永禄八年(乙丑)
一月大
一日 天気は快晴。観音寺城出仕の様子は例年通りである。本日将軍家の御所にて近習細井阿波守と三好刑部少輔が出仕の前後で争い喧嘩になり、三好刑部がその場で死亡する。細井は三ヶ所に傷を負う。このため御所内が大騒ぎになり、元日の諸礼がなくなる。
三日 屋形は目加多摂津守を江雲寺に遣わして承禎公の嫡男右衛門督の勘気を解き赦免される。右衛門督は観音寺城に出仕し、承禎公も老眼に紅涙を浮かべ同道して出仕する。同日進藤山城守が屋形に諫言する。これは右衛門督を赦免したことについてである。山城守が申すには、義弼という者は元来血気の勇者であり、仁と義の両方に欠ける人である。幸いにも寺に押し籠める機会があり、長い間そのまま放っておくことが国家の為であったのにすぐに召出されたのはいったいどういうつもりなのかということである。屋形はこれに答えて、確かにその通りの者であるとは思うが、承禎は吾が幼少の時国の後見となり今まで貢献してきた者であり、この人の気持ちを考えれば情けのない処遇でもありこのように赦免したのである。再度不義があったならばその時にこそ処罰しようと仰せになる。山城守は、既に後藤父子を討ったことは屋形に対する逆心ではないか、どうして御一族だからといって軽々しく赦免などなさるのか、勢州国司の奥方は義弼の姉であるため国司はややもすれば義弼に管領職を奪わせようといつも計略をめぐらしていることは明らかである、もしも旗頭の内に御当家に対して逆心を起こす者が出たらこのように軽々しく赦免なさるであろうか、さらに後藤の一族の気持ちをも考えればとにかく義弼を追放されるべきであると申し上げる。屋形は、伊勢の国司等が義弼に加勢して当家の嫡領を奪おうとすることなど嬰児が貝で大海を測ろうとするようなものであり、また蟷螂が斧を振り上げて車轍に向かうようなものである。彼らがどうであれ、吾においては承禎の旧恩を忘れることはできないと仰せになってついに諫言を聞き入れられない。これは大いに屋形の誤りであるという。屋形が重ねて山城守に仰せになるには、一門兄弟、国の旗頭等が互いに疑い用心するようになってはたとえ鉄の城に籠ったとしても何の意味があろうか、天理に従ったまでのことである、ということである。山城守はさらに言う言葉もなく館を退出するという。
六日 屋形が箕作城にお出でになる。承禎公父子は心を尽くし美を尽くして盛大に屋形を饗応する。本日右衛門督が早くも屋形を討つ謀を吉田伝八に相談するという。しかしながら進藤山城守、目加田、青地などの人々が屋形に供奉して箕作城に入りその前後左右を固めたため、この謀は実行されず義弼は空しく評議を止める。酉の刻に屋形が観音寺城に帰城されたところ平井、目加田、進藤、青地、浅井等の重臣が揃って諫言する。これは本日の義弼の逆心の謀を申し上げて、すぐに右衛門督を誅罰するべきであるということである。屋形は、命は天に在る、義弼が恩を忘れたとえ逆心したとしても却って義弼自身が滅びゆくことになるであろうと仰せになり、重臣達は言葉もなく退出する。
十五日 屋形が佐々木神社に参詣され、旗頭等が残らず供奉する。箕作義弼は礼を重んじて屋形の後ろに供奉していたが、浅井備前守長政がさっと屋形の後ろに走り入り義弼をその次にする。浅井の本心はわからないと人々は言う。同日屋形は江州八幡宮に参詣され、旗頭等が残らず供奉する。箕作義弼は病気と称して佐々木神社からすぐに居城に帰る。
十七日 例年の嘉例により屋形が江北の京極長門守高吉の城へお出でになる。京極は心を尽くし美を尽くして屋形をもてなす。
十九日 屋形が観音寺城に帰城される。
二十八日 高嶋越後守高持入道雲鬼死去。享年七十三歳。屋形の儒学の師であり、非常にその死を惜しまれる。
二月小
三日 三井寺の智門法印が観音寺城に来て屋形に対面する。屋形が人三種ということを尋ねられたところ智門はすぐに紙に記して献上する。それには次のように書かれている。
武家三種、俗三種、女三種についての絵図と説明があるが省略する。
以上のように屋形一人だけに伝法があり、他の者はその伝受を受けていないので内容を日記に載せることはできない。この他にも種々の秘法等の伝法がある。この三種というものは三井寺の開山智證大師の御作であるという。
十四日 長命寺の尼上人と常楽寺の妙覚上人の間で弟子の争論々あり、寺社奉行多羅尾和泉守、篠原伯耆守が屋形の耳に入れる。そこで両方の上人を観音寺城に召出して糺明したところ常楽寺の方に非が認められたので国を追放される。争論の内容は女難の事である。詳しく日記に載せるには及ばない。
三月小
三日 佐々木神社で祭礼がある。屋形が参詣され、旗頭等は例年通り前後の順序を正して供奉する。箕作父子は参詣しない。
十五日 将軍家の南殿に鹿が二匹入りこみ、北に向かって鳴いた後消失する。これによって本日諸社にて七座ずつの護摩を焚くよう仰せ付けられる。江州では日吉、苗鹿、八幡、兵須、多賀、白髭、万木、天王、大日枝、小日枝、勢田、竹生島等の神社においてその沙汰がある。屋形はそれぞれの神社ごとに奉行を申し付けられる。天下不吉の兆しであるという。
四月大
六日 江州志賀里松井川の川辺にて辰の刻から蛙合戦がある。双方蛙の数は二万余程おり、敵味方に分かれて鳴き合いその後入り乱れて争う有様は人間の合戦と異ならないと志賀丹後守宗光が未の刻に観音寺城に申し上げる。同日山州鳥羽でも蛙合戦があったという。
二十二日 山州山崎石清水の宮から光が立ち虹のように空に一町余り上ると将軍家に報告がある。この頃洛中にて子供が歌うはやり歌に不思議な内容が歌われる。あしかかの足ない世にも成ぬれはえたはちりちりちって行さきは行さきは、と歌う。足利は将軍家の氏である。枝葉連枝のことを歌っているのであれば不吉であると松山若狭守は洛中に触れ渡してこのはやり歌を止めさせるという。
五月小
一日 将軍家の菩提寺である等持寺にある代々の将軍の御影が卯の下刻に一斉に倒れ崩れたと報告がある。将軍家は大いに怒り、堂守の僧の罪であるとして伝光、妙教、普光の三僧を備前国児島の守護佐々木飽浦美濃守に預け、ついには誅殺される。真人がこの出来事を評して言うには、これは非常に天下の凶兆であるのに将軍家は御自分の身の上を慎まないばかりか、これを堂守の罪にしてあまつさえ彼らを罰するとはまさに非義の至りであるということである。
十日 三好日向守と同下野守が四国から家人等を十騎、二十騎ずつ毎日洛中に呼び集めていると六角の館にいる馬渕想兵衛尉高盛が観音寺城に申し上げる。この馬渕は屋形が将軍家の様子を具に聞くために洛下六角の館に去年から留め置かれている者である。
十一日 三好家が密かに洛中に軍勢を集めていることを将軍家に報告される。屋形は書状ではなく浅井下野守祐政に口上にて申し上げさせるため上洛させられる。
十二日 将軍家へ遣わされた浅井祐政が江州に帰国する。書状を持ち帰るが密状のためその内容はわからない。浅井が口上にて返事の言葉を申し上げるには、三好が洛中に軍勢を集めるなどということは根拠のないでまかせであるとのことである。屋形は、公儀は愚かであるとのみ仰せになる。永禄元年からは三好日向守、同下野守、松永弾正忠、岩成主税助、松山刑部少輔入道松謙斎の五人が政権を執る。
十三日 六角の館に置かれている馬渕高盛から観音寺城に報告がある。使節は馬渕右馬丞である。その内容は次の通りである。三好左京大夫義次と同日向守、同下野守、同山城守が四国の管領職を争う。もっとも義次は嫡領であるので本来は論ずるに及ばないことであるが、今年三月に将軍家が山城守に四国の政務を仰せ付けられ、あまつさえ管領職まで与えられたのが原因である。しかし先月二十日に三好山城守の息子左近大輔が将軍家の不興を蒙り閉門させられ、なおも怒りが収まらず父山城守までが出仕を止められる。これをよい機会と思って三好左京大夫義次は上洛し、管領職を元のように吾に仰せ付けられれば伊予国内の宇麻郡、宇和郡、喜田郡、野間郡、桑村郡、新居郡の六郡を御蔵納にすると申し上げる。公儀はこれを賞賛されたのか四国の管領職を元のように義次に返される。山城守がこれを不満に思い日向守を遣わして申し上げるには、元来三好家の嫡統は我が方にあるので先祖を改め七代以前の嫡庶を改めていただきたいということである。将軍家はこれを取り上げられない。このため三好山城守、同下野守、同日向守は出仕をやめ妙心寺にて出家する。山城守は笑岩入道、下野守は釣閑入道、日向守は釣垂入道とそれぞれ号する。松永弾正少弼、岩成主税助、松山等も同じように出仕をやめるということである。
十三日 屋形は進藤、目加多、青地、高嶋、朽木、馬渕、京極、蒲生、浅井、平井、永原、伊達、楢崎、池田、吉田、山岡、黒田の面々を観音寺城に召し寄せて、三好が逆心を企てているので近日中に上洛して天下に旗を立て三好一族を誅罰すると仰せになる。京極が進み出て申し上げるには、屋形は御存知ないと思われるが三好山城守と箕作義賢父子とが志を同じくし常に天下を望んでいるということは専ら人々が噂するところである、ならば軽々しく上洛なさるべきではない、たとえ三好が逆心を起こし天下を乱すようなことがあったとしても国内の軍伍をきちんと定めておいてこそ上洛できるということである。満座に伺候する面々も京極の申すことは尤もであると一同に申すので屋形も賛成して上洛を止められる。しかしながら屋形の母公青樹院殿が、なんとしてでも軍勢を京都に上洛させよ、これを見届けなければ自害すると強く仰せになるので、八幡山典厩の息子河端左近大夫輝綱に甲賀八人衆を添えて五百騎を将軍家守護のために戌の刻に江州を発たせ上洛させる。
十四日 和田和泉守が飛脚一人を召し捕って観音寺城に差し出す。これは三好山城守入道笑岩から箕作承禎父子への飛脚である。山城守から承禎への書状は次の通りである。
急いで飛脚を以ってこのように申す。内々に子息右衛門督殿に申し合わせていた事は事態が急変したため早めることになった。近日実行に移し一戦に及ぶつもりである。そうなれば義秀は公方の連枝と呼ばれているので必ず上洛するであろう。その時は承禎御父子は江州にて兵を挙げ後ろから上洛されるのがよろしい。ならばたとえ義秀の軍勢が多勢で上洛しようとも前後から申し合わせて一戦すればどうして功を遂げないことがあるだろうか、必ず打ち破るはずである。猶追って貴殿の考えを聞きたいので急ぎ筆を取った次第である 恐惶謹言 三好日向入道釣垂 五月十四日 三好下野入道釣閑 三好山城入道笑岩 箕作承禎入道殿 同 右衛門督殿 |
屋形は旗頭等を集め評議をされる。和田和泉守の使節には引出物を与えて帰し、すぐに和田を観音寺城に召し寄せられる。旗頭等がいろいろと評議して申すには、とにかく国内に三好と通じている者がある上は上洛するべきではない、それぞれが兵卒を集めて軍伍を調えておくべきであるということである。そこで進藤山城守が進み出て、速やかに箕作を攻め落とし、それから上洛して将軍家に合力し三好を追討すればよいと申し上げる。浅井備前守長政は、当国にて箕作を攻め落としその軍勢をそのまま上洛させ合戦をすることは尤もであるとは思うが、今は国々が乱れておりさらに時勢に乗って承禎へ味方をする旗頭が出ないとも限らずいくらか手のかかる合戦になるであろう、只現在思うことはこの度は上洛するべきではないということであると申し上げる。屋形はこれに賛同して上洛を止められる。
十五日 屋形は進藤山城守を箕作城へ遣わされる。承禎父子は病気と称して出仕しない。同日戌の刻箕作右衛門督義弼が密かに百騎ほどを率いて上洛し三好山城守に合流する。
十六日 三好左京大夫義次から使節として篠田美作守という者が参る。屋形に密状が送られるが内容はわからないので記さない。同日午の刻進藤山城守の居城である木浜城が焼失する。山城守はすぐに観音寺城に出仕する。これは屋形に逆心するのではないかと疑われないためであるという。同日若州の武田大膳大夫義統から使節として粟屋左馬助という者が参る。密状のためその内容はわからない。これは三好家が出仕を止め洛中が騒がしいので上洛を示し合わせるための使節であるという。若州の武田家は当将軍の妹婿であり、この妹は屋形の母公青樹院殿の妹でもある。このためいろいろな事を仲立する。
十七日 三好山城守入道笑岩から箕作の館へ使節がある。詳しいことはわからない。同日江州の旗頭達が観音寺城に出仕し、二心を持たない旨を霊社の起請文に書いて観音寺鎮守堂に納める。これは今年国内が騒がしく、さらに箕作殿はうわべは忠臣のように繕いその本心には逆心を抱いているので旗頭等がその一味であるかと屋形に疑われないためである。屋形は、吾が手足となる家臣を疑うようになっては世にあって何の役に立つであろうかと仰せになり、全ての起請文をそれぞれの旗頭にお返しになる。その中で浅井下野守祐政の息子備前守長政は屋形が返し与えた起請文を焼いて灰にし、忠臣は二君に仕えずと申して水に入れて飲む。他の旗頭達も尤もであるとそれぞれ起請文を灰にして飲む。屋形は面々に向かって、家臣が礼を尽くす上は主将も義を尽くさんと仰せになり龍頭丸の太刀を抜いて、正一位佐々木大明神も御照覧あれ、吾は臣に対して疑心を起こし心を隔てるようなことは決してしないと誓われる。旗頭達は地に頭を付けて涙を流す。同日浅井下野守の息子備前守と進藤山城守が、とにかく箕作を攻められるべきであると屋形に申し上げる。屋形は、其の方等が度々諫言していることではあるが、承禎については吾が幼少の時から国の後見を務めその恩の深さは慈父と変わらないものである、それをたとえ下心があるとしてもまだそれをはっきりと表明していないのに攻め寄せて討つことは非常に良将の嫌うところである、さらに父義実公の百ヶ条の遺言にも家中を乱せば必ず他国からつけ入られる契機となるとある上は父の遺言に背いて勝利を得たところで天命により国家永久はありえないであろう、承禎父子が逆心を露にして軍勢を集めるのが見えればその時は各々が諫言する通りにしようと仰せになり聞き入れられない。浅井、進藤がそれならば右衛門督のみを誅罰されよと申し上げると屋形は笑って、親に孝行しない者はあれども子を愛さない親はいない、承禎が子供を誅罰されてどうして逆心を起こさずにいられようか、人間だけでなく鳥や獣でさえも子をその善悪にかかわらず深く思うものである、世俗の言葉でほうはつらという言葉に異ならないと仰せになり、なおも諫言を聞き入れられない。
十八日 午の刻に箕作右衛門督が京都から居城に帰ったと吉田出雲守重定が申し上げる。同日屋形が堀伊賀守を京都六角の館に遣わされる。これは三好の計略の内容をお聞きになるためであるという。
十九日 酉の刻に昨日上洛した堀伊賀守秀国が観音寺城に戻り、三好逆心のために公方が他界した顛末を一々申し上げる。その内容は次のようなものである。本日卯の刻に三好山城守入道笑岩、同下野守入道釣閑、同日向守入道釣垂、松永弾正忠通秀、息子右衛門佐、岩成主税助、松山新入松謙が軍勢一万三千騎を二手に分けて将軍御所に攻め寄せる。大手の大門口へは三好山城入道、松永父子を先陣の大将とし七千騎にて攻める。東の鎌倉御門へは三好日向入道、同下野入道、岩成、松山を先陣の大将とし六千騎にて押し寄せる。卯の下刻から大手、鎌倉口の寄せ手が一斉に鬨の声を三度あげる。御所方で大手の大門口へ出陣し防戦する面々は長岡主殿頭、同兵部大輔、細川三河守、小森左京進、同忠彌、澤田但馬守、和田平大夫、乾伊賀守、土岐想五郎、尼子新左衛門、松原道友斎、同小三郎、高木右近大夫、一色淡路守、同又三郎、杉原兵庫頭、西川新右衛門、同小十郎、森丹後守、同小四郎、粟津甚三郎、輪阿彌、竹阿彌、大弐、青山三左衛門尉、加藤甚右衛門尉、柳原道楽斎、同右馬権頭、黒田十兵衛尉、木造右近大夫、徳山角兵衛、山内主馬丞、同備中守、毛利藤蔵、朝日新三郎、同兵五郎、河野藤内左衛門、相馬伝兵衛尉の合わせて三十八人でこの他に外様の番衆を加えてその軍勢は四百を超えない。鎌倉口を防ぐ面々は上野兵部少輔、同與八郎、武田左兵衛佐、谷口民部少輔、畠山九郎大夫、結城主膳正、沼田上野介、同甲斐守、同三彌、西尾左馬助、松井丹波守、同新二郎、細川宮内少輔、荒川治部少輔、同刑部少輔、二宮彌四郎、寺司與三郎、飯田左吉兵衛、上野中務大夫、彦部雅楽頭、同孫四郎、治部三郎左衛門、同弟福阿彌、匹田彌四郎(江州種村大蔵の甥)、台阿彌、松阿彌、慶阿彌、心蔵主、金阿彌、河端左近大夫輝綱(八幡典厩の息子)の合計三十人でこの他に外様の番衆を加えて三百五十を超えない。三好の軍勢は両方から攻め寄せて卯の刻から巳の刻まで戦うが、松永弾正通秀の下知により北の御門から築地を破り、強弓の精兵を選りすぐって三百騎にて将軍家の御寝殿を見下ろし即座に射る。このため御所内は大いに騒ぎ将軍の母公慶寿院を始めとして南門の方へ退く。そこで松永の家人三田権内という者が北の御殿に火をかけたところ北風が強く吹いたため御所内の兵は働きにくくなる。特に大手大門口にて防ぐ面々の内細川三河守、澤田但馬守、乾伊賀頭等が討死する。このため大手大門口が巳の刻の始めに崩れかかり三好山城守入道は早くも大門の内に乗り込んで諸卒に下知をして中門を攻め落とす。鎌倉口も武田左兵衛佐、谷口民部少輔、細川宮内少輔、沼田上野介、同甲斐守等が討死したためこの軍も崩れ、大門の軍と鎌倉口の軍が合流し一手となって御対面所の大庭に集まる。将軍家は自ら鑓を取って御対面所に出御され中門口を防ぐよう下知される。未だ鎧を身に着けておられないので河端左近大夫輝綱は奥に入り代々伝わる小袖という鎧を取り出し将軍家に着せようとする。将軍は、この鎧は朝敵退治の折に着るものであると仰せになって別の鎧を着ようとされるが、既に中門口が破られようとしているのを御覧になって、天命是までと再び小袖の鎧を取って身に着けられる。そして十文字の鑓を持って自ら御対面所の庭に立ち味方の軍勢を下知される。松永の三百騎の強弓隊が一列に並んで射たため中門を守る軍勢の半分が倒される。将軍家はたまらず自ら鑓を取って中門へ走り働かれること四度に及ぶ。松永の強弓隊が激しく射る矢は将軍家の鎧に九本突き刺さったが一本も貫通することはなかった。ついに中門を守る軍勢も崩れたため将軍は諸将を連れて対面所の中に入り、金銀その他重器等を取り出して中門の内側へ捨てよと仰せになる。そして代々伝わる重器を取り出して捨てられたところ三好の若兵共はこれを見て我先にと奪い合う。そこへ将軍が三十五人の将を引き連れ真っ先に庭上に走り攻めかかり最後の合戦をされる。中門の内側に入っていた三好の軍勢はこの勢いに攻め立てられて大手へ逃げ出し、討たれる者は九十人を超える。将軍は取って返し奥に入って自害される。介錯は河端左近大夫輝綱である。河端は将軍の顔を裂き破って火中に投げ入れ自害する。残って戦う面々も奥から火の手が上がるのを見て皆御対面所の中に入り自害する。このような具合で将軍の首を三好家に与えなかった。将軍の母公慶寿院殿は将軍の自害を聞いて走り出てきたところすでに首が火中にあるのを見てそのまま火の中へ飛び込む。この他女中等四十人余りが続いて飛び込む。三好左京大夫義次は三本木に陣を構え山城守の軍勢を取り囲んで討とうとするが、味方に逆心の兵が多いと聞きこれは叶わじと思って、将軍の御所が燃え上がるのを見捨てて河内国若江城へ退去する。御所内から落ち延びた人々は長岡兵部少輔、寺司與三郎、西尾左馬助、金阿彌、台阿彌等である。南都一乗院の門主を擁立しようと南都へ落ちて行くという。御所内の出来事については長岡、寺司が語るのを聞いて申し上げるということである。屋形は旗頭等を召して、すぐに上洛して三好を退治するべしと仰せになる。浅井備前守は、確かに道理に適った上洛ではあるが、箕作と三好がこれまで申し合わせている内容を知らず、その上以前十四日に和田和泉守が奪い取って進上した三好家からの書状を見れば、屋形の上洛をかねてより待ち承禎父子が観音寺城を焼き払い続けて上洛し当家を拠るところなくして滅ぼそうとの計略は明らかである、さらに城を抜け出して上洛した右衛門督義弼がこれほどの合戦になることを知りながらすぐに帰国したことを思えば益々この計略を疑う余地はないと思われるので、箕作を攻めるならともかく上洛しての合戦は先に延ばすべきであると申し上げる。どの旗頭も浅井の申すことが尤もであると申すので屋形は上洛を止められる。
二十日 京都からの落人で山形角内という者が進藤山城守の許へ落ち延びてきて申すには、今朝三好山城入道の下知として将軍の御舎弟である北山鹿苑院の門主周ロを討ち取るよう平田和泉守、同大膳助両人が遣わされた。平田兄弟は周ロをだまして京に引き入れて討ち取ろうと同道するが、三好方から度々使者が遣わされるため恵比須川にて後ろから門主に斬りつける。これがはずれて肩先を斬り、門主は振り返って、長袖の者ぐらいたとえ未熟な腕でもちゃんと斬りたまえと仰せになる。和泉守が再び討とうとする所を門主の小童で箕屋小四郎という者が走り寄って平田和泉守を一太刀で斬り殺す。門主は半ば斬られながらも少し笑って、汝とは必ず来世にても会おうと仰せになる。小四郎は走り寄って門主の首を打ち落としそのまま自害しようとするが、和泉守の弟平田大膳助がこれを討とうとする。小四郎は、自害する者を討とうとは情けないことである、汝は吾を介錯しようというのかと申すが、ついに大膳助は小四郎を討ったということである。この他にも山形はいろいろな事を話すが真実ではないので日記には載せない。同日将軍義輝公の辞世の句を京家の家人で西片九郎次郎という者が持ってくる。これを馬渕が受け取って屋形に献上する。辞世は次のようなものである。
抛刀空諸有 又何説鋒鋩 要知転身路 火裏得清涼 三十あまり只かり初の雨やとり晴てそかへるもとの古郷 |
屋形はこれを御覧になって両眼を真っ赤にされる。しかしながら歌は確かに辞世のものであろうが詩の方は真偽の程が疑わしいという。屋形の母公は将軍家の姉君であるので非常に悲しまれ三好退治を急ぎたいところであるが、早速一族の箕作父子は三好と手を結んだという。勢州国司は箕作の婿であるのでこれも敵である。近国が皆三好の一味であるので浅井、進藤の諫言を聞き入れて江州旗頭を召集し国政に専念される。
二十一日 江州威徳院にて将軍の葬儀が行われる。未だ勅号が下されないので将軍の法名は定まっていない。同日南都一乗院の門主から密使が来る。武井久作という門主の小姓であり一通の書状を献上する。これは密書であるので内容はわからない。噂では三好山城入道はいつもこの門主をとても惜しく思うので命は助けたけれども、番人を置いて出入りを改めるので門主は密かに南都を脱出したいとのことであるという。
二十二日 南都一乗院の門主を江州へお呼びしようと平井加賀守を南都へ遣わされる。
二十九日 屋形の母公青樹院殿が今日まで三日間病を患い死去する。東光寺にて葬儀等が行われる。その内容等は記すに及ばない。
六月小
二日 前将軍義輝公の葬儀が等持寺にて執り行われる。贈左大臣、諡号光源院殿。御年三十歳にて弑逆される。
九日 本日から江州威徳院にて前将軍光源院殿の追善があり、十九日まで万部の妙典の読経が行われる。
二十一日 東光寺にて屋形の母公青樹院殿の追善がある。山門恵心院権僧正の七日間の法談がある。万部の読経の奉行は和田和泉守、同中務少輔等である。
二十八日 前田右馬頭が若州の武田義統へ遣わされる。これは南都の門主のことについて屋形が評議されるためであるという。
七月大
十五日 天皇から持照寺にて洛中の非人に金銭が施行される。これは今年五月に討死した武士共の菩提を弔うためである。真に古今に例のないありがたい出来事である。この時の今上天皇は第百七代正親町院と後に崇められる御方である。
二十日 近衛御所から光るものが東寺へ飛ぶ。戌の刻の出来事である。この光は洛中に満ちる。
八月小
三日 平井加賀守が南都一乗院の門主を護衛して観音寺城に戻る。この門主に供奉してきた面々は上野中務大輔清信、同佐渡守、長岡兵部大輔藤孝、沼田彌十郎、大館治部大輔、同伊予守、三渕大和守、仁木伊賀守、飛鳥井左中将、徳大寺権大納言義門、日野大納言、藤宰相、伊勢伊勢守、丹羽勘解由左衛門、同丹後守、一色松丸、同式部大輔、和田伊賀守、同雅楽頭、曽我兵庫頭、牧嶋孫六郎、大草治部少輔、飯河山城守、同肥後守、二階堂駿河守、奈良中坊龍雲院、丹波前国主野瀬丹波守、乾右馬頭、澤田丹後守、同主膳正等である。南都を今朝卯の刻に発ち山科を通ってくるが、三好が南都につけておいた番の者四十二人が追ってくるのを後陣に百騎程で供奉していた平井加賀守が山科追分という所で発見し、引き返して一人残らず討ち取り、この地に全員の首を獄門に懸けて一札を立てる。
南都門主を江州へお迎えするに当たり三好家が付けておいた番の者共がここまで御供して参ったことは神妙であると思い、江州旗頭平井加賀守秀名がこれまでの奉公に感じ入ってこのようになすものである。 永禄八年八月三日午刻 平井加賀守 |
三好一家の面々へ奉ると札を立てて帰ってきたと申し上げる。屋形は非常に平井を褒め称えて、先陣を務めることよりもその功は大きいとして感状を与えられる。それだけでなく西村山口の三ヶ所を与えられる。屋形は、南都門主に当城に一緒に御座していただくのは畏れ多いと旗頭に命じて矢嶋に御所を建て南都門主をお入れになる。御所は二町四方で二重の堀を構え、南都から供奉してきた面々には外側に屋敷を作って渡される。御所の普請奉行は青地江兵衛、和田和泉守等である。
十五日 若狭国主武田大膳大夫義統が江東に来て観音寺城に入り南都門主に拝謁する。
十七日 箕作承禎父子が観音寺城に出仕し南都の門主に拝謁する。浅井父子が進藤に目配せして承禎公父子を討とうとした事が二度あったが、屋形がお許しにならないため実行されない。承禎父子は退出して箕作に帰る。
十八日 屋形は江西の旗頭に命じて山城、近江の国境に新しく関所を置かれる。これは三好家と箕作義賢父子が同心して南都の門主を討つための計略をめぐらしていると山崎道全という医師が進藤に報告したためであるという。この他に勢州口にも関所を置かれる。
二十九日 矢嶋御所の普請が大方完了し、今日が吉日でもあるので南都門主が移られる。京極長門守高吉、軍奉行鳥山左衛門佐を御所守護のために遣わされる。この他平井加賀守、永原大炊等も付け置かれる。
九月大
八日 屋形は旗頭等を観音寺城に集め、南都門主を還俗させ公方と号して近日中に上洛し天下に旗を立てんと仰せになる。浅井備前守長政は、まず南都門主を還俗させたとえ勅許がなくても将軍と号して近国の人々の反応を御覧になるのがよろしいと申し上げる。屋形はこれに賛同される。
九日 屋形は矢嶋の御所に出向き上野中務大輔、細川兵部少輔と評議をして還俗の件を申し上げられる。門主はこれをお聞きになって、天下に旗を立てて兄の供養に三好一家を退治し先祖の家業を興すためにも還俗の事はかねてから考えていた事であると仰せになる。そして今月十一日は将軍家の元祖尊氏公が征夷将軍に任じられた日であるので、十一日辰の刻に屋形の計らいとして強引に将軍と号される。勅許なしで将軍を号するのはこれが最初であるという。世俗で近江公方と呼ばれるのはこれである。
十二日 十四日までの三日間矢嶋の御所にて祝言の能が催される。大夫は日吉大夫丹波梅若大夫である。江州の旗頭等は皆庭上に伺候し、屋形は装束を着て将軍の傍に着座される。将軍は細川兵部大輔藤孝を承禎父子へ遣わされる。承禎は上使と同道して出仕するが、息子右衛門督は病気と称して出仕しない。
二十九日 三好が参内して将軍の号を望む。しかし諸公家の面々が評議をした結果宣旨は出ない。
十月大
十三日 上賀茂の社が鳴動したので社家藤木刑部少輔がこの事を天皇に報告しようと都に向かったところ、上御陵の前にて空中から刑部、刑部と呼ぶ声がするので振り仰いで空を見たところどこからか石つぶてが飛んできて藤木の頭を打ち砕き、藤木は即死する。
十九日 三好山城入道、同下野入道、同日向守が評議するには、近国で味方になる者は少なく敵となる者が多い、特に南都門主が江州に逃げ延びてからは近江守義秀への崇敬もあり近国の諸将が皆心を通じ合わせている、中でも当家一族である三好左京大夫義次は河内、和泉の軍勢を合わせ近日江州と申し合わせて上洛するという、まずは一族の裏切者である義次を不意に攻めて誅罰した上で江州に出陣し南都門主に味方する者共を悉く退治せん、との事である。そこで昨日十八日午の刻に松永父子を先陣として総勢一万三千騎にて若江表へ出立したと六角の館にいる馬渕定兼が早馬にて観音寺城に申し上げる。屋形は旗頭に向かって、すぐさま上洛し将軍を参内させ三好一家を退治せんと仰せになる。これに対して京極、浅井、進藤は、確かに理に適った上洛ではあるが以前申し上げたように承禎父子は三好と一味であるので国を挙げての上洛はいかがであろう、その上勢州国司は承禎父子と結んでいるのでまず尾張へ使者を遣わして織田家と力を合わせ、さらに越前、若狭へも使節を立てて諸軍との約束を定めてから三好を退治するべきである、大功は一度にならぬものである、と申すので屋形は上洛をお止めになる。
二十日 三好山城入道とその他一門は残らず泉州表を引き払い京に帰る。これは江州から上洛の軍勢があるであろうと松永が山城入道に強く諫言したので途中から引き返したためである。もしもこの時江州から屋形が上洛されていれば三好一家は両方から敵に挟まれ進退窮まり破滅したことは確実である。それを京極、浅井等の諫言により屋形が上洛されなかったことは大いに好機を逸した出来事であると江州の宿老は申す。三好山城守入道笑岩はこの頃内野に城を構えて四国の軍勢を呼び寄せる。三好左京大夫義次も四国の軍勢を呼び寄せるという。四国の者は日々上洛してくるが左京大夫は関所を置いて京へ向かう四国勢を通さないという。三好山城入道が手に入れた国々は山城、摂津、但馬等であり、その軍勢は二万騎という。
二十五日 若州武田への使節が帰る。武田義統から密状があるが内容はわからないので記さない。
二十六日 越前朝倉左衛門大夫義景へ目加田半兵衛を遣わされる。屋形から密状があるが内容はわからない。
二十八日 朝倉義景から使節として朝倉孫三郎という者が来る。これは義景の甥であるという。義景からの書状の内容は次のとおりである。
この度三好逆意により公儀が他界されたのは是非を絶することである。これによって南都の御所が江州へ退去されたときくにつけすぐに参上仕るべきであったが、先頃より持病が再発し病臥の身であるので失礼ではあるが一族孫三郎を遣わして申し上げるものである。なお病気が治り次第参上仕る所存である 恐惶謹言 十月二十六日 朝倉左衛門大夫 義景 近江修理大夫殿 人々御中 |
以上の内容のため朝倉は来ない。屋形は孫三郎に対面して、義景は元来道理に反する者である、越前の軍勢がなくとも天下再興の合戦はできようと仰せになり殊の外お怒りになる。そして朝倉孫三郎を追い返される。浅井下野守祐政はこの事を聞きつけて屋形に諫言して、朝倉の病気は決して仮病ではない、確かに血気の勇者ではあるがこのように天下が乱れている時はなんとしてでも近国を語らいその将を従えるものを良将と申す、畏れながら某が朝倉への返事を伝えんと申す。そして祐政が返事をして帰す。このため越前は少し消極的に見える。
十一月大
十三日 織田信長の娘が信州伊奈高遠四郎勝頼へ嫁ぐ。実は信長の兄信広の娘である。
二十日 尾州の織田上総介信長から使節が来る。これは矢嶋の御所を尾州へ迎えたいとの事である。屋形は同意されないという。
二十五日 屋形は旗頭等に三十日交替で矢嶋御所の番等をするように仰せ付けられる。
十二月大
十三日 屋形が矢嶋の御所に出向き密談されるという。
十四日 将軍が観音寺城にお出でになり、十八日に矢嶋に帰られる。
二十五日 江州の旗頭等が残らず矢嶋御所へ出仕し歳末の礼を行う。
二十八日 屋形が矢嶋御所に参り年末の礼を鄭重に行う。
巻第十一・完