江源武鑑巻第一
一 天文六年丁酉から同十九年五月四日まで将軍家と号するのは尊氏卿の十三世義晴公の事である。
一 天文十九年庚戌五月から永禄八年乙丑五月十九日まで将軍家と号するのは義晴公の嫡男義輝公の事である。
一 永禄十一年戊辰から将軍家と号するのは義晴公の次男義昭公の事である。元々は南都一乗院の御門主である。信長、義秀の崇敬により還俗し将軍と号する。詳細は日記にある。
江陽屋形次第 前代は省略する。
一 応仁元年丁亥四月から文亀三年癸亥四月まで屋形と号するのは高頼公の事である。
一 文亀三年癸亥五月から永正十五年七月九日まで屋形と号するのは氏綱公の事である。
一 永正十五年戊寅から弘治三年二月三日まで屋形と号するのは義実公の事である。
一 弘治三年丁巳二月から永禄四年まで箕作義賢(承禎)が管領職を預かり屋形と号す。前屋形義実の嫡男義秀が幼少のためこのようになる。
一 弘治三年丁巳二月から天正十年五月二十四日まで屋形と号するのは義実公の嫡男義秀公の事である。
一 天正十年壬午五月から元和七年まで屋形と号するのは義秀公の嫡男義郷公の事である。
一 義郷公の嫡男は当年三歳で国を失う。このため屋形と号せず。龍武御曹司と申すのはこの者である。
江陽之日記家々書伝
一 永原大炊頭実高の家にて義実公から義秀公までの二世を記す。
一 後藤但馬守頼秀、息子喜三郎が二代に亘り義実公から義秀公までの二世を記す。
一 目加多摂津守綱清の家にて義秀公から義郷公までの二世を記す。
一 馬渕伊予守定晴は後に頼鬼と号するが、元和七年までを記す。
一 浅井土佐守長冬の家にて同年代まで記す。
以上五家の日記を総合し、元和七年辛酉八月二十二日に改めて江源武鑑と号する。
佐々木一家流々名字之分系
一 志賀 佐々木五代の嫡領成頼の三男成経が元祖である。
一 真野 同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
一 木村 同七代の嫡領経方の三男定道が元祖である。
一 伊庭 同七代の嫡領経方の四男行実が元祖である。
一 愛智 同七代の嫡領経方の五男家行が元祖である。
一 乾 同七代の嫡領経方の六男行範が元祖である。
一 加地 同九代の嫡領秀義の三男盛綱が元祖である。礒部、東郷、倉田、飽浦はすべて加地の庶流である。
一 野木 同九代の嫡領秀義の四男高綱が元祖である。
一 隠岐 同九代の嫡領秀義の五男義清が元祖である。塩屋、尼子、富田、南浦、伊野、湯野、亀井、高岡、左志、山佐、田原、佐世はすべて隠岐の庶流である。
一 吉田 同九代の嫡領秀義の六男厳秀が元祖である。
一 万木 同十代の嫡領定綱の嫡男広綱が元祖である。葛岡は万木の庶流である。
一 鏡 同十代の嫡領定綱の次男定重が元祖である。
一 澤田 同十代の嫡領定綱の三男定高が元祖である。
一 馬渕 同十代の嫡領定綱の五男広定が元祖である。長江、堀部、堀、青地はすべて馬渕の庶流である。
一 佐保 同十代の嫡領定綱の六男時綱が元祖である。
一 伊佐 同十代の嫡領定綱の七男行綱が元祖である。
一 山中 同十代の嫡領定綱の八男頼定が元祖である。
一 大原 同十一代の嫡領信綱の嫡男重綱が元祖である。白井は大原の庶流である。
一 高嶋 同十一代の嫡領信綱の次男高信が元祖である。平井、横山、田中、朽木、永田はすべて高嶋の庶流である。
一 京極 同十一代の嫡領信綱の四男氏信が元祖である。桐谷、黒田、田中、小寺、高谷、岩山、倉知はすべて京極の庶流である。
一 西條 同十二代の嫡領泰綱の三男長綱が元祖である。松下は西條の庶流である。
一 鳥山 同十二代の嫡領泰綱の四男輔綱が元祖である。
一 六角 同十四代の嫡家である。頼綱から時信の間に定信、成綱、宗綱の三代が嫡家を受ける。しかしながら仔細あって時信が頼綱から家を継ぐ。このため代に数えない。
一 堀部 同十三代の嫡領頼綱の四男宗泰が元祖である。堀場、森川は堀部の庶流である。
一 山内 同十四代の嫡領時信の三男信詮が元祖である。
一 坂田 同十五代の嫡領氏頼の三男氏高が元祖である。多賀は坂田の庶流である。
一 高宮 同十五代の嫡領氏頼の四男信高が元祖である。落合は高宮の庶流である。
一 駒井 同十六代の嫡領満高の次男高郷が元祖である。
一 村井 同十六代の嫡領満高の三男教綱が元祖である。池田は村井の庶流である。
一 三上 同十六代の嫡領満高の四男満冬が元祖である。
一 野村 同十七代の嫡領満経の次男久綱が元祖である。
一 鯰江 同十七代の嫡領満経の三男高昌が元祖である。
一 建部 同十七代の嫡領満経の四男満氏が元祖である。
一 永原 同十八代の嫡領政頼の次男高賢が元祖である。
一 種村 同十八代の嫡領政頼の三男高成が元祖である。和田は種村の庶流である。
一 箕作 同十九代の嫡領高頼の次男定頼が元祖である。
一 大原 同十九代の嫡領高頼の三男高保が改めて大原氏を継ぐ。
一 梅戸 同十九代の嫡領高頼の四男高実が改めて勢州の梅戸氏を継ぐ。
一 八幡山 同二十代の嫡領氏綱の次男義昌が元祖である。河端は八幡山の庶流である。
一 武田 同二十一代の嫡領義実の次男義頼が改めて若州の武田氏を継ぐ。
全部で佐々木の庶流は八十余家である。この他末々の流々については記す余裕が無いので省略する。
江陽御代々制法條々
一 文武の両道に専ら精進する事
一 旗頭、その他近習、一門の面々の居城の普請についてはたとえ修補といえども必ず言上しなければならない、言うまでもなく新城を構える事を固く禁止する事
一 旗頭の内で隣国と盟約を結び徒党を組む者があればすぐに言上しなければならない、その徒党の領地を言上した者に与える事
一 旗頭の内で密かに婚姻を結んではならず必ず言上しなければならない、言うまでもなく他国と婚姻を結ぶ事を固く禁止する事
一 国の大名、小名は観音寺城に参勤するに当たりそれぞれの分限に応じ多勢に過ぎてはならない、出陣のときは例外である事
一 衣裳の品々についてはみだりに着用してはならない、白小袖は受領の旗頭以下は固く着ることを禁止する、一門の面々は例外である事
尚、沙門並に小童、御免の老人も例外である事
一 乗輿については一門の面々並に旗頭の他は一切乗ってはいけない、沙門、小童、病人、老人はこれを免ずる事
一 倹約に努め居所、雑具等に至るまで贅沢をしてはいけない事
一 国内の城々では毎年八月に兵糧米を詰め替え定めの通りに蓄えておく事
一 制法に背き追放された輩を旗頭は城中に置いてはならない、もしそのような事があれば匿った者も同罪である事
一 旗頭、その他近習は会合して色を好んではいけない、また諸勝負は固く禁止する事
一 旗頭内で仔細あって追い払われた者を召抱えてはいけない、これは口論の基である、先主に関わる仔細が無ければ召抱える事
一 毎年六月中に旗頭、その他頭人は組中の武具馬具等を改める事
一 自領と他領の境界を越えて殺生を行ってはいけない事
一 人夫については通常は千石につき一人、城普請、川除等の場合は千石につき五人ずつ遣わすこと
尚、出陣のときは例外である事
以上十五箇條の制法を固く守らねばならない
年号月日 屋形 御在判
江陽代々御出軍制法條々
一 神明を崇敬し上下の礼儀を正しくする事
尚、鎧を身に着け出戦したならば仏神に礼を為すことは無い、心礼が最も大切であり特に人間にとっては言うまでもない、これは古来の名将が定めるところである
一 貝の音を以って出陣の合図と定め、遅速があってはならない事
一 金鼓を聞いて進退を正しくする事
一 攻撃の命令には遅速なく正しく従う事
一 手に余る強馬を所持する事を禁止する事
一 軍中では話をせず静謐を守る事
一 馬は脚の強いものを武具は頑丈なものを求める事、戦具で奇麗なものを好んではいけない事
一 力量が及ばない大指物、太刀、長刀、鑓を所持しない事
一 定め置くところの五人組にて一人が軍法に背けば残りの四人も同罪である、ただしすぐにこれを討てば残りの四人は罪を免じる事
一 敵に相対して命を惜しまない事
一 門を出てからは敵に遭遇する覚悟を当然しておく事
一 敵の善を談じ味方の悪を談じるのは必ず弱兵の言い訳でありこれを固く禁じる、確かに邪説が人を惑わす事は古今に多くこれを禁じ罪とする事
一 無二の忠心を持って日夜勝利のための工夫をする事
一 敵国内に縁者、親類、朋友がいたとしても許しのない者が妄りに書状の遣り取りをしてはいけない事
一 旗頭並に軍奉行から諸卒に至るまで親子のように思い合戦での功を考える事
一 軍中においては過去の遺恨があるといえども少しもその事は考えず互いに勝利の工夫や密談をする事
一 軍奉行並に旗頭は軍中にて忠戦を評価するに当たり関係の親疎は考えずありのままを沙汰する事
一 軍中では遊女を禁止する事
一 戦場において味方に利益をもたらす計略があれば愚計であるかどうかを気にせず密かに書状を以って大将に言上する事
一 味方の非義があればそれが諸卒は言うまでもなくたとえ大将の場合であっても知っている内容を憚ることなく密かに書状を以って言上する事
一 敵国において押買、狼藉を禁止する事
一 神社、仏寺は言うまでもなくその他民家を破壊したり竹木を伐採してはいけない事、軍用については言上する事
一 宿に入る或いは店屋を過ぎる時は行儀を正し善悪を語ってはいけない事
一 敵国において老人童女を殺してはいけない事
一 行軍の途中で備を出て妄りに飲食をしてはいけない事
一 合戦の最中に用所があれば一騎で備を出て用所を済ましすぐに戻る事
一 上下の持鑓は馬の傍を離れてはいけない事
一 軍中の小屋場において諸勝負の遊びを禁止する事
一 合戦の時は諸道具を携え諸人の妨げにならないようにする事
一 軍中での大酒を禁止する事
一 大将の下知なく妄りに私的な矢文を射る事を禁止する事
一 戦場において私的な物見を出してはいけない事
一 敵陣から矢文が来たならばこれを披見せずすぐに大将へ持参しなければならない、もし披見したならば重罪とする事
一 軍中において秘事を伝え聞いた時これを他言すれば重罪とする事
一 軍中において他の備へ出入りする事を禁止する事
一 旗頭並に頭人が自分自身の功名を気に懸けるのは誤りでありその罪は軽くない、軍勢をうまく指揮し時節を知る事が最高の忠功でありこれ以上のことはない事
一 物見の武士が自分自身の功名を気に懸けて注進を滞らせれば重罪である、逃げ損ねて傷を負ったならば徒歩の物見を以って注進する事
尚、物見はその姿を見られずに敵の強弱、地の利を見抜きすばやく注進することを大忠とする
一 小屋場において妄りに乗馬を放しておいてはいけない、もし取り逃がすような事があればけしからぬ事である事
一 小屋において妄りに不浄をすればその遠近を糺して重罪とする事
一 軍中では小屋場での火事に最も用心するよう固く申し付ける事
一 陣中にて火事が発生すればそれぞれ自分の陣所を堅く守り妄りに出てはいけない、その陣のみで日を消しもし火勢が盛んであれば下知を与える事
一 軍中において喧嘩、口論がある時妄りに出合ってはいけない事
一 陣中において馬を放してはいけない、もし放したならば罰金を取る事
一 戦場において負傷者を見捨ててはいけない、親疎に関係なく助ける事
一 もし狭い土地で先手が敗北すれば二番備は左右へ開き受け入れる、そのような地形がないときは先手はたとえ残らず討死するとしても味方の軍勢に逃げ懸かってはいけない、もし逃げ懸かってくるようであれば二番備は陣を敷きたとえ親子兄弟であっても討ち留める事
一 人が討ち取った首を奪い取る事はきわめて重罪である事
一 軍中において財宝を蓄える事は大いに弱兵のすることであり固く禁止する、ただし貧しい兵卒が乗馬を死なせた場合は財宝を取っても許す事
一 軍中において酒家に入ってはいけない事
一 富貴の里並に家を奪ってはいけない事
一 大将を軽んじ法を破る者があれば速やかに誅伐する事
以上五十箇條々を固く守らなければならない
年号月日 屋形 御在判
江陽旗頭中
管領之国々城主中
自佐々木大明神代々屋形所伝団図
図は省略します
柄の上から剣頭まで一尺五寸。柄の長さ一尺三寸。柄の内に色々と仔細がある。
星はいずれも金。
団裏
図は省略します
これは金の日輪である。寸法三寸四方である。
この日輪の内に口伝がある。代々の屋形の相伝である。氏綱公の嫡男義実公が幼少の間は定頼がこれを伝受し後に管領義実公へ相伝するという。
この団扇の図を以って御一門の面々は団扇を作る。このため旗頭もこれを知る。先代氏綱公の御代は御一族といえどもこれを拝することはなく、代々の屋形の秘宝であった。詳しくは記さない。
御陣扇事
一 代々所伝の御陣扇は長さ一尺二寸であり、扇の先は剣形である。要の所も剣形である。
一 表は前面金地に朱の日輪、裏は前面銀地に朱の月輪がある。
一 表裏の日、月は寸法三寸四方である。
一 骨は七本骨で要に穴があり緒が付いている。
一 猫間は一寸二分である。
一 畳目の横幅は先で一寸五分、下で一寸である。
一 扇の先は開くと雁木である。
この他にも様々な口伝があるが旗頭は知らない。伝えられているのは以上の通りである。
御旗図
図は省略します
佐々木二尊の御旗というのはこれである。二尊の御書付は村上天皇の勅筆である。
一 旗の長さは一丈二尺である。
一 招の長さは二尺八寸である。
一 旗の乳付に口伝がある。亀甲縫で三寸五分である。
一 旗竿は二丈八尺で巻所は三十六ヶ所である。口伝が多く名所に仔細がある。
この他に御旗は五本あり、すべてこれを写したものである。
一 御出陣の時に御旗を立てる定めの事
春、夏は大将軍の左に立てる。
秋、冬は大将軍の右に立てる。
一 合図の旗の次第
先備五本 中備五本 本陣五本
森林青色 山坂黄色 敵が近づけば赤色 河堀白色 野田黒色
以上口伝あり
一 旗頭各家の旗については近代の氏綱公、義実公、義秀公三代では江東が白、江北が黒、江西が黄、江南が赤と定められる。
これは代々、江州の吉例の次第である。堀掃部頭氏時は代々の御旗の家である。詳しいことは堀家にある。御本所の印というものがあり、これは金の御幣である。図は不要である。
御幕之事
一 幕には一千二百四尊の重要な口伝がある。
一 幕には男幕、女幕の口伝がある。縫い方に口伝がある。
一 外幕、内幕はすべて白である。
一 御陣幕の長さは三十尺で、日月二十八宿を表現する。
幕五幅について
上の幅は空、二の幅は風、三の幅は火、四の幅は水、五の幅は地、
また上の幅は冠という、二の幅は物見という、三は中の幅という、四は無名の幅という、五は芝引の幅という
一 五ヶ所に四目結の御紋がある。
ただし嫡家は直接付け、庶流は隅々に付ける。これは嫡庶の区別である。
一 紋については次の通りである。
一紋 妙* 二紋 法* 三紋 蓮* 四紋 華* 五紋 経*
弥陀 釈迦 大日 阿閦 薬師
*は梵字のため表現できません
一 紋を付ける幅は中の幅、二、四の幅に掛かる。口伝あり。
ただし庶流は芝引の幅の色を変える。
一 乳付の数は三十六である。嫡家は白で庶流は色を変える。これは嫡庶の区別である。
一 乳の中に、臨兵闘者皆陳烈在前怨敵消滅悪魔降伏怨敵消滅天地和合皆令満足過去現在未来、と書く。称号、官位、実名、在判、年号月日を乳毎に書き入れる。
一 物見は七ヶ所で七星を表現する。
破軍星、武曲星、廉貞星、文曲星、禄存星、巨文星、貪狼星
七星は一つ一つ口伝が多い。
一 物見の寸法は日の物見が九寸、月の物見が一尺二寸、残りの物見は七寸で七ヶ所にある。
一 幕の手縄は長さ三十六尺である。
一 幕串は四本で口伝がある。
一串 多門 一串 持国 一串 増長 一串 広目
阿閦 宝勝 弥陀 釈迦
一 幕串は四本を五間に立てる。口伝あり。
一 幕串の緒の留め方は鷹のようである。
一 幕を張る日は金剛奎日、壬癸の日である。
一 同様に避ける日は甲乙庚辛の日、辰午申酉戌の日である。
一 大将軍の衰日、六害日を避ける。
ただし近代の江州屋形高頼公、氏綱公、義実公、義秀公四代は善悪を問わず毎月十一日、二十一日の両日を吉例とされる。このため陣道具はとりわけこの日に用いられる。前代の日取は用いられない。
一 六害日 正巳 二辰 三卯 四寅 五丑 六子 七戌 八亥 九酉 十申 十一未 十二午
一 幕の出入りは五紋の下を通らない。口伝が多い。
一 同じく出入りについて、大将軍は日の物見の下を出入りし日の物見の内から敵を見る。諸卒は日の物見を一間避けて出入りする。幕の下を出入りするときに手を返す事を大いに忌む。
以上幕についての條々は多いので省略する。
一 軍中においての幕の張り方は日中は表、夜中は裏である。紋の内外の事である。
一 陣中での幕言葉は味方が張ると言い、敵は引くと言う。
御采配事
一 陽の采配は金、陰の采配は銀である。
一 采配の紙は九十八枚であり、それぞれ箔の下に九万八千の軍神の名号を書く。
一 紙一枚を二枚に切る口伝あり。
一 采配の紙は檀紙を用い、箔は勝木に漆で置く。
一 采配の紙は長さ九寸、巻目一寸八分、紙幅七分五分九分である。口伝が多い。
一 采配の串に勝軍地蔵の梵字を書き付ける。采配の方には諸敵退散の法、柄の方には一字金輪五壇の法の加持祈祷を行う。
一 陽の采配の串は長さ二尺八寸、藤の数九ヶ所であり、陰の采配の串は長さ三尺六寸、藤の数十五ヶ所である。串の木は勝木である。
一 采配の縄は左縒で一寸八分である。
一 緒付の穴に口伝あり。穴から上に八天狗の呪がある。采配の巻目に摩利支尊天の梵字を書き込む。
一 采配の招の事
七五三
口伝によれば、敵を招く時は左から右へ三回、味方が懸かる時は左から上へ五回、味方を招く時は上から下へ七回、味方の軍勢を引く時は右から左へ七、五、三と振る。
一 貝の吹き方
一番に一息ずつ七回 二番に一息ずつ九回 三番に一息ずつ十一回である。
太鼓の事
一 太鼓の直径は一尺二寸、筒の長さは一尺五寸、竜頭と筒の間は一寸五分である。陰の方の鋲数は三十六で張懸は一寸八分、龍頭の壷は七寸である。陽の方の鋲数は二十八である。
一 太鼓の打ち方は、陰は陰と打ち、陽は陽と打つ。懸太鼓は次第上がりで数を定めず三度、後陣懸は次第上がりに数を定めず五度、左右の備懸は次第上がりに数を定めず七度、横鑓懸は乱調子である。
一 鞭の寸法は二尺八寸で熊柳である。紫の緒は管領以外は用いない。旗頭は皆紅である。
大将軍征矢の事
一 征矢には狩股を付けず負うという。羽先の形は笄の先を二つに割ったようなものである。羽の長さは九分余りで羽茎は一分である。元の茎の形は笄の先のようである。口伝は多いが省略する。
図は省略します
屋形代々御陣小屋取図 目加多摂津守が代々の御小屋奉行である。
図は省略します
一 陣符
口伝あり
一 江南、江西、江北、江東の旗頭の陣符は別にあるが記さない。
一 合言葉は討つかと問えば取ると答える。
ただし近代の高頼公、氏綱公、義実公、義秀公五代の屋形はその時々に合言葉を触れ渡される。故に以上は前代のものである。
以上江陽の陣道具は大方この通りである。日記の中に時の公方並に江州屋形一代一代の実名等を勘案して明らかにする。諸記並に古代の日記はあったが屋形が観音寺城を退去された天正十年六月に観音寺城は悉く焼失し、この時当屋形は幼少であったため代々伝わる宝器が残らず焼失した。詳しいことは天正十年の日記にあり、ここには記さない。
巻第一・完