天文十四年(乙巳)
一月
一日 本日より五日まで例年通り慣例行事が行われる。
十五日 御旗の祝儀を行う。今年から進藤山城守秀盛が御旗の櫃を御国の間の床に飾る。本日午の刻に、屋形、箕作定頼、八幡山義昌並に江州四十六人の旗頭の面々が当国八幡宮に参拝する。
十六日 佐々木神社に参詣される。
二十日 屋形と御一門が上洛される。屋形が在京される間、後藤但馬守と蒲生忠兵衛尉氏高が観音寺城に在番する。
二月
十三日 畠山修理大夫義忠が江東に来て竹生島に参詣する。その後観音寺城に参る。
十八日 国中で疱瘡がはやり貴賎を問わずたくさんの人が死ぬ。このため将軍は各国の守護に、それぞれの国において大般若経を唱えるよう仰せ付けられる。江州では江西の山門安楽院、江東の常楽寺、江北の大福寺、江南の石山寺の四ヶ所で読経を行う。
二十日 四ヶ所で読経を行っている僧の糧米として一寺につき一千石与えるよう申し付けられる。また経中の奉行等を一寺に二人ずつ仰せ付けられる。北に浅井下野守、西に和田兵部少輔、南に山岡河内守、東に後藤但馬守をそれぞれ遣わされる。
三月
四日 将軍の若君(後の義輝公)が疱瘡を患ったため、近国の大名たちが上洛する。屋形も今日上洛される。
五日 将軍家の次男(後の義昭公)も同じく疱瘡にかかる。
十九日 屋形と御一門が江東に帰城される。
二十四日 坂本より使者が来て告げるには、若い公家共が山門南泉坊の法印とそこにいた僧九人を殺害したので現地の門徒がこの悪徒共を召し捕らえた。速やかに検使を派遣し事件を糾明して将軍家に訴えていただきたいということである。
四月
五日 土岐範頼から使節が来る。それによると、土岐家の家来たちが斎藤山城守に通じて濃州大桑城を攻めることに決し、先月二十日より国内二つに割れて合戦に及んでいるので加勢を願いたいということである。元々斎藤は土岐が取り立てた者である。屋形は、土岐が自国の家来を敵としているのは土岐の制法が長年に亘って乱れているからであると仰せになる。加勢の儀は箕作義賢に仰せ付けられる。
二十日 大きな雹が降る。田畑の苗に被害があり、鳥や獣が撃たれて死ぬ。雹の大きさは大栗ほどもあった。
二十五日 申の刻に大地震があり、禁裏や将軍御所で多数の殿門が壊れる。江州観音寺城でも後方の石垣が三百八十間に亘り崩れる。
五月
五日 佐々木神社にて祭礼があり、屋形と御一門が参詣される。今年から各郡より出す騎馬衆を一郡あたり二十騎ずつ増やされる。
十日 将軍家の三男竹王丸が三歳にて死去する。このため屋形が上洛される。
十五日 午の刻に地震がある。
十七日 強風が吹き荒れ、雷鳴が轟く。このため観音寺城の西の櫓が倒れる。
二十五日 白髭神社が鳴動したと、その神職権少輔が観音寺城へ申し上げる。
六月
四日 植村丹後守実頼を奉行として勢多の橋を修築する。
十二日 赤松一徳斎が浪人となって江州に来る。屋形は高嶋郡中高の庄を与え、召し抱えられる。
二十四日 三井寺勧学院の尊久法印が落雷のため亡くなる。
二十八日 志賀郡堅田の浮見堂を修築する。この堂にある千躰仏は恵心僧都の作であるが元弘の兵乱によって千体のうち三百五十二体が紛失した。そのため屋形は大仏師貞長に欠けた分の仏像を作らせ補充される。
七月
十日 観音寺城の大手の石垣を築く。御一門並に旗頭の面々は寸法を測り、取り寄せる。総奉行は澤田兵部少輔忠俊である。
十五日 屋形が堅田浮見堂にお出でになる。
二十一日 野洲幸津川の新河大明神を修築する。
二十二日 本日より屋形の父雲光寺殿の追善が行われる。これは氏綱公のことである。今年が二十八年目にあたり、忌日は今月九日である。屋形が上洛されていたため本日より行われる。
二十五日 恵心院の僧正が死去する。この人は屋形の一族であるので、今日屋形が山門に登られる。
八月
一日 京都より上使として上野晴永が江東に参る。将軍が申されるには、諸国においてその国境を検め、照覧できるように絵図にして今年中に献上せよとのことである。江州においては、江西、江南、江東、江北の旗頭たちへ屋形が仰せ付けられる。
十日 江北の駒井志摩守実政が死去する。後嗣がいないため高木義清の次男に駒井の姓を名乗らせ、その城を与えられる。
十五日 屋形が拾遺集をご覧になっていると定家卿の歌に
夢かとも里の名のみや残るらん雪もあとなき小野の浅茅生 |
というものがあった。この歌は比叡山のふもとの惟喬親王の旧跡を詠んだものであるという記述をご覧になって、志賀郡の旗頭和田中務大夫貞綱を召し出してお尋ねになったところ山門横川の下に小野という小村があり、ここに惟喬親王を小野明神として崇める社があるということである。屋形は、今まで知らなかったと仰せになりこの宮を造営される。さらに
いささらはふりにしあとを改めて後の形見に小野の神かき |
と一首を詠んで納められる。この宮の建立に際しこと細かく由緒などを記される。だいたいいつも屋形は旧跡とお聞きになると、それを慕って旧例をお調べになる。
九月
三日 細川修理大夫晴元より使節があり、竹生島参詣の儀を申し上げる。屋形は軍船三艘を遣わされる。
十日 進藤伊賀守藤原貞方死去。享年七十三歳。
十五日 屋形が岩倉山で猪狩りをされる。そのとき山々に多くの岩穴があるのをご覧になり道珠庵羅門子という唐人を召し出して、大唐にもこのようなものがあるかと尋ねられる。羅門子は古記にもこのようなことは載っていないと申し上げる。屋形は、日本にはこのようなことが多くあると仰せになり、その後記録所の面々を召し出してこの穴の事を尋ねられる。植村入道覚一軒が次のように申し上げる。旧記によると武烈天皇二年に天から火の雨が降ったため、諸国では石室を作ってこれを避けた。武烈天皇は悪王で古今に例がないほど民を苦しめたのでこのようになったという。またその後三十四代天皇推古朝九年辛酉五月十三日午の刻に火の雨が降り川面にまで火が溢れたという。屋形はこの入道は学識者であるとして長村の里を与えられる。
二十五日 屋形が志賀郡衣川の天神に参詣される。
二十八日 大洪水となり晦日まで続く。琵琶湖の水は八合にまで満ちる。
十月
四日 栗本にて天王を祀った宮を造営する。奉行は山田左衛門尉秀資である。屋形が今日野寺の城へお出でになる。
十四日 野洲郡津田の庄にて今年から茶を作るよう仰せ付けられる。田中主馬助忠秀がこれを奉行する。江州一国の茶の実を集め、これより江州国一の産地となる。
二十一日 志賀山城守頼資が白石の硯を献上する。この硯は木工頭道風の作という。年号や由来が彫り付けてあり、屋形はこれを非常に大切にされる。
十一月
九日 光るものが伊吹山から比良山の西の峰に飛ぶ。
十三日 香津の浦にて四尺三寸の長太刀が引き上げられ、観音寺城へ献上される。太刀には柏原弥三郎為永がこれを所持す、治承四年、と銘打ってあったので、屋形はこの太刀を柏原美作守時長に与えられる。時長の家に伝わる宝というのはこれである。
二十日 将軍の嫡男義輝公が江東にお越しになる。観音寺城に七日間滞留され、多賀明神に参詣される。義輝公は今年十歳であるが、多賀にて天下の安全をお守りになっておられる神様であれば都へお呼び奉らんと仰せになるのを皆微笑ましく思う。
二十九日 三井の大光院尭尊が観音寺城に参り、真言の秘法を説く。
十二月
六日 伊吹山から一頭三足の鹿が観音寺城へ献上される。屋形は黒田市正清忠を遣わしてこれを将軍家に献上される。
十五日 佐保城代目加多備中守貞房が死去する。享年五十一歳。貞房には子供がいないので進藤山城守の三男孫三郎を養子として名字を相続させる。
天文十五年(丙午)
一月
一日 大雪が降り二日酉の刻に止む。積雪は三尺五寸に及ぶ。
三日 大雨が降る。
五日 本日まで旗頭の面々が観音寺城に出仕する。慣例行事は例年通り執り行われ、記すに及ばない。
十一日 午の刻に地震があり公方の御所の東櫓が倒れる。
十五日 午の刻に屋形が江州八幡宮へ参詣される。七手組の衆が供奉する。箕作定頼、八幡山義昌も同刻に参詣する。未の刻に京極壹岐守高峯、永原、種村の御一門が参詣する。
十六日 昨日の面々が佐々木神社に参詣する。
十七日 勢州の梅戸殿(屋形の伯父に当たる)が病気のため、使節として伊庭高資を勢州へ遣わされる。
二十五日 屋形が箕作定頼の館へお出でになる。義賢は大いに喜び、春の馬場始めと称して名馬五頭を引き出して場内の馬場にて責馬を行う。
・ 四本懸 |
平井采女正高末 |
|
・ 祝乗 |
澤田丹後守忠高 |
|
・ 皆柳 |
和田加介 |
|
・ 六本懸 |
戸田半内左衛門尉 |
|
・ 鶴重羽 |
志賀左内左衛門尉忠国 |
以上の五人は義賢の配下に属し、乗馬に優れた面々である。屋形はこの五人に太刀一振りずつを与えられる。
二月
三日 毎月六斎日に事を慎むことを貞治年間からの度々の兵乱のため怠ってきたが、今月からは行うように旗頭の面々へ仰せ付けられる。これは第三十一代天皇敏達がその七年に詔を出された事に端を発する。委細は古記にあるので記すに及ばない。
十五日 江州威徳院にて如来涅槃会を行う。浅井下野守祐政がこれを奉行する。
二十二日 将軍が体調を崩されたため、五畿七道の霊社へ祈祷の使者を立てられる。
三月
三日 佐々木神社にて例年通り祭礼がある。御一門の面々が観音寺城に集まり、曲水の宴が催される。
六日 乾の方角に青白の雲が出る。
十九日 午の刻に栗ほどもある大きな雹が降る。江州各地で多数の小鳥が撃たれて死ぬ。近代にない出来事である。
二十五日 志賀郡建福寺が大破し、進藤右近大夫が観音寺城へこれを報告する。屋形は進藤へ修築するよう申し付けられる。
四月
一日 将軍家が上賀茂に参詣される。今年在京している大名は残らず供奉に加わり、意を尽くし美を尽くす。
九日 江州坂本の両社、大明神の宮が震動したと四至内方より観音寺城へ報告が来る。
十三日 今日は中の申日に当たるので日吉にて祭礼が行われる。屋形は代参として今村掃部頭高名を遣わされるが、今村と神輿の駕輿丁との間で口論になる。このとき今村の家来が奮戦し神人三十一人が手傷を負う。このため山門より今村の身柄を引き渡すよう申し越すが、屋形は同意されず今村を尾州斯波の元へ逃がされる。山門は激怒し将軍家に訴えるが、将軍家は屋形の舅であるので山門の申し分をお聞きにならない。そこでまた天皇へ訴えるが皇家の力も衰えており、これは武の政務でもあるので諦め、昔の威勢盛んであった世を偲ぶ。
二十九日 関東へ派遣していた使節が今日帰国する。それによると今月二十四日鎌倉公方持氏から五代の子孫古河晴氏と管領上杉憲政が手を組み武州河越城にて小田原北条氏康と合戦に及んだが、敗北したという事である。この北条とは鎌倉北条ではない。元祖は伊勢新十郎という者で正しくは氏茂というが、この人が関東に住み北条の家を起こす。現在の氏康は新九郎の五代の子孫である。詳しいことは勢州国司家の日記にある。
五月
五日 佐々木神社にて祭礼があり、例年よりも美を尽くしたものとなる。本日神前の馬場殿にて馬揃えが行われる。屋形、箕作殿、八幡山等御一門の他、旗頭の面々も残らず参詣する。
十三日 伊吹山より一体二頭の白狐が観音寺城に献上される。前代未聞の事であるので、これを将軍家に献上される。これはその後天皇に献上される。
十五日 甲州武田より小原十郎左衛門という使節が参り、屋形が対面される。甲州から申してきた内容は知らないので記さない。
十七日 田中坊と金全坊が喧嘩になり田中坊が死亡する。金全坊は山門に入ったと西養坊の方より観音寺城へ申し上げる。この者達は山徒の侍二十八人の三人である。
二十日 山中礒貝が高田丸という太刀を屋形へ献上する。この太刀は赤松満祐が重代の家宝として相伝したものであったが近年その末裔が流人になったので礒貝に与えられたものである。
二十一日 大原家の次男竹若丸が急死する。この者は屋形の一族である。
二十四日 将軍家が畠山修理大夫義忠を代参として愛宕山へ遣わされる。畠山が下向し将軍の館に向かっていると下松の辺りで一人の女が忽然と現れる。そして畠山の乗騎の轡をとったところたちまち馬が死に畠山は落馬する。家来が慌てているとその女は一笑して消え失せる。これは天狗の仕業であると世間で語り伝えられる不思議な出来事である。
六月
七日 江州威徳院において佐々木家第十五代の嫡宗雪江崇永公の追善が行われる。今年で百六十余年になるのに何故今頃行われたのか屋形の真意は分からない。
十四日 将軍家が祇園会を見物される。大名小名は四條の町屋に桟敷を設置して見物する。
十九日 天皇病気のため伊勢へ奉幣使を立てられる。本日江州勾の宿に勅使三條中納言が到着される。
二十九日 屋形は旗頭の面々を観音寺城に召集され、管轄の国々において双六の勝負を禁制とする旨を仰せ付けられる。これは将軍家より各国主へ申し付けられたことである。
七月
十日 江州江田摩村にて二頭一身の子供が生まれる。
十四日 野洲郡井ノ口にて醴泉が湧き出したと乾久内が申し上げる。
十五日 屋形が御忍びで井ノ口へお出でになり醴泉をご覧になる。
八月
十日 高嶋の新庄伊賀守貞光が死去する。享年四十九歳。
十四日 貞光死去によりその家督を次男新庄采女正貞兼に相続させる。本日その旨を記した證文を下される。
二十一日 龍光院にて高頼公二十七回忌の追善法要が行われる。七日前から今日までに万部の読経を行う。奉行は浅井下野守祐政、進藤山城守等である。
二十三日 酉の刻、西の空に黄雲が立ちこの世の草木や人の顔が皆黄色くなる。このため天皇家において歌を詠まれる。
九月
八日 屋形と箕作定頼、八幡山義昌が上洛する。
二十九日 屋形が江東に帰城される。
十月
十日 屋形が長命寺にてお遊びになる。激しい降雨のため観音院に入られ、翌十一日に入山し当家第九代の祖秀義公の廟に参られる。
十九日 大洪水のため箕浦を囲む塀が倒れる。
十一月
三日 江州衣川の天神が鳴動したと全角坊の方より観音寺城へ報告がある。
十五日 関東へ派遣していた使節三光坊主膳正が江州へ戻る。観音寺城へ登城し、屋形に色々と報告する。その中に今月三日甲州の武田信虎が信州上田原にて合戦し、二千の兵で敵五千に勝利したというものがあった。
十二月
十三日 箕作義賢が野村新五郎を手討ちにする。その原因は分からない。
二十日 将軍家が上野左近大夫晴久を江州竹生島へ遣わされる。坊中にて争論があったため屋形は戸田角内左衛門を竹生島へ使わされる。
二十四日 屋形が八幡山義昌の館にお出でになる。義昌は屋形の弟である。
天文十六年(丁未)
一月
二日 屋形が病気のため、旗頭等の挨拶の儀は行われない。
十五日 一日から挨拶等の慣例行事が行われなかったので、今日旗頭の面々の年始の礼をお受けになる。
十八日 大雨が降り後に雪に変わる。翌十九日午の刻まで降り続き、積雪は三尺七、八寸にも及ぶ。近頃江州ではなかったほどの大雨、大雪である。
二十四日 屋形が上洛される。翌日御一門が上洛する。高嶋の清頼が観音寺城へ一致論という軍書を献上する。
二十九日 屋形と御一門が江州に帰国する。
二月
四日 大地震のため山門横川の中堂が倒壊する。この他洛外の寺社なども倒壊する。
五日 将軍家の新しい御所の普請が完了し、今日午の刻に義輝公が移られる。
六日 屋形をはじめ各国の大名が上洛する。これは十七日に将軍家の嫡男義輝公が将軍に補任されるためである。
七日 江州石山寺の住僧覚円法印が天狗によって殺される。
十七日 辰の刻に将軍義晴公の嫡男義輝公が征夷将軍に任ぜられる。
十八日 大名小名がその分限に応じて定められた通りに太刀や馬を献上する。屋形は家宝の近江万歳という国次作の太刀と一足という体長八寸の芦毛馬を献上される。この度屋形は近江宰相従三位に補任され、北陸道の管領職を与えられる。当家にとって真に名誉な事である。
二月
四日 江州大津の町で空中から小石が落ちてくる。前代未聞のことである。
二十三日 越前の朝倉弾正忠から使節が参り、越前国の杉原紙など二十箱を屋形へ進上する。二十箱のうち三箱に黄金がつめられており、屋形はこれを旗頭の面々に与えられる。朝倉の心立てでは人の心は分かるまいと人々は語り合う。
三月
三日 佐々木神社にて祭礼が行われ、屋形と定頼、義賢、八幡山義昌その他の御一門が残らず参拝する。今日屋形の御曹司龍丸殿が五歳にて元服される。佐々木の宝前で旗頭の面々がそれぞれ太刀一振りを献上する。
二十一日 夜、月の四方に光の筋ができる。その後左右に長さ一丈ほどの光の筋が現れ、朝まで残る。
四月
二日 本日より八日まで降雨のため琵琶湖の水が八合まで満ち、浦々にて水没する里が千五百にのぼる。
二十一日 酉の刻に地震がある。
五月
五日 佐々木神社にて例年のように祭礼があり、馬場において国中の馬揃えを行う。屋形は病気のため参詣されず、御曹司は参詣する。
十一日 屋形の伯父である前管領定頼が上洛する。
十九日 江州龍光寺を造営し、今日入仏する。奉行は高田縫殿介常久である。
六月
三日 妙教の尼御前が九十八歳にて死去する。この人は屋形の曾祖母である。東光寺において葬儀を行う。
十四日 午の刻に空が俄かに曇り雹が降る。草木は枯れ、五穀は実らず、収穫量の半分を失う。
二十五日 将軍が北野天神へ参詣される。近習の者のみが供奉する。将軍はこの宮の修築を仰せ付けられる。
七月
九日 雲光寺修築を山中宮内少輔実成に仰せ付けられる。この寺は屋形の父氏綱公の寺であり今年で建立より三十年になる。破損の箇所が多いためこの儀となる。
十五日 伊豆北条家の居城がある小田原が先月二十三日落雷のため城中から町に至るまで一軒も残らず焼失したと馬渕入道が観音寺城へ申し上げる。馬渕は北条家家臣松田某という者の縁者であるためこのような報告が入った次第である。
八月
十三日 屋形が定頼、義賢、八幡山義昌と同船にて竹生島へ渡られる。十六日に帰城される。
二十五日 定頼の息女を美濃国主土岐殿へ嫁がせる。女佐の臣として池田刑部左衛門尉冬政を遣わされる。屋形は定頼の息女へ嫁入り道具一式を残らず贈られる。
九月
十一日 屋形が大原中務太輔高保の館へお出でになる。この人は屋形の伯父であり、大原家の家督を継ぐ。屋形は三日間逗留される。
二十二日 大津四位宮大明神の宮から光るものが飛び出し、三井寺光浄院の棟に落ちて寺門が炎上する。
二十八日 将軍が山州梅宮に参詣される。近習のみがこれに供奉する。
十月
二日 各国の大名が上洛し、屋形も今日上洛される。これは前将軍義晴公が病気を患ったためである。十に一しか助かる見込みはないという様子なので、上野因幡守頼武が伊勢神宮へ参る。
十一日 大御所病気のため今日から相国寺において大般若経を始める。
二十九日 公方の病気が治り健康を回復する。これを祝って下松の周りに三町四方を囲い、中に桟敷を設置して能を催し、国主の面々に観覧させられる。将軍父子もお出でになり、京中の民衆が集まり、その数は近代に例のない多さであった。
十一月
十日 山州で今宮の造営が始まる。近年疫病が畿内において流行したくさんの死者が出る。このため公方は内々に祈願される事があるのか以前にも増して多数の宮を造営される。この宮に祀られるのは疫神である。というのは第六十六代天皇一條院の御世に京中で宮内に至るまで疫病が流行し多数の死者を出したとき、現在の紫野に疫神を勧請したという古例があるからである。
十九日 百済寺の妙伝法印が天狗によって殺害される。由来が多いため後に詳しく記す。
十二月
一日 畠山修理大夫義忠が昌虎首座という僧を朝鮮国へ派遣するよう命じられる。この僧は今日将軍家より一通の書状を受け取り、これを持って朝鮮に向かう。
二十三日 御影堂から出火し、下京で大火事になる。
天文十七年(戊申)
一月
一日 本日から五日まで天候は晴れ、世の中は平穏である。
十一日 三上大照寺が落雷のため焼亡する。
二十日 光るものが東から西へ飛ぶ。夜中であるのにまるで昼のように明るくなる。
二月
十日 屋形は志賀郡仰木に多田院を造営するよう同郡雄琴城主和田中書貞綱に仰せ付けられる。この地は源満仲が出家し満慶と号した際天台山の近くに住むため居所を定めた旧跡である。この旧記によれば貞元二年丁丑七月十一日住まいを摂津国多田から江州志賀郡仰木の里に移し、同年八月十五日横川恵心院において出家、法名を満慶と号する。そして毎月六度ずつ恵心院に通い説法を聞きついに天台宗の奥義を会得する。長徳三年丁酉八月二十七日に死去し、多田院と諡号される。遺骨は摂津国多田に埋葬されたという。以下省略する。屋形は過去の時代を偲ばれたくさんの宮を造営される。このことが天皇の耳に入り今月十五日に勅書を下される。屋形はこれを宮に奉納される。理由は長くなるので省略する。
三月
三日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。
十二日 現将軍の弟が今日南都に入り、大乗院門主と名乗る。
二十四日 現将軍の妹君が若州武田大膳大夫義統の元へ輿入れされる。この姫君は屋形の奥方と同母姉妹であるので、江州を通り若州へ行かれる。婚礼の様子は長いので省略する。
十五日 将軍が若州武田へ偏諱を賜う。
二十七日 石田寺上人尊覚が死去する。この人は屋形の一族である。
四月
四日 上京で火事があり、町屋四十二軒、侍屋敷五十四軒が焼失する。
十七日 妙心寺の一円和尚が死去する。この人は屋形の一族である。
二十一日 朝鮮国より三目の馬が進上され、将軍がご覧になる。
五月
五日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。同日山州白川の里に両面の子供が生まれる。また四條河原にて畠山、三好の両家来の間で石打合いが起こり、多くの死者を出す。このため京中は騒然となる。
二十日 織田上総介信長より使節が来る。屋形の亡父氏綱公は信長の父備後守信秀の代から二代に亘り今川家との合戦には毎度江州から加勢の軍を送られた。そこで両家の友好の証として、江州旗頭の浅井備前守長政と信長の妹を縁組させようと思うとのことである。屋形はこの申し出に承諾の旨返事される。
六月
一日 本日から将軍家の命により日本全国の大小名御家人等の系図が改められる。これは後に等持院に納められる。またこのとき、将軍に仕えておらず先祖が高家である面々を改められ、そのうち四十三人を北山の番衆に加えられる。江州からは千葉刑部少輔を取り立てられる。この人の詳細は以前の日記に記してある。
二十六日 高嶋の局が死去する。この人は屋形の乳母であったので屋形は非常に悲しまれる。威徳院にて葬儀を行う。
七月
九日 屋形が雲光寺に参られる。この寺は屋形の父氏綱公の廟所である。
十一日 箕作定頼が病気のため屋形は定頼の館へお出でになる。この人は屋形の伯父であり、屋形が幼少の頃は後見人として管領職を預かる。このため屋形は父氏綱公に対するのと同じように定頼を尊敬され、江州の旗頭たちも屋形と同じように貴ぶ。
二十四日 定頼の病気が少し快方に向かったので屋形が今日本城に帰城される。城の大手にて訴状を捧げるものがあり、屋形が馬を停めてこの書状をご覧になったところ、新田氏の正統義重の二十二代の子孫新田刑部少輔義幸の子三郎兵衛尉という者であった。この者は一族によって国を追い出され、当家への仕官を望み訴え出たと申し、代々の系図を差し出して涙を流す。屋形は近年の戦乱のために高家が絶えることを殊の外残念に思われるので情けをかけられて江州羽根田の庄を与えられる。後に新田新五郎と呼ばれるのはこの人である。
八月
四日 将軍の弟が鹿苑寺に入寺する。
二十一日 屋形と定頼の嫡男義賢並に実弟義昌が龍光寺に参り、この寺の和尚に説法を受ける。義賢は和尚と三界論について問答するが、長いので記さない。この寺は屋形の曽祖父高頼公の廟所であり、今日は命日に当たるため参られたのであろう。
九月
五日 高嶋の新庄伊賀守が死去する。三代に亘り功があったため一城を与えられた家柄で、武において才能があった人である。
二十日 高山五郎兵衛尉、種村大蔵の両家来が観音寺城西の下馬にて喧嘩になり、双方で死者四十一人を出す。種村と高山が再び一戦に及ぼうとしていると耳にして、屋形は両名を落ち着かせその居城を替えられる。高山を志賀郡仰木城へ、種村を甲賀の城へ移される。
十月
九日 内々の話し合いがあり、屋形の次男龍水丸殿が若州武田義統の養子に入ることになり、今日江東から若州へ移られる。馬杉権守実宗、黒田十内左衛門尉重国の両名を付き添わせる。
二十三日 卯の刻から酉の刻にかけて霰が降り一尺余積る。まるで雪のようであり、近年江州ではなかったことである。寒さは非常に厳しいものであった。
十一月
九日 京極承観の娘が尾州奥田城主織田左馬助敏宗の元へ嫁ぐ。この人は織田備後守信秀の伯父である。
二十日 細川修理大夫晴元が江東観音寺城に来て多賀に参詣する。屋形は能登栗毛という名馬を贈られる。
十二月
四日 京極の三男乙法師丸が九歳で死亡する。この者は屋形の養子であり、屋形は非常に残念に思われる。
十九日 強風のため江州の山々では多くの大木が倒れる。長光寺の本堂が倒壊する。
巻第四上・完