永禄五年(壬戌)

一月

一日 本日から五日まで雪が降る。江北にて五尺余り積る。旗頭等の観音寺城への出仕の様子は例年通りである。

十五日 屋形が江州八幡宮へ参詣される。申の刻に地震があり、和田山城の南の石垣が七十二間に亘って崩れる。

二十八日 馬渕源太郎を越州の長尾へ遣わされる。密状のため内容はわからない。

二月

十三日 尾州の織田家から使節として織田市介信成という者が参る。この者が申すには、信長が近日再び濃州へ出陣するということである。このため加勢を頼みたいと申し上げる。屋形はこれに同意され、尾州から連絡があればすぐに江州の軍勢を差し向けようと返事をされる。

二十四日 屋形の母公の病状が悪くなり御一門の面々、旗頭等が観音寺城に馳せ集まる。箕作承禎公父子も登城する。後藤但馬守は浅井備前守に密談し、承禎公父子の登城は願ってもない好機である、兵を以って押し寄せ討ち取ってしまおうと申すが備前守は、それは義に反することである、義に反して人を害することがあれば必ず国家を乱す基になる、将来承禎公父子が国の害となればその時にこそ討ち取ればよいと申して後藤を止める。

三月

三日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われ、屋形並に御一門の面々、旗頭等が残らず参詣する。箕作後見承禎公父子は参詣しない。これは先月承禎父子を後藤、浅井が計らって討とうとしたことを伝え聞いたためであろうか。その本心はわからない。

二十三日 将軍家から細川兵部大輔藤孝が江州に下され、後見承禎父子と屋形は和解するようにとの上意を述べる。屋形は藤孝に対して、我が家中に不和などない、したがって和解するようなことはないと仰せになる。藤孝はそれに答えて、近年後藤、浅井等の御家人がややもすれば承禎公父子を討とうとしていることは京都までも聞こえている、このため将軍家は国の乱れを鎮めるようにと仰せになったのである、将軍家の上意であれば承禎父子を当城へ召し寄せて和解するべきであると申す。屋形は、将軍家が強いてそのように仰せになるのであればそれに応じようと仰せになり、すぐに箕作城へ平井加賀守を遣わして承禎父子を呼び寄せる。承禎公父子は郎従四百余騎を率いて観音寺城に出仕し、後藤、浅井が大手門に出迎えて同道する。上使細川藤孝は将軍家の仰せを承禎父子に語って聞かせ、管領と承禎父子の和解を実現する。承禎は上使細川藤孝に向かって、吾には毛頭下心などないのはこの通りであると一通の起請文を書いて渡す。上使藤孝はこのように和解が成った上はと御盃を請い万歳を祝す。藤孝は、吾は不肖の身であるが重大な御使として罷り越してこのように首尾がうまくいくことは何事にも勝る喜びであると申して一首を詠む。

こほりいし津田の入江も打とけて国もゆたかに春風そ吹

屋形は非常に喜ばれ、藤孝に龍雲という名馬を贈られる。旗頭の間でも近年は何の根拠もない噂が多く、今にも管領が箕作城へ攻め寄せるとか、後藤、浅井が承禎を攻めるなどと申して兄弟の間ですらこの人は管領の味方である、あの人は後見承禎方であるというふうに互いに心を隔てていたが、将軍家の下知により今本心から和解することはめでたい事である。これより屋形も承禎父子を愛され、承禎公も二心など無いかのように毎日観音寺城へ出仕する。

四月

八日 尾州から使節として織田九郎信治という者が参る。この者は上総介信長の舎弟である。密談の内容はわからない。

十五日 屋形は進藤山城守を尾州織田家へ遣わされる。その軍勢は七百三十騎で、南郡の御家人十三人を進藤に付けられる。どういう理由での加勢かもわからない。

二十日 酉の刻東方に白い気が三筋立ち、戌亥の刻に赤い気となる。上月甲斐守秀具死去。この者は管領の近習である。

二十八日 尾州へ遣わされた進藤山城守が江州に帰国し、内密に申し上げることがある。その内容はわからない。近年織田上総介信長の婿となってからは密談の事は後見承禎公へは相談されず何事も浅井、後藤と評定をし、後には織田家へ評議をされる。後見承禎公が内心怒りを覚えることは道理であるという。

五月

一日 尾州から使節が来る。織田家からの書状によれば、近日西美濃へ出陣するので江州からも軍勢を出して両方から斎藤右兵衛大夫龍興を攻め討とうということである。屋形は使節林佐渡守を御国の間に召して信長への返事を直々に仰せ聞かされる。その内容は、どうして龍興ごときの弱将を討つのに尾州、江州の両家で攻めることがあろうか、そんなことをすれば遠国までの聞こえもよろしくない、ただ信長の軍勢のみで追討するのがよろしいと申し上げるように、とのことである。密状の内容はわからない。

六日 尾州の織田家から使節がある。それによると今月三日信長は西美濃に向かって進発し数ヶ所に放火した。その軍勢は八千七百騎である。斎藤龍興は七千騎を率いて信長方の九條城へ押し寄せる。信長は洲股城から九條城へ加勢に入り、午の刻から合戦が始まって申の刻に終わる。織田軍は龍興の侍大将稲葉又右衛門の首を取り、その他にも大将首を四つ取る。尾州側では織田十郎左衛門の弟勘解由左衛門信名が討ち死にする。夜に入り戌の刻から大雨が降ったため双方相引きとなる。翌四日信長は濃州表の城々を攻め、防備のために犬山城へ織田十兵衛尉三百五十騎、洲股城へ池田庄三郎四百八十騎、九條城へ佐久間大学三百二十騎をそれぞれ配置して、尾州清洲に帰城したということである。

二十日 三次修理大夫義次から使節があり、近日上京する旨を告げる。このため屋形は旗頭等を率いて今宵子の刻に上洛される。その軍勢は一万八千である。江北の旗頭は観音寺城の在番として供奉はせず、江西、江南の旗頭等は残らず供奉し上洛する。この度の三好の上洛は嫡庶を論ずるためであったが、屋形は三好の本心を御存知なく、いつにない多勢で上洛される。

二十九日 三好修理大夫義次は訴えていた件が解決し帰国する。このため屋形も酉の刻に江州に帰座される。

六月

十九日 美濃国の前国主土岐範頼は近年浪人として尾州にいたが、今日江州に来て箕作後見承禎公の扶助を請け、高野という所に居住する。この人は代々美濃国の守護であり現在の範頼まで二十一代に亘って栄えた家柄である。しかし天文年間に家臣斎藤右兵衛大夫龍興の父山城守道三という者に領国を奪われ、国を追われる。そのころ美濃国にて土岐を蔑んで詠まれた落書が立ったという。

土岐はれとのりたてもなき四の袴美濃はとられてひとの成けり

これは土岐に武の才能がなかったためである。先程の斎藤道三と申す者はもともと山州西岡の百姓であったが、一年美濃国に下り土岐殿の家臣長井十兵衛という者に仕える。そして後に長井の跡を押領し、土岐領を掠め取り、旗頭等には賄賂を贈ってついに土岐家を追い出し、美濃国を押領した悪逆人である。詳しいことは日記には載せない。土岐家の日記に記述があるのでそれを尋ね見るとよい。

二十七日 後藤但馬守の屋敷に毎夜白い気が立つと人々が噂をする。これを屋形がお聞きになって、今夜直々に見てみようと観音寺城南櫓に登り御覧になる。すると人々の噂に違わず白い気が立っており、後藤の居城においても同様であるという。珍しいことである。易者が申すには非常に不吉な兆しであるという。

七月

十五日 屋形の母公が江西の三井寺に参詣する。この寺は女人禁制の寺である。しかしその昔こんなことがあった。開山智證大師の母が大師を懐かしく思い老後は常に会いたいと嘆くので、大師は三井寺の南の志慮谷という所に一宇を立てて母を住まわせ、修学の合間には時々母親の許へ通った。ところが母親は大師の住寺を見ることを深く望むので七月十五日だけは免じて母を寺へ入れた。この例によって現在まで七月十五日辰の刻から申の刻まで女性の参詣を許すという。志慮谷は昔は知谷と書いたが、大師が母を住まわせてその志を慮ったことから志慮谷と書くようになったという。詳しいことはこの大師の廟の記にある。

二十三日 屋形が平野田中坊道円に仰せ付けて祖母のために志賀郡和爾庄に一宇を建立され、西岸寺と名付けられる。後に国人から谷口寺と呼ばれる尼寺である。

八月

十五日 屋形が近習のみを従えて江西の石山に参詣される。本日近衛殿と三條殿が石山に来て月を御覧になる。屋形は非常に楽しまれ石山秋月という題を出されたところ、御両所が一首ずつ歌をお詠みになる。

石山やにほてる月のさやけきは唐土まても曇なかるらん   近衛殿

聞しより心そ清る石山の月もひかりの数そへててる     三條殿

屋形の小姓で馬渕千世熊丸という今年で十一歳になる者が三條殿の御前にひざまづいて一首仕りましょうと申す。近衛殿はこれをお聞きになって、風流な小童である、早く詠んでみせよと仰せになる。馬渕は

石山やにほの海てる月影は明石も須摩も外ならぬ哉

と古歌を詠み、近衛殿、三條殿は非常に面白がられる。この歌は近江八景の一つである。当国の名所歌とはいえ弓馬の道に忙しく暇の無い身で、しかも小童である者がこのような歌を詠んだことは不思議なことであると非常に楽しまれ、近衛殿は尚も好ましく思われて千世熊丸の扇を取り、事細かに言書し近江八景を書き付けて千世熊丸に与えられる。その扇には次のように書かれている。

永禄第五の秋八月十五の夜予ふとおもひいてて江西石山の月をみむとて三条の前亜相をつれて都をしのひいてここにしも来りぬるに当国の国守源義秀折しもおなし心にて月みるとて此寺にきたりてわれをみてあなかちに興してあそひ侍れり国主石山の秋月と云四字をいたしてうたよめとのそむその人にしすてかたくて和歌の一首をつつりなす所に国守の小童十にあまるへしとみるかおのおのうたよむといへはわれもよまんといひて此所の古歌なん一つよみ出す弓馬の家にして殊更にひまなき世のさかひにたれなんおしへけるよとおもふにつけてあはれにおほえ仕れはかのわらんへのこしにさしおくあふきとり月のひかりをたよりにあふみの八つのけひをかきあたふもろこしには国をあつめて八のけひをあらはしわか国はなにあふみちのその一くにをもつてもろこしの景にくらへてなをその心のすめる事もろこしにもましける事おもしろしおもしろしわか国あふみちの八つの景をしるし侍る

     比良暮雪

雪ふるるひらの高根の夕くれは花のさかりにすくる春哉

     堅田落雁

みねあまた越てこしちにまつちかき堅田になひき落るかりかね

     矢橋帰帆

まほひきて矢橋にかへる船は今打出の濱のあとの追風

     粟津晴嵐

雲はらふ嵐につれてももふねもちふねも浪のあはつにそよる

     三井晩鐘

おもふそのあかつきちきるはしめそとまつきく三井の入あひのかね

     石山秋月

石山やにほのうみてる月かけはあかしも須摩も外ならぬかな

     勢多夕照

露時雨もる山とをくすききつつ夕日の渡る勢多の長はし

     唐崎夜雨

よるの雨に音をゆつりて夕風をよそになたてそから崎の松

              近衛前関白幼の後をおもふて

出おきし亀はいく世かしきしまの有あらんほと人の見るらめ

以上の内容を扇の片面に書いて千世熊丸に与えられる。翌日御両人と同船して勢多から津田港へお帰りになる。船中にて近里遠山を題にして近衛殿、三條殿が歌を詠まれる。日記に載せるには及ばない。

二十日 近衛殿、三條殿が多賀神社に参詣される。屋形は後藤但馬守、目賀多摂津守両名を案内の為に差し添えられる。

二十三日 御両所が上京される。

九月

九日 酉の刻に苗鹿社が鳴動する。これは番神の一つである。

十九日 白髭大明神から一町程沖の湖面に石の鳥居が現れ、二十四日に消える。これは非常に不吉な兆候であり昔から聞いたことがないと人々が話していたところ、平井加賀守が、その昔康安元年天下逆乱の時に白髭神社の前に二町余りの橋が出たことがあり、また竹生島から箕浦へ三里余りの所の湖面から石橋が出たことがあったと旧記に載っている、昔にもあったことであると申す。いづれにしても国家の滅ぶ兆しであると国人たちは大いに心配する。

二十四日 澤田武蔵守忠高入道覚雲斎死去。享年八十三歳。この人は江北の旗頭であり、氏綱、義実、当屋形の三代に仕えて数々の軍功を立てた老将である。屋形は非常に悲しまれ、澤田庄に一宇を建立して忠高寺澤田山と名付けその冥福を深く祈られる。真に人々は忠臣であることをうらやむばかりである。

十月

十四日 大津の奉行である大津日向守秀持は年来の非義が悉く露顕して去年から進藤山城守に預けられていたが今日その沙汰がある。屋形の母公青樹院殿の寛恕により一命を助け国を追放される。

二十七日 将軍家が自ら松田石見守を誅殺される。その罪状はわからない。

十一月

一日 夜子の刻に何事もないのに京中が大騒ぎになる。その理由を尋ねたところ逆心を起こした者がいて将軍家へ攻め寄せるのだということである。しかし夜が明けて二日になっても何も起こらない。真に不吉な兆しであるという。後に聞いたところでは四條辺りの町屋にて酒に酔った者共十人程が天下の御所に逆心の人ありと叫んだのが次第に広まってこのような騒ぎになったということである。

二十五日 天神の縁日のため将軍家が天満宮へ参詣される。これは昨夜将軍家が夢の中で

天下時雨るるかけの木葉哉

という一句を御覧になって今日北野神社に参詣されたものである。将軍家はこの句に

ふれはかたまる御代のことふき

と続けられたという。その時の花の下がこれを判断するにひどい凶兆であるという。しかしながら時の権威に恐れて吉兆であると祝す。

十二月

十三日 三井寺の門主が死去したと大津の奉行大津伝十郎が観音寺城に申し上げる。屋形は年来懇意にされていた門主であるので進藤山城守を三井寺に遣わして鄭重に葬礼を執り行われる。

二十五日 箕作右衛門督が後藤但馬守の居城津川に出向き、年来の悪心を悔いていると述べて後藤の娘との縁組を望む。後藤は、屋形の許可なく婚姻を結ぶことは制法で禁じられており認められないと申す。右衛門督は、それならば屋形に申し上げ許可を頂こうと永原大炊頭を遣わして屋形に申し上げる。屋形は後藤の思うように任せると仰せになる。後藤も無理に嫌うべき者ではないと考え婚儀が成立する。日を置かず二十九日の吉日を選んで後藤の娘が箕作城へ輿入れする。長年後藤と箕作殿父子は表面上は仲良く振舞い本心では互いに害意を抱いていたが、この度の縁組で何事も丸く収まり国中の人々も安心したように見えた。平井加賀守が伊達出羽守に語ったところによれば、右衛門督が直々に後藤の館へ行き永原を遣わして娘との結婚を請い承諾を得るなどということは納得がいかない。屋形も思案なく許可されるのはいかがなものであろうか。義弼はもともと婆娑羅を好む血気の勇者である。血気の者にどうして真実の心があろうか。一時思い立っただけに違いない、ということである。伊達出羽守は、確かにそうであろうが近年義弼は屋形からよく思われていなかったのでその機嫌をとるために後藤の娘を自ら請い貰い受けたに違いないであろうと答えて話すのをやめる。

永禄六年(癸亥)

一月

一日 本日から三日にかけて大雪が降る。箕作義弼は例年と異なり後藤と父子の縁を結んだことにより同道して観音寺城に出仕する。京極長門守高吉は、珍しい年始の様子であると進藤山城守に語る。

八日 屋形が箕作承禎公の館にお出でになる。近年屋形は箕作に行かれることはなかったが今年初めて行かれる。このため承禎父子の歓待ぶりは際限ないものであった。後藤も水と火のような関係であったが右衛門督を婿にしてからは万事につき話し合い親子のように振舞う。

十三日 浅井備前守長政の小谷城へ屋形が移られる。十八日に観音寺城へ帰座されるまでの間浅井父子は心を尽くし美を尽くして屋形をもてなす。

二月

十五日 東光寺にて前屋形義実公の年忌のため追善が行われる。今年が七年忌に当たるため今月の三日から万部の妙典の読経が行われる。江州御一門、旗頭が残らずこの寺に参詣する。

二十四日 将軍家が三好日向守の館にお出でになり、三日間お遊びになる。

三月

三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われるが、屋形は病気のため参詣されない。その他箕作殿父子、御一門の面々並に旗頭等は残らず参詣する。午の刻に屋形の代官として進藤山城守が装束を身につけて神社に向かう。このごろ箕作右衛門督は近習を集めて密談をしている。毎晩門戸を閉じて人を通さないということである。

二十三日 午の刻に右衛門督が後藤但馬守とその息子又三郎を箕作城にて討つ。未の刻に義弼は観音寺城に出仕して、種村彦四郎、建部采女正両名が後藤父子を討ち、その場から逃走したと申し上げる。屋形はこれに返事をされず、右衛門督はさらに申し上げることもなく箕作に帰る。同日旗頭達はこの知らせを聞いてすぐに観音寺城へ馳せ参じる。その面々は、京極長門守高吉、朽木宮内大夫貞縄、浅井下野守祐政、同備前守長政、蒲生右兵衛大夫氏高、駒井美作守氏宗、同兵部大輔氏隆、吉田出雲守秀重、澤田筑前守忠冬、同兵庫頭忠継、山崎源太左衛門尉秀家、青地伊予守秀資、鯰江美濃守実春、同又一郎秀国、和爾越後守氏條、山岡美作守実俊、高宮三河守信氏、池田但馬守秀政、同孫二郎高政、和田和泉守貞国、同中書秀純、片桐備後守実光、赤田信濃守信光、久徳左近兵衛尉実時、木村豊後守宗重等である。屋形はそれぞれに対面し、何事による出仕であるかと仰せになる。返事をする者はない。屋形はさらに、皆すぐに居城に帰るように、たとえ右衛門督が逆心を起こしたとしても在番の者達がいればどのようにでも対応することができようと仰せになる。そこで二十四日になって集まった旗頭達は残らず暇を貰ってそれぞれの居城に帰る。この日屋形が在番の面々を召し出して仰せになるには、この度後藤父子が箕作にて横死した事件は詳しく究明しなければならないということである。そこで後藤の家人である前田権内、宇野七兵衛尉、弓削角内左衛門を観音寺城に召し寄せ進藤山城守に糺させたところ前田権内が、先月から右衛門督殿が近習を集め門戸を閉ざして評議をしていたことについては近習の一人である野村丹後守がよくその内容を知っていると申す。それならば野村を召し出せと仰せになり、観音寺城に召し寄せて進藤山城守が問うたところ、初めは後藤父子が種村、建部両人と双六で争いになり箕作の二の丸にて殺されたと答える。進藤はさらに、後藤は義弼にとっては親に当たる人である、どうしてその程度のことで後藤を討たせ、なおおめおめと種村、建部を逃がすであろうか、先月から右衛門督が近習の面々を集め毎晩談合していたことは伝え聞いているがこれは何についての評定であるか、国の政務についての事ではあるまい、又近国を乱してこれを取ろうという相談か、いずれにしても屋形の下知がなければ其の方らには働くこともできないことである、とにかく先月からの評定の内容を聞かせよ、と理を尽くして問えば野村はこれ以上嘘をついてごまかすことができずすべてを白状する。それによれば、義弼は三年前から江州の管領職を奪い取って屋形を滅ぼし江州を我が物にしようとたくらんでいた。このため前屋形が取り立て特に大身である後藤父子さえ亡き者にすればその後は国を押領することもたやすいと考えて、近習十八人の面々に霊社の起請文を書かせ先月から後藤を討つための評定を開いていた。去年十二月に急に後藤の娘を右衛門督が請い貰い受けたのも以前から仲が悪かったため後藤と家族になって容易に討ち取ろうという計略である。又種村、建部が後藤父子を討ったことは右衛門督の内意であり、わざと双六をさせ争いを起こさせて両人に討たせたのである。助太刀の者八人は皆右衛門督の近習である。種村、建部は義弼の下知により勢州国司の許へ落ち延びる支度ができていたが未だ江雲寺に隠れている、ということである。山城守は詳細な供述書を作成し屋形に申し上げる。屋形は大いに怒り、目賀田摂津守に仰せ付けて江雲寺に遣わし、種村、建部両名を捕らえられる。種村、建部は観音寺城下に牢を作って押し込められる。屋形はさらに馬渕與右衛門尉に両名を追及させたところ、以前野村が申したことと少しも違わない内容を話す。

二十五日 屋形が観音寺城在番の面々に箕作城を攻め落とすよう仰せ付けられる。在番の面々は進藤山城守、同加賀守、目賀田摂津守、三井出羽守、楢崎民部少輔、同太郎左衛門尉、平井加賀守、永原大炊頭、同筑前守、伊達出羽守、種村大蔵大輔(囚人彦四郎の兄)、礒野丹波守、阿閉淡路守、野村肥後守、永田刑部少輔、堅田兵部少輔、箕浦次郎右衛門尉、小川孫一郎(後の土佐守)、大宇大和守、今村掃部、三上伊予守、多賀新左衛門尉、三田村左衛門尉、大野木土佐守、浅井雅楽頭、鏡兵部少輔、野村十内左衛門尉(後の越中)、澤田甲斐守、乾主膳正、山田江右衛門尉、山岡孫太郎、野村兵庫助、寺田善右衛門尉、石田孫九郎、池田孫市、藤堂作内右衛門尉、坂田河内守、町石見守、三雲十内左衛門尉、木村源五左衛門尉、村井長兵衛尉、京極三郎左衛門尉、匹田四郎左衛門尉、蜂屋所右衛門尉等であり、その軍勢は一万二千騎である。箕作城へ三手に分かれて向かう。

   一番に向かう面々

永原大炊頭を大将としてこの手に付く面々は、匹田四郎左衛門尉、京極三郎左衛門尉、蜂屋所右衛門尉、村井長兵衛尉、木村源五左衛門尉、三雲十内左衛門尉、坂田河内守、藤堂作内右衛門尉、町石見守、池田孫市郎、石田孫九郎、寺田善右衛門尉等であり、その軍勢は二千七百騎である。

   二番に向かう面々

目賀田摂津守を大将としてこの手に付く面々は、楢崎太郎左衛門尉、永原筑前守、野村兵庫助、山岡孫太郎、山田江右衛門尉、乾主膳正、澤田甲斐守、野村十内左衛門、鏡兵部少輔等であり、その軍勢は四千二百騎である。

   三番に向かう面々

進藤山城守を大将としてこの手に付く面々は、三井出羽守、楢崎民部少輔、平井加賀守、伊達出羽守、礒野丹波守、種村大蔵大夫、阿閉淡路守、野村肥後守、永田刑部少輔、堅田兵部少輔、箕浦二郎右衛門尉、小川孫一郎、大宇大和守、今村掃部助、三上伊予守、多賀新左衛門尉、三田村左衛門尉、大野木土佐守、浅井雅楽頭等であり、その軍勢は五千三百騎である。

三方から箕作城に押し寄せ鯨波三度で威勢を揚げる。右衛門督はかねてから用意をしていたと見え、大手へは三雲三郎左衛門尉、池田三内、馬渕十兵衛尉、野村仁右衛門尉、戸田半内左衛門等に二千の兵を与えて防がせる。南坂へは三雲新左衛門尉、高野瀬主殿頭、同八郎兵衛尉、水原伝内左衛門尉等に一千二百騎を与えて防がせる。津田口には四宮主税助、高田大学助、津田右近、同内匠等に七百騎を与えて防がせる。右衛門督の軍勢の内千二百騎は勢州国司からの援軍であるという。今月二十日から国司と約束して密かに軍勢を五騎十騎と箕作城へ呼び入れたということである。そうして午の刻に合戦が始まり、箕作の坂半ばまで攻め込み義弼の軍勢は三百二十騎が討たれる。屋形の兵は百五十騎が討ち死にする。この合戦の鯨波を聞きつけて国中の旗頭が早馬を仕立てて観音寺城に集まる。浅井下野守祐政、同備前守長政は、我々父子に仰せ付けてくださればすぐに承禎父子を攻め滅ぼしてみせましょうと屋形に申し上げる。屋形は、もしも在番の者共が攻め倦んでいるように見えれば其の方等を差し向けようと答えてお止めになる。江州東西南北の旗頭は、ついに義弼が逆心を起こしたと馳せ集まり、その軍勢は夥しいものである。そこで義弼の父承禎は落合伊賀守を観音寺城に遣わして次のように申し上げる。吾は前屋形が他界された時から当国の政務を預かり、当屋形をもり立てて今年まで管領の後見として国家の繁栄に努めてきたが、後藤但馬守のわけのわからない讒言のため息子義弼が逆心を抱いているように思われるにつき承禎は真に国家の乱れを悲しんでこの身に誤りが無いことを知りながら去年上使細川兵部大夫藤孝が下向した時に一通の起請文を屋形に差し出したが、これは偏に国家の乱れを治めようと思ったからである。そうであるのでこの度後藤父子が建部、種村と興に乗じて口論になり討たれたことは全く義弼の陰謀ではない。後藤の娘を嫁に貰った上はどうしてそのようなことをするであろうか。それを野村が一時の災いを逃れるために白状した偽りの事柄を管領が真実であると思われたことを聞くと悲しみの涙が老いの眼からあふれ流れる。どうして承禎父子を召して直々に不審を糺されないのか、そうすればどんな間違いも起こりはしないであろう。また、右衛門督が勢州から加勢を呼んだということであるが、これは屋形に対する逆心では決してない。近年隣国と国境を争うことがしばしばあるが若年の義弼が管領の軍事で一人前の働きができるようにと思ってしたことであって、このように忠臣が逆に敵とされるのは嘆くに余りあることである。特に前屋形がその在世中に常に仰せになっていたことは、一族の間で争うことがあれば他国から侮られるきっかけとなるということであったが、屋形はこの言葉をお聞きになるべきである。早くこの包囲を解かれるなら承禎入道はこの首を差し伸べ観音寺城に出仕し、この身に非義の無い事を申し上げよう。息子右衛門督も元より屋形の気持ちに適わねばどのようにも思う通りに処断されるがよい。以上の旨を落合伊賀守が涙を流して申し上げる。屋形は特に言葉もない。京極長門守高吉が進み出て申し上げるには、承禎公の嘆きの言葉は尤もであるように思う、近年はとりわけ国々が騒がしくなっており親子の間柄でも安心できることはない、たとえ右衛門督父子を討ち取ったとしても却って国の害となることは多く利のある方を採るべきであると思う、早く箕作の囲みを解いて後見承禎を登城へ召し寄せ義弼の事は某に預けられよということである。このように理を尽くして諫言され屋形は、将来国の害となる者は義弼であるが、理に適った諫言を聞き入れないのは盲将の業であると仰せになり、澤田越前守を陣所へ遣わして進藤、目加田、永原の三将を召還される。この度の合戦は屋形と一族との戦であり下々の者は親子兄弟が敵味方となって戦うこともあったが、戦に尻込みし後退する者はいなかった。半日の合戦であったが勇臆を磨く出来事であった。江州の土民が屋形の味方合戦と呼ぶのはこのことである。

二十六日 承禎公が観音寺城に登城する。屋形は病気と称して対面されない。承禎は空しく箕作に帰る。同日未の刻、進藤山城守を使者として義弼を京極長門守高吉へ預けられる。酉の刻に義弼が近習十八人を供に引き連れて承禎公と別れる。自らの血気のためとはいえ数年住み慣れた箕作をすごすごと出て行き、京極家の氏寺である清瀧寺に入るのは哀れであると人々は言う。

二十七日 屋形が澤田越前守を遣わして箕作承禎を観音寺城にお呼びになる。承禎は鬱憤を抱きながらも力なく出仕する。屋形は対面され次のように仰せになる。義弼は近年非義が多くこの度の後藤但馬守父子が討たれたこともその評定に加わった者が白状した以上義弼の陰謀であることは疑いようがない。しかし強く謝罪した上は聞いてやらねばなるまいと思い、さらに父の遺言の中にも一家の中で争うことがあれば必ず他国から付け入られるきっかけとなるとあったことが第一の理由である。承禎のことは父が他界してからは偏に慈父のように思い国の政務を任せてきたが、その人が老いの眼を涙で濡らして色々と申されるのを哀れに思ったことが第二の理由である。京極高吉が理を尽くして諫言したものを用いないのは非礼に当たると思い、これに応じたのが第三の理由である。以上三つの理由によりこの度は義弼を助命いたし高吉に預け置くことにするということである。これを聞いて承禎公は言葉もなく涙を流して退出する。

三十一日 この度箕作表で軍功を立てた士卒に屋形が論功行賞を行われる。

四月

二日 右衛門督義弼の知行所を一ヶ所も削ることなく後見承禎公へ与えられる。承禎公は去る三年の冬に隠居して家督を義弼に譲り、栗本郡内に十八ヶ所ほどの領地を持っていたが、今義弼に譲った所領を返してもらったことは嘆きの中の悦びであると人々は話し合う。同日承禎公が観音寺城に登城し、賜った所領の礼を述べる。その時承禎公の涙は袖をびっしょりと濡らし、屋形も心中悲しく思い涙を流される。当番の旗頭達も皆袖を濡らす。

二十四日 承禎の次男賢永を嫡男に立てるよう屋形が進藤山城守を箕作の館へ遣わして仰せ付けられる。承禎公が山城守に向かって申すには、次郎賢永は前屋形の仰せで大原中務大輔高保の養子としたのに今またこのようにすれば前屋形の仰せをないがしろにすることになるのではないかということである。そこで山城守は戻ってこの旨を屋形に申し上げる。屋形は、確かに父の遺命を否定するように見えるかもしれないが考えがあってのことである、とにかく嫡男に据えるよう計らうがよい、賢永を嫡男にしたならば承禎へ与えた所領を残らず賢永に譲り、元のように承禎は隠居することが非常に望ましいと重ねて仰せ遣わされる。承禎公はこの上はあれこれと申すに及ばずと思い、次郎賢永を嫡男に据える。

二日 午の刻に洛南の東寺の塔が落雷のため焼失する。

五月

五日 佐々木神社の祭礼が行われる。今年は旗頭等一人も残らず立願の儀があり、神輿の前後に美を尽くし意を尽くして渡る者が数え切れないほどである。

十五日 本日から二十二日までの八日間、昼夜の四時六時を境に雨が降り、河内国半国が水に浸り人民一万六千余が死ぬ。山州賀茂川の水は四瀬になって流れ京東の町二十三町が流される。水に浸った国々の死者は多く記す余裕はない。江州の湖は九合になり、浦々九百七十五ヶ所が水中に沈む。河川は堤防を壊して氾濫し、各地に与えた損害は前代未聞であるという。

六月

十日 将軍家が京中の地子銭を免除される。この時の洛中奉行は松田対馬守宗賢、澤田若狭守忠永という者であり、この両名が公事等を取り仕切る。

二十四日 将軍家が愛宕山に近習のみを引き具して参詣される。二十五日に帰洛される。

七月

四日 奥州会津の屋形盛高が二本松国治を討ったため会津国が大いに乱れると、東国へ遣わしている例の山伏大泉坊が本日戻り申し上げる。前屋形の御代から江州国内の山伏、陰陽師を国々に遣わしてそれぞれの国の善悪をお聞きになる。このため例の山伏と申すのである。

十四日 将軍家が洛東の河原に高さ一間の棚を作って一万個の燈篭を並べ、十五日までの二日間一時も中断することなく一万人の僧を並べて念仏を唱えさせる。役についた僧が食事をとるときは有志の俗人がその間を務め念仏を唱える。これは去る五月近国遠国において水害で亡くなった人々を弔うために行われたものである。ありがたい御上の心遣いであるなあと人々は評する。

二十八日 屋形は後藤喜三郎を取り立てて但馬守の所領を与えられる。そして後藤父子の菩提を厚く弔うよう目賀田小三郎を遣わして仰せ付けられる。後藤は真に忠義を尽くした者であったのでこのように没後の賞を与えられたと思われる。

八月

十日 新庄伊賀守と今井刑部左衛門の間で嫡庶の論争がある。本日屋形が双方を召し出してその論を糾明したところ今井に非義が認められたので、所領等を召し上げた上で蒲生右兵衛大夫に預けられる。

二十五日 江北の天神の社が光を放ち鳴動すること甚だしいので、酉の刻に京極長門守高吉が早馬にてこの旨を観音寺城に申し上げる。非常に不吉な兆しであるという。

九月

二十日 大明国の雪峯子という儒者が本朝に渡来し、本日将軍家に謁見する。雪峯子は天地日月星辰五行陰陽太極無極の図を描いて将軍家に献上する。南禅寺の妙典和尚が将軍家の傍に侍り、話を聞き問答する。雪峯子が描いた図は次のようなものである。

以下、両曜之図、太虚元化之図、晦朔弦望之図、日蝕月蝕之図とそれぞれの説明が続きますが現代語訳が困難なため省略します。


以上の旨を妙典和尚が一々問答し、将軍家の耳に入れる。国々の在番衆はこれを書き写して持ち帰るという。この事を後に思い調べたところ慶長元年に大明国から万宝という書物が本朝に渡ってきたがその中にこの事が載っており、雪峯子が書いたものと同じであったという。

十月

十一日 山門恵心院の僧正が死去する。享年七十三歳。この人は屋形の一族である。屋形の名代として馬渕摂津守が午の刻に四明山へ登る。

二十日 山岡光浄院が早馬にて観音寺城に申し上げるには、今月三日から河内国若江に一揆が発生しその軍勢は三千騎に及ぶということである。若江は屋形の領地である。

二十一日 昨日の報告により青地駿河守、和田和泉守等が五千の兵卒を与えられ、申の刻に江州武佐を発ち河内表へ出陣する。

二十五日 河内国から報告がある。それによると一揆の大将三笠右馬頭という者は城中にて討たれ、残る者共が命乞いをしたため城を接収し、降人のうち七十三人は頭人であったため悉く首をはね残りの者は追い払ったということである。屋形は前田三右衛門を召し出して詳しく記させる。

二十九日 河内へ出陣した両将が江州に帰国する。酉の刻に観音寺城の本丸から光る物が箕浦の方角に飛ぶ。

十一月

四日 先月河内国若江の一揆を退治した青地駿河守と和田和泉守両人に屋形が感状を与えられる。次のような文面である。

この度河内国若江城が一揆等に奪われたので退治のために両人を差し向けたところ早速右馬頭光成を誅戮した。この計略の数々はすべてを数えることができないほど見事なものである。加増の領地を与えるのでいよいよ増して忠義を尽くすよう申し付けるものである。

永禄六年十一月四日                             義秀御在判

青地駿河守殿

和田和泉守に与えられた感状も同じ文面であるので日記には省略する。

二十八日 今上天皇が病気のため勅使として三條大納言が江州多賀神社に向かう。屋形は浅井下野守祐政を多賀に遣わして勅使等を饗応するように仰せ付けられる。浅井は装束を身に着け神社に向かうが、このことを聞いて屋形は大いに怒り三上美濃守を遣わして浅井を止められる。

十二月

十日 卯の刻から大雨が降り酉の刻に止む。雷が夥しく鳴り響き将軍家の東門に落ちて殿門の多くが焼失する。江州東光寺の本堂が落雷のため炎上し、僧侶三人が雷のため死亡する。前代未聞の大洪水となる。今まで十二月にこのようなことが起こる事はなかった。洛中の易者が勘文にて将軍家に申し上げるのによれば、天下に兵乱が起きる強い兆しであるという。

二十三日 細川晴元の館から出火して、国主達の館四十余軒、町屋九十二棟が焼失する。江州屋形の洛下六角にある館も残らず焼け失せる。近代にない大火事であるという。洛中の死者は三百人に及ぶという。


永禄七年(甲子)

一月

一日 天気は快晴。観音寺城出仕の様子は例年通りである。

二日 京極長門守の三男竹王丸が死去する。享年十三歳。儒学に通じ且つ和歌の道にも精通した若者であった。このため屋形は常に竹王丸は先祖高秀の風があると仰せになり、竹王丸を高秀と戯れに呼んでおられた。高嶋家を相続させその名跡を継がせる予定であったが竹王丸が死亡してしまったので、屋形は大野木右馬頭の次男権守に高嶋家を継がせられる。

十五日 辰の刻に大雨が降り、午の刻に地震がある。屋形が江州の八幡宮へ参詣される。御一門、旗頭等は残らずこれに供奉する。

十六日 屋形が佐々木神社へ参詣される。昨日の面々が残らず供奉する。酉の刻に雪が降る。

二十四日 屋形が比良山の愛宕へ参詣される。去年造営してからずっと社参は行われなかったが今日初めて参詣される。御一門の面々と江西の旗頭だけが供奉する。

二月

八日 本日は彼岸の初日である。恵心院が観音寺城に登城し、御国の間にて屋形と対面する。屋形が恵心院に彼岸について尋ねられたところ恵心院は一切経の中の涅槃経に詳しく記されていると答えてすぐに筆をとり、書き記して屋形に献上する。涅槃経には次のように記されている。

さて彼岸というものは陽曇華を以って七日をはかるのである。この華は春の彼岸の初日に咲き末日に散る。また、秋の彼岸に実をつける。華の色は五色であり、果実は栢榴のようである。この樹下には七仏が居り彼岸には七日の間善を修する。善人が来れば金印を押し、悪人が来れば鉄印を押す。これを閻羅帝釈殿に納めて、後に善根を修する時七仏がこの印を持ち出し十王の前にて罪の好悪を讃歎する。彼岸の間の一日の善は他の日の千日の善に勝る。芥子ほどの善を修すれば須彌程の徳果を得、芥子ほどの悪を行えば須彌程の苦を受ける。亡霊の在生時の好悪はこの印が記す。七仏の名前は初日が毘婆尸仏、二日目が尸棄仏、三日目が毘舎浮仏、四日目が狗留尊仏、五日目が枸那含仏、六日目が大迦葉仏、七日目が釈迦牟尼仏である。それぞれ仏体は生死大海の彼岸にある。七日のうちは他家に宿らず新鮮衣を着て仏神に参詣し一紙半銭の志で徳果を願うのがよい。彼岸の日数に応じてそれぞれ戒めがある。初日に瞋意を起こせば悪虫の苦に苦しめられる。二日目に妄語を成せば修羅の苦患に苦しめられる。三日目に殺生を行えば八万丈の剣に登らされる。四日目に憍慢の振舞いを成せば無間地獄に墜ちる。五日目に売買を行えば遍く畜生苦を蒙る。六日目に宗親の心に背けば火坑地獄に落ちる。七日目に罵詈誹謗を起こせば鉄石推押の苦患に苦しめられる。このように善悪を分別するために彼岸があるのである。七日の間は十戒をよく修して発願を念ずるべきである。必ず大仏果を得るものであり、七仏はよく供養するべきである。秋の彼岸の七仏の異名は初日が扶よう菩薩、二日目が精進菩薩、三日目が禅定菩薩、四日目が王念菩薩、五日目が軽安菩薩、六日目が取捨菩薩、七日目が妙典菩薩である。以下省略する。

屋形はこれを取って経意をよく御覧になり、彼岸というものはとても経意のようなものではないであろう、正直に本来の彼岸を聞かせよと仰せになる。恵心院は、確かに経意をそのまま心得る必要はない、理観の旨を納得されればよいと答える。そこで屋形が、理観というのは世間に対して面目を立てるための手段であろう、確かに如来の方便の真実とその奥義は珍重であると仰せになれば恵心院は手を打ち顔をつき合わせて笑う。この他様々な法問答があったが日記には載せない。

十四日 恵心院が観音寺城を去って山に帰る。屋形は城下まで送り出し、離別の境をいかに思われるかと尋ねられる。恵心院は会者定離と答えて去る。

三月

三日 佐々木神社で祭礼があり、屋形並に後見承禎公、その他御一門、旗頭等が参詣する。未の刻に屋形の母公青樹院殿が東光寺に参詣される。その時青樹院の輿の前を新庄五郎八が乗打する。供奉の目賀田徳之丞は馬から飛び降りて何者がこのような無礼を働くのかと怒る。新庄は、吾は蒲生の家人であるが急用の儀によりて前後をわきまえず通過したのだと答える。青樹院は輿の中からこれをお聞きになって、無礼は乱の本である、その者を誅したまえと仰せになる。目賀田は家人に申し付けて即座にこの者を誅殺する。

二十日 膳所の国若という地下人は去年の四月に天狗にさらわれていたが、今月十五日に故郷に帰ってきて不思議な出来事を話すと山岡美作守の方から観音寺城に報告がある。そこで屋形はこの者を召し出して一目見ようと仰せになるが、ちょうど登城して御前にいた京極長門守高吉が、大人は怪しいものを見ないというと申して止める。屋形は、京極の言には一理がありこれを無視するわけにはいかないとしておやめになる。

二十八日 大雹が申の刻から降り、酉の刻に止む。

四月

六日 堅田の奉行礒初孫三郎方より二尺余の鮒が観音寺城に献上される。魚の色は紅色である。

五月

五日 佐々木神社で祭礼が行われる。屋形は病気のため参詣されず、進藤山城守が名代として向かう。御一門の面々、旗頭等は残らず参詣する。佐々木神社にて進藤山城守と箕作殿との間で前後の争いがある。これは御幣を拝する時のことである。進藤は、いつもは箕作殿より先に拝することはないが今日は屋形の名代として参ったので格別であると申し、強引に先に拝する。承禎公は面目を失い立ち去る。旗頭等は皆刀の柄に手をかけ言葉なくにらみ合う。先行きはよくないであろうと参詣の人々が話し合う。

十五日 夜の月が虫に食われたようになる。宵から暁まで続く。

二十三日 山王早尾の社が鳴動したと社家右馬権大夫が観音寺城に申し上げる。本日午の刻から二十九日までこの社が鳴動する。

六月

一日から晦日まで一滴も雨が降らず旱魃が起こる。江州の湖水は一丈余も干上がる。疫病が流行し五畿内で多くの死者が出る。将軍家の東門にて毎夜人の泣く声がするというので三好下野守がこれを上申したところ、将軍家は近習の面々を番につけてその事実を糺される。子の刻の頃に空から黒い雲がひとかたまり降りて来るのと同時に人の泣く声が地上に響き渡る。番衆がこれに声をかけたところこの雲はかき消すかのように消えうせる。その他にも洛中に起こった不思議な出来事は多い。

七月

三日 東光寺にて前屋形の供養のために国中の非人等に米一桝ずつを施行される。奉行粟飯原正の家人五十人で記帳したところ非人一万二千余人ということである。五畿内の非人共は前もってこのことを聞いて集まったという。これらの非人の中に関東の住人三浦備中守時方という人がおり見出される。粟飯原はこの人を召し具して観音寺城に参り屋形に申し上げる。屋形はすぐに三浦にお会いになり涙を流して、近世は世の濁ることが特にひどく言語に絶するほどであるが、貴殿はいかようにしてこのような境遇に成り果てたのかと尋ねられる。三浦が答えて申し上げるには、重代の家人で松田という者が北條家に寝返って仇をなし、対抗する力もなく国を落ち延びた。将軍家を頼って年来の鬱憤を晴らそうと十年以上前から京都に上ってきているがついにその沙汰を申し上げる機会もなくこのように成り果てたということである。屋形は粟飯原を召して、其の方はどうやってこの人を見出したのかと尋ねられる。粟飯原は、この人の人相は明らかに常人とは異なって見えたので召し出して理由を聞いたのであると答える。屋形は粟飯原の眼力に感心され、三浦を鎌倉孤獨斎と名付けて常に傍に置き情けをかけられる。

二十五日 尾州織田家から織田右馬助が使者として江東に参る。密状があるがその仔細はわからない。

二十八日 屋形は尾州へ加勢の軍勢を送ると仰せになり青地伊予守、平井加賀守、永原大炊頭の三人を観音寺城に召して今月二十五日に尾州から届けられた密状の旨を仰せ付けられる。その内容は、織田信長は内々に美濃国西方の旗頭氏家常陸介、同大膳亮、稲葉伊予守、伊賀伊賀守、植村刑部少輔の五人へ密状を送り内応を取りつけ、斎藤右兵衛大夫龍興の居城稲葉山城を攻め落とすことを決めた。しかしながらこの五人は長年龍興の旗下に仕えている者であるので織田家を謀って斎藤家に通じる可能性もある。尾州の軍勢は微小であるのでもしそのようなことが起こった時は江州から軍を出して挟み撃ちにしてもらいたいと信長は江州に密状を寄越したということである。そのため各々は織田家の戦の趨勢をよく見て働くようにと屋形は仰せになり、三千騎を与えられる。午の刻に平井、永原、青地の三人が観音寺城を発ち美濃国へ向かう。屋形が重ねて使者を遣わして仰せ付けられるには、絶対に信長の軍勢が動く前に攻めかかることの無いようにせよ、できることならば信長の軍勢のみで攻め落とさせるべきである、内通する者がいる国を両家の軍勢で攻めることは決して勇将のすることではない、万が一西方の五人の旗頭が信長を謀って国に引き入れ押し包むようなことがあった時のためにこのように頼まれたということを忘れず慎重に下知をするように、ということである。

八月

二日 酉の下刻に美濃国に加勢に出陣した青地伊予守、永原大炊頭、平井加賀守から飛脚が参り、書状にて次のように申し上げる。

昨日午の刻、信長は小牧山にて軍勢を揃え総勢二千五百騎を濃州の瑞龍寺という山へ上げてそれぞれ龍興の館へ攻めかかったところ、信長に内通していた西方の五人が西門から火をかける。龍興の軍勢八百騎は東門から打って出て信長の先手佐久間右衛門の軍に攻めかかりこれを乗り崩す。信長はたまらず旗本の半分余りを右衛門の軍に加え本丸の南へ向かわせる。江州からの加勢は屋形の下知に従い北方小石塚に陣を構え未だ合戦には参加せず静観していたが、龍興が手勢三百騎程を率いて北の方へ打って出て江州勢に攻めかかってきたので、永原が一番にかかり二百三十騎を討ち取る。青地が二番手として永原と入れ替わり戦っていたところ龍興は戦い疲れて本丸へ引き上げようとし、それを平井が追撃して五十三騎を討ち取る。このように戦っているうちに信長の軍勢はすでに本丸の大門口に攻め込む。龍興は斎藤元徳斎を使者に立てて、命を助けてもらえるなら城を開いて退くと信長へ申し入れる。信長は江州勢へ織田市介信成を遣わしてこの事を評議するが、当方がどのようにでもされればよいと申したところ、思案することもなく城を受け取り龍興を追放する。龍興は勢州桑名へ退き、国司の弟木造刑部少輔を頼ると聞く。当方の兵卒は長途の軍陣で非常に疲れているため明日休ませたのち明後日三日に濃州を発つことに決まったので、この旨を早く申し上げていただきますよう 恐惶謹言

八月朔日卯上刻                             青地伊予守

平井加賀守

永原大炊頭

進藤山城守殿

伊達出羽守殿

馬渕刑部左衛門殿

目賀田摂津守殿

三日 酉の刻に美濃国へ加勢に行った三将が観音寺城に帰城する。信長からは前田又左衛門尉が使節として遣わされ、信長が援軍を感謝する書状が届けられる。これは日記に載せるには及ばない。

十三日 美濃国加勢の三将平井、永原、青地に屋形が感状を与え、領地を加増される。

二十九日 甲賀谷から屋形へ白鹿が献上される。屋形はこれを目賀田左内秀行を使者として将軍家に献上される。非常に珍しいことであるとして将軍家は白鹿の皮をはいで天皇に献上されたという。

九月

十四日 豆州から相良十兵衛という浪人が来て一通の書状を屋形に献じ、扶助を蒙る。この相良は武者修行として近年は駿州の今川家に仕えていたということである。屋形は三百貫の土地を与えられる。

二十日 細川晴元が将軍家の勘気を蒙り妙心寺の大心院に入寺する。その理由は家来である上月の争論のことである。細川自身には罪はないがこのようなことになる。

十月

三日 大雪が降る。近年五畿内にはなかったことである。鳥たちは皆寒さに震え、死ぬ者が道路に倒れる。

十五日 江州坂本に二頭の子を産んだ女がおり、本日子供を連れて観音寺城へ参る。屋形は御覧にならない。

十九日 江州岡山城が鳴動する。この城は四方を湖に囲まれ陸続きの場所がない。佐々木第九代の嫡領秀義の代に築かれ、国に何事か起こる時は必ず鳴動する城山である。

十一月

三日 澤田丹後守忠長が屋形の諱字を賜り秀長と名乗る。この者は江北の奉行である。

六日 多賀神社を修築するよう屋形が浅井下野守祐政に仰せ付けられる。この宮は政頼の時代から修築されておらず今年で百三年になるためこの儀を仰せ付けられる。

二十一日 山門西塔の本黒谷の上人が観音寺城に参り、この寺の建立を嘆願する。屋形の一族で永原安芸守高賢という者が去る北白川の合戦で討死し黒谷に葬られたため、この寺については以前から度々江州の屋形が心を尽くされる。

二十三日 屋形が上洛され旗頭のうち江東、江南の者のみが供奉する。今年は江西、江北の者は非番であるのでこのようになる。

二十九日 屋形が江東に帰座される。酉の刻から大雪となり四尺余積る。例年とは違い非常に寒さが厳しい。

十二月

十四日 山田の浦から太刀一振りが屋形に献上される。これは網にかかって琵琶湖から引き上げられたものである。この太刀には三ヶ所に透かしがあって大きく反っており銘はない。屋形は由来のあるものであろうと和田源左衛門尉正綱を遣わして竹生島に納められる。

十八日 進藤道円入道死去。享年九十三歳。屋形五代すなわち政頼、高頼、氏綱、義実、義秀公に奉公した人である。

十九日 申の刻に地震がある。白髭神社の上岩戸から白蛇が出て水中に入る。近郷の者共数人がその姿を見る。

二十四日 屋形の母公青樹院殿が召し使っている女を自ら手討ちにされる。この母公は男のような御方で非常に気が強い女性である。当将軍家の姉君であるが将軍家の仰せをもお聞きにならないことが多い。

二十六日 屋形は乳母若狭局の息子内記に所領一ヶ所を与え竹中十内左衛門と名乗らせられる。

二十七日 箕作承禎公が近習武田三郎兵衛を自ら手討ちにする。これは武田が江雲寺にて謹慎している息子義弼のことを屋形の五奉行の一人池田武大夫に悪く語ったためである。同日目賀田摂津守が屋形の名代として上洛する。

二十九日 卯内の天陽大夫が今年初めて大易暦を編纂して屋形に献上する。



巻第十・完