天文六年(丁酉)
七月
三日 辰の刻、公方足利義晴公の次男誕生する。後に千歳君と呼ばれる。
五日 近国の大名たちが若君の誕生を祝い、それぞれ太刀一振りを献上する。屋形は剣頭の太刀を献上される。
九日 若君の御七夜の為、八幡宮へお宮参りをする。供奉の行列は多すぎるので記さず。
十三日 公方より内々に仰せ付けられていた通り、屋形の妹君が二条晴良公に輿入れする。馬渕丹後守実冬、澤田兵部少輔重宗の両名を女佐の臣として付き添わせ、化粧料として南郡に五百貫の地を妹君に与える。
十五日 龍光院殿の為に田上の報恩寺で御祓いを行う。進藤伊賀守貞方、乾権頭吉武を奉行として、本日から十七日まで千部の読経を行う。
十八日 屋形の奥方が御曹子誕生を祈願するため、伊庭入道道全を石山観音へ代参させる。
二十四日 目賀多伊予守入道徳元死去。享年六十三歳。
八月
一日 伊豆の北条氏綱への使節山田豊後守貞兼が帰国、返状を捧げ、先月十五日管領上杉五郎朝定の篭る武州河越城を北条氏綱が亥の刻に夜襲し、朝定が敗北、自害した詳細を申し上げる。
十二日 当年疫病にて国民に多数の死者が出たので、屋形は御立願のために箕浦越後守高光を山門の中堂薬師へ代参させる。同日、和田源内左衛門を苗鹿の薬師へ遣わす。当年疫病で亡くなった者、江州で三千七百人である。
二十四日 今年初めて佐々木神社にて臨時の祭礼を催す。蒲生郡、野洲郡の二郡より祭礼の騎馬を出すよう仰せ付けられる。旗頭の武将たちは美を尽くし、行列は豪華で華麗なものであった。
九月
三日 屋形の伯父・定頼が病を患ったので長楽寺にて千部の読経を行う。近藤若狭守宗武をその奉行に任ずる。
八日 長楽寺の僧たちが口論より喧嘩になり、僧九人が死ぬ。
十五日 夜、観音寺の下馬にて野村主膳正と高山五郎次郎が先後の争いより喧嘩になり、高山は死亡、野村も数ヶ所に傷を負い今宵子の刻に死ぬ。彼らの下人のうち四十一人が傷を負い、三十二人が死亡する。
二十五日 志賀郡衣川山に天神を勧請する。その奉行を和田兵部少輔貞光に仰せ付けられる。
二十九日 志賀の唐崎神社を造営する奉行を永田民部少輔貞兼に仰せ付けられる。
十月
五日 屋形の病気快癒を祈り、佐々木神社にて山門の尊光法印に護摩を焚くように仰せ付けられる。
九日 京極家の次男急死する。享年三十一歳。
十七日 屋形上洛される。二十一日に帰城される。同日、伊賀の河合安房守実之が病死したと報告を受けると長年旗本として仕えた人であったので屋形は非常に悲しまれる。
二十四日 比良山の西の峰に愛宕を勧請される。これは昨夜屋形が不思議な夢を見られたことによる。
十一月
二日 京都の六角の館にいる三井豊前守より公方が病にかかったと知らせてきたので、屋形は旗頭六人とその一党を引き連れ上洛される。六人とは、目賀多相模守長俊、馬渕遠江守実綱、和邇越後守信方、和田中書丞貞綱、浅井左近将監長家、伊庭民部少輔実宗であり、江州旗頭四十六人の中の六人である。
十六日 公方の病気が治ったので、屋形が江州に帰城される。午の刻に大洪水のため野洲川が増水し堤防を越え、三つの村が被害に遭う。
二十一日 先日夜、子の刻に勢多の橋の下に一人の女が水面に浮かびながら手に持った火で橋を焼こうとしたが、結局沈んでしまったと石山の僧が屋形に申し上げる。
二十三日 柏原上菩提院が炎上したと報告があった。
二十八日 翌二十九日にかけて大雪が降り一丈二尺に達する。江州ではこの百年になかったほどの大雪である。
十二月
四日 先月の大雪で観音寺城の鎮守観音堂の回廊が破損したため、池田孫十郎に今月中に修理するよう仰せ付けられる。大工三百人を使い二十日に完成させたので屋形は大変喜ばれ、池田に蒲生郡に三百貫の土地を与える。
六日 午の刻に地震がある。また、大彗星が現れ、二十日の夜に消える。
九日 河内国より早馬が来て、若江城主・若江下野守兼俊が逆心を起こし近辺を焼き払ったと申し上げる。若江下野守は屋形の旗本であるので、将軍家の下知を乞うまでもなく、箕作義賢を大将とし、七手組の武将、目賀多、馬渕、伊庭、三井、三上、落合、池田らを添えて総勢一万八千騎にて河内に向かわせる。義賢は十日に近江をたち、十三日に河内に着いて戦の準備をする。下野守の父で八十余歳になる円休が城を出て降参する。円休は、百姓どもが守護を軽んじるので懲らしめようと息子下野守がこのようなことをしてしまったが、屋形様に対してはまったく恨みはない、と申し上げる。義賢は石田木工助を江州へ遣わし、このことを屋形に報告する。屋形は進藤武蔵守の息子小太郎(後の山城守)を差し向けられ、若江下野守父子は高野山に押しこめ、若江城は堀江河内守時秀に預けるよう仰せ付けられる。
十八日 三上美作守実重病死する。享年六十歳。
天文七年(戊戌)
一月
一日 今日より十四日まで正月の慣例行事を行う。例年通りなので記すに及ばない。
十五日 御旗の祝儀を行う。今年は三上美作守死去のため、田上甲斐守に屋形の一字を与えて実国と名乗らせ御旗の入った櫃を御国の間の床に飾らせる。
十八日 佐々木神社に参拝する。供奉の様子は例年通りなので記すに及ばない。
二十日 堅田の浦より瑠璃の壺が引き上げられる。礒初五郎三郎宗清がこれを屋形に献上する。屋形は青山左近勝重を遣わして、これを将軍義晴公に献上される。将軍はこの壺を非常に大切にされる。
二十八日 夜、馬渕源太重綱の館より火が出て、戌の刻からあくる日の卯の刻にかけて侍屋敷七十二軒、寺社十二ヶ所、町四十二棟が焼失する。
二月
七日 このたび火災に遭った者たちに対し、屋形はその身分に応じて材木を与えられる。
八日 長光寺にて今年から如来誕生会を行うよう仰せ付けられる。奉行には片桐土佐守実貞が任命される。
二十一日 伊賀の服部伊賀守実詮が先月二十五日に六十三歳で死亡したことを告げる使者あり。形見の品として呉道士が描いた観音の絵を屋形に献上する。屋形は年来の奉公ぶりを思われ、非常に悲しまれる。この絵は服部家に代々伝わる希代の品で奇瑞多きものであるので、箕作山に一宇の堂を建てて新観音寺と額をうち奉納される。
三月
三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形は病気のため参拝されず、箕作義賢は例年通り装束にて参拝する。同日、御一門の面々により曲水の宴が行われる。
七日 石清水で臨時の祭りがあり、平井石見守昌綱を代参に遣わされる。
八日 公方の殿下にて阿波助次郎と畠山修理大夫義忠が喧嘩になり、助次郎は死亡、畠山は三ヶ所に傷を負う。これによって畠山は妙心寺に入る。阿波助次郎は内々に畠山の娘を妻にもらいたいと願っていたが、畠山が高木の義弘に嫁がせたので恨みに思い喧嘩になったということである。
十四日 桃井民部少輔輝重の息子で源五なる者が一通の書状をもって将軍に申し上げる。この者の父は以前遠流にされ、配所にて死亡した。今年はそれから二十五年に当たり、源五はこのように申し出た。公方は非常に志を感じ、近習に召加えられる。
二十二日 洛西の法住院が病気なので高宮飛騨守を遣わされる。高宮は屋形の一族である。
二十八日 午の刻、大雨がひどく野洲川の堤防が決壊し、戸田の郷、津田の郷、幸津河の郷の民家九百軒が水没する。近年に類を見ない大雨である。
四月
二日 今川五郎氏親より使節があり、来月五月に上洛することの是非を問う。屋形は、近年義親は公方の思し召しが良くないので延期した方が良いであろうと返書される。
十三日 錦織民部少輔常義に志賀郡にて千貫の土地を与える。この人は新羅三郎義光より二十二代の子孫である。屋形は常に情け深いお人である。
十九日 甲斐の武田信虎の伯父で信国と申す者が甲州を逃れ近江に来る。屋形は深くこの人に同情される。この人は後に長浜刑部信実と名乗る。
五月
五日 佐々木神社で祭礼があり、屋形と箕作義賢、八幡山義昌ら一門の武将が例年通り装束にて参詣される。翌日、能が催される。また、蒲生郡と野洲郡との間で毎年童子の石打合いが行われるが、今年は成人の者が参加し太刀打ちになり、双方で死者が百三人出た。これを屋形がお聞きになって、来年からは十五歳以下の童子以外の参加を固く禁じられる。そもそも武士の家に生まれた童子に幼少の頃より合戦の心構えを知らしめようとするものが菖蒲切である。どうして意味もなく人を殺してよいものであろうかと各郡に法制を出される。
十六日 千葉刑部少輔清胤が庶子の輝胤により所領を奪われ領地にいられなくなり、当家へ逃げ来る。今日はじめて登城し、三百貫を与えられる。後に志那の刑部というのはこの人であり、千葉忠常より二十一代の子孫である。
二十三日 千葉刑部少輔清胤が千葉家重代の下霜という太刀を屋形に献上する。屋形は、どうして千葉家重代の家宝が他家に渡って用をなすであろうか、子孫に伝えてゆくようにと清胤に返される。下霜は貞宗の作である。
六月
三日 崇光院の御祓いがあり、坂本来迎寺にて千部の読経を仰せ付けられる。黒田大学助宗綱がこれを奉行する。崇光院とは屋形の祖母である三木政知公の娘である。
六日 村井越中守貞成死去。享年四十三歳。
十四日 公方の三番目の姫君が九歳で疫病にて亡くなる。
十八日 徳大寺の大宮が死亡する。享年五十三歳。
二十八日 雲州の尼子より須佐越後守がやってきて、尼子家重代の藤壺という太刀を屋形に献上する。この太刀は源頼朝公が出雲の元祖義清に与えられたもので、石橋山合戦のときも佩かれていたものである。
七月
六日 屋形の先祖である秀義公の年忌に当たるので、朽木民部少輔稙綱、高嶋越中守実綱を奉行として長命寺にて万部の読経を行う。
九日 高嶋越中守が仔細あって朽木稙綱の家人平野源八を討つ。このために朽木と高嶋は不和になり、合戦にまで及びそうであると長命寺より報告が入る。屋形は両名を呼び寄せ領内に押し込められ、大原伊予守春綱、坂田兵部高秀を代わりに奉行として遣わされる。
二十一日 比良にて八講が行われる。これは今年初めてである。毎年の八講は格別である。
八月
四日 志賀郡雄琴の庄に新城を建てられる。これは京都へ上洛する際に休息するためといわれているが、本心は山門の悪逆な行為があった時のための備えと思われる。同郡小塚山の城を破却し、今の雄琴の城を建てられるが、小塚山の城はその昔公方義高公の城であった。大永六年天下逆乱のとき義高公はこの城に移られた。
二十日 山門の慈恵大師の廟を高島郡中村庄に建てられる。これは屋形がこの大師を非常に尊敬されている故である。慈恵大師は高島郡中村庄の生まれなのでこの地が選ばれた。元三大師とも呼ばれる。廟を建設する奉行を朽木左兵衛尉宗綱に仰せ付けられる。
九月
三日 近衛稙家公が江州観音寺城に参る。
五日 稙家公と屋形が同舟して竹生島へ渡られ、今晩宿泊される。近衛稙家公はこのとき歌を詠まれる。
七日 近衛稙家公が上洛される。屋形は道中の世話を馬渕因幡守に仰せ付けられる。
二十日 本日、日野の蒲生忠次郎氏定より報告があった。その内容は、野狐が氏定の女房に取って代わり今年まで三年間連れ添ってきたが、今月十八日本性をあらわし野狐の姿に戻って去ったという。息子蒲生忠三郎はその野狐の子であり、世にも不思議なことである。元の氏定の女房は目賀多の娘であり、どこに行ってしまったのかついに行方は知れずと言う。
十月
五日 伊吹山の権現堂は当家十六代の満高公の時建立されたままで、その後修築されることがなかったので、今回北郡の旗頭衆に造営の義を仰せ付けられ、六日より着工する。
十五日 屋形は江北の京極の邸に行かれ、三日間逗留される。邸において真獨子、孟子、告子の書物を読まれ、和歌を一首詠まれる。
利欲ゆえ心をよそにおく人は身はうつ蝉のあるじなきやと |
京極は真獨子の中の「学文之道無化求其放心而巳矣」というのをその歌の題として一巻を作らせる。その他出来事が多いので日記には省く。
十一月
八日 延暦寺と比良山との間で宗論があり、山門より八百人が夜討を仕掛ける。比良の堂舎は二十七ヶ所を焼かれ、衆徒四十八人が討ち死にする。山門の衆徒も三十人が討ち死にする。この旨を田中坊貞成の方から観音寺城へ早舟を仕立てて申し上げる。今日評議があり、山門へは乾河内守盛国を、比良へは沢田兵部少輔重宗をそれぞれ遣わされ、宗論の次第を糾明される。
十八日 このたびの山門と比良との争論が京都にまで聞こえ、天台座主、青蓮院の門主が江州に来て屋形と内々に話し合い、今日山門と比良が和睦する。
二十三日 京極家の居城が炎上する。
二十九日 大津の町が落雷のため四十二町焼ける。
十二月
二日 近藤若狭守宗武死去。享年五十三歳。
五日 近藤宗武に実子がいないことをその妻がなげき嘆願するので、沢田兵部少輔の次男を養子として中枝の庄を与えられる。
十八日 例年通り観音寺城の鎮守社へ参拝される。
二十日 今日から晦日にかけて御一門や旗頭の面々が年末の挨拶に来る。
二十八日 佐々木神社に参拝される。供奉の様子も例年通りである。社殿にて大神楽が催される。
天文八年(己亥)
一月
一日 今日から十日まで、例年通り諸将が新年の挨拶に来る。
十一日 屋形が箕作義賢、八幡山義昌とともに上洛される。
二十日 屋形、帰城される。八幡山義昌はこのたび四品に任じられる。また将軍より内意があって在京する。
二十三日 大雪が酉の刻にやむ。
二十八日 河内国若江城主堀江河内守時秀が登城し、国俊の太刀を献上する。屋形は、堀江家は当家の庶流であるので四つ目結いの家紋を許すと仰せになり、時秀に命じて家紋を作らせる。
二月
八日 長命寺の尼寺から出火して本堂に燃え移り、一宇も残らず炎上する。
十一日 地震があり阿弥陀寺内の御影堂が倒壊する。
十五日 江州の八幡宮が震動する。このため屋形は大神楽を行うよう命じられる。
十九日 若狭国粟屋右京より白馬が献上される。この馬は八寸の馬で、名を白浪という。
二十四日 公方が愛宕山に参詣される。付き従う大名は一色左京大夫義宗、山名兵部少輔義重、細川修理大夫晴元、畠山修理大夫義忠、今川刑部大夫義元、佐々木右衛門督義賢、佐々木左馬頭義昌、武田大膳大夫信政、赤松左京大夫晴政であり、近習の面々までは記さない。屋形は総勢が出立した後午の下刻に入山される。公方は愛宕山に三日間逗留される。
二十九日 二条の御所において能が催される。公方から国大名に太刀一振りが与えられる。
三月
四日 今日から十四日まで大雨により琵琶湖の水が九合に達する。
十七日 今日勢多の砂普請を仰せ付けられる。大津主膳正清宗がこれを奉行する。
十九日 勢多より飛脚が到来し、今朝卯の下刻に人夫三十一人が一度に水中に引き込まれたと申し上げる。まことに世にも稀な不思議な出来事である。
二十七日 雲州の尼子義久が今月十三日死亡する。その息子実久が父の形見の品として顔輝の作である鬼神の絵を献上する。この絵には不思議ないわれがあり、一書が添えられていた。
一、国に兵乱有る時は必ずこの鬼神の目が光る事 一、病気の者にこの絵を見せれば必ずその病気が去る事 一、主が国政を怠ればこの鬼神の顔は朱を注いだように赤くなること |
この他にもいろいろなことが書き付けてあるが、日記には省略する。屋形は義久公の死を惜しまれ、またこの絵の一書をご覧になって、鬼神を見るまでもない、人間一生の善悪は心の中にありよくわきまえている、と仰せられる。
四月
五日 朽木民部太輔稙綱が重代の朽木丸という太刀を献上する。これは先祖の朽木出羽守義綱より伝え来るとのことである。屋形は、これは朽木家の重代の家宝である、子孫に伝えられよ、と仰せになり、稙綱に返される。
十四日 屋形が多賀の山にて狩りをされ、一身二頭の鹿をしとめられる。世にも珍しいものなので公方に献上される。その後天皇陛下へ献上されたということである。
十一日 若狭の武田信政へ貞頼の息女が輿入れする。西片左近右衛門を女佐の臣として付き添わせる。息女は実は大原高保の娘である。
十八日 京極三郎高勝が死去する。形見の品として、虎風という太刀と王摩詰の作である山水の絵を屋形に献上する。屋形は非常に嘆き悲しまれる。
二十三日 田上報恩寺の造営を野村丹後守に仰せ付けられる。二十四日より始める。この寺は昔、源頼朝公の菩提寺であり、二品の證文がある。
二十五日 伊庭にて犬追物が行われる。詳しくは記さない。
二十九日 今日江南、江西、江北、江東の面々が代々の證文を吟味されて、記録書の日記に記される。
五月
五日 佐々木神社において例年通り祭礼あり。
十二日 江州一国の浦々にて引き網を止めさせられ、堅田、山田の二ヶ所へそのように仰せ付けられる。堅田、山田の名主たちに対して本日書面にて申し渡される。
十五日 勾の御所の普請が始まる。青地紀伊守秀実がこれを奉行する。
二十五日 高嶋郡で二十九年前に天狗にさらわれたという者が故郷に帰ってきて、不思議な出来事について語る。本日高嶋越中守がその者を観音寺城へ差し出す。屋形はその者を御国の間の庭に召し出し、馬渕源意斎に事情を聞かせたところ、不思議な話を語る。後に高嶋へ帰されるが、その者は逐電し行方も知れずという。
六月
三日 箕作山の普請が始まり、前の城よりも四方に四町広くする。建部左近信勝と山田掃部秀成がこれを奉行する。
十日 公方が鞍馬寺に参詣され、二日間逗留される。屋形は龍華越えで大原を通過され、鞍馬山に入られる。当年在京している大名、小名は残らず公方に供奉する。同日、勢多の橋を造るよう永田右近重秀に仰せ付けられる。現在の橋は建造されてから今年で二十一年になる。
十七日 雄琴神社を造営する。和田兵内左衛門貞秀と藤井豊前守貞房がこれを奉行する。
二十三日 天皇が病気のため諸神社へ奉幣使を立てられる。各国において大般若経を修める。
二十七日 屋形が石山に参詣され、大津に四日逗留される。
七月
八日 京都より使者が参り、公方の北山での御遊の儀を伝える。使者は中西刑部少輔晴秀である。このため屋形は上洛され、二十三日に江東に帰城される。
十九日 比良の大光院で火事があり、十七坊が焼失する。
二十一日 越前の朝倉弾正忠から使節があり、大陽寺栗毛という名馬を進上する。この馬は一日に三十里を駆けるといわれ、屋形は非常に大切にされる。
二十五日 若狭国小浜にて三頭一身の子供が生まれたと武田家より申し越す。前代未聞のことである。
八月
十日 公方が近国の大名を誘い泉州堺の浜にてお遊びになる。その後紀州和歌の浦に移動される。
十二日 細川六郎三郎が急死する。
十七日 大雨にて洪水し、琵琶湖は七合まで満ち、河内国では水に流される村が全部で七十ヶ所あった。
二十六日 公方が紀州より帰洛される。屋形は本日江東に帰城される。
九月
二日 一国子という者が江東に来る。屋形はこのものをほめたたえられる。もともと一国子は大明の全羅道の人で、日本に渡り神道を学ぶ。本日は屋形へ心善要使法というものを授けられ、お返しに屋形が一国子に鳴弦を教えられる。
十日 越国の永平寺の住職がこのたび上京するついでに江東に寄り、本日登城する。屋形はこの者を非常にほめられる。住職は観音寺城に五日間滞留する。
十三日 屋形は永平寺住職を伴い観音堂に入られる。その次に竹生島の妙覚上人と山門の正覚坊僧正が入堂される。屋形は住職に、この景色はどうであるか、と問われる。住職は、清風白日である、と答える。また、今日のことはどうであるか、と屋形が問えば、有に任し無に任す、と答える。この後数刻に及び法問答があったが日記には記さない。
二十六日 多賀大社の造営を池田丹後守に仰せ付けられる。今月二十八日から着工する。大伽藍のため数年はかかると池田は申し上げる。
十月
五日 大風が比良、山門の多くの大木を倒す。三上神社が倒壊する。
十日 三上神社の造営の儀を木村佐渡守貞景に仰せ付けられる。この社は番神のひとつである。
二十五日 北野神社が大破し、公方は上野民部少輔晴光に造営の儀を仰せ付けられる。即日着工する。
二十九日 伊豆国より東の国々では疫病で亡くなるものが巷にあふれ、死臭が国中に満ち、さらに病死するものが後を絶たないと、それぞれの国の守護が申し上げる。
十一月
八日 久徳左馬允光成を常陸国の佐竹家へ遣わされる。
十四日 当家の流々を改められ、国々の庶流へお触れになる。そして金泥の系図の巻に入れられる。
二十五日 当家のご先祖である鎮守府将軍扶義公の年忌により御祓いを行う。田上の報恩寺にて今日より千部の読経を始める。
十二月
十二日 大原丹後守貞綱と寺田掃部介盛時との間で所領の境界線における争いの訴訟があったため、今日屋形が直々に訴えをお聞きになる。寺田の方に非があったため改易した上で長光寺に預けられる。
二十五日 楢崎越前守実春が年末の挨拶に上京する。これは屋形が病気を患ったためである。
二十八日 御舎弟義昌殿に青地の庄を与えられる。
天文九年(庚子)
一月
一日 天気は快晴。慣例行事は例年通りに行われる。
十一日 屋形が上洛され、十七日に江城に帰城される。今月の下旬より夏にかけて全国で疫病が流行り、死ぬ者が数え切れないほどであるので、公方は各国の守護にそれぞれの国において大般若経を読むように仰せ付けられる。
二十四日 天に赤い気が立ち、後に黒く変わる。未申の刻の出来事であり、二十八日まで残る。
二月
八日 妙心寺で火災があり、堂塔残らず焼亡する。
十一日 大原寂光院の尼上人妙海が九十七歳で亡くなる。この人は屋形の叔母に当たる。
十九日 関東の晴氏が上洛し、江東に寄って鳥本に三日間逗留する。屋形は目賀多を遣わして晴氏を観音寺城へ招待される。
二十八日 公方の連枝である北山の鹿苑院殿が江東に参られて、三月八日まで逗留される。
三月
八日 鹿苑院殿が帰京され、屋形は高宮備中守秀重を差し添えられる。
十一日 申の刻に地震があり、竹生島の西の岩が水没する。
二十二日 幸津川の新河大明神の祟りがあり、その地の住民が非常に怖れて吉田殿に申し上げる。これが天皇の耳に入る。天皇は正一位の号を贈り、大明神の怒りを鎮められる。
四月
三日 山門の恵心院僧正が観音寺城に参り、屋形は非常に喜ばれる。屋形は阿字の本体を訊ねられ、恵心院はまず阿字の本体の文を授けようと即座に書かれる。
* * * * * |
我覚本不生 出過語言道 遠離於目縁 諸過得解脱 知空等虚空 |
(*は梵字なので表現できません。意味は上から、あ・ひ・ら・うん・けん、です。) |
帰命阿毘羅吽欠最極大秘法界躰也 |
以上の文を書き屋形に授けられる。密法であるので屋形が伝受された内容は日記には載せない。
九日 大洪水が民家を破壊する。常楽寺の本堂の西のひさしに雷が落ちて、塔舎の多くを焼失する。同日午の刻、公方の御所の南の門に雷が落ち、御殿の三ヶ所が炎上する。
二十四日 公方が愛宕山に参詣され、二十五日に帰洛される。
五月
三日 公方の若君千歳丸がひどい疱瘡を患ったので、近国の諸神社へ願を立てられる。千歳丸とは後の義昭公のことである。
五日 佐々木神社の祭礼は今年から金銀の鉾を全部で十二本渡される。
十五日 公方の姫君が本日屋形に輿入れされる。公方の長女であり、義輝公、義昭公の姉君に当たる。上野丹後守晴重、長岡大膳大夫晴時が女佐の臣として付き従う。
二十日 公方が、播州明石郡、賀古郡佐用庄を姫の化粧料として与えられる。同日、屋形へ白浪という名馬と山蜘蛛という太刀、並びに美作国英田、勝田の両郡を与えられる。
二十七日 屋形が七手組、御一門を引き連れて上洛される。江城から京都二条まで続くほどの軍勢は威勢あたりを払い、非常に見事なものであった。
二十八日 屋形は公方に白金千枚、綾百巻、鞍置馬十匹、江州長浜の諸白十樽及び佐々木家に代々伝わる綱丸という太刀を献上される。
六月
四日 屋形、御一門帰国される。
八日 公方が体調を崩し、諸神社にて読経を行う。
十七日 午未の刻、天に青い筋が西から東へ出来る。十九日になって消える。
二十三日 当国白髭大明神の宮造営の儀を仰せ付けられる。津田権内高光がこれを奉行する。
二十九日 白髭神社の上に伊勢の御社も移される。三十日に地ならしをする。後に白髭の岩戸と呼ばれるのはここである。
七月
二日 二条晴良公が江州に参り、十二日まで観音寺城に逗留される。屋形はこの方を非常にたたえられる。
八日 屋形が晴良公に調子の事について尋ねられる。晴良公は一巻を屋形に授けられる。この伝法の書に書いてあるには
音調について数頁にわたり書き連ねる。梵字や図を交えてあり、表現、翻訳が困難なので省略する。 |
以上で調子の巻が終わる。後に屋形は四十六人の旗頭にこの法を授けられる。代々の相伝なくしてはその内容は知り難いので日記には載せない。
十二日 晴良公が江城を去り上洛されるので、後藤安芸守を京都までの世話に遣わされる。調子の他にも晴良公が伝え授けたことはあるが、数多いので日記には省略する。晴良公は屋形の妹婿なので、度々江東に参られる。
八月
十二日 屋形は二条晴良公へ図竹について尋ねるために目賀多伯耆守を遣わされる。
十四日 目賀多が京都より帰国し、返書を奉る。図竹の絵があり、旗頭中へ伝えられる。屋形はどんな秘伝も全て、国の頭たる者には一人残らず伝えられる。その図竹の絵はこのようなものである。
図竹の絵は省略する。 |
二十八日 青蓮院の門主が観音寺城に参り、四日間逗留される。屋形は書道を伝受される。川曲又市、沢井角右衛門尉、建部才八郎の三人は江州一の能書である。門主は彼ら三人の書いた文字を見て、額を許される。これより江州においては三人を俗に三跡という。
九月
十日 山城国栂尾を江州の岩山に移される。公方より明恵上人という四文字を主上へ奏聞し、勅筆を頂いて本日の午の刻に寺に入る。屋形は奉行として黒田伊賀守秀三を遣わされる。
十二日 志賀郡雄琴の里より和田兵庫頭光時が申し上げることあり。その内容は、今月十日に海中に光るものがあり里の人間が怪しんで見てみると、それは阿弥陀如来像であり、恵心僧都の作であったという。そこで屋形はその里に成就光院という寺を建てられ、その仏像を安置される。そのほかにも不思議なことは多いが日記には省略する。
十月
最近公方は松木殿という公家をたいそう寵愛されて、この公家を大臣に補任するよう奏上される。禁中にて公卿たちが評議を行うが、松木の家から大臣を出した前例はなく、又大臣の官職にも欠員はないのでこの補任の儀は認められないと公方に申し述べる。これに公方は激怒され、ならば儀同三司に任じられよと訴えられ、ついに松木を儀同に就けられる。総じて東山殿より六代経た現在の公方にいたるまで強大な武力権を持ち、国の大名も公方の連枝に連なるような人は官位を進むこともたやすい。しかし、武家の者が公方の意のままになることはともかく、公家の者や摂家の方々まで皆公方の計らいを受け、宮親王にいたるまで皆公方の一字を拝領して名前にしている。これは前代未聞の武家の行状だと真の儒者たちはそしったという。この時の落書に次のようなものがある。
権門に引まわされてめてたやな松は茶うすのしん儀同哉 |
二十日 屋形が上洛される。七手組が供奉する。義賢は病気のため同行せず。八幡山義昌は上洛する。
二十九日 山門の飯室に屋形が菩提寺を建立する。その寺号を大岩寺という。これは屋形が常に天台宗の教えを敬愛しておられるからである。
十一月
八日 屋形が京都六角の邸に留め置かれていた目賀多采女正の息子八郎三郎は現在七歳であるが、今年の七月下旬にすばらしい歌を詠んだため諸大夫に補された。その八郎三郎が今月三日に病死したと父采女正秀賢の方より申し上げる。屋形は非常にその死を惜しまれる。八郎三郎が七歳で諸大夫に任ぜられたいきさつは、去る七月の下の八日の夜、洛東の河原で螢の飛び交うのを見て
岩間飛ふ螢は波のうつ火かな |
という発句を詠んだ。洛中の貴賤がこれを聞き伝えてもてはやしていたところ、今月八日に禁裏へ召し出された。常の御殿の庭に参上すると、勾当の内侍が扇を出して、これについて一首詠んでみなさいという。その扇に深山の桜の絵が描いてあるのを見て目賀多八郎は詠む。
よもちらじ絵にかく山の櫻華あふきは風のやとり成とも |
天皇は非常に気に入られて即座に大夫に任じられ、武家伝奏を通じて屋形へ、この童子を大切に育て、成人すれば歌所の寄人にするようにと勅意を伝えられる。ところが神仏に見放されたのか今月三日に八郎三郎は病死する。前代未聞のことであり世にも稀なことだと世間で噂される。
十五日 公方が江州観音寺城へ参られ、二十八日に帰京される。この間屋形は贅を尽くし意を尽くしてもてなされる。
十八日 伊庭の馬場にて十五人の若者に弓術を披露させる。
射手の十五人が五回ずつ二度射た結果 |
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十五番 |
九 |
馬渕源太郎実賢 |
二十一歳 |
十四番 |
八 |
山内宗十郎成時 |
二十歳 |
十三番 |
九 |
澤田喜太郎忠宗 |
十八歳 |
十二番 |
皆 |
乾次郎三郎 |
十六歳 |
十一番 |
七 |
和田兵吉 |
十四歳 |
十番 |
九 |
田中伝八郎宗秀 |
二十七歳 |
九番 |
六 |
植村久作 |
十五歳 |
八番 |
九 |
藤堂善兵衛尉実成 |
三十一歳 |
七番 |
皆 |
高木右近義清 |
十三歳、屋形一門 |
六番 |
八 |
永原才次郎高光 |
二十一歳、同前 |
五番 |
七 |
河端左近大夫輝綱 |
十九歳、屋形甥 |
四番 |
九 |
谷口藤一郎 |
十五歳、のち民部少輔という |
三番 |
八 |
匹田十五郎 |
十七歳 |
二番 |
皆 |
前田孫大郎実頼 |
二十一歳、屋形一門 |
一番 |
九 |
和爾豊五郎実勝 |
二十九歳 |
(左より番号、当たった的の数、姓名、年齢) |
競技が終わり公方は十五人にそれぞれ太刀一本ずつ与えられる。また十五人の中から三人を選び再び五回ずつ射させたところ、一度も外れることがなかったので、武門の誉れであるとして三人に馬を与えられる。そして十五人全員を近習に召抱えたいと屋形に請われ、貰い受けられる。今月二十八日に公方が帰洛される際、この十五人は先陣に供奉する。彼らの父母兄弟は喜ぶこと甚だしく、また屋形も内心そうなればよいと思っておられたので非常に機嫌が良かった。この十五人の者たちの中には後に諸大夫あるいは四品にまで昇るものが多かった。この中で新将軍義輝公まで奉公したものは三人おり、三好逆意の際御所にあって指揮をとる。その三人とは河端、高木、谷口である。
十二月
五日 戌の刻に東の空に三つの星が並んで出る。十日まで消えず。
十八日 三井寺の光浄院より火が出て、坊舎十七ヶ所を焼失する。
十九日 岡山に観音寺を建立され、永原大炊頭実冬を奉行とされる。これは翌年二月に完成する。屋形は観世音をことさらに敬っておられる。というのはご先祖の佐々木大明神が観世音を鎮守として当城を観音の山に築き、住まわれたからである。そういうわけで現在に至るまで敬っておられるのである。
二十五日 屋形が上洛され、従四位下、近江守に任ぜられる。
巻第二・完