永禄九年(丙寅)

一月小

一日 天気は快晴。観音寺城出仕の様子は例年通りである。辰の刻に屋形は旗頭等を従えて矢嶋の御所に出仕される。

二日 天気は晴。屋形の一族が矢嶋御所に出仕する。これは偏に京家が将軍に礼に参るのと異ならない。正月の諸事作法等については細川兵部大輔藤孝が承って、儀式等を正しく執り行う。しかし前将軍万松院殿の時は二日に松囃の能が催されたが、藤孝の指図でこれは不吉の例であるとして三日になる。

三日 江州旗頭等を従えて屋形が矢嶋に出仕し順序を定めて将軍家に礼を行う。

七日 将軍家が観音寺城へお出でになる。将軍は未だ髪が伸びておらず半僧半俗の風体である。

八日 将軍が矢嶋へ帰城される。

十五日 将軍家が江州の八幡宮へ参詣される。屋形は午の刻に参詣され旗頭等は残らず供奉する。

十六日 屋形が例年のように佐々木神社に参詣され、旗頭等も同様に参詣する。箕作承禎父子は酉の刻に参詣する。これは屋形と不和であるためという。

二十六日 三好左京大夫義次が密かに百騎程で江州に来て矢嶋の御所に入り合戦の計略をめぐらせる。夜になって観音寺城を訪れ屋形と密談する。この事を知らずに将軍上洛の評定であると人々は噂する。

二月大

四日 三好義次が河内国へ帰る。

十五日 日野大納言が今日京を発って観音寺城に来る。日野が語るところによれば、三好笑岩入道は皇太子に位を譲るように伝奏の面々に対して度々申し上げていたが、諸卿が評議をしてこの譲位の儀が認められる。しかしながら天皇家は万事において近年は特に不自由をしている状況である。三好も天下を治める後世のためとは思っても譲位にかかる諸費用等を用意することが困難である。しかしこれを行うべきではないと申す者もいないので今月十二日に即位の儀を三好家が強引に行う。落書には次のように歌われる。

事たらぬ子やしもてこし御即位ををしてをこのう君か世も哉

即位が行い難くなり、何とか冠儀のみになれば再び落書に

いにしへのさはほともなきそくいかな

と歌われる。以上のように日野大納言が語り、矢嶋の御所はこれをお聞きになって笑われるという。この頃江州に植村久甫という者が屋形の御伽衆にいたがこの話を聞いて、三好が無理に行った即位は面白い、南都門主が屋形を頼んで落ち延び半俗に成り下り将軍と仰がれようとするよりもあわれである、強引に行われた即位がうらやましくて笑ったのであろう、と申す。屋形は、一理はあるが汝はこの将軍の天下になれば本朝には居れないが大唐へ渡るつもりか、とお戯れになる。

二十四日 将軍が近習のみをひきつれて多賀神社に参詣される。

三月小

一日 将軍が観音寺城にお出でになり、承禎父子が近年屋形と不和であると聞いていると仰せになって、細川兵部大輔藤孝を遣わして承禎父子をお呼びになる。承禎父子が出仕すると将軍家は、家中に不和があれば必ず他国から侮られるきっかけとなる、義秀と和解することこそ最もめでたいことであると仰せになる。承禎父子はこれに答えて、吾等父子には毛頭逆心などない、当国の旗頭共が息子義弼を憎み管領に対して逆心があるかのように申し上げるのである、しかしながら承禎は家臣としての道を守っているのでこのように父子共にやりきれない思いをさせられていると申し上げる。将軍はそれならば意味のないことであるとして屋形との和解の儀を止められる。

三日 佐々木神社にて祭礼があり、屋形並に箕作承禎父子、その他御一門、旗頭等が一人残らず参詣する。その有様は上下が一つにまとまってめでたいことである。同日将軍家は今まで佐々木の祭礼を見たことがないと近習を引き連れて参詣される。屋形は殊の外喜ばれ、将軍へ佐々木家の龍尾という太刀を進上される。

二十五日 三好入道笑岩は元来従四位下行山城守であったが、強引に官位を要求して従三位中納言になる。近年特に国々が乱れて武家の官位は皆それぞれの思うままになり、天皇の勅許なしにこのように官位を得ることは嘆かわしいことである。甲州の武田大膳大夫晴信も以前出家した際自ら法性院大僧正と号したと聞いている。日本国の開基以来今の時世ほど官職が乱れたことはないと古老の真儒は語る。

四月小

十四日 前将軍万松院殿(光源院殿の誤りと思われる)の妾腹の若君を山州西岡から馬渕刑部左衛門が観音寺城に連れてくる。すぐに矢嶋の御所に移されて将軍家と一緒に置かれる。当年二歳で名を国千世殿という。矢嶋の御所が還俗されてすぐに公達をも得られたことはこの上もなくめでたいことであるという。

二十三日 将軍家が山門に上られる。これは偏に天下草創のために山門の力を頼もうとの考えであろうという。

五月大

五日 佐々木神社にて例年通り祭礼が行われる。屋形は病気のため参詣されず、代参として平井加賀守が遣わされる。その他御一門の面々は残らず参詣する。

二十日 越後国主長尾平入道謙信が上洛する旨を家来宇佐美民部少輔という者を江州に遣わして矢島の御所へ申し上げる。将軍は大いに喜ばれるという。

六月小 

二十三日 将軍家が石山に参詣される。これを聞いて二條昭実公、近衛晴嗣公が京都から石山に参り将軍と同船して矢嶋へ来て二十九日まで逗留する。この両名は元来将軍家と深い縁があるのでこのように参るという。

七月小

三日 夜子の刻、南方に星が出る。その光り輝く様は尋常でない。

十五日 矢嶋御所が万松院のために自ら一部八巻の妙典を書き細川兵部大輔藤孝を遣わして等持寺に納められる。

二十八日 将軍家が箕作承禎の城へお出でになる。近習の面々は残らず供奉する。三雲三郎左衛門が右衛門督に諫言して、これは天の与える好機である、公儀を討たんと申す。義弼はこれに同心しないという。後にその沙汰があったという。同日屋形が平井主膳正を尾州へ遣わされる。密状があるがその内容はわからない。将軍帰洛についての評議であろうという。

八月大 閏小

十四日 雲州の尼子兵部少輔忠高、亀井民部少輔永綱両名が江州に来て屋形の扶助を蒙る。この両名は五郎義清の系統であり、屋形の一族であるという。

(閏八月)二十五日 天下再興のために矢嶋御所が代々の系図を書いて多賀、竹生島、山王、白髭等へ納められる。日吉神社には日野大納言の筆になるものを納め、竹生島には藤宰相、白髭神社には徳大寺権大納言、多賀神社には将軍が自筆にて書き写した一巻を納められる。この納められた系図を後世のために日記に載せる。

当家足利の系図を多賀神社に奉納する。第百七代今上天皇の御世において既に足利の正統が断絶しようとしている。予義昭はこの時世に当面して大いに功を遂げようと思っている。そこで先祖の霊名を記して神社に納め、天下の再興を祈るものである。



以上将軍が自ら筆を取って天下再興を祈願して四神社に納められる。日吉、白髭、竹生島、多賀に納められたのはいずれも同じものである。どうして天下再興を祈願するのに先祖を改め書き写して納めるのかといえば、足利家の中興の祖尊氏卿が天下草創の際にこのようにした前例があり、これに倣うために今将軍がこのようになさるという。後世のために将軍家代々の者、庶流まで一人残らず本書のように日記に載せる。

九月大

三日 本日は申の日であるので将軍家が立願のために日吉神社へ参詣される。近習の面々だけが供奉する。屋形から浅井下野守祐政が差し添えられる。

十四日 将軍が坂本から矢嶋に帰座される。

二十一日 将軍家が細川兵部大輔を越後の長尾平入道謙信へ遣わされる。将軍からの書状が送られる。

十月大

八日 矢嶋御所にて亥の子の祝が行われる。代々公方家にて行われるときは公方自らが諸将に対面して時間を測る習わしであるので、今回もこれに倣い将軍が辰の時刻を測定される。

十一月大

四日 上京が焼失する。相国寺等が悉く炎上する。

二十五日 将軍家が中野主膳正を遣わして山州北野天神へ一首の詠歌を納められる。

天満る神もあわれと思ひしれとかならすしてたたよへる身を

十二月小

十三日 屋形は将軍を慰めようと江州の若兵の中から二十四人を選び野須にて繰矢でお遊びになる。寒中であり特に今日は風が吹いて寒さが甚だしい時に屋形はわざと行って若兵の勇気を試して御覧になるという。

二十三日 屋形が将軍家へ虎の頭という名馬を献上される。この馬は京極長門守高吉が以前屋形に献上した名馬であり、江東観音寺から洛陽へ一日で行き帰りをしても汗一つかかないというほどの強馬である。将軍は殊の外喜ばれ名を変えて再興丸と名付けられる。


永禄十年(丁卯)

一月大

一日 屋形並に箕作殿、その他御一門、旗頭等が残らず矢嶋の御所に出仕する。

二日 旗頭等が残らず観音寺城に出仕する。屋形は諸将に命じて公儀が江州に居られる間は毎年の当城への出仕を二日にすると仰せになる。これは偏に義昭公の威光を重くしようという屋形の考えであるという。

十日 将軍家が観音寺城にお出でになる。屋形は一手的を行い将軍家を慰められる。

十五日 将軍家が江州八幡宮へ参詣される。屋形は病気のため参詣されない。同日申の刻、屋形の代参として進藤山城守が八幡宮に参詣する。

十六日 天気は晴。屋形は病気のため佐々木神社へ代参として平井加賀守を遣わされる。

二十四日 将軍家が上野中務大夫を山州愛宕山へ代参として遣わされる。これは天下再興の祈願であるという。願文は公儀自ら書いて封じられたのでその内容はわからない。このため記さない。

二月大

十一日 屋形と将軍家は天下再興の祝いとして老曽にて犬追物を行われる。その内容は多いので記さない。

二十三日 将軍家と屋形が同船にて竹生島に渡られる。将軍家は天女の前で天下再興を祈願され、成就した暁には毎年天女像を作って奉納し神社は全て金銀をちりばめて造営すると誓われる。

三月小

四日 昨日が大洪水のため佐々木神社の祭礼が今日行われる。屋形並に旗頭等が残らず参詣する。

十六日 丹波国の住人野瀬大学助という者が矢嶋御所に参り、将軍の天下再興の合戦で先駆けを仕りたいと細川を通じて書状にて申し上げる。そこで将軍は対面され、吉兆を申す者であると非常に気に入られ近習に召し加えられる。

四月小

十一日 和田了徳入道死去。享年七十三歳。和泉守等の伯父に当たり江州甲賀七人衆の一人である。近年は屋形の御伽衆であった。屋形はこの入道のために甲賀郡に一宇を建立し了雲寺と自ら額を打たれる。総じて当屋形は一心に忠義を尽くした将に対して後々まで深くその功を感じ、その菩提を弔われる。

二十一日 志賀郡唐崎の一松が一夜の内に枝葉を落として枯木のようになる。非常に不吉であるという。屋形はこのことをお聞きになって、生者必滅であり珍しいことではないと仰せになる。

五月大

五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。今年は江北の番であり京極、浅井が心を尽くし美を尽くす。京極の家人今村という者と平井加賀守の家人藤田十兵衛という者が喧嘩になり神輿の前で斬り結ぶ。これにより神人三人が傷を負う。この日の喧嘩は毎年の御決りであるので屋形の耳には入らない。このため京極と平井が大いに戦う。進藤山城守が京極を、山崎源太左衛門尉が平井をそれぞれ抑え戦わせないようにする。この事が観音寺城へ報告され京極、平井は閉門となる。今日の喧嘩の死傷者は双方で百四十三人である。

二十五日 将軍家が観音寺城にお出でになり京極、平井のことを仰せになるので、屋形は支障のないよう両人の閉門を許される。このため両名が共に出仕する。屋形は非常に将軍を重んじられる。これは治める世のない将軍であるので殊更に重んじられるのだという。

六月小

一日から二十九日まで雨が一滴も降らず、五畿内で疫病が流行る。このため人間から牛馬に至るまで死ぬ者が多く道路を塞ぐほどである。

今月十三日から矢嶋御所が病気のため京家の医師道三を江州に呼び寄せる。この病気のため江州の旗頭等は五日交替で矢嶋の番をする。

七月小

四日 今日まで雨が降らない。公儀の病気は少し治りかけてきたため近習の面々が二日交替で暇を賜る。

十五日 午の刻から戌の刻にかけて洪水が起こる。将軍家の病気が快方に向かったので医師道三は暇を賜って上洛する。道三は江州に下向することも非常に三好家に憚るという。

八月大

四日 関東から浮雲という術士が将軍家の矢嶋御所に参りさまざまな術を披露する。このことを京極長門守高吉が屋形に申し上げる。

五日 屋形が矢嶋の御所に参り諫言される。その内容は、どうしてこのような術士などを召し集めて時間を過ごされるのか、これは良将のするべきことではない、速やかに追い払うのがよろしいということである。そして早速浮雲を江州から追い出される。

二十日 上醍醐が落雷にて炎上する。いろいろと不思議な事があったというが記す余裕はない。

二十四日 住吉の社が鳴動したと天皇に奏上されたという。

九月小

九日 大津四位宮で祭礼がある。神人と三井寺中方の悪僧等が口論になり、神人等がたくさん死亡する。三井の悪僧はなおも乱暴を働き四位宮の境内を焼いたと大津奉行大津主膳正兼俊が早馬にて観音寺城へ申し上げる。

十六日 今月九日に四位宮の祭礼を妨げ、あまつさえ境内を焼いた三井の悪僧等四十五人全員にその沙汰があり、柳崎の浜にて誅戮される。

十月大

十日 洛東の大仏殿が兵火のために焼ける。これは三好左京大夫義次の軍勢が大仏殿に潜み毎晩三好笑岩の館へ出向いて討とうと企んでいるのを笑岩が聞きつけ、岩成主税助を三百騎にて向かわせてこれを討とうとしたところ義次の軍勢は百騎程で防戦し、ついには大仏殿に火をかけて悉く自害したためである。同時に般若寺も焼ける。

十四日 平井加賀守、澤田越後守両名は本日矢嶋御所の当番であったが、口論に及び将軍家の御所が大いに騒ぐ。進藤山城守がこの旨を屋形に申し上げる。両名は閉門を仰せ付けられる。

十一月大

九日 箕作の次男中務大夫が義久と実名を改める。この事を聞いて屋形は大いに怒り、当家の義の字は将軍家の諱字を与えられたものである、将軍家の許可もなく妄りに使うことは非常に当家の無礼である、即刻名を改めよと目加多摂津守を父承禎へ遣わし仰せ付けられる。承禎はこの事を知らなかったと申し上げる。これによって中務大夫は名を賢永と改める。これは兄右衛門督の仕業であるという。とにかく右衛門督の本心は打ち解けることなく、三好笑岩と通じて矢嶋の御所を討つ陰謀をめぐらせる。

二十二日 若州の武田義統が江東に来て、公儀を若州へ移し越前国主を語らい、北陸道の軍勢を集めて三好退治の合戦を行うことを相談するが、屋形はこれを承知されない。

二十九日 義統が若州に帰る。

十二月小

十四日 細川兵部大夫藤孝が観音寺城に参り、公儀を若州へ移して北陸道の諸将を語らってはどうかと申し上げる。屋形は承諾されない。

十五日 大雪が降る。戌の刻に地震がある。同日山形権内の領地から注進があり、三好家が河内へ攻め込むという情報を申し上げる。

二十五日 南方の雲の間に赤い気が立つ。古老の知者によればこれは慶雲の気であるという。

二十六日 矢嶋御所にて近習の面々に受領等を仰せ付けられる。将軍が自ら官位を思い通りに与えることはこれが始めであるという。

二十七日 本日から二十九日まで雪が降る。江州北部の郡では一丈余り積る。二十年なかった程の大雪である。矢嶋御所並に観音寺城への歳末の出仕は去年と同様であり、記すに及ばない。



巻第十二・完