天文十八年(己酉)
一月
一日 本日から十五日まで例年通り正月の慣例行事が行われる。
二十日 雲州尼子の正統尼子国久が浪人となり江州に来る。屋形は非常に情けをかけられる。国久は雲州の元祖佐々木五郎隠岐守義清から十三代の嫡統であり、屋形の一族である。
二月
二日 大雪になり三尺余積る。近年に例を見ないほどである。
六日 将軍が病気のため屋形が上洛される。定頼は病気のため息子義賢が上洛する。
十九日 信濃国から五本足の白馬が将軍に献上される。本日江州高宮に到着する。
二十四日 濃州の土岐が江州に来る。これは定頼の娘が嫁いでからは初めてのことである。五日間箕作の館に逗留する。
三月
三日 佐々木神社の祭礼にて浅井下野守祐政の家来三田権内と京極家の家来落合右近の両名が神人刑部大夫実高と通りがかりにぶつかり大喧嘩になる。このため祭礼は申の刻に始まる。
四日 屋形は昨日の喧嘩を進藤山城守に命じて糾明させ、三田、落合両名に切腹を命じ、神人を謹慎させられる。
十五日 江東の君々畠から白銀を掘り出したと坂田兵内左衛門が申し上げる。そこで兵内左衛門を金山奉行に任命される。以後江州にて金を掘るようになる。
二十九日 馬渕丹後守実冬死去。享年五十七歳。本来嫡男與右門に所領等を与えるべきであるのに次男與藤次を寵愛し譲状を与えたため、この旨を馬渕家より申し上げる。屋形は、たとえ惣領に配分無しと馬渕が決めたとしても一家の嫡統であり、次男は馬渕の愛妾の子であるため一時の愛に溺れて判断を誤ったのであろうと仰せになり、二人に半分ずつ分け与えられる。
四月
五日 駿州の今川義元から使節があり、今年上洛するので領国内にて異議のないようにしてもらいたいと申し上げる。屋形はこれをお聞きになり、上洛は実現させるわけには行かないと返事をされる。今川は近年尾州の織田と戦を繰り返しており、織田家へは江州から数回援軍を送っているため、その決意は固いものである。今川は何を思ってかこのような使節を送る。これ以上は記さない。
十九日 午の刻から子の刻にかけて大雨が降る。近年にない大雨である。
五月
一日 尾州の織田上総介信長から使節が来て、今年今川義元が上洛の軍を起こそうとしているので尾州三州の国境の川に出陣し討ち取ろうと思っているが、味方の軍勢が少ないので江州旗頭の内から五人ほど援軍に遣わしてもらいたいと申し上げる。屋形は承諾され、将を左右に随えていつでも駆けつけると返事をされる。
五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。本日伊庭入道道全が死去する。享年八十三歳。
二十日 近年遠国で兵乱が続くので屋形は将軍家守護のため蒲生忠三郎氏時を京都へ遣わされる。蒲生へは、六角の館に住み将軍家を守るよう仰せ付けられる。
六月
四日 午の刻に地震がある。
五日 申の刻から酉の刻にかけて強風が吹き堅田の浮見堂が湖に倒れこむ。このとき恵心僧都の作った千躰仏のうち二十三体が湖中に沈む。このため湖岸にて捜索し、八体が発見される。
二十二日 箕浦城に落雷があり本丸のみ焼失する。
七月
疫病が流行し畿内で多くの死者が出る。江州では八千人である。このため永原の上に疫神の宮と号して一神を祀る。
十五日 江州幸津川の宮が鳴動する。
関東で祇園踊りというものが行われたと言う。また武州忍城主成田刑部少輔氏国が落雷のため命を落としたそうである。
八月
尾州熱田神宮の修築を将軍家が織田備後守信秀に仰せ付けられる。
二十五日 越前国織田大明神の宮にて三面一体の亀が捕らえられ、将軍家が京都に召し寄せる。
九月
十日 江北小谷城の普請を屋形が浅井祐政に仰せ付けられる。
十九日 美濃国立正寺より白い熊が将軍家に献上される。大きさは子馬ぐらいで頭に金の札がついている。そこには、承久元年一月十日土岐太郎光方がこれを捕らえ、同月二十九日山に放つと書かれていた。世にも珍しい事であるので天皇へ献上され、後に将軍家から岩倉の山へ放される。
二十六日 山科の里に細川家が大石で作った六地蔵が置かれ、今日供養される。このため近国の民衆が集まったところ、午の刻に俄かに空が曇って雷が落ち、あっという間に六地蔵が砕け散る。
十月
八日 今日は亥子に当たるので、亥の刻に例年通り将軍家がお出ましになり在京の大名たちに紅白の餅を与えられる。畠山但馬守と佐野右京権大夫が営中において口論になり、喧嘩に及ぶ。佐野は死亡し、畠山は手傷を負い妙心寺に入る。両家の家来四十六人が死亡する。このため京中大騒ぎになる。
二十一日 江州桑実寺の本尊の頭から光が出る。このため人々が群れをなして集まる。二十八日まで続く。
二十九日 三井寺極楽院の住僧日恵という者が突然狂いだし、我に智證大師がのりうつった、法を説かんと言い出して阿字の文を説法する。
十一月
四日 定頼の館から光るものが出て、馬渕の家の上に落ちて消える。
十一日 上原江兵衛尉が仔細あって自害する。
二十七日 奥州会津盛隆から使節があり、屋形が対面される。会津家より国の名産として染絹百匹が贈られ、使節が一通の書状を献ずる。そこには、屋形の一族から一人を奥州に下されたいとあった。屋形はこれに応じられなかった。理由は分からないので記さない。
十二月
十四日 江州の下地頭馬場左近に後藤但馬守の娘を嫁がせる。これは両人の仲が悪いため屋形が仰せ付けられたことである。
十六日 推知苦院道三が江東に参り、屋形に推脈というものを伝授する。これは軍法に含まれることであり、屋形は旗頭達に更に伝授される。
口伝有事也 |
二十九日 片桐権内高輝に高嶋郡の中村庄を与える。これは片桐の長年の忠義に報いるためである。片桐は屋形の近習である。
天文十九年(庚戌)
一月
元日に大雪、二日に大風、三日は曇り、四日に雷鳴、五日辰の刻に地震がある。江州の易者が占ったところ今年はすこぶる凶年であると言う。一日から十五日まで例年通り慣例行事が行われる。
十八日 京極家の館へ屋形と伯父定頼、その息子義賢が招かれる。八幡山義昌は病気のため欠席する。屋形は三日間逗留され、館では十五番の的射が催される。
二十五日 屋形が上洛され、旗頭の中から六人が供奉する。御一門の面々は翌日上洛する。
二月
五日 屋形が江東に帰城される。
十四日 三好左馬頭晴秀死去。大泉院と諡号される。
二十四日 山門の勧妙坊昌尊法印が公方の営中にて自害する。末寺についての争論のためである。
三月
三日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。今日竹生島の小島から本島へ縄を張る。これには多くの由来があり昔から伝えられてきた。将軍家も銅で縄をこしらえて今年初めて張り渡す。三日目にして両方の縄が切れて湖中に沈む。これは非常に不吉である。
十五日 浅井下野守祐政が屋形の前で八天狗の法を行う。祐政は山門大泉院の弟子であり十三年この法を学んだというので屋形が所望されたためである。
四月
九日 将軍家に山形道通という真儒がいるが、この儒者が江東に参り屋形に謁見する。ある晩屋形が道通に、人をもどくという言葉があるがこれには何か故事があるのかと問われたところ、道通が言うことには
痛醜賢良すとて酒不飲人をもとくは不見かも似る |
と万葉集にあるということである。この他にも様々な法問答が交わされる。
二十一日 豊後国大野郡より頭が人で手足胴体が魚のように鱗で覆われた生き物が将軍家に献上される。その名前は誰も知らず、人魚ではないかと言う人がたくさんいたがこれは人魚ではないという。その鳴き声は鹿のようであり、十日ほどして死ぬ。
五月
四日 未の刻に前将軍義晴公が死去する。享年四十歳。酉の刻に遺体を等持寺に移す。細川晴元が先導し、屋形義実が殿を務める。
五日 未の刻に葬儀が行われ、将軍義輝公が等持寺にお出でになる。義実は将軍の連枝を語らい葬儀の段取りを取り仕切る。その様子は省略する。勅使として三條大納言が参り、前将軍に万松院殿と贈号する。その詳細は後に記す。先月二十日義晴公は病気が回復する見込みがないと思われたのか、江州屋形を将軍義輝公の後見とし、十八ヶ条の遺言状を屋形へ渡される。屋形は義輝公の姉婿であるため天下の後見を任される。他にも色々な事があったが多いので記さない。
十日 今日は万松院殿の初七日に当たるため等持寺にて追善供養が行われる。詳細は記さない。
十一日 今日から万部の妙典の読経が行われる。
二十二日 各国の諸侯へ形見として太刀一振りずつを与えられる。奉行は上野晴成、杉野高宗等である。江州には大原実盛の太刀と山ノ上という鎧甲が与えられる。
六月
十二日 屋形の奥方が江州に帰城される。
十九日 屋形の奥方が比良山に父親である万松院殿の冥福を祈り一寺を建立される。後藤但馬守を奉行とし寺号を万松寺とされる。屋形は志賀郡和爾の里を寺領として寄進される。
七月
七日 本日から十五日まで屋形の奥方が江州の氏寺において千部の妙典の読経を行われる。これは義晴公の追善である。
二十五日 大原伊予守死去。享年六十三歳。
二十七日 夜、京で大きな騒動がある。細川、三好両家の家来が二條油小路を下った町で喧嘩になり、双方多数の負傷者を出す。その後両家の者たちがこの騒ぎを聞き駆けつけ、二條から一條までの間で入り乱れて戦ったためである。屋形義実は将軍の御所にてこの知らせを聞き、江州旗頭の中から山崎、池田、小川、進藤、後藤の五名を遣わして状況を糾明し三好、細川両家の者を御所に召集される。そして家来達の言い分を聞き届け洛中の騒動を鎮められる。翌日将軍家より下知が下され、細川、三好両家に閉門を命じる。後に再び記す。
八月
二日 辰の刻から大洪水になる。鴨川では河水が氾濫し東岸の民家二千余が流される。江州でも各地で洪水が起こり多数の田畑に被害が出る。
十五日 江州八幡宮の祭礼が例年よりも大規模になり、旗頭たちが出す騎馬は八百騎を超える。
二十四日 一條兼冬公が江東に来られ多賀大社に参詣される。その後観音寺城に逗留され、屋形が歓待される。
九月
十日 青地紀伊守入道秀実死去。享年六十九歳。
十九日 黒田大学頭宗綱はこれまで近習であったが、屋形は長年の武功を評価され、津田城を与えて旗頭の一員とされる。
二十八日 屋形は田上甲斐守実国に六角館の番頭を仰せ付けられる。
十月
対馬国宗貞盛から五代目の子孫貞秀が朝鮮に渡り、今月西海から兵当論という軍書を将軍家に献上する。
十一日 諸国で山々が崩れる。過去の事例を調べてみたところ永和三年八月二十日に山が崩れた事があった。日本では神武元年から今年までで山が崩れたのはこの二回だけである。
十九日 大雹が振る。その大きさは栗ほどもある。
二十五日 申の刻に地震がある。
十一月
四日 江州安国寺が倒壊したため京極武蔵守高秀に修築を仰せ付けられる。暦応二年に諸国に安国寺の建立が命じられたため、この寺は国々にある。
二十日 午の刻に泥が降る。過去にもこのような事があったと伝えられている。
十二月
五日 将軍家が諸国の守護に対して、四十町を一里と定め一里塚を作るよう仰せ付けられる。五畿七道へ奉行が派遣される。
十四日 大津で町屋五十軒が焼失する。
十九日 澤田兵庫頭宗忠に今堅田の城を与えられる。これは兵庫頭の先祖が屋形の一族であるためであろうか。
二十二日 屋形は吉田出雲守重高に諱の字を与えられる。これにより実重と名乗る。更に三目結いの紋を与えられる。この実重という者は屋形の一族であり、江州でも屈指の弓術の家柄である。このため屋形は幼少の頃から吉田を師と仰がれる。初めは吉田助右衛門尉と名乗っていたが、去年受領を認められ父吉田出雲守重政の受領名を受け継ぐ。吉田家は代々旗頭の家柄であるが、殊に屋形の八代前六角満経公の時代に吉田出雲守重賢が弓馬の道で天下にその名を響かせる。後に出家して道宝と号する。この時代七人の旗頭が弓馬の道を極めたというが、道宝という名は弓馬の道の宝であるとして六角満経公が名付けられたという。代々忠功の家柄であり、そのため屋形がこの度の儀に及ばれる。
二十六日 屋形が近習二十一人に領地を与えられる。
二十七日 屋形が上洛される。天下の後見であるので京で越年されるということである。
天文二十年(辛亥)
一月
一日 本日から旗頭達が年始の礼のため登城する。今年は屋形が洛中におられるので、弟の八幡山義昌が代わりに礼を受ける。
七日 本日から旗頭達が各郡交替で上京する。これは屋形が洛中で越年されたためである。
二十日 近年にないほどの大雪となる。
二月
十五日 今年は釈尊の入滅から凡そ二千五百年に当たるので、将軍家は諸国に対して各山各寺にて涅槃会を行うよう仰せ付けられる。五山においては今月一日より今日まで大法事が行われる。
二十四日 将軍が愛宕山に参詣される。在京の諸将は残らずこれに供奉する。
二十八日 屋形が江東に帰国される。昨年から京に滞在されていたためである。
三月
二日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。今日竹生島の綱渡しが行われる。
十四日 将軍が江東に下向し、観音寺城にお越しになる。今月二十八日まで滞在され、屋形は意を尽くし美を尽くして歓待される。
十六日 将軍が多賀大社に参拝される。供奉の行列は多いので記さない。
十九日 将軍が竹生島に参詣される。渡島の様子は言うまでもなく大規模なものである。畿内の大名が大船にて将軍の御座船を囲み津田港から竹生島へ渡る。
二十日 将軍が竹生島から観音寺城へお戻りになる。
二十二日 屋形は将軍をもてなすため武備百首を催される。儒学兵書の内要とする語句から武具等に至るまでを題材とし、内容はその道によく合っているものを佳作として取り上げる。作者によってたくさんの面白い歌があり、後世の語りぐさに百首全部を日記に載せる。
天文二十年三月二十二日 於江州観音寺城武備百人一首和歌 判者なし其将の心に任して武備を用ゆ |
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一以貫之 |
将軍義輝公 |
おともなくかもなく道のいたれるはたたそのままの有明の月 |
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明徳至善 |
管領義実 |
善をつみ悪をしりそけ世をへなは元より有し玉は秀てむ |
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中和誠 |
畠山義忠 |
内外なく誠の中にあるならは神と人とのへたてあらしな |
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母不敬 |
箕作定頼 |
天地人三の次第を知ならは上をうやまひ下をあはれめ |
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勧善懲悪 |
細川晴元 |
善をすすめ悪をこらしむ国はたた民も豊に世をや保たむ |
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時 |
武田義統 |
政要は時の一字にしくはなし時をしらぬは亡将のわさ |
|
同 |
朝倉義景 |
戦の時の一字にさほさして火にも水にも入てたたかへ |
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欽 |
長岡藤孝 |
つつしみのうやうや敷は人の人たつとまれぬるうやまひの門 |
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性善養気 |
京極高吉 |
ひたすらに性をよくして気をそたて名利のきつな切て捨へし |
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無極而大極 |
箕作義賢 |
大空はたたそのままにおのつからかけすさわらす道のもと也 |
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五常・仁 |
八幡山義昌 |
仁はたた心の徳とあひの理とめくむにあかぬ心なりけり |
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同・義 |
大原高保 |
義なるとは心の制の正しくて時にしたかひよろしきをいふ |
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同・禮 |
梅戸高実 |
礼なれは天理の節をうくるてふ礼のかけぬる道はあらしな |
|
同・智 |
仁木実長 |
智はすくにあらゆるままに動静の是非のわかちをしるは知恵なり |
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同・信 |
木造具教 |
信あれはつねにやすくて有明のひかりのささぬ国はあらしな |
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五事・道 |
永原実高 |
道あらは勢の多少によらなまし紂の万騎も武の三千て勝 |
|
同・天 |
種村高盛 |
天をしるは陰陽寒暑時の制是をかんかへ軍をそする |
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同・地 |
三好長俊 |
地をしるは遠近険易廣狭に死生二をしる所なり |
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同・将 |
朽木貞綱 |
将はたた智信仁勇厳なれや一もかけて国はしられし |
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同・法 |
黒田重隆 |
法はたた曲制官道主用なり此三かけて勝はまれなり |
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七計・主 |
吉田実重 |
良将は道あきらかに智も廣く敵の強弱よく智そかし |
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同・将 |
浅井祐政 |
将はたた敵の軍伍をはかりしり敵の将智をしるは名将 |
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同・天地 |
後藤頼秀 |
夏冬や雨に風吹折からに日取方角しるそ良将 |
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同・法令 |
進藤秀盛 |
法令は味方と敵の軍例に次第みたさすあつかふそ勝 |
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同・兵衆 |
青地綱秀 |
敵味方勢の多少によらぬかなそなへみたれぬ方そ勝ぬる |
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同・士卒 |
高嶋高泰 |
つねつねに味方の勢の練不練その器にあてて戦そ勝 |
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同・賞罰 |
三上定高 |
賞罰の二をしらぬ国はたた治するはかたく乱るるはとく |
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実而備之 |
落合信高 |
敵の色強勢にしてかためなは味方もつよく法令をなせ |
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強而避之 |
蒲生氏隆 |
敵つよく味方おとりに成時はしはらくさけて不意を打へし |
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怒而撓之 |
建部高兼 |
いかりつつ敵気に乗る物ならはおひきいたして気にのりてうて |
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早而驕之 |
三井実忠 |
一たひは敵をおこらせ一度はさけては不意の折をうつへし |
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佚而労之 |
池田実政 |
ゆるゆると有は討なり扨は又敵のてたてをみたし付へし |
|
不意 |
目加多綱清 |
敵味方不意の軍はこのむかな必将を討ものそかし |
|
敵国乱入 |
澤田忠頼 |
敵国にみたれ入ては粮入すその国々の民をめくまは |
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城責 |
多賀秀忠 |
責よせて地の利もよくて落ぬをはあつかひ入て引て責へし |
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依時行 |
木村成時 |
行をはその地によりてかはる也兼て定ぬものとしるへし |
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思治時乱 |
高宮信経 |
治世にはみたれん事をおもふへしみつれはかくる十六夜の月 |
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用賢則得自由 |
山岡秀冬 |
ふかくみよ自由を得るは鳥に羽国主に賢士獣に足 |
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撰清濁 |
馬渕定晴 |
すみにこりゑらはぬ国の掟には鷹には魚を鵜には飛鳥を |
|
尊忠孝烈 |
楢崎氏国 |
忠孝のものをゑらひて挙ぬれは佞奸邪欲おのつからさる |
|
明君之行 |
伊庭実晴 |
よき人といはれし人は心虚に理にくはしくて民をやしなふ |
|
亡将之行 |
永田高持 |
欲ふかく色にまとひて目も口も栄花をおもひ理にくらきかな |
|
文武両道 |
乾忠国 |
文と武と兼備たる名将は火にさへもえす水におほれす |
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同 |
平井貞清 |
たたかひをいとなますして義をもつて全く勝は善の善也 |
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命在天 |
田中宗氏 |
退くも進むもおなし道なれはなにかおしまん武士の道 |
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儒釈道 |
坂田泰高 |
大空のもとはひとつのとさしにていててわかるる道の品々 |
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神妙 |
錦織冬成 |
誠なる心の玉のひかりなはいつれの神かよそにあるへき |
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慈悲 |
和田貞縄 |
慈悲はたた誠の玉のひかりなりあまさすてらせ四方の国々 |
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仁勇 |
亀井永綱 |
仁勇の二に心染なさは血気の勇はきえぬへきなり |
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倹約 |
松下永則 |
有来るその器物それそれに清らをこのむ国はうき雲 |
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政要 |
村井高冬 |
政要は智信仁勇もとよりもめくむになとか功はあらしな |
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過不及 |
野村高勝 |
過不及の二の病いやしかね聖薬のまて送る世の人 |
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死生 |
戸田則綱 |
会者定離生者必滅知ぬれはなにをよろこひ何なけかまし |
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尊卑 |
尼子貞清 |
時にあひ家に生まれてうへしたのあるをうらみす道をおこなへ |
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歌道 |
堀冬綱 |
一ふしのそのたへなりし言の葉に神もめくみのしきしまの道 |
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遠慮 |
新庄氏忠 |
近きより遠きをはかり知る時は萬につきて失はなきもの |
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堪忍 |
三雲氏之 |
堪忍は万に渡る物なれは心をくたけもののしなしな |
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思案 |
馬場頼資 |
善悪の二をむねにたたかわせまくる方をはすてて行なへ |
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分別 |
津田信祐 |
知恵そともいははいつわり出ぬへし誠のままに云はふんへつ |
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諸芸 |
阿閉長勝 |
道々のその次第ある奥義をはふかく心を入てきくへし |
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行跡 |
箕浦貞教 |
よき人といはれし人の行は心すなほに利欲なかりき |
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学文 |
畑貞正 |
学文はまつ身を治めたくさいの廣きにつけて人をいさなへ |
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随世 |
水原氏重 |
心さし有につけても猶も世をたたなにとなくしたかふそよき |
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聖世 |
志賀久友 |
聖賢の正しき御代は幾千代のかきりはあらしすへそ久しき |
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濁世 |
岡田良隆 |
にこる世のならひにきとてうたてやな聖はかくれて佞は秀て |
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謙 |
片桐実方 |
六十六首目・歌から七十五首目・題まで欠落しているため省略します。 |
|
大将は飛鳥の陣の備して居所をさためす図をはかるへし |
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横鑓 |
白井氏治 |
横やりは時をしりてや入なまし多勢に勝は横やりの術 |
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城取 |
横山頼高 |
城取は方角日取さもあれやたたかんようは水の通ひち |
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船軍 |
小川長頼 |
舟軍殊に大事は品々に楫取人はつねの将なり |
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舟固 |
宮部貞顕 |
舟かこひその浦々のよろしきにかさりはむやく勝を用よ |
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軍用 |
鏡高親 |
軍用はうるし油に米薪その場によりて求め置へし |
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旗頭 |
山田満綱 |
大将のいみなをけかす旗頭仁勇なくは野伏なるへし |
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軍奉行 |
山崎氏家 |
軍には奉行のゑらひ大事なりひいきへんはのなき人そよし |
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右筆 |
小野実胤 |
右筆は手は大形にありぬとも文字と才のなき人はうし |
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学者 |
三宅実基 |
学者をも軍につるる子細有猶よのつねはなくてかなはし |
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武具馬具得失 |
鯰江氏秀 |
武具馬具は清らになくと勝手よく得のおおきそとくのとく也 |
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相図旗 |
伊達氏豊 |
後先の相図の旗は五色なり下の下まてしらせおくへし |
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再拝 |
大野木高盛 |
再拝は陰陽二の大事有ふるにこころは有明の月 |
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昼夜相図 |
粟津晴綱 |
ひるはさも夜のあいつは色々に玉火りうせいつねのこと也 |
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太鼓 |
礒野定信 |
たいこをは打心にてうつ物かききてや人のいさむ調子は |
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鐘 |
久徳氏三 |
かねもなり鳥もきこゆるしののめに別て帰る暁はうし |
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鯨波 |
大宇秀則 |
かちまけのはやしれけるは時の声三度のあけにはての山彦 |
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野陣 |
加地盛隆 |
野あひには魚鱗鶴翼鳥雲や只肝要は横やりに有 |
|
方角日取 |
寺田清資 |
方角と日取は誰もしりなまし天理を知て後の事也 |
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帰陣 |
石田氏成 |
帰陣は始計のことくするそよき遠きを追す備くつすな |
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力量早業 |
三田村氏光 |
力量と只早業は功あれと仁勇なくは将のあた也 |
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山城 |
宇野親光 |
けはしきをのほりて責る事あらしたた山城は行有へし |
|
平城 |
上月氏賢 |
平城は四方より責る事そうき一方あけて敵をくつろけ |
|
責具 |
多羅尾定武 |
せめくをは治世にかたく調て発する時はゆるゆるとたて |
|
忠罸 |
柏木資冬 |
忠罸の過不及おおき国はたた人の物とは成物そかし |
|
天下泰平 |
管領義実 |
いにしへの聖の御代に立帰り宮もわらやもにきはひにけり |
|
武備百首終 将軍は非常に楽しまれ、これらの短尺を持ち帰るためお召し上げになる。 連衆者 畠山家、細川家、武田家、朝倉家、長岡家、以上五人の他は江州の面々であり、屋形の一族または旗頭、重臣、両執権、城主の家来等である。 |
二十四日 将軍家が江州旗頭、重臣のうち受領のないものたちに受領を与えられる。全員で三十七人であり、その内容は記すに及ばない。
二十五日 伊庭にて馬揃えが行われる。若輩の者たちによって早的が催される。早的というのは昔はなかったもので、近年江州にて始められたものである。
二十六日 将軍家が百済寺に参詣される。
二十七日 将軍家が剣龍という太刀を屋形に与えようとしたが、屋形はこれを固辞される。というのはこれが、将軍家の元祖である尊氏卿が身に付けて足利家を興し、天下を治めたという太刀であるからである。
二十八日 将軍家が帰洛される。畠山、細川両家が先陣を仕る。屋形は伯父定頼、その息義賢、大原高保、梅戸高実並にその他の一門衆、旗頭とともに将軍の後陣として上洛される。
四月
十四日 屋形、御一門が帰城する。
十九日 洪水があり、後大風が吹く。
二十五日 建部左近信勝死去。享年五十八歳。
五月
一日 屋形が奥方を伴い上洛される。これは今月四日が万松院殿の一回忌に当たるためである。屋形の奥方は万松院殿の長女である。
四日 万松院殿の年忌のため先月から等持寺にて万部の妙典の読経が行われる。
五日 佐々木神社にて祭礼が行われる。屋形が上洛のため不在であるので、御曹司義秀が参詣する。
二十一日 子の刻に地震があり、江州勢田の橋が落ちて流される。
二十三日 本日から勢田の橋の普請が始まる。
六月
三日 江北の弓削目代を仔細あって屋形が観音寺城において手討ちにされる。
十四日 祇園会の駕輿丁と細川晴元の家来が喧嘩になり多くの神人が討たれる。このため神輿は出ず、翌十五日に出されて巡行する。細川家は妙心寺にて謹慎する。
二十九日 比良山の江国寺が焼亡する。
七月
九日 雲光寺において屋形の父氏綱公の追善が行われる。
十五日 江州の浦々にて殺生を禁ずる。屋形自ら十八ヶ条の制法を定め旗頭に申し下される。
二十三日 卯の刻に箕浦城が焼亡する。
二十四日 屋形の伯父箕作定頼が病気のため、屋形が箕作城に移られる。御一門、旗頭等が箕作城へ参る。
八月
二十一日 屋形の祖父龍光院殿の三十三年忌の追善を行う。来年八月二十一日が三十三年忌に当たるのであるが、屋形後見定頼が病気のため今年行われる。今月十一日から今日まで万部の読経が行われ、浅井下野守祐政がこれを奉行する。
二十八日 南禅寺の本堂から光るものが飛び出して賀茂神社内に入る。非常に不吉な事だといわれる。
九月
九日 屋形の伯父定頼が病気のため、佐々木神社にて護摩が焚かれる。
十五日 屋形は藤堂角内左衛門尉孝光を観音寺城に召し出し内々のことを申し付けて、尾張国の援軍に遣わされる。
十六日 尾州の織田上総介信長が同国海津において織田大和守と合戦し、勝利する。
二十四日 片桐土佐守氏行入道道法死去。享年九十三歳。
十月
十一日 青山左近右衛門尉実貞の館から出火して、酉の刻までに観音寺城下の侍屋敷五十二軒、寺社五ヶ所を焼失する。
二十五日 山門正覚院にて大般若経が七日間修される。これは屋形の伯父定頼の病気快癒の祈祷のためである。大般若経の読経の間、様々な不吉な事があった。
十一月
四日 定頼が病気のため、将軍家より上使として上野中務大輔が江東に来る。
十日 洛内の六角の館が落雷のために炎上する。非常に不吉な兆候だと噂される。
十五日 定頼が病気のため、伊勢、住吉両社へ代参として後藤、進藤の両籐を遣わされる。今日江東より出発する。この定頼という人は屋形の伯父であり、特に前屋形氏綱が逝去した後当屋形が幼少だったため数年の間後見職を務めた。このために屋形が実父のように慕われているのである。
二十四日 比良山の愛宕社にて毎日七座の護摩を今日から七日間焚く。奉行は片桐民部少輔であり、これは定頼の病気回復を祈るためである。
十二月
二日 細川晴元が定頼の病気の見舞いに江東に来る。この他にも北陸道の面々で遠国の者は使節を立て、近国の者は一人残らず江東に来る。これは定頼の長年にわたる信義仁勇のためであるという。
五日 箕作城と観音寺城の間で毎日子の刻に数十人の人が一斉に泣き喚くような音がする。その他にも毎晩和田山城から光るものが飛び出て箕作城と観音寺城に入る。
十五日 定頼の息子義賢が佐々木神社にて大神楽を行うが、鈴の音がせず、これは不吉な事である。江北、江南、江西の御一門、旗頭達が残らず江東に集まる。ただし国境の面々は任地を空けられないので番の交替を請い、奉行の面々は出仕せず国中を回る。近国の旗下の国々には目加多、青地の両名を遣わして、城主達が江東に来れるように交替させる。
二十一日 将軍家から箕作の館へ上使が遣わされる。
巻第四下・完