大津の奉行職に任ぜられた。毎回難しい訴えを明快に裁き執行する人であった。
二十五日 大津主膳正の子竹千世は幼少のため成人した後に訴訟等を扱うこととして、駒井石見守を大津の奉行職に任命される。
二十八日 大洪水が起こる。
九月
三日 山田豊後守定兼が長年の比類なき忠功を認められ、本日屋形の諱字を賜り実兼と名乗る。
十日 堀越中守貞冬が一通の書状を屋形に差し出し、法光寺に入って出家する意思を伝える。屋形がその理由を尋ねられたところ、長年仏法を信仰することに余念がなかったためであると言う。屋形は堀の所領を間違いなくその息子孫三郎に与えられる。
十五日 屋形が旧記をご覧になったところ永承四年己丑に仏舎利一粒ずつを天下の神社に納めるとあった。江州各社の神主に尋ねるため各社に使節を送ったところ確かに納められている神社があった。それは日吉社、白髭社、兵須社、苗鹿社、八幡社、佐々木社、比恵社、勢多社、多賀社、江北天神社、仰木多田社、雄琴社、幸津河社で全部で十三ヶ所あった。この他の大社では現在はなくなっていた。屋形は昔の出来事の名残がなくなってしまうことを嘆き、代々伝えられてきた仏舎利を一粒ずつ各社に納められる。屋形はいつも昔の名残がなくなることを悲しんで、どんなものであれこのようになさる。
二十二日 志賀郡雄琴社を建立する。奉行は和田中務丞定縄、藤井豊前守定国等である。
十月
十二日 本日から十四日まで伊吹山が震動する。
十九日 空から板をたたくような音がする。江州、越前、伊勢の三ヶ国だけで起こり、その他の国では聞こえなかった。
二十四日 白山の執行代を山門から配置する。このため白山と山門との間で争論が起こるが、最終的に山門が下知をすることになる。旧記によれば久安三年丁卯四月二十八日に白山が山門の末寺となるとある。
十一月
十日 屋形の伯父梅戸高実の子息刑部少輔高宗が死去する。これによって次男が梅戸家を継ぐ。この高実という人は前屋形氏綱公の末弟として勢州梅戸家の養子となり、その家を継いだものである。
十九日 酉の刻から雪が降り始め二十一日午の刻まで続く。積雪は五尺余に及び、江州では百年以上もなかった大雪となる。
十二月
十八日 江州旗頭による観音寺城に出仕しての年末の挨拶は今年から免ぜられたため行われない。
二十日 大雪が先月降ってからも少しづつ降り続き、ついに雪が消えて地面が見えるということはなかった。例年以上にひどい寒さのため鳥達が飛ぶことが出来ず、さながら鶏のようであり、人々は簡単に捕らえる事が出来た。
二十三日 屋形は国中に鳥を捕ることを止めるよう仰せ付けられる。その真意は、この寒気に遭って自由を奪われた鳥獣たちを捕らえることは道義に反するためということである。珍しい政法だと人々は言う。
巻第五・完