天文十年(辛丑)
一月
一日 本日から十五日まで例年のように慣例行事がとり行われる。内容は日記に載せるには及ばない。
十八日 竹生島の造営をする事になったので本日後藤但馬守を竹生島へ派遣して旧例を調べさせる。先例に倣って造営するようにとのことである。
二十二日 天台座主慈鎮和尚が自詠の歌を書き付けたという短冊を和田源内兵衛尉貞政が屋形に献上する。これは次のような歌である。
わしの山有明の月はめくり来てわかたつそまのふもとにそ住む |
屋形は非常にこれを愛されるが、これは山門にて重宝とするべきであると思われて正覚僧正へ贈られる。そこで僧正はこれを山上の伝教大師の廟に納めたということである。
二十四日 去年勧請した比良の愛宕へ本日屋形が参詣される。箕作定頼、義賢父子と同船して木戸の城に移られた後入山される。二十五日に江東に帰城される。
二月
八日 八幡宮造営の儀を仰せ付けられる。進藤伊賀守貞方、澤田兵部少輔重宗がこれを奉行する。この八幡宮には応神天皇が在位六年目に江州に行幸された際に詠まれた歌を翌七年に還幸される時に自筆の巻物として奉納された。そして当家のご先祖佐々木大明神が天暦十年五月五日に初めて当国に住居を定めた時からこの八幡宮を氏神として崇め奉ってきた。近江八幡とはこのことである。委細はこの八幡宮の伝記に記してある。
十七日 大津に三面一体の子供が生まれる。その泣き声は鹿のようであり、前代未聞の事である。
二十一日 蒲生の川に大きさ二尺四方で丸くて鳥の卵に似ているものが発見される。屋形は記録所の面々を呼び、古い年記を調べさせたところ、その昔推古天皇二十七年三月四日に近江国蒲生の川で形は人の顔のようで目鼻がないものが発見されたと古記にあった。屋形はこれを聞かれ、この度も詳しく記しておくようにと命じられる。
三月
三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形は病気のため参拝されず。御一門の面々は参拝し、同日観音寺城にて曲水の宴が催される。
十日 西近江の鼠が東近江に移る。屋形が古記を調べられたところ、天智天皇五年に京の鼠が江州に移り、ついに翌六年に志賀郡大津に都を移し住まわれたとあった。屋形は非常に用心される。
二十四日 伊吹山より三頭一身の亀が献上される。無極という易者にこれを占わせたところ、今年のうちに御曹子が誕生し、後に江州は三つに割れ嫡子と庶子の争いが起こるだろうと述べる。屋形はそのような事にはなるまいと気にもかけられないが、国人は非常に心配する。
四月
八日 巳の刻、屋形の奥方が出産される。安産であり若君が誕生する。この母親は将軍義晴公の長女である。
九日 江州の御一門と旗頭四十六人がそれぞれ太刀一振りを御曹子に献上する。
十日 本日京極高秀より京極家重代の虎御前という太刀が御曹子に献上される。京極氏は昨日も御一門の一人として太刀一振りを献上し、今日もこのように献上する。
十四日 御曹子の御七夜のため今日佐々木神社に参詣する。供奉の様子は多いため日記には載せない。
十六日 屋形が御曹子とともに八幡宮へ参詣される。宮中にて御曹子の名前をつけるため、目賀多が宮中に入り御曹子の髪をかきあげる。八幡宮の祝である権守頼武が御幣を持ってきて御曹子の頭上に捧げ、即座に飛龍御曹子と名付け祝い奉る。佐々木家に家嫡として生まれた人は皆佐々木大明神の生まれかわりであるという託宣があるので代々佐々木神社にて家嫡の御曹子は名前をつけてきたが、今回先例に違い八幡宮で名前をつけたことはいかがなものであろうかと国人たちは非常に心配する。
二十日 公方は御曹子の誕生を悦ばれ、上野丹後守晴時を祝いの使者として観音寺城に遣わされる。屋形の奥方に対し綾五百巻、白銀千枚と公方家に代々伝わる延命久保散という薬を贈られる。また次のような歌を詠まれる。
まちへたる孫には今そ近江ぢの国もゆたかに限りあらしな |
御曹子には万歳という太刀を与えられる。
二十八日 雲州の尼子左衛門督が須佐兵部少輔光綱を遣わしてこの度の御曹子誕生を祝い、三澤丸という太刀と伯耆栗毛という名馬を屋形に献上する。
五月
二日 高嶋の横山伊予入道久徳が死去する。享年九十七歳。この入道は佐々木家五代に仕えた老将であるので屋形は非常に悲しまれる。
五日 佐々木神社で祭礼が行われる。今年は屋形の奥方より金銀の鉾が渡され、五百人の童子がそれぞれ金の籠を担ぎ練り歩く。これは当家御曹子誕生の祈願が成就したためと思われる。
七日 土山の田村大明神が大破する。そこでこの宮の神主である権太夫重治が宮の由来を記した文書を作り、進藤兵部少輔を通じて今日屋形に申し上げる。屋形はこれをご覧になって進藤に修築を仰せ付けられる。社領として土山の庄を寄付される。
十日 土山谷の堂、蟹の石堂を建てられる。旧跡を細かいところまで詳しく調べて建てられる。蟹の由来はたくさんあり日記には載せない。
十五日 当家のご先祖である敦実親王が自ら彫った法体の八幡菩薩の彫像は佐々木家代々の重宝であるが、屋形は何と思われたのか今日この彫像を八幡宮に納められる。この彫像は延喜の勅定によって敦実親王が作られたもので、法体に日輪を戴いた一尺二寸の八幡菩薩像である。
二十一日 浅井郡中枝の庄に慈恵僧正の御影堂を建立される。浅井下野守祐政がこれを奉行する。この僧正の母は僧正を身ごもっているとき、海中に座り天を仰いだ際日光が懐中に入る夢を見て生んだという。これによって慈恵はまさしく日天子の再誕であるといわれる。山門では大師と呼ばれる。今回勅意の儀はない。慈恵は江州浅井郡物氏の女の子供である。
二十六日 駒井伊賀守貞勝死去。享年四十九歳。形見の品として駒井家の蜘太刀という太刀が屋形に献上される。義実公は駒井の死を非常に惜しまれる。
六月
二日 屋形が上洛される。公方が病気のため五奉行以外の者は供奉せず。十日に江東に帰国される。
二十日 今日武佐より申し上げる事があった。その内容は地中三、四尺あるいは一丈より下から朽ち果てた木の葉や枝を掘り出したので、これは希代の事であると数ヶ所掘り返してみたところいずれの場所からも同じ物が出てきたという事である。そこで献上された掘り出し物を見てみるに、黒く朽ち果てた木の葉の塊である。屋形は世にも珍しい事であるので国の古い日記を調べてみたところ以下の記述があった。景行六十年十月、天皇は病に悩まされて諸天に祈ってみたが霊験は現れなかった。そこで一覚という占者に命じて占わせたところ、当国の東に大木がありこの木が帝に強く害をなしているので速やかにこの木を退治すれば天皇の病は治るであろうと述べた。そこでこの木を伐ってみるが毎晩伐ったところが元に戻り伐採作業はついに終わる事がなかった。このため一覚を召し出して尋ねたところ一覚は、毎日伐った木屑を焼けばこの木の命脈も尽きるであろう、私はこの木に敵対している葛であり数年来この木と勢威を争ってきた、その志がこのたび天皇に向かってしまったのだと言うとかき消すように消え失せてしまった。一覚の申したように毎日木屑を焼いて作業を続けたところ、七十余日経ってついにこの大木が倒れる。この大木の枝葉は九里四方に広がり、幹の太さは数丈もあった。これによって天皇の病は完治する。そしてこの木のあった郡は栗本郡と名付けられる。この栗の木には実がつく事は無かったという。同年十一月初七日に景行天皇は崩御され、志賀郡高穴穂宮に葬られたという。屋形はこの記述をご覧になって、昔このようなことがあったのであれば栗本郡に限らず野洲、蒲生、坂田の郡にもあるはずであると掘らせたところいずれの郡からも出てきた。国人はこれをすくもと名付けて、農閑期には掘り出して使用するようになる。
七月
二日 志賀郡雄琴の里に一の宮を建立する。その昔成務天皇は景行天皇より譲位を受け、成務元年辛未正月七日に即位してこの里に住まわれた。その旧跡を調査してこのように建立される。
七日 義賢の屋形より出火して旗頭の屋敷十二軒、寺門三ヶ所を焼失する。
十日 洪水によって湖岸の里が多数水没する。
十五日 斯波義宗の死去を告げる使者が来る。
二十八日 屋形が箕作義賢、八幡山義昌とともに京極の邸に行かれる。二十九日に観音寺城へ帰城される。
八月
一日 佐々木神社で臨時の祭礼が行われる。本日公方の上使として上野豊後守晴長が江東に到着する。これは上勾御所の普請の儀を伝えるためである。
十五日 将軍義晴公が江州志賀郡上坂本に出奔される。屋形は将軍家に合力して、今月晦日に公方の上洛を実現される。供奉の様子は多いので記さない。
九月
三日 屋形が上洛される。今宵公方より上使として上野刑部大輔が六角の館に遣わされて上意を伝える。その内容は、永正八年舟岡山合戦から同十年山科合戦、大永六年坂本合戦、亨禄元年九月江州朽木合戦、そして今回の坂本合戦まで五度に亘り将軍家のために力を尽くしてきた事は真にすばらしく将軍家の喜びはひととおりでない。そこで北陸道七カ国の管領職を与え、権中納言、位三位に任ずるということであった。屋形は固く辞退されるが、任ぜられるべきであるという公方の強い意向により公方の御心に任せられる。そこで公方は禁裏に奏上されるが、天下の将軍でさえ従二位内大臣までであるのにいくら大功があるとはいえ諸侯を三位権中納言に任ずるという事は先例もなく、この儀は受けられないと断られる。しかし将軍の言い出した事であれば禁裏の口宣案がなくとも差し支えあるまいと強引に義実公に近江中納言と仰せ下される。北陸道管領職は将軍の意のままになろうともかまわないが、官位まで将軍の思いのままになってしまったと故実に通じた公家たちは嘆き悲しむ。
二十一日 公方が我意を通して禁裏のみができる叙位任官を勝手にやってしまったので諸卿が評議を行う。まず将軍の望みを叶えてこそ朝廷の政も行えるという事で今日二十一日になって勅意を下し屋形を近江権中納言に任ずる事にする。すでに望みは叶えられているのでもはやこの綸旨には用はないと将軍は三條大納言の方へ綸旨を返される。このため中納言に任ずる綸旨は江州へは着かなかった。屋形は公方の婿であり、若君はまだ幼少のため、天下を治めるに当たって公方が頼りにできるのは屋形のみであるのでこのような叙位任官となった。屋形はこれ以前は四品の宰相であったが、この官位でさえ将軍以外には現在天下に並べるものがない。もっとも将軍の婿で、数々の戦で忠義を尽くしている事を思えばこの叙任は当然であると公方家の面々は語り合ったという。
十月
十二日 屋形の伯父に当たる大原中務大輔高保の息子高方が死去する。
十九日 午の刻よりかぐわしい香りが空中に漂う。酉の刻に消える。
二十一日 大洪水が起こり、頻繁に雷が鳴る。箕作義賢の館に落雷があり殿門等多くを焼失する。落雷のために雑人七人が死亡する。
十一月
七日 高嶋の新庄伊賀守実頼と大野木加賀守秀資が所領の境界のことで争論になり、今日屋形に訴え出る。大野木方に非があると定め、争論の土地を新庄に与えられる。
十三日 高嶋八人衆より屋形に申し上げることがあり、それによると大野木秀資が土民に申し付けて新庄の所領との境に大きな堤防を築いていたが、その半分以上が新庄側にかかっていた。そこで新庄方の百姓たちがこれをやめさせようとしたところ大野木の家人が多数現れ百姓数十人に乱暴を働いた。このため新庄は居城を発ち大野木の城に攻め寄せ、今にも合戦が始まりそうである。郡内の面々が集まりとりあえず抑えているが、一刻も早く下知を下さるようにとのことである。屋形は非常に不興の面持ちで後藤十五郎(後の但馬守)を現地へ遣わし双方を観音寺城へ召し出される。十四日に大野木秀資を箕作義賢へ、新庄を池田豊後守実政にそれぞれ預けられる。
十八日 大野木秀資が切腹する。その子兵内(後の土佐守)は助命され、義賢に預けられる。
二十八日 屋形は新庄を召し出され、年来武功を立てた身に似つかわしくもなく大野木如きの罪人に踊らされ合戦に及ぶとは残念な事である、今後は落ち着いて行動するようにと仰せになり本領を安堵される。
十二月
六日 尾州の武藤左近兵衛光方が江州に参り、木村小隼人を通じて当家の扶持を蒙りたいと願い出る。屋形も異存なく本領として志賀郡に五百貫の地を与えられる。
十日 甲斐の武田大膳大夫晴信より使節があり、鷹の羽一千本を進上する。これに対し屋形は江州坂本関の兼秀が研いだ鏃一千本を贈られる。
十五日 八幡宮、佐々木神社両社で歳末の神楽が催される。浅井下野守、山岡掃部頭及びその随兵がこれを奉行する。
二十一日 今日将軍家への使節として黒田日向守忠頼を遣わされる。
二十五日 勢州の国司より田村権守という者が使節として参る。屋形は対面されず。これはかねてより心に期することがあるためである。
天文十一年(壬寅)
一月
一日 本日より十五日まで国の旗頭、重臣の面々が出仕する。その詳細は日記に載せるには及ばない。
十六日 屋形が義賢、義昌とともに佐々木神社に参拝される。慣例行事も例年のように行われる。
十七日 旗頭四十六人が佐々木神社に参拝する。
十九日 国内の沙門、祝たちが例年のように出仕する。屋形は歌仙の間にて対面され、出世の僧には盃を与えられる。
二十四日 屋形が比良の愛宕へ参詣される。供奉する面々は旗頭八人で皆近習の宿老ばかりである。
二十九日 屋形が上洛される。義賢、義昌は同日午の刻に出発する。
二月
十日 屋形が箕作義賢、八幡山義昌と帰城される。
十四日 永原左近太夫綱賢が死去する。この者は当家の庶流であり、屋形が特に目をかけておられた人である。そのため天文五年より将軍の近習に召抱えられた。
十九日 屋形は当国長命寺が大破したとお聞きになり、今日は当家のご先祖である第九代源三秀義公の忌日であるので完全に再建するように戸田石見守頼秀、津田藤五郎成宗両名に仰せ付けられる。佐々木第九代の嫡流源秀義は寿永三年八月十九日、伊豆国畠山進士家助、兵衛尉家能、家清入道らが平家に味方して立て篭もるところへ息子義清を伴い平氏追討のため攻めかかる。そして奮戦し九十余人を討ち取るも老齢のため秀義は討たれる。このとき秀義は七十三歳である。源右兵衛佐頼朝は非常にその死を悲しまれ、源氏平氏を合わせ第一の勲功に定められる。そして秀義に対しその死後近江権守に任命し、自ら長命寺殿という法号を贈られる。さらに近江国の岡嶋という島山に一宇の寺を建立し、長命寺と名付けて崇められる。これによって岡嶋を長命寺と呼ぶようになったとこの寺の記録にある。この秀義公より佐々木家は次第に繁栄し、現在屋形に至るまでにいくつもの家に別れおよそ八十余家を興す。
三月
三日 旗頭の面々が例年のように佐々木神社の祭礼に参る。今夕片桐若狭守実時が屋形を自分の館に招き、夜になるまで御一門を集めて曲水の宴を催す。屋形は非常に悦ばれ、片桐を召して、そなたは長年医術に興味を抱いていると聞いているが私が炎帝の絵を描いて与えようと仰せになって遊ばれる。その画讃にはこう書かれる。
炎帝之図并讃 無嘗自知 百草滋味 植穀興医 偉哉聖慈 |
片桐はこれを頂戴してその喜ぶ様はひととおりでなく、箕浦道休という儒者に詳しく裏書をさせて家宝とする。
十一日 若州の粟屋民部大輔頼宗より使節があり、夢窓国師が尊氏将軍へ贈った自筆の十三ヶ条の教訓一巻を献上する。その巻には次のように書かれている。
一 慈悲正直思案堪忍和合為城油断為敵事 一 尊敬佛神三宝修造寺社可守家運事 一 随録施物知人間欲可恐天道事 一 不乱主君父母礼義可存忠孝之志事 一 学文書忍賢仁可入忠言正路事 一 専合戦軍法以夜継日弓馬道可嗜事 一 不隔貴賎上下可愛衆生輩事 一 書札礼義巳下己不存者可敬他人事 一 忘自恩不忘他恩不成慢心思事 一 讒言思惟両舌科疑可任天命事 一 憐民百姓愁糺臣下猥可致憲法沙汰事 一 弁生死無常因果道理可念後生菩提事 一 於貪欲淫欲殺生欲衣食欲勝負欲見聞欲等楽可行中道事 |
屋形はこの巻をご覧になって、まさにこの僧に対面しているような心地がすると仰せになりこの巻を非常に大切にしまわれる。また夢窓国師は伝え聞いていたよりもすばらしい人であり尊氏卿が尊敬されるのももっともである、当時このような僧がいたとは知らなかった、と仰せになり世の中が次第に濁ってきていることを嘆かれる。現在の将軍は万事につけ我意を押し通す御方であるのでこの巻は将軍にこそ必要なものであると屋形はお考えになり、目賀多右馬頭を使節として公方へ献上される。これはご先祖様が秘蔵されていたものでいつの頃か紛失されたのをこのたび臣義実が探し出して参りました、いつもご先祖様の形見と思し召され照覧されるべきであると思います、と公方に献上されるが、後に聞くところによれば将軍はいつもの我儘を起こし、これは夢窓国師の諌書などではなく近江義実が吾を諌めるために作ったものだと決めつけ、国師の自筆の一巻を箱の底に納めたまま取り出されることは無かったという。真に気の毒な事だと江州までも噂が届く。
十九日 伊豆の北條左京太夫氏康より使節が参る。松田大膳という者であり、関東の紙五十竿を献上する。屋形は使節には会われず八幡山義昌に仰せられるには、北條からの進物はその国にたくさんあるもので却ってその将の心の底が思いやられるという事である。義昌がこれに返答できないでいたところ進藤山城守が、北條家の戦ぶりの程が知れましょうと申し上げる。この儀について屋形は古い例を引用される。その昔山名伊豆守時氏は細川武蔵守頼之に使節を送り、山名領国の産物として熟した柿二十箱を贈った。細川はこれを受け取り山名の心ばえを測って、この人は生まれつき真心のない人であり、戦争をすれば謀ることはたやすいであろうと言う。その後明徳に山名が逆心し、内野にて戦争になる。細川は将軍方として山名と対陣し味方に下知をする際熟柿の一件を思い出し、元より山名は真心なき者であるのでこのたびの合戦は易いものである、虚将は虚を以って謀るべしと申して、手勢の内より三百の兵を三つに分けて備えとする。敵は少数と侮り勇んで山名勢は突撃するが、細川がかねてより潜ませておいた伏兵一千に側面を突かれるとすぐに総崩れになったという。屋形はこの度の北條の進物はこれと同じであると仰せになり、北條の使節を帰される。後に目加多豊後守実三を使節として氏康に遣わされた際、進物として江州坂本にて研がせた関兼秀の鏃百本を贈られる。
四月
八日 比良山にて如来誕生会を行われる。堅田、大津、武佐の三ヶ所で米三千石を貧民に施される。政所職の中から安元十兵衛尉、山下久兵衛尉、苗鹿五郎兵衛尉を奉行とし、青地駿河守を大奉行とする。
十九日 今日は未の日である。屋形は摩利支天を祀る宮の造営を思い立たれ、観音寺城の南の峰に造営するよう京極家の三郎高吉に仰せ付けられる。
二十六日 二條晴良公が観音寺城においでになり、屋形は厚くもてなされる。晴良公は十日あまり滞在され、屋形は晴良公に柿本人麻呂のほのぼのと夜が明ける明石の浦の歌は昔から語り継がれているけれども、その真実の話を承りたいと望まれる。晴良公は次のように書き伝えられる。
・* 発心 ・* 修行 ・* 菩提 盤若徳空諦 ・* 涅槃 ・* 方便 妙・* 法身 薬師経 法身徳中道 ・* 大日 舟惜思 大日・* 華 嶋隠 ・* 釈迦 三諦即 ・* 蓮 扁三身 阿弥陀 諦三諦即一身 |
*は梵字のため表現できません。 |
五月
五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形は病気のため参詣されず、代参として三井出羽守秀国を遣わされる。飛龍御曹子、箕作義賢、八幡山義昌並に御一門、旗頭の面々は残らず参拝する。
十一日 古河の晴氏が上洛する。今日鳥本より上杉右馬頭を使者として屋形へ取次を請う。屋形は山崎源内左衛門家長を遣わして晴氏を観音寺城へ招待される。晴氏は三日間滞在する。
十九日 山田遠江守信秀が病死する。享年七十三歳。
二十五日 木村尾張守高盛が非義をはたらき国を追放される。これは屋形への申し出もなく公方家の家臣武田十兵衛尉の息女を息子源五へ嫁がせたことである。
六月
三日 今夜井口五郎八兼春の屋敷からたくさんの赤い鼬が走り出て、池田孫太郎実政の屋敷に入り消え失せる。
四日 卯の刻から午の刻にかけて井口五郎八と池田孫太郎の屋敷から白い気が溢れ出し、屋敷が隠れて見えなくなる。
十日 井口、池田両人の館から同時に火が出て、南風が強く吹く。後に火は大名小路にかかり、午の刻から十一日の卯の刻にかけて旗頭の屋敷三十二軒、町屋七十五棟、寺社十四が焼失する。
十五日 公方義晴公が上野小五郎を自ら手討ちにされる。公方は二ヶ所手傷を負われる。上野は公方が寵愛されていた童子であり、この小五郎に味方する童子が三人いたために公方は不覚にも傷を負われる。
二十一日 高野山の文殊院が江州にやってきて観音寺城へ出仕する。屋形が因果について問われたところ文殊院は弘法大師の講釈を用いて答えましょうと申す。その内容は次のようである。
凡夫盲善悪 不信有因果 但見眼前利 何知地獄火 無羞造十悪 空論有神我 執着愛三界 誰脱煩悩鎖 |
この後屋形はさまざまな法問答をされるが、内容が多いので記さない。
七月
四日 今年の四月に屋形が仰せ付けられた摩利支天の宮の造営が宮中五ヶ所の宮門まで全て完成したと奉行の京極三郎高吉が申し上げる。これによって翌五日の未の刻に遷宮の儀を行うと定められる。
八日 九條稙通公が観音寺城を訪問され、三日間滞留される。
九日 この度勧請された摩利支天の宮に屋形と稙通公が同道される。拝殿にて稙通公は、私が管領殿の弓矢の道を祝してこの拝殿に賢聖の名を書き連ねましょうと申されて、四方の板壁に筆を入れられる。
東一間 馬周 房玄齢 杜如晦 魏徴 東三間 管仲 ケ禹 子産 蕭何 西一間 李勣 虞世南 杜預 張華 西三間 桓栄 鄭玄 蘇武 倪寛 |
東二間 諸葛亮 蘧伯玉 張子房 第伍倫 東四間 伊尹 傅説 太公望 仲山甫 西二間 羊祜 楊雄 陳寔 班固 西四間 董仲舒 文翁 賈誼 叔孫通 |
これは紫震殿の賢聖障子にあるままを稙道公が書かれたもので、屋形は非常に喜ばれる。
十五日 当国の保良の庄に一社を建立する。奉行に和田日向守貞長を任命する。第四十七代天皇淳仁は天平宝字五年十月十一日江州保良の庄に遷都される。その旧跡を屋形が調査させてその場所に建立される。
二十日 この保良旧都での造営の儀が天皇の耳に入り今日保良に勅旨が来着する。一通の勅書を携えており次のように書かれている。
当社永為勅願霊社寔先王再興之地也宜奉祈皇家永久者天気如此仍執達如件 天文十一年七月十九日 左大弁 近江国保良社権宿祢 |
二十八日 畠山民部少輔義宗死去。享年四十三歳。
八月
三日 河内国若江城主若江河内守実高が菅丞相が詠まれたという短冊を今日屋形に献上する。
流行我はみくづとなりぬとも君しからみとなりて留よ |
この歌は菅原道真が昌泰四年正月二十日に左遷されたとき詠み、寛平法皇へ捧げたものである。屋形は非常に大切にされ、これは天下に二つとない貴重なものであると仰せになり、二條晴良公に細かく注釈を書き加えさせた上で佐々木神社に納められる。
八日 梵釈寺が大破したので蒲生忠三郎を奉行として再建される。この寺の縁起には延暦五年丙寅三月に桓武天皇の勅命によって江州に建立されたものであると記されており、その説明は長くなるので日記には記さない。
十日 今川義元と織田備後守信秀が三州小豆坂で合戦に及ぶ。今川軍が四万余、織田軍が二千五百で引き分けに終わる、と東国へ遣わされていた忍びの山伏が今日江州に帰国して申し上げる。
十四日 将軍が体調を崩したため屋形が上洛される。十八日に江東に帰城される。
二十一日 今日細川晴元と赤松兵部少輔義村が公方の殿下において議論し喧嘩になる。細川晴元が四ヶ所、赤松義村が五ヶ所傷を負う。このため御所は大きな騒ぎになり、洛中の者は皆慌てふためく。この喧嘩によって細川、赤松の一門は合戦に及びそうになる。将軍は武田右馬頭信世を上使として江州に遣わし屋形に急ぎ上洛するよう命じられる。屋形は近習として居合わせた者たち百三十余騎を率いて今宵子の刻に上洛される。旗頭四十六人の面々は知らせを聞くとすぐに上洛する。御一門の中では相談した上で京極が上洛し、残りの者は国に留まる。
二十四日 細川、赤松両家の争いに屋形が仲裁に入られ、双方和睦する。
二十七日 屋形が江東に帰城される。
九月
十一日 蟹ヶ坂の城主山中丹後守秀国より申し上げることがある。それによると今月八日鈴鹿山の間道より勢州の悪徒が江州上田野に乱入、家々を焼き払い略奪に及ぶ。知らせを聞き蟹ヶ坂城中より打って出て悪徒五十三人を召し取ったところ、北勢州の百姓らが一揆を起こす。そして近日中に当城へ押し寄せるという噂を聞く。勢州国司がこのことを知らないはずはないのできっと多勢で攻め寄せてくるに違いないということである。この知らせを聞かれて屋形は今夜高嶋越中守高賢を大将とし、朽木、平井、新庄、横山、田中、永田、白井ら高嶋郡の諸将に五千騎を授けて蟹ヶ坂の城へ遣わされる。予想通り勢州国司は怒って木造尾張守具国を大将とし、北伊勢の城主達十二人に兵一万二千を与えて蟹ヶ坂の城へ向かわせる。この軍勢は鈴鹿の間道の難所を二手に分かれて進み、十四日の夜城に寄せ来る。山中丹後守秀国は高嶋の面々に対し、このあたりは敵にとっても味方にとっても難所の多いところであるので、敵を城下まで引き付けて一斉に打って出れば味方の勝利は間違いないであろうと申す。高嶋の面々は、このあたりの地理に精通している山中殿の指図は尤もであるとこの申し出に賛同する。敵軍は予想に違わず卯の上刻には蟹ヶ坂城の北東の山あいの平野に陣を置き、三軍に合戦の準備を命じる。当国の軍勢は突撃の合図とともに蟹ヶ坂城のある城山の斜面四町余りを一気に駆け下り、不意を衝かれた敵軍を谷道に追い立てる。十五日卯の刻から合戦を始め同日申の刻までに二千三百四十二の首級を挙げ、桑名十兵衛尉、神戸丹後守、飯高三河守、仁木左馬允、河曲民部ら五人の大将首をとる。これより国司と屋十六日 蟹ヶ坂の面々が観音寺城へ書状を送り次のように申し上げる。
十五日卯の刻より申の刻まで続いた合戦は味方の大勝利に終わり、多数の敵を討ち取り 生き残った者達はかろうじて退却した。討ち取った敵の目録は次の通りである。 一 首四百三十五 山中丹後守秀国 一 首三百五十三 朽木民部少輔稙綱 一 首三百二十四 平井伊予守貞秀 一 首四百二十一 高嶋越中守高賢 一 首二百十二 新庄伊賀守実秀 一 首二百十八 横山佐渡守高長 一 首百三十一 田中播磨守実氏 一 首百二十五 永田左近右衛門尉秀宗 一 首百二十三 白井豊後守時秀 大将首 一 桑名十兵衛尉 北伊勢の城主 朽木家来上林五郎八が太刀を以って討ち取る 一 神戸丹後守 北伊勢の城主、国司の従弟 田中家来田井十兵衛が太刀を以って討ち取る 一 飯高三河守 北伊勢の城主、国司の甥 白井家来安田三之介が鑓を以って討ち取る 一 仁木左馬允 北伊勢の城主、勢州の軍奉行、今回の一軍の大将 山中家来中嶋権内が組み付いて討ち取る 一 河曲民部少輔 北伊勢の城主、国司の甥 高嶋越中守扈従千世松が太刀を以って討ち取る |
屋形はこの目録全てに目を通された上で、目加多刑部少輔頼秀を蟹ヶ坂へ遣わして、高嶋の面々は帰陣し、山中は蟹ヶ坂城中に制法を固く申し付けるよう命じられる。これによって高嶋郡の面々は観音寺城に帰陣する。
十七日 山中丹後守の手勢が微少なため進藤武蔵守盛高、後藤角内左衛門尉実俊に二千三百騎を与えて巳の刻に蟹ヶ坂の防備のために遣わされる。
十八日 この度の蟹ヶ坂合戦に手柄を立てた者達の行賞を行われる。高嶋衆八人並にその家来たちに屋形自筆の感状が与えられる。
一 朽木家来上林五郎八に中村庄を与える。 一 田中家来田井十兵衛に山田庄を与える。 一 白井家来安田三之介に坂巻庄を与える。 一 山中家来中嶋権内に上泉庄を与える。 一 高嶋越中守扈従和田千世松十四歳に中枝の庄を与え、屋形の近習に加える。 |
上記五人はいずれも屋形自筆の感状を与えられる。中でも和田千世松は幼少の身でありながら一手の大将を討ち取った事は前代未聞でありすばらしいことであると、真に比類なき感状を与えられる。
二十四日 屋形は江州四十六人の旗頭、七手組の面々に四目結いの紋を許される。これは屋形が代々の功を賞せられたためで、合戦の際旗頭の証となる。これより江州の旗頭はそれぞれの旗の上に四目結いの紋をつけ、その下に自分の家紋をつけるようになる。
十月
十一日 屋形は箕作義賢、八幡山義昌両名を大将とし、旗頭四十六人のうち二十三人を添えて総勢二万三千余騎を二手に分けて北伊勢に差し向けられる。屋形が申されるには、勢州国司は先月蟹ヶ坂での合戦において数人の将を討たれ憤懣やるかたなく再び策をめぐらして当国に攻め寄せることは分かりきっている、ならばこちらから攻め込み北伊勢を制圧すればどうであろうか、先んずれば人を制すという軍法はまさにこのことである、急ぎ軍勢を差し向けるべきである、という事である。
十四日 このたび勢州へ攻め入る面々が全員観音寺城に集合し、今日二手に分かれて出陣する。先陣は八幡山左馬頭義昌を大将とし、馬渕、楢崎、三井、池田、平井、永原、三雲、種村、建部、澤田、山崎、片桐ら旗頭が総勢一万余騎にて君々畠越えで北伊勢に攻め入る。後陣は箕作義賢を大将とし、青地、蒲生、京極、山岡、大野木、磯野、久徳、浅井、木村、乾、宮部ら旗頭が総勢一万三千余騎にて八田越えで北伊勢に攻め入る。
十七日 屋形は宇野作内左衛門尉貞清に射手三百人を添えて蟹ヶ坂へ遣わされる。これは鈴鹿から横合いに勢州へ攻め懸けるためである。同日申の刻、義昌より飛脚があり申し上げるには、昨日十六日北伊勢の十八ヶ所の城から出陣してきた敵軍を蹴散らし、太田城主田村右近を討ち取った。これより朝明郡一円へ全軍を率いて向かい、明日攻略に取り掛かるということである。これに対して勢州国司は二万の軍を率いて鈴鹿郡に出陣する。勢州での両大将の働きはこの次に改めて記す。
二十日 義賢、義昌将より使者が来て、北伊勢二郡を攻撃し十八城を落としたこと並に味方の将が立てた数々の軍功を申し上げる。
二十一日 蟹ヶ坂より注進が入り、昨日二十日鈴鹿谷の砦より出陣し勢州関へ攻め込み関城を焼き払い、敵三百人を討ち取り味方は百五十余人が討死したと申し上げる。
二十二日 義賢、義昌より注進が入る。十九日より国司の軍勢と合戦に入り味方の粉骨砕身の働きによって敵七百三十余人を討ちとる。しかし尾州から援軍を乗せた舟が勢州の浦々に着いたと聞きこのままでは味方の方が少数であり不利であるので援軍を送っていただきたいということである。屋形はこれをお聞きになって、援軍があれば必ず軍の指揮が乱れるであろう、戦の勝敗は将兵の多少によって決まるものではないと仰せになり、加勢の軍勢は送られなかった。
二十四日 勢州より注進が入り、朝明川を挟んで国司の軍が対陣したと申し上げる。
二十五日 将軍が上野刑部大輔晴長を上使として観音寺城に遣わされる。これはこの度勢州と合戦に及んだためである。同日三條大納言が勅使として参られ、戦争を止めるよう伝えられる。
二十六日 三條大納言、上野刑部大輔両使が鈴鹿越えで勢州に入られ、勅意、上意の旨を両軍に申し含め双方の矛を収めさせる。八幡山義昌は、我々は皇家のために弓矢を取って戦うのであり、勅使とあらば軍を退こうと言って、なおも激しく抵抗する義賢を抑えて戦争を止める。
二十七日 京都の仰せに従って勢州の合戦は終わり、国司は居城へ退却する。江州勢後陣の大将義賢は今日勢州を発ち江東に帰陣する。先陣の大将義昌は勢州に留まり、手に入れた北伊勢二郡の制法を定める。
二十九日 京都の仰せにより北伊勢二郡は当家の領地となり、勢州、江州和睦の儀を申し付けられる。以後義昌は北伊勢に留め置かれ、伊勢義昌と江州では呼ばれる。
十一月
四日 今年の勢州での合戦で功績のあった面々に北伊勢において領地を与えられる。この中で屋形が感状を与えられたのは五十七人で、その他の者にはその働きに応じて義賢、義昌の両大将から感状が与えられる。
五日 新庄伊賀守死去。享年五十八歳。屋形は非常に惜しまれる。新庄の妻に今枝の庄を与えられ、息子万千世は幼少であるので家来たちが守り育て、成人した際その器がふさわしいものであれば旗頭に任ずると仰せになる。このように後家に領地を与えられたのは、伊賀守の多年の忠義に対してその死後にまで報いられたのだと思われる。
十八日 百済寺が炎上する。この寺の本尊である観世音は三日ほど前より毎晩三人の堂守に不思議な夢を示される。このため三人の坊主が本堂にてこのことを話し合っていたところ、雷が落ちてきて即座に寺が炎上したとこの僧たちが観音寺城へ申し上げる。
二十一日 将軍は山門無動寺の相應和尚の堂を造営するように山門へ求められる。将軍の奥方は相應和尚の説法を聴く夢を見てから新将軍義輝公を懐妊されたため、今になってこのように申し出されたと思われる。
十二月
七日 屋形が宇祢野にて鷹狩りをされ、丹頂鶴を捕らえられる。そこで野村主水正貞兼を遣わしてこの鶴を将軍に献上される。将軍は非常に喜ばれ、和歌を一首詠まれる。
をさまれる御代には猶も近江路の宇祢野の鶴の幾代へぬらん |
十五日 屋形は歳末の使節として落合相模守貞為を将軍家に遣わされる。将軍は落合に対面され長義の太刀を与えられる。この太刀は下松という女の墓より出てきた太刀であるが、山州西岡の僧がこの女に会って発見したという。この由来多き太刀を落合に与えられた将軍の真意は測りがたい。
二十五日 日吉神社へ歳末の代参として新庄民部左衛門尉秀豊を遣わされる。屋形にはいささか宿願がおありになる。
天文十二年(癸卯)
一月
一日 本日から十五日まで例年通りであり、重ねて記すには及ばない。
八日 月が朝になっても消えないので禁裏において修法を行う。
十五日 永原安芸守の館から出火し、町屋二十三棟を焼失する。
十九日 関東古河の晴氏の使節として上杉権内という者が参る。屋形は堀佐渡守貞成に申し付けて遠来の労をねぎらわせる。権内が堀に語るところによると、近年伊豆の北條氏康が晴氏と不和になり、ともすれば国境のことで争論を起こすようになった。また晴氏の執権である上杉憲政は万事につけ自分勝手であり、晴氏の旗下たちも思い思いの行動を取るようになってきたので国内の情勢は不安定である、ということである。
二十五日 佐々木神社にて護摩を焚き、山門の恵心院僧正が十七日間修される。奉行は堀佐渡守貞成、宇多三右衛門尉光国等である。
二十六日 屋形が定頼、義昌とともに上洛され、二十九日に江東に帰城される。
二月
三日 屋形は御一門の面々とともに和田丹波守清俊の館にお出でになり、笠懸を楽しまれる。
十四日 京極の居城が炎上し、屋形は木村源五綱方を遣わされる。どこからともなく浅井下野守が逆心を起こして攻め寄せ京極の館に火を放ったという噂が流れ国中騒然となる。観音寺城と京極の館は多数の人馬が行き交う。館が焼け落ちた後は特に何の沙汰もなく、矢嶋大光院という易者がこのことを占ったところ非常に不吉なことの前兆であるという。
三月
三日 佐々木神社の祭礼は例年通り執り行われ、記すに及ばない。
十四日 下坂本で火事があり、町屋三十二棟、寺社十三ヶ所を焼く。
十九日 箕浦越後守高光死去。享年五十八歳。
二十五日 志那刑部大輔清胤死去。享年七十一歳。この人は関東の千葉家の嫡流であったが、庶流によって国を追われ浪人し当国に来たところを屋形が同情されて召し抱えられた人である。
四月
一日 屋形は四十六人の旗頭を観音寺城に召し出され、江州各郡にいる山伏、陰陽師等を諸国へ派遣し、他国の様子を聞けば自国他国の善悪や諸国の風俗を知ることができ、政に活かしたりまた国が乱れたときにも大きく役に立つであろう、誓詞を以って彼らに采地を与え、春秋には祈祷の領と名付けて一村よりいかほど与えるかを定めた上で各国に遣わすよう申し付けられる。これによって各郡にて山伏千二百人、陰陽師百八十余人を調え、今月から国々に派遣する
二十五日 青山左近勝重と田上甲斐守実国が観音寺城にて喧嘩に及ぶ。双方とも少しの手傷を負う。
五月
五日 佐々木神社にて祭礼があり、蒲生郡、野洲郡両郡の間で競馬が行われる。
十日 伊庭において旗頭の馬揃えが行われ、屋形は御一門とともに伊庭入道徳然の館へお出でになり、今日から二十日まで十一日間馬をご覧になる。
二十三日 屋形が志賀郡へお出でになったところ、錦織源五郎という者が錦の袋に新羅三郎よりの系図を入れ一通の書状をもって申し上げる。この者が言うには、曽祖父錦織源太郎は主君である屋形の御先祖の不興を蒙り、そのため山門に入りそのまま亡くなった。その後既に三代に亘って土民の中に混じり空しく月日を送っている。このまま錦織の家の名が落ちぶれてしまうことは口惜しいということである。路傍に伏して血涙を流し訴える姿に、屋形は錦織が首にかけた御当家代々の證文をご覧になってその忠義の功を思われ即座に一通をしたためて今田の庄を与えられ、江州浦々の網奉行を仰せ付けられる。
六月
七日 志賀郡雄琴に大明神を造営するよう和田加賀守貞通に仰せ付けられる。
十八日 屋形は坂田佐渡守に命じて江北下坂の鍛冶六人に大小の太刀を打たせられる。このうち切れ味のよいものを数百揃え国の城主達に与えられ、名匠の逸品ではなく軍用の太刀を身につけるよう仰せになる。この刀鍛冶のうち八郎という者は後に優れた鍛冶職人になり、屋形は非常に目をかけられる。
七月
四日 屋形は永原安芸守信頼の館へ招かれる。永原は屋形をもてなそうと床の間に足利直義の自筆の掛軸を飾る。これは直義が獨清軒玄恵法印の末期のとき、薬の包に上書して
なからへてとへとそ思ふ君ならて今は伴ふ人もなき世に |
と書いたものを、名将の自筆であり世に比類なき宝であると永原が求め、長年秘蔵してきたものである。屋形はこれを非常に愛され、このとき玄恵法印より返事の詩があったと昔から伝えられている、吾が法印の作った詩を書いて直義の自筆と二幅一対にして永原の家に与えようと仰せになり
感君一日恩 招我百年魂 扶病坐床土 披書拭涙痕 |
と書かれる。永原は非常に喜び家門の家宝とする。
二十日 大原伊予入道春綱死去。享年八十九歳。
八月
十二日 天に白い気が東西に走り、五本の筋を残す。午の刻に現れ、申の刻に消える。
十九日 大洪水のため江州各地の堤防が破れ多くの民家が流される。野洲郡の戸田の庄では民屋百余軒が流され琵琶湖に入る。
二十三日 石山より申し上げることがある。その内容は本日卯の上刻に観音堂が鳴動したので、この堂において普門品を一日二千部ずつ七日間読むことになった。ついては読経中の諸僧は寺門内では勤めを果たすことができないのでこの間米等を支給していただきたい。旧記には石山開基より七度この観音堂は鳴動しておりその都度七日間読経をして国家の安全を守ってきたということである。これによって屋形は希望するだけの米を志賀郡の政所にて与えられる。
九月
八日 北伊勢より使者があり、いくつかの城が大破したので普請を行いたいが当郡内には人夫が少ないので江州より人夫を送ってほしいと申し上げる。屋形はどう思われたのか、求められた人夫を遣わされなかった。
十五日 江州八幡宮の鳥居を再建するよう建部大蔵大夫清秀に仰せ付けられる。
十六日 昨日仰せになった鳥居を銅で覆うよう清秀に申し付けられる。
二十二日 河内より使者があり、若江城の堀に六本足の大亀がいると申し上げる。屋形は多賀日向守を現地に遣わし、その亀を京都へ運び将軍の御所に献上される。
十月
十四日 平井河内守頼氏の長男孫三郎(後の加賀守)が三井石見守時高と争論になり、殺害する。この罪によって孫三郎が山門に入ったと高嶋の面々が申し上げる。
十八日 高野瀬貞季が急死したと使者が参る。
十一月
三日 京都より上使として沼田刑部少輔光定が江東に到着し、本日登城する。これは将軍が来月十二月に竹生島に参詣すると仰せになったためである。屋形は寒さの厳しい季節であるのでふさわしくないと申される。これによって将軍は島に渡るのを延期される。
十九日 将軍が洛東五條河原の橋を修築するよう丹波、河内両国の守護に仰せ付けられる。
二十四日 上京の真如堂が落雷のため炎上する。
十二月
十三日 石田刑部左衛門尉光賢は長年にわたり不義があったので本日観音寺城に召し出され死罪となる。
十四日 石田の妻子を京極へ預けられる。
二十四日 屋形は代参として後藤民部少輔盛国を比良の愛宕へ遣わされる。
二十五日 箕作義賢へ南郡より二十四ヶ所の土地を与えられ、八幡山義昌には志賀郡堅田和爾の庄を与えられる。
天文十三年(甲辰)
一月
一日 本日より十五日まで例年通りにて記すに及ばない。同日屋形が上洛され二十三日に江東に帰城される。
二十二日 屋形の奥方が懐妊されたので、内輪の者達が祝辞を述べる。旗頭達からはまだその儀はない。
二月
十日 江州で初めて早舟という船を作らせる。これは戦のための船で、その形は剣の切先のようである。
十五日 阿弥陀寺の如来の頭部から光明が出る。このため近国の住民たちが群がり集まる。
二十七日 高田安房守実方と浅井下野守が境界線の事で争論になる。浅井の家来二十五人が是非の判断もなく高田の百姓に乱暴を働く。屋形はこの罪を咎め、浅井に閉門を命じられ、その家来二十五人を厳しく罰するよう三上但馬守に仰せ付けられる。
三月
三日 佐々木神社にて例年通り祭礼があり、観音寺城で屋形と御一門が曲水の宴を催される。
二十日 屋形は諸将に、今年から国内において年貢等を測るのに従来の桝よりも二合減らした新桝を使用するように命じられる。民に施す恩恵としては随一のものである。また、軍に用いても大きな利益があるということで、武佐の蔵の下司衆が新桝を作る。これによって江州で使われる桝を武佐桝という。
四月
四日 佐々木神社にて臨時の祭礼がある。これは御曹子の武運長久を祈願してのことである。
十五日 伊庭にて犬追物が行われる。委細の事はこの役を勤めた旗頭達の家に詳しく記してあるので日記には載せない。
二十八日 屋形が岡山にて遊ばれ、大鮒を捕らえられる。前代未聞の巨大な鮒である。
五月
五日 佐々木神社にて祭礼がある。屋形をはじめ、御一門並に国の旗頭衆が一人残らず参詣する。
十五日 洛陽永観堂が焼失したと種村左馬頭高輝が江東へ注進する。この寺の住職は屋形の一族である。
二十五日 今夜箕作義賢が仔細あって近習の谷左近賢長を手討ちにする。谷に味方する者が多かったので、箕作の館は大騒ぎになる。
二十六日 屋形は後藤実方を義賢へ遣わされる。これは昨夜谷左近を手討ちにして起こった騒動を鎮めるためである。
六月
三日 栂尾の上人が江東にやってきて観音寺城へ出仕する。屋形は厚くもてなされる。恵光寺にてこの上人の法談が行われる。
十九日 屋形は当家の庶流を改められ、金泥の巻に収められる。当家の流々は各国に広がり多すぎるため奉行に永原安芸守を任命される。
七月
三日 屋形が上洛される。近習の者だけが供奉する。
七日 屋形の奥方が七夕祭をお祝いになる。旧記を吟味し徳光寺上人が観音寺城に登城する。
九日 大洪水のため陸地に船を走らせることができるほどである。江州各地の川では水位が九合に達し多くの土地が水没する。
二十一日 御先祖の追善のため七日前から比良山にて読経が行われる。山中丹後守実持がこれを奉行する。
八月
十一日 越前の朝倉弾正忠時景方より山上美作守という者が使節として参り、越前紙百束を献上する。
十五日 当国八幡宮へ屋形と御一門の面々が参詣される。
二十一日 濃州の守護土岐範頼が長井伊予守を遣わして申し越すことがある。その内容は、箕作弾正少弼定頼の息女を土岐に嫁がせるよう将軍家より内々に下知を下されたので、来月の三日は吉日なればその日に箕作の館への輿迎として長井を派遣するということである。屋形は長井伊予守頼冬を奥の黒殿に召し出され、輿入れの段取りをこと細かく仰せ含められる。今まで屋形は他国の使節を奥の黒殿にまでお召しになることはなかったのだが、今回の儀は長井が縁者であったためであろうか。
九月
一日 御息女を迎えるために濃州の範頼方へ進藤山城守、目加多相模守長俊並に弓衆二百人と内見六人を遣わされる。
二日 御息女を迎えるために高嶋越中守実綱を濃州立正寺に遣わされる。
三日 御息女が申の刻に箕作から土岐へ輿入れされる。五日間の礼儀作法は記すに及ばない。濃州から女佐の臣として明知但馬守秀国が江州に来る。
十八日 伊庭三河守頼輝、野村備中守長冬、山田十兵衛尉、大野介十郎、澤田兵部少輔重宗、大津主膳正清宗、青地采女正時綱、片桐左近兵衛尉等を遣わされる。
十月
十一日 伊賀国河合安房守実之が今月九日に死去したと使者が伝える。この人は屋形が一字を与えられたほどの人であるので、年来の忠功を思い非常に悲しまれる。
二十五日 乾権頭吉武と植田民部少輔実之が喧嘩になり双方の家来数人が手傷を負う。屋形は永原大炊頭実冬を検使として遣わされ、両名を謹慎させられる。
十一月
九日 長浜刑部信実が急死する。享年七十五歳。この人は甲斐国武田信虎の伯父であり、信虎の不義を諌めたところ逆に不興を蒙り甲州を出奔する。その後屋形を頼み江州に来たところ、屋形に同情され江北長浜の城を預けられ、数年間江州に居住する。屋形はその死を非常に惜しまれる。
十五日 黒田大学頭宗綱が貞林という太刀を屋形に献上する。これは正宗の作である。昔貞林房という僧がこの太刀を振るって数回天狗と戦うがついに太刀を奪われ殺される。その後天狗が黒田家の元祖宗清に与えたといわれ、代々伝えられてきたものである。屋形は悦ばれず、これは家門の宝であり黒田の家に伝えていくべきであるとお返しになる。黒田家は屋形の御先祖から分家した家である。先の舟岡山合戦の折、黒田が不忠の科でお家取り潰しの目に遭おうとしたところを屋形が、黒田家は当家の庶流であり断絶することは不憫でありますので当家にお預けいただきたいと公方に強く訴えられその身柄を貰い受けられる。こうして家門が存続し、そのために代々の家宝を献上するに及んだものである。
二十四日 屋形は宿願を祈願するため、後藤但馬守を愛宕山へ代参に遣わされる。後藤が入山し神前にて三礼したところ、空中から一本の扇がその頭上に降ってきた。後藤がこれを取って見てみると一首の和歌が書いてある。
唯たのめ君か願は近江路や |
後藤がこれを屋形に献上したところ、屋形はこの句を見て即座に
四つの国まてをさまれる御代 |
と詠まれる。屋形がいつも現在の公方の自分勝手であることを諌めておられるのは、公方の治世が平安であることを願っておられる故であるとこの句よりうかがわれる。
十二月
十五日 勢州の国司から歳末の挨拶のため使節が参る。去年の合戦の後お互いに和睦したとはいえこれまで使節を交わす事はなかった。この度合戦後初めて国司から木造左衛門佐具氏が江東に寄越される。
十八日 川曲又一郎を壹岐守にされる。
二十一日 本日午の刻、北に黒雲、南に青雲、西に黄雲、東に白雲が現れる。前代未聞の事であるので将軍家は土御門の方に勘文を命じられる。これによって占ったところ、北の黒雲は吉。青雲は東にあるべきなのに南に現れるのは不吉である。黄雲は五行の土に当たるのに西に現れるのは不吉である。西は白色が本色であるので東の白雲もまた不吉である。東は青色が本色であり、これは最も不吉である。北だけが本色で、三方に本色でない色があるというのは天下に大きな変事が起こるということである。将軍は、わが身に不善があれば天のお告げを見るに及ばず、又善があっても天の吉兆をうかがうに及ばないと仰せになり、一首を詠まれる。
天下誰かしらなん吾ならて善も不善も己か心に |
このほか宮親王家の詠歌もあったが記す余裕はない。
巻第三・完