永禄十一年(戊辰)
一月大
一日 天気は快晴。午の刻に屋形が矢嶋御所へ出仕される。
二日 江州の旗頭が例年通り観音寺城に出仕する。未の刻に雪が降る。
三日 快晴。
四日 将軍家が観音寺城にお出でになり、旗頭等の御目見えがある。
五日 江州の社家等の礼をお受けになる。
六日 将軍が弓始として矢嶋の御所にて繰矢を楽しまれる。
七日 若州の武田義統が江東に来て矢嶋の御所に出仕する。若狭国の鍛冶想五郎作の太刀五十振りを将軍家に献上する。
十五日 将軍並に屋形、その他諸将が江州八幡宮に参詣する。将軍の詠歌がある。
今年よりをさまる御代に近江路の神もめぐみをそふる吾やと |
二十四日 将軍が比良山の愛宕へ参詣される。
二月大
四日 将軍が若州へ動座するという。屋形は諸旗頭に、将軍は若州へ移られるべきではないと仰せになる。京極長門守高吉が進み出て屋形に諫言するには、将軍の御座を移すべきである、その理由の一つめは将軍が若狭へ移られれば北国の面々が天下再興に合力するであろうこと、二つめは是覚入道が以前申し上げたように箕作父子の心底は打ち解けておらず不意に将軍を襲い討つことも考えられることである、さらに将軍の勇力の程度も御覧になった方がよい、器量がなければたとえ天下再興が成ったとしても何の益があろうか、以上の理由から時世を測り知るためにも動座を行うべきであるということである。屋形は、吾は将軍を守り立てようとしているが将軍に器量がなければ確かに益のないことである、将軍の心に任せてまずは若州へ移っていただこうと仰せになり、その日を定められる。これによって今月十六日に決定する。江州の旗頭の中から浅井下野守、息子備前守、蒲生右兵衛尉の三人が供奉することになる。
十三日 若州の武田義統が江州に来る。これは将軍家の御迎のためであるという。
十六日 将軍家が矢嶋を出立し辰の刻に木野浜から船に乗られたところ、午の刻に雨が強く降ったため堅田の浦に船を着け宗野民部少輔兼助の館へ入られる。雨が止むのを待って酉の刻に再び乗船される。御供の浅井父子、蒲生の船も同時に賢田を漕ぎ出す。将軍が船を小松の沖にしばらく停めて月を鑑賞していると細川兵部少輔藤孝が一首を詠んで将軍を慰める。将軍も一句を詠んで月を愛でられる。
十八日 将軍家が武田義統の館に到着される。
十九日 若州から浅井、蒲生が帰国し、将軍家の書状を屋形に献上する。蒲生が将軍の道中の行動を申し上げ、後に小松の沖にて夜になったので船を泊めたところ細川兵部が一首を詠んで将軍家を慰め将軍家も又一句を作って月を愛でられたと申し上げる。屋形はその詩歌はどのようなものであるかと尋ねられる。蒲生は記して参りましたと申してそれを進上する。
よるへなき身と成ぬれは塩ならぬ海の面にもうきめみる哉 細川兵部少輔藤孝 |
将軍の詩は次のようなものである。
落魄江湖暗結愁 孤舟一夜思悠悠 天公亦慰吾生否 月白蘆華浅水秋 |
蒲生はこのようであると申し上げる。屋形はこれを手に取って深く御覧になり次のように仰せになる。藤孝がその歌の中でよるへなきと詠み、海の面にうきめみると詠んでいる事は納得がいかない。天下に何の力もない人を当国に迎え、あまつさえ勅許もないのに合戦などに益があるだろうと天命も恐れず将軍と崇め三年間非常に尊敬してきた。そうであるのに若州へ移ると仰せになれば数人の旗頭を差し添えて道中も真に天下を治めている将軍と異ならないように諸事丁寧を尽くしてきた。それでどうして藤孝の歌の内容を承諾できるであろうか。また将軍の詩も江陽の湖に魄を落とし愁いを結び独り舟によもすがら漂うとは家臣が風流ならば主君も風流人であることよ。天公も将軍が船中にある様を哀れに思われるか否か、月は白く水は清らかであるとの心中は言うまでもない。天下の再興を思う身であれば夜は諸侯の器の大小を吟味し、昼はその品行を正しくし、英雄豪傑の士を大切にして奇正両道の戦を慮り、人の心を導き、特に戦乱の世であるので武業に励むのに忙しく暇がないはずである。月の光を灯火として孫子呉子の兵術を読み、道中も馬を走らせ軍勢を采配するのに適した地かどうかを見極める。また心を慰めようというならば武の法にいくらでも詠むべき事がある。たとえ一句一首でも兵歌等をこそ詠むべきであるのにどうして情けなくも江湖に愁を結び孤舟に思いを添えいたずらに山川の景色を詠まれるのか。今の時世を考えれば言うまでもなく、考えるまでもない。主将たる者は武林の華を尋ね兵家の月に心を澄ませば一首の詩歌などというものは必要ない。昔の義経や楠木正成等の軍歌は今の戦の手本となっている、と仰せになり屋形は殊の外不快の意を表わされる。
三月小
三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われ、屋形並に御一門、旗頭が参詣する。
二十三日 若州の武田大膳大夫義統から使節が来る。その内容は、今月二十日に将軍家が細川、上野両使者を越国の朝倉左衛門大夫義景へ遣わして天下草創の事を頼まれたところ一向に同意を得られなかったため将軍が再び江州に帰座されるということである。使節は義統の弟で武田右京進光信という者であり、屋形は返書を渡される。
四月大
一日 越前永平寺の大和尚は今年この寺に入寺したことについて参内し、その帰途に江東に寄り観音寺城に出仕する。この和尚は若い頃江州吉祥寺にて学問をしていたので屋形がいつも観音寺城に呼び寄せて法問答をされていた僧である。このため今ここに来たのである。夜になって屋形が永平寺に仰せになるには、曹洞宗には後醍醐天皇と瑩山和尚との十問十答というものがあると聞いているがこれは非常に疑問を晴らすものであるという、よもすがらの物語として是非聞かせよとのことである。和尚は、言葉だけでは理解しがたいであろうと申して筆を取り書き記す。旗頭等は和尚の前に伺候してこれを聞く。和尚が一々説明するその書には次のように書かれている。
訳すのが困難なので省略します |
以上の内容を一々永平寺が解説する。屋形は強く信心を起こされる。後世のために日記に書き留めるものである。
十九日 若州から将軍が矢嶋御所に帰座される。武田義統からは田中権頭、前野美作守が二百騎にて供奉に遣わされる。義統から屋形へ密状があるが、その内容はわからないので記さない。
二十九日 西の方角が大いに光る。
五月小
五日 佐々木神社にて祭礼が行われ、屋形並に御一門、旗頭等が参詣する。同日箕作右衛門督義弼が忍んで上洛したと三田村作内が祭礼の場に参上して申し上げる。
十五日 礒野丹波守の次男権内が屋形の怒りに触れ京極家へ預けられる。これは朝倉義景の家人である大隅守という者と屋形への報告もなく勝手に縁を結んだ罪による。父丹波守はこの事を知らなかったのが明らかであるので勘気を免れる。
十七日 尾州の織田家から使節が来る。密状があるがその内容はわからない。将軍家が三好を誅罰するための評議であるという。
二十三日 高嶋越中守が観音寺城に出仕して申し上げるには、箕作義弼が三好笑岩と手を結び矢嶋御所を討つための評議をしているとのことである。越中守の家人に三好笑岩の家人と兄弟の者がいたため詳しく知ったものである。
二十四日 屋形は平井民部少輔を承禎へ遣わして右衛門督の上洛のことを尋ねられる。承禎は病気のため知らないと返事をする。屋形は再び使節を遣わして、義弼が上洛したのは三好家と通じて将軍を討つ評議をするためであることは明らかであると知らせる者がある、この上は義弼が帰国することは困難であると仰せになる。承禎はこの事について知らない旨を起請文に書いて平井に渡す。
二十五日 義弼が京都から江東に帰る。屋形は進藤山城守を遣わして上洛の仔細を糺される。義弼がすぐに進藤とともに登城して申すには、上洛は言われているような理由のためではない、笑岩入道が西国の者共を語らって当国に攻め寄せようとしていると告げ知らせる者があったので急いで上洛しそのことを見聞きしたところ虚説であることがわかったので帰国した次第であるとのことである。屋形がまだ本心から納得されないので起請文を書いて進藤山城守に渡したところ、屋形はその罪を免じて箕作城へ帰される。
六月大
八日 尾州の織田信長が密かに百騎ほどを率いて江州に来て観音寺城に入る。信長の息女が当国へ輿入れしてから今まで屋形と対面することはなかったのでこれが初めてである。今夜江州の旗頭等を観音寺城に召集して将軍上洛についての評議が行われる。丑の刻に信長は観音寺城を発ち美濃へ帰る。矢嶋御所には信長が来たことを秘密にし、江州でも外様の面々には知らせない。信長が百騎ばかりで忍んで当国に来た事について目加多摂津守は楢崎太郎左衛門に語って、非常に名将である、近年は国が乱れて婿といいながらこれを討ったり旗下となってもその国主を討ったりすることがよくあるが、少しも人を恐れることがなく最も将才にあふれた人であると評価する。楢崎は、こういう人は時世に乗じて必ず国を治める人であると申す。
十五日 屋形の奥方から今年初めて竹生島へ天女を作って納められる。天女を運ぶ先頭の両船は音楽を演奏し八崎から漕ぎ出す。豪勢な祭礼である。この竹生島の祭礼は坂田郡、浅井郡の二郡が毎年行っていたが、この度屋形の奥方から若御曹司誕生のために天女が納められたため浅井祐政が宵から島に渡り神事等を奉行する。
十九日 屋形が平井加賀守を尾州へ遣わされる。密状があるがその内容はわからない。午の刻に洪水がある。激しく雷が鳴り、白毛が降る。同日将軍家から上野中務大輔が尾州へ遣わされる。
二十五日 屋形が旗頭等を召集して、今年中に将軍家の上洛を実現すると信長と定めたので面々はそれぞれの領地で陣触をするようにと仰せ付けられる。
七月小
十五日 屋形が江州浦々での殺生を今日、明日の二日間禁止される。これは母公青樹院殿の追善であるという。
十六日 尾州織田家から使節として菅屋九右衛門尉という者が参る。これは信長が引き立てた者である。織田家が申し越す内容は、矢嶋の御所に今月中に美濃まで下向していただきたいということである。これは公儀に美濃国まで下向してもらい尾州から東の三州、遠州の諸卒を招こうという信長の策である。遠江、三河の両国は今川義元討死の後は織田家が下知しているが、駿州の後継を主として駿河へつく者が多い。このため信長は公儀をまず美濃国まで下向させ軍勢を集めて江州勢と力を合わせて上洛しようということである。
十七日 蒲生右兵衛大夫の次男美作守氏春が死去する。享年二十一歳。屋形が子供のようにかわいがっておられた人である。
二十日 尾州織田家から不破河内守と織田十郎左衛門の両名が江州に来る。これは将軍を迎えるためである。屋形へ密状があるがその内容は知らないので日記には載せない。両使をもてなすように伊達出羽守、青地伊予守に仰せ付けられる。両人の居城にて尾州の両使節をもてなす。
二十五日 将軍家が辰の刻に矢嶋御所を発って美濃国へ向かわれる。屋形は三上伊予守、浅井備前守両名を五百騎にて将軍に供奉させ濃州へ向かわせる。
二十六日 浅井備前守長政、三上伊予守秀成から使節が参り、将軍家が本日酉の刻に濃州立正寺に到着したと申し上げる。
二十九日 濃州立正寺から将軍の上使が来る。細川兵部大夫藤孝が将軍の書状を屋形に献上する。細川が屋形に申し上げるには、将軍が立正寺に着座されてから織田家が遠三両国に回文を下して軍勢を集めたところ今日までに一万三千騎が集まったということである。
八月小
三日 織田家から使節が参り、今月八日にまず江州まで出陣するとのことである。屋形は、将軍もこちらへ移られるよう仰せになる。
四日 濃州立正寺から将軍の御教書が来る。それには、承禎父子が三好笑岩と一味であることは明らかであると告げる者があった、この上は上洛の妨げとなることが考えられるのですぐに箕作を攻めるようにと仰せ下してあった。屋形は、吾は以前から諸臣の諫言を受け入れず承禎父子を守ってきたが将軍から申し付けてきた以上吾一人道理を守っても意味がないと仰せになり、箕作を攻めるよう仰せ付けられる。
七日 美濃国から浅井備前守、三上伊予守が帰国し屋形に申し上げるには、明日信長が岐阜を発ち当国へ来ることに決まり、尾州濃州勢一万五千騎に遠州三州の八千騎を合わせた二万三千の軍勢にて将軍に先立ち上洛するとのことである。屋形は、将軍はそもそも臆病な人であるので承禎父子のことが心配になりまず信長だけを上洛させたと思われる、信長が当国に入り承禎父子を攻めれば二家で箕作を攻めたと後世の嘲りを受けるであろう、すぐに箕作を攻めよと仰せになる。浅井、平井、進藤は口をそろえて、何とかして承禎父子を味方にする方法を考えるべきである、というのは以前から我々が諫言していた頃に箕作を攻められるのであれば道理に適っているが今公儀の御教書が来てからというのはいかがであろうかと思われるからである、と申し上げる。屋形は、明日信長がここに来るので相談しようと仰せになる。信長は屋形の奥方の父親であるのでこのようにされるのであろう。
八日 尾州の織田信長が江州佐保山まで出陣する。夜になって密かに二十騎ほどで信長が観音寺城に入る。承禎父子についての相談であるというが、その内容は詳しくはわからない。
九日 屋形と信長の評議が行われる。当家の進藤山城守、織田家の不破河内守、将軍の上使である二宮采女正の三人が箕作承禎父子へ遣わされ、将軍が三好退治をされる前陣を務めるよう申し付ける。承禎父子は、天下草創の合戦にて先登を申し付けられるのは身に余る幸慶であると返事をする。信長は大いに悦びこの旨を将軍家に申し上げて、すぐに上洛を実現しようと申して佐保城へ帰る。
十一日 信長が美濃へ陣を引き上げる。
二十五日 三雲三郎左衛門尉の嫡男源三郎が右衛門督の意向に逆らい観音寺城に駆け込んで屋形に申し上げるには、義弼については確かに三好と通じており、屋形と信長が上洛した後勢州国司と二軍にて上洛し前後から挟み撃ちにして合戦をすることに決まったという。屋形がその真偽を尋ねられたところ三雲源三郎は国司からの密状を取り出し献上する。さらに当国において義弼に味方をする者共の起請文を差し出す。屋形は、それならば承禎父子の逆心は疑いようがない、すぐに攻め討つようにと旗頭へ仰せ付けられる。
九月大
二日 右衛門督が勢州から夜毎加勢を呼び寄せて箕作城へ入れていると吉田出雲守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井下野守祐政に、承禎父子の軍勢は八千程である、いくらでも勢州から加勢を呼び寄せてから攻めよ、そうすれば勢州退治が容易になるであろうと仰せになる。浅井は、この計画は必ずうまくいくと思われると申して、わざと箕作への加勢をゆっくりと入れさせる。
十九日 京極、朽木、浅井が観音寺城に出仕して屋形に申し上げるには、箕作の軍勢が一万二千になり、その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼に味方した、さらに勢州国司が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くことになり難しい状況となるであろうとのことである。屋形は、今こそ合戦の時である、それぞれの攻口を定めると仰せになる。
一 箕作表へは京極長門守高吉五千騎、浅井下野守祐政、備前守長政父子四千五百騎の合わせて九千五百騎である。箕作東口へは平井加賀守、進藤山城守、後藤喜三郎の三人で八千騎である。 一 和田山南坂へは澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守の五人で六千騎である。西坂口へは京極兵部大夫、蒲生右兵衛大夫両名で七千騎である。 一 勢州国司の軍勢への抑えとして君ヶ畠口へ山崎源太左衛門秀家、永田刑部少輔、山岡美作守の三人で五千騎である。 一 同様に国司の抑えとして鈴鹿口へ多賀新左衛門尉、和田和泉守、目加多摂津守の三人で四千三百騎である。 |
二十日 卯の下刻からそれぞれの軍が合図を定めてまず和田山に攻め懸ける。城中からは六千騎の軍勢が防戦する。卯の下刻から午の刻までの戦いで敵八百七十騎を討ち取り、味方は三百二十騎が討死する。午の下刻になって吉田道覚が城を出て、命を助けてもらえるならば城を明渡すと屋形へ申し入れる。屋形は、諸卒には罪はない、建部、吉田が切腹すれば兵卒は助けようと仰せになる。これを受けて建部、吉田は出家し味方の陣に降伏して再び屋形に申し上げる。屋形は、既に出家をしたのであれば助命しようと仰せになり和田山の城を受け取られる。建部、吉田の二人は屋形の菩提所である東光寺に入寺する。同日、箕作城に二方面から攻め懸ける。承禎父子は大手、搦手へ打って出て自ら采配を取り下知をする。下方三夢という者が堀で討死しそうなのを見て右衛門督が一騎で駆け下りてこれを助けたところ、味方の軍から右衛門督を討ち取ろうと浅井の家人で坂田十内という者が駆け寄り横槍を入れる。義弼は引き返して十内を馬上から掴み、箕作城の二の丸から数町の堀へ投げ入れる。このようにして敵味方が大手、搦手で同時に入り乱れて戦い、承禎軍は二千三百、味方は八百二十騎が討死する。武将は一人も討たれず午の刻から酉の刻まで戦う。承禎から軍使が立てられ開城する旨を申し入れるが、屋形は承諾されず承禎父子を討ち取るように諸将へ仰せ付けられる。これに対して京極高吉、朽木宮内少輔の両名が屋形に諫言し、一家を滅ぼしてしまうことはよくない、その上開城すると申し入れているのを承認せずその者を誅殺しようとするのは良将が強く嫌うところであると申し上げる。屋形は、どのようにでも其の方等の思うように任せると仰せになり、京極、朽木両名は箕作城を受け取って承禎父子を日野谷かいかけという所へ移す。この時の落書には次のように詠まれる。
をしかりしそのみつくりを後藤にかへて今はかうびんかいかけの城 |
元来承禎父子はこのような目にあう筈はなかったのであるが、六年前に後藤但馬守を殺害してからは屋形との仲が悪くなりついにはすべてを失うこととなった。実に屋形が幼少の頃から近江国の政務を預かり管領職まで手に入れたが、息子右衛門督が欲心を抱き屋形を滅ぼして国を奪おうと数年間企んだところついに天命に背きこのようなことになった。屋形も承禎父子には数年に亘り不義等が多くあったが、亡父が後見につけてからは偏に承禎公に慈父の如く礼を尽くされたので国人も尊敬し後見の義賢と申したものである。義賢は去る永禄六年に後藤を謀殺したため家を失ったのである。
二十一日 将軍並に織田上総介信長が総勢二万八千で本日卯の上刻に濃州立正寺を発ったと池田庄三郎が早飛脚を仕立てて屋形に申し上げる。午の下刻に観音寺城へ早飛脚が到着する。屋形は池田に対して、その旧功を思う所ひととおりでないと仰せになる。同日、将軍が江州柏原上菩提院に着陣されたと報告がある。信長は田中城に参陣したということである。
二十二日 将軍が桑実寺へ着陣されたと報告がある。信長は馬場に参陣したということである。酉の刻に屋形は観音寺城を発ち将軍の御迎のために桑実寺へ移られる。将軍は対面し、まず承禎父子のことを仰せになる。承禎父子が国の害となるのを知り一族といえども天下草創のためを思い追い払ったと聞き大いに心を動かされたということである。
二十三日 卯の刻に屋形が桑実寺を発ち観音寺城へ帰城される。未の刻に将軍が観音寺城に到着される。信長は武佐に着陣する。屋形は信長と評議をされ、一両日まずは人馬を休息させることになる。
二十七日 本日は吉日であるので将軍家が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。
一 先陣屋形の軍勢五万六千騎 この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという。軍勢を多く見せる計略である。) 先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。) 目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守 以上七人の軍勢五千騎 二番備 浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔 この軍勢四千三百騎 三番備 永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八 この軍勢三千四百騎 四番備 京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守 この軍勢四千三百騎 五番備 蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守 この軍勢二千八百騎 六番備 澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青地駿河守、朽木宮内大夫 この軍勢三千七百騎 七番備 小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔 この軍勢二千五百騎 八番備 平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守 この軍勢三千二百騎 九番備 山岡美作守、礒野丹波守、箕浦二郎左衛門尉、多賀新左衛門尉 この軍勢二千三百騎 十番備 今村掃部頭、堅田刑部少輔、大宇大和守、高橋越前守、尼子出雲守、森川長門守、狗丹後守、隠岐右近大夫 この軍勢三千百騎 十一番備 屋形御本陣 旗本の軍勢八千騎 十二番備 進藤山城守、同伊勢守、同尾張守、宮木右兵衛尉 この軍勢四千二百騎 十三番備 松下若狭守、間宮佐渡守、阿閉淡路守、高野瀬十兵衛尉、堀伊豆守、水原采女正、吉田出雲守、建部伝八兵衛尉、 河端左近大輔、大原大学助、木村筑後守、山内讃岐守 この軍勢三千八百騎 |
一 二陣織田家の軍勢六万六千騎 以上十七備(実は四万二千騎である。江州と同じ計略である。) 一番備 佐久間右衛門尉、同大学助、同刑部少輔、同左京進 この軍勢五千七百騎 二番備 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允 この軍勢三千二百騎 三番備 水野帯刀左衛門尉、同大膳亮、簗田出羽守、佐々隼人正 この軍勢二千五百騎 四番備 林佐渡守、池田庄三郎、毛利新介、梶川平左衛門尉、織田源兵衛尉 この軍勢三千騎 五番備 柴田権六郎、前田又左衛門尉、徳川三河守 この軍勢四千二百騎 六番備 木下藤吉郎、同雅楽頭、毛利河内守、織田造酒丞 この軍勢三千五百騎 七番備 不破河内守、同彦三、織田上野介、坂井右近将監、中嶋豊後守 この軍勢二千八百騎 八番備 明知十兵衛尉、山田三左衛門尉、蜂屋兵庫頭 この軍勢四千五百騎 九番備 山口飛騨守、遠山河内守、岩室長門守、織田左馬允 この軍勢三千二百騎 十番備 丹羽五郎左衛門尉、津田掃部頭、福冨平左衛門尉 この軍勢三千四百騎 十一番備 佐々内蔵助、河尻與兵衛尉、野々村三十郎、澤田越後守、津田源八郎 この軍勢二千三百騎 十二番備 織田家 旗本の軍勢一万騎 十三番備 織田十郎左衛門尉、同美作守、同市令助、同左助、同孫五郎 この軍勢二千騎 十四番備 森三左衛門尉、稲葉又左衛門尉、村井民部少輔 この軍勢二千百騎 十五番備 氏家常陸守、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(名字を後に改めて安藤という) この軍勢二千四百騎 十六番備 村井民部少輔、同丹後守、嶋田所之助、奥平十内、加藤三右衛門尉、甲斐越前守、犬山越中守、名塚采女正、 乾加賀守 この軍勢四千二百騎 十七番備 織田孫兵衛尉、同主水正、丸毛伊豆守、山口半左衛門尉、岡部又右衛門尉、堀池主膳正、前田一学、小畠左馬允、 丹羽想内兵衛尉、瀧野源八、寺田善右衛門尉、篠川兵庫頭、団平八、永井新太郎、森兵部左衛門尉 この軍勢三千四百騎 第三陣に将軍家近習の軍勢二千騎が続き、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信が五百騎にて二列に並び将軍を先導する。 |
本日未の下刻に将軍が三井寺観音院に着陣される。屋形の軍勢は大津、松本、馬場、茨川に陣を置き、先陣は山科の里々に陣取る。信長の軍勢は多野、勢多、石山、草津、坪井、目川に陣を置き、明日二十八日に京都に入るということである。戌の刻に江州七手組が粟田口へ押し寄せて陣を取ったところ三好笑岩の軍勢は攻めかかってくることもなく、それどころか味方の軍勢が強大であると聞いて三好一族等は近国の城へ引き篭もったと粟田口に陣取る七手組が申し上げる。三好一族の立て篭もる城を一々書状にて申し上げる。
一 岩成主税助、同備前守、三好新左衛門尉の三人は二千五百騎にて青龍寺城に立て篭もる。 一 三好日向守、同下野守の二人は五千騎にて芥川城に立て篭もる。 一 三好笑岩の旗奉行池田筑後守は居城池田城に千五騎にて立て篭もる。 一 松永弾正少弼、息子右衛門佐は北白川に陣取り、将軍が京都に入れば諸軍と示し合わせて戦うということである。この軍勢は三千五百という。 一 大将三好山城入道笑岩は領国の軍勢を集めて上洛するために四国へ帰ったということである。 一 松山新入松謙斎は八百騎にて高槻城に立て篭もる。 一 三好備中守は千五騎にて茨木城に立て篭もる。 一 篠原右京進、同小市郎、澤田右近大夫の三人は笑岩の下知により横槍として小清水、瀧山の両城に置かれる。 |
以上の内容は江州七手組の先手が大津の屋形へ注進したものである。子の刻から軍勢を繰り出して二十八日の巳の刻には将軍家が都に入られる。将軍家は相国寺慈照院に本陣を置き、屋形は南禅寺に信長は東福寺にそれぞれ本陣を置く。
二十八日 未の刻に江州七手組の目賀田、馬渕、伊庭、三井、三上、落合、池田の軍勢八千騎が北白川に陣取る松永弾正の軍へ攻め寄せたところ、松永左近将監という者を遣わして松永父子が降参すると七手組へ申し入れる。七手組は屋形へ申し上げ、屋形は人質を取って松永を南禅寺に召し寄せられる。屋形は信長へ使節を遣わして評議をされ酉の刻に信長と同道して将軍に松永父子を引き合わされる。松永父子は将軍へ礼を行い吉光の脇差を献上する。この脇差は赤松家に代々伝わるもので小虎と呼ばれ、天下に並ぶもののない一振りであるという。
二十九日 京中の役人、医師、名人等が相国寺の将軍御所へ御礼に参上する。屋形、信長御両所も相国寺に移り三好退治の評議をされる。同日連歌師の紹巴が相国寺へ御礼に参上し将軍の御前へ扇子二本を献上して、二本手に入今日の悦、と詠んで畏まる。将軍は笑って、まいあそふ千代万世の扇にて、と付けられる。同日屋形と信長は将軍の御前にて軍議を行われ、まず岩成主税助、同備前守、三好新左衛門が立て篭もる青龍寺城を攻めることに決まり、以下の者に御両所から仰せ付けられる。
一 江州から目賀田摂津守、進藤山城守、平井出羽守、蒲生右兵衛大夫、京極長門守の五人に軍勢五千三百騎 一 尾州から柴田修理亮、蜂屋兵庫助、森三左衛門尉、坂井右近、織田十郎左衛門の五人に軍勢六千五百騎 |
二手の軍勢一万千八百騎にて青龍寺表へ遣わされる。午の下刻から攻め懸かり申の刻までに味方が討ち取った首の数は百三十五である。酉の刻に戦を停めて軍勢を休ませる。十人の大将から京都の御両所へこのように注進する。義秀と信長は評議をして、敵に間を取らせず攻め落とすよう重ねて陣所に申し渡される。戌の刻から十人の大将が三方から青龍寺城へ攻め寄せ一斉に鬨の声を上げて攻めたところ、岩成主税助、同備前守、三好新左衛門は降参して味方に参陣する旨を竹中内膳正という者を目賀多の陣所へ遣わして申し入れる。これを京都へ注進すると御両所は、どのようにでも各々の思うように計らうようと仰せになる。これによりその夜の丑の刻に青龍寺城を受け取り、岩成主税助、同備前守、三好新左衛門の三人を召し具して相国寺に帰陣する。義秀、信長御両所も相国寺に出仕して岩成主税、同備前、三好新左衛門を将軍家の御所へ引き出される。岩成は両目を紅くして礼を為し、軍忠に励んで助命の恩に報いると申し上げるという。
一 岩成二人は江州の軍に入り摂津国退治の先陣に加えられる。 一 三好新左衛門尉は尾州の軍に入り同じく摂津国退治の先陣に加えられる。 一 松永父子は尾州の軍に入り同じく摂津国退治の先陣に加えられる。 |
十月小
一日 卯の刻に摂津国退治のため江州尾州の両将が京を進発したところ、芥川城に立て篭もっていた三好日向守、同下野守、細川六郎丸は叶わないと思い開城して四国へ落ち延びていったと報告がある。
二日 両将が評議して小清水城に立て篭もる篠原右京進、同小市郎、澤田右近大夫を攻めることに決まるが、これも今朝辰の刻に開城して四国へ落ち延びたと先陣の面々が中心する。なかなか攻めることもなく江州尾州の軍勢は手を打つばかりである。山崎源太左衛門尉秀家が一首の狂歌を詠む。
落去て何くにちりの芥川更にうき名を流す細川 |
これを聞いて平井加賀守がもう一首詠む。
落て行すへは三好と思へ共あめか下にはかたうどもなし |
同日申の刻に江州七手組が池田城へ攻め寄せる。この城には三好笑岩の旗奉行である池田筑後守が千五百騎にて立て篭もる。南口へ足軽を送り出して防戦するが落合の軍が池田の足軽大将高山門内という者を討ち取る。申の刻から酉の刻まで合戦が行われ、池田筑後守は人質五人を出して降参する。これによって七手組が池田城を受け取り、佐久間と目賀田の取次で池田筑後守政久が江尾の御両所に御礼を申し上げる。国武丸という太刀を屋形に献上し、信長には龍尾という名馬を献上する。
三日 松山新入松謙父子は高槻城に八百騎で立て篭もっていたが、松永へ使節を送り降人となって味方に参陣する。そこで本日両将が礼をお受けになる。同様に茨木城に立て篭もる三好備中守も松山が降伏したと聞いてすぐに松永を頼り、未の刻に天神の馬場へ参上し両将へ礼を為す。
四日 河内国若江城の城主三好左京大夫義次が天神の馬場に参上して両将に礼を為す。義次は元来前将軍義輝公の代から一門を離れて味方をしてきた者である。特に義輝公生害の時には軍忠を顕しながら一門の強勢により力なく若江城へ退いて、江州、尾州の上洛を待っていた者である。同日江尾の両将が評議をして先陣の軍勢を引き上げ上洛することに決まる。三好義次については四国から笑岩が上洛するようなことがあれば防戦するようにと河内一国の軍勢を付けて若江城に帰される。江尾の両将が帰洛される。
五日 酉の刻に江尾の両将が相国寺に到着される。将軍は対面され、天下再興の守護人であると喜ばれる。
一 今月先月の間に治めた国は三ヶ国であり、摂津、和泉、河内である。 |
六日 両将が評議をして、洛中洛外の秩序が乱れているため江州から蒲生右兵衛大夫、進藤山城守、馬渕伊予守の三人、尾州から柴田修理亮、坂井右近、森三左衛門の三人を洛中洛外の奉行とされる。これは洛外にて下々の者が乱妨等を起こすことについてである。以上の六人が評定を行い洛外七口、洛内十七口に制札を立てる。
禁制 一 当方の軍勢等上下の輩において乱妨、狼藉があればその者は言うに及ばず組頭の者も共に処罰される事 一 みだりに山林で竹木を伐採する事 一 押買、押売並に追立夫の事 一 女房並に小童等に乱暴する事 一 諸公家の面々や諸門跡等とみだりに会合をする事 一 上意なき輩が近国に誅罰に向かってはいけない事 一 下知もなくみだりに帰国してはいけない事 以上の旨に違背する者は速やかに厳罰に処せられるものである。仰せによって件の如し。 蒲生右兵衛大夫 永禄十一年十月六日 柴田修理亮 進藤山城守 坂井右近将監 馬渕伊予守 森三左衛門尉 |
十一日 将軍義昭公が辰の刻に初めて参内される。行列等の様子は夥しいので日記には載せない。将軍の次に屋形、その次に信長、その次に江州、尾州の旗頭である。将軍家が従二位大納言征夷大将軍に任ぜられ、尾州江州の両将は宰相に任ぜられる。
十二日 両将の申し出により尾州江州の旗頭四十五人が受領する。
十五日 両将が相国寺に出仕し評議をされ、将軍家守護のために旗頭二十四人を相国寺に留め置かれる。将軍家守護に置かれる面々は次の通りである。
江州旗頭内 蒲生右兵衛大夫、朽木宮内大夫、高嶋越中守、黒田日向守、野村越中守、澤田武蔵守、山崎源太左衛門尉、 尾州旗頭内 飯尾近江守、佐久間大学助、織田玄蕃允、簗田出羽守、木下雅楽頭、林佐渡守、中嶋豊後守、山口飛騨守、 |
以上二十四人の軍勢は八千騎である。
十六日 尾州江州の両将が暇を賜り、午の刻に京都を発って帰国される。
二十日 織田家は今日まで四日間観音寺城に逗留していたが、未の刻に観音寺城を発ち美濃岐阜へ帰城する。
二十八日 屋形が旗頭を観音寺城に召集し、今年行ったそれぞれの合戦に功を立てた面々に感状等を与えられる。屋形から證文を賜った者は陪臣に至るまで全員で七十二人である。
十一月大
十一日 京都から上使細川兵部大輔藤孝が江東に参り将軍家の上意を述べる。屋形へ摂津国を、信長へ和泉国を与えるとのことである。
十二日 上使細川兵部大輔が江州を発ち美濃へ下向する。これは先述の上意を伝えるためである。
二十九日 関東から例の山伏大泉坊が江州に帰国して観音寺城へ出仕する。それによると、今月二日に甲州の武田入道信玄が駿河国へ攻め込み今川氏真と戦ったところ、氏真の家来で嶋田右近という者が逆心し信玄に頼まれて計略により氏真を追放した。氏真は遠州掛川へ退き、その後尾州の織田家を頼るつもりである。これによって信玄が駿河国を治めることになり、伊豆の北條左京大夫氏康、息子氏政は武蔵、相模、伊豆の軍勢を集め来月十二月に駿河表へ出陣し武田と一戦交えるとのことである。この頃駿河の府中という所で次のような落書が立つ。
甲斐もなく大僧正の官賊かよくにするかのをいたをすみよ |
氏真は武田の甥であるのでこのように詠まれたものである。また信玄は小国の守護のため官位が低く四品大膳大夫であるのを口惜しく思い、勅許もないのに以前入道した際に自ら大僧正法性院と号したが、このためにこのような落書が立ったのではないかという。今川氏真は北条氏康の婿である。
十二月小
四日 摂州尼ヶ崎の宿場が落雷にて残らず焼失する。世にも珍しいことに三方から同時に燃え出して人民、牛馬等が多く死ぬ。これは摩耶の観音の祟りであると人々は話す。その理由は、摩耶の住僧がその寺の建立のために諸国を廻り金銀等を集め先月二十八日の夜に尼ヶ崎に一泊したところ、この地の者五十人ほどが集まり僧十五人を刺し殺してその金銀を奪い取ったためである。これにより祟りを蒙ったという。天理というものは恐ろしいものである。後世のためにここに記すものである。
十五日 午の刻に地震がある。未の刻に南方に赤い気が三筋立つ。これは大いに天下の吉兆であるという。南方は離であり火が本色である。これに違わなかったためこのように言うのであろう。
二十一日 酉の刻に京都から上野中務大輔清信が江東に来る。将軍家の上意を述べ、屋形へ北陸道の管領職を与えられる。その文面は次の通りである。
当家は既に十有余代に及び大祖累代の家業がまさに絶えようとしていたところ、義秀、信長が百戦の計略を巡らせたちまち天下を再興した。真に当家の守護神というべき働きであり、よって父の管領していた北陸道全七ヶ国を今より管領するよう申し付けるものである。詳しいことは細川兵部大輔が申す。以上の通りである。 永禄戊辰十二月二十一日 義昭 近江修理大夫殿 |
同様に織田家へは東海道十五ヶ国の管領職を与えられる。その文書は江州に来た御教書と文面に違いはない。
二十二日 上使上野中務が江州を立って濃州岐阜へ下向する。先述の使節のためである。江州の旗頭等が観音寺城に出仕してこの度の天下草創により北陸道管領職を拝領した祝儀を申し上げるが、屋形があまり喜ばれず浅井備前守長政に仰せになるには、信長は吾にとって舅であり特に近年は美濃、三河、遠州まで攻め取ってその武功を天下に示し吾は偏に慈父の如く思っているが、この度将軍から両人が管領職を賜るにつき吾には父の管領を与え継がせるだけで、信長には東海道十五ヶ国までも与えられるのは非常に奇怪であるということである。浅井は、将軍は以前から守り立ててきた功をお考えにならず、さらに屋形の母公にとっては弟に当たるというのにどうして信長より少ない国を与えることがあってよいであろうか、特に将軍が世を失った人になったのを屋形の計らいにて当国矢嶋へ移し、勅許もないまま将軍とまで尊敬し、近国と縁を結んで三年間も守り立て、今将軍に就かせたのはすべて当家の働きである、こうなれば年内に上洛して天下に旗を立て将軍を討ち屋形が天下の権を取って武将となられよ、尾州の織田家は浅井一人に仰せ付けられれば年を越す前に誅罰してみせようと何の手だてもなく申し上げる。屋形は大いに喜ばれ、汝さえいれば天下を取ることも手の内にあると仰せになる。そこで浅井下野守祐政が進み出て諫言し、天下は一人の天下ではないということは昔から言い伝えられるところである、天が与える時を待って事を起こされよ、その時の政務に確かに悪事があればその時と思って立たれよ、また織田家についても今では親に当たり、先方に非義がないのに攻めたならば逆に味方に利はないであろう、天の与える時を待たれよと強く申し上げる。これにより屋形はこの申し出に賛同されるという。
二十七日 江南、江西、江北の旗頭中の観音寺城在番の者は今年は免除されたのでそれぞれの領地へ帰る。
巻第十三・完