永禄十二年(己巳)
一月大
一日 卯の刻から午の刻にかけて大雪が降る。観音寺城出仕の御一門に屋形が対面される。旗頭等の礼を受けられるのは例年通りである。
二日 天気快晴。観音寺城出仕は例年通りである。
三日 屋形が観音堂に参詣される。この堂へは毎年十八日に参詣されていたがどういう理由によるものかこのようにされる。
四日 京都から使節が来る。これは江州から相国寺に留め置いた旗頭からのもので、その内容は一つ書きにて注進される。
一 将軍家は上野、細川に命じて、相国寺に安座することは天皇よりも上に居住することになりよろしくないと仰せになり、旧冬も押し迫る十二月二十七日に俄かに本國寺へ移られた。 一 三日午の刻に河内国の三好左京大夫義次方より早馬にて将軍家へ申し上げるには、今月一日に四国から三好山城入道笑岩が泉州堺に着陣しその軍勢は三千騎である、二日に三好日向守、同下野守、岩成主税、松永弾正少弼父子、松山新入松謙を堺港に招き寄せ笑岩が申すには、各々降参するといえども一時のことであろう、前将軍義輝公を殺したのは正しく我等一家である、急いで人数を集め軍勢を揃えようということである、そこで畿内の諸浪人を招き集め、その中には前美濃国守護斎藤右兵衛大夫龍興、同叔父長井隼人佐もおり五千騎にて六條本國寺へ攻め寄せ当将軍を討とうと本日泉州を発ち三好一家が上洛するということである。 一 今月一日泉州家原城は軍勢が少ないため早速三好に攻め落とされたとのことである。家原城主寺町左近将監、雀部次兵衛尉、澤田備後守等が討死する。これにより三好は大いに利を得て泉州各地の砦十八ヶ所まで攻め落とす。二日には河内国へ乱入し義次の旗頭の城を攻め、義次が防戦しているとのことである。以上は義次から将軍家への注進にあった通りである。 一 本國寺においても三好の軍勢が向かっていると方々から注進があり、総門、西門を防ぐよう軍伍を定められる。 一 屋形の上洛は明後日五日がよい。その理由は、屋形が急ぎ上洛すると三好が聞けば本國寺へは攻め寄せてこないであろうからである。速やかに伏見、竹田の辺りまで三好勢を引き寄せて合戦をすれば必ず味方が勝利するであろう。たとえ三好勢がすぐに本國寺へ攻め懸かってきても二日三日の合戦で味方が敗北するようなことはありえない。三好勢が洛中まで攻め入るのを御覧になってから屋形が上洛されれば大いに勝利するであろうと我々は考えている。この旨急いで注進していただきたい。 蒲生右兵衛大夫 永禄十二年正月三日酉刻 朽木宮内大夫 山崎源太左衛門 青地駿河守 野村越中守 澤田武蔵守 進藤山城守殿 山岡美作守 後藤喜三郎殿 浅井備前守殿 |
この書状は本日四日卯の刻に観音寺城に着く。到着がひどく遅れた理由を糺されたところ、使節が大津茨川から船に乗ったところ俄かに風が吹き出して勢多へ流され漂ったためであるという。屋形は辰の下刻に国中へ上洛する旨を触れ渡され、江東の旗頭とその他の観音寺城出仕の面々のみを引き具して巳の刻に観音寺城を出発される。濃州岐阜へは澤田左兵衛尉を遣わされ、織田家も急いで上洛するように促される。午の刻に大津に到着され、江西、江北、江南の旗頭等は回文を見るなりすぐに城を発って大津にて屋形の旗本と合流して上洛する。酉の刻に屋形は山科に陣を置き京都からの注進をお待ちになる。
五日 三好の軍勢は二手に分かれて本國寺へ攻め寄せる。三好笑岩入道は松永父子を先陣として南大門から攻め懸かり、同日向守、同下野守を大将とする二千五百騎は大宮を上り北から攻め寄せる。これは洛中に本國寺への援軍があれば防ごうという笑岩の計らいである。三好一家の軍勢は全部で五千二百騎である。辰の下刻に矢合があり合戦が始まる。江州の屋形は粟田口まで軍勢を繰り出し、旗等を巻いてわざと伏見通へ軍勢を回し、本陣を四条川原に置かれる。午の刻に本國寺在番の面々が合図の旗を上げたので屋形は采配を取り諸軍を進め、竹田口、四條東、真如堂口の三方から攻め懸けられる。本國寺の軍は三方から江州の旗が掲げられてくるのを見て南大門、北口二方の門を開き打って出る。三好の軍勢は双方の軍勢に挟まれて討たれる者が千八百騎に及ぶ。ところで三好左京大夫義次は三日に若江城を発ち三千騎にて上洛する。四日に八幡に着き江州勢と一つになって本國寺の後詰をしようと使節を遣わして屋形に相談するが、合流しないほうがよいとのことにて義次は向日明神で三千騎を二手に備え江州勢の働きを待つ。そこへ本國寺へ攻め懸かり辰の刻から午の刻の終わりまで戦い大半を討たれこれは叶わないと三軍一備になり東寺を下って山崎へ退く三好勢が現れ、義次は三千を二手に備えて攻めかかる。しかし笑岩の軍勢が死物狂いで戦ったため義次勢は攻め立てられ嵯峨へ退き下がる。江州の軍勢は本國寺の軍と一つになって笑岩の軍を追い、屋形は本國寺へ入られる。本日の合戦は味方の大勝利であったが向日明神に陣取った義次の軍勢が敗退したため対対の合戦であるという。戌の刻になって笑岩の軍勢は尼ヶ崎へ退却する。味方は追撃しない。本日四度の合戦で味方が討ち取った首は二千三百七十五である。
六日 卯の刻に三好笑岩は退散した軍勢を集め二千騎を作り、旗を指さず笠標も付けずに不意に東寺から攻め込む。町屋に火をかけ鬨の声も上げずに攻め懸かり、江州の軍勢は七十五騎が討死する。最も計画がうまくいった合戦である。辰の刻に七手組が鑓を一面に並べ小路にて防戦していたところ、屋形は自ら鑓を取って、不意に笑岩が攻め寄せたとて何ほどの事であろう、包囲して討ち取れと仰せになり東寺口へ一直線に攻めかかられる。諸将はこの言葉に恥じて焼け立つ町屋を乗り越えて攻め懸け、笑岩の軍勢は七百五十騎が討死する。軍大将の薬師寺九郎左衛門貞春、松山新入松謙、三好新左衛門、同備中守が討ち取られたため笑岩は八百騎を後に戦わせ自分は二十五騎だけで四国へ落ち延びる。このことを味方は知らず笑岩やその他の三好一家の大将は皆この八百騎の中にいると思い、馬や武具のよい武者はそれに違いないと注目しながら攻め寄せ、八百騎を一騎残らず討ち取る。午の刻に東寺の合戦が終わり討ち取った首を検めたところ、笑岩、下野守の首は見つからない。この度の合戦では笑岩は勝利することはまず困難であると見て十死一生の合戦を仕掛けてきたが、自分自身は落ち延び討死をせず、良将の謀をよく知っている者であると噂される。
七日 二日間の合戦で討ち取った首を四條五條の河原に掛けて晒す。大将分の首は供饗に据えて晒す。これは良将の礼であると噂される。
八日 午の刻に美濃国から織田家がわずか八千の軍勢で上洛する。尾州三州の兵は追々上洛するということである。信長が何故このように上洛が遅れたかといえば次の通りである。日野のかいかきに押し篭められた屋形の一族である承禎父子は去年から三次笑岩と談合し、六條本國寺を攻めれば必ず義秀、信長は上洛するはずである、それならば義秀は上洛させよ、京都にて一戦に及び勝負をつけよう、信長の上洛は承禎父子が道中を遮られよ、そうすれば江州の家人等の多くは寝返り承禎の元につくはずである、勢州国司にも信長を遮っていただこう、と申し合わせていたため、信長が五日に岐阜を発ち上洛の軍を起こしたところ承禎父子は柏原に出陣し、これに勢州の加勢が加わり総勢四千にて戦う。信長はこれにて抑えられ、両日合戦し承禎父子に打ち勝って本日上洛したということである。
九日 この度の合戦において功を立てた面々にその沙汰があり、それぞれ賞地を賜る。中でも江州の旗頭野村越中守高勝は将軍自筆の感状を賜る。
十五日 将軍家が参内され、義秀、信長両将が左右に供奉する。
十六日 卯の刻から未の刻まで大雨が降る。酉の刻に地震がある。
十九日 義秀、信長両将が京を退去し帰国される。
二十日 関東へ派遣された山伏が江州に帰国して屋形に申し上げるには、今月上旬伊豆の北條氏康父子が四万五千にて駿河へ進発したとのことである。これは駿河国の守護今川氏実が先冬武田大膳大夫入道信玄に国を追われ遠州へ退いたが、氏実は氏康の婿であるので押領者の信玄を討つための進軍であるという。今川氏実は八千を率いて駿州に戻り、薩埵山にて甲州の武田信玄と対陣する。武田は興津川原に陣取る。この合戦は武田が勝利したという。北條父子は自ら采配を揮って戦い、武田勢三百騎を討ち取ったということである。
二十五日 夜戌の刻から東方に大星が出る。西方には煙のように三筋十四、五間ほどの白気が立つ。
二十八日 須田越後入道忠全死去。享年七十三歳。御伽衆であり将軍家が幼少の頃から学問の師であったので将軍家は非常に悲しまれ、江州須田の浜に一宇を建立し松隨寺と名付けられる。
二月大
九日 義秀、信長両将が上洛される。
十五日 両将が評議をされ、二條の御所を方一町四方広げ、さしわたし四十五間に堀を掘り、石垣等それぞれの仕事を定め、本日御所の造営を始められる。五畿内と近江、美濃、尾張等の人夫を集め夜を日に継いで普請を急がれる。村井長門守、野村越中守、織田大隈守の三人が上奉行であり、下奉行が十二人である。御所作事については多いので記さない。
二十二日 江州屋形、尾州織田家が京を発ち領国へ帰られる。信長は観音寺城に四日間滞留し、二十五日に濃州岐阜へ帰る。
三月大
三日 佐々木の祭礼がある。近年各地で合戦があり江州の旗頭等はそれぞれ立願の儀も多く、祭礼の渡り物は善を尽くし美を尽くす。近年見たこともないほどすばらしいものである。
四日 午の刻に雹が降る。目に見えて大きく、三、四匁ほどもあり、山野の鳥獣の多くが打たれて死ぬ。
十日 屋形は評定を開き、浅井、進藤に日野かいかけの承禎父子を攻め討つよう命じられる。
十一日 承禎父子が勢州国司を頼み三百騎ほどで密かに勢州へ落ち延びたと蒲生右兵衛大夫が早馬にて観音寺城へ注進する。屋形は時間をかけすぎたため逃げられたと後悔されるという。勢州の国司は承禎の婿であるので味方をするということである。
十五日 尾州から不破河内守が江州に参り、織田家の書状を献上する。これは勢州国司を両家で攻めようとの内意であるという。何故信長が勢州の国司を攻め討とうとするのかといえば次の理由からである。先年より国司の嫡男は殊の外愚かな振る舞いをするので国人等はこれを嘲り国司の下知を聞かなくなった。そこで去る六年に信長の次男で二歳になる茶筅という者を勢州にて養い国司の名跡を継がそうとして呼び寄せたが、国司の重臣で桑名越前守という者が例の愚かな国司の子を守り立てようとして色々と諫言し勢州の家督を二つにしてしまった。この桑名越前守は愚か者の母方の伯父である。承禎にとっては孫である。信長の動機はこれである。また先年から将軍の三好退治の度に三好方についたという恨みもある。ところが津川玄蕃という武衛の流れを汲む人が仲裁に入り、勢州と尾州との和睦を成立させ国司が将軍方につくことに決まる。そこで起請文を求めることになり尾州からは織田市令助、江州からは馬渕源太郎が勢州へ遣わされ、誓いの筆跡を確認し無事に和睦が成立する。他にも色々な事があるが日記には載せない。
二十九日 日が西に沈む時赤青の気が立つ。三筋立ち、二筋は赤く一筋は青い。
四月小
二日 屋形が上洛し六角の館に到着される。翌三日に将軍の御所へ出仕される。
四日 尾州の織田家が上洛し油小路に着座する。翌五日に将軍家の御所に出仕する。
五日 江州、尾州の両将が評定を行い、翌六日辰の刻に二條新造の御所に将軍が動座されることが決まる。
六日 天気快晴。辰の刻に将軍家が本國寺御所から元の二條御所へ移られる。行列等は多いので日記には載せない。昵近の公家衆が二列に供奉し、その次に江州屋形、次に尾州の織田家が供奉し、その後次々と有名な面々が供奉する。
七日 江州の屋形から龍尾という太刀、馬三頭、黄金千両が将軍家に献上される。織田家からは山蛇という太刀が献上される。この太刀は先年駿河の今川義元が上洛の時に差していたものであるが、信長に桶狭間にて不意の合戦で負けあまつさえ討死したときに服部民部という者が奪い、信長に献上した太刀である。そこで信長が武名を挙げた最初の合戦で大将を討ち取った太刀であるという。特にこの太刀は今川家代々の宝であると言い伝えられている。今川の先祖である清和天皇から十二代の末義氏の次男長氏の三男今川四郎国氏から代々この太刀を伝えているということである。
八日 勅使三條中納言が二條新御所に来て、将軍家が再び二條に安座したことを天皇は悦んでおられると伝えられる。午の刻から諸公家、諸門跡等が将軍家移徒の礼を行う。
九日 十一日までの三日間二條新御所にて能が催される。大夫は丹波梅若大夫である。洛中の人々に見物をするよう仰せ出され、諸公家、門跡、国主等は残らず出仕する。
十三日 将軍家が尾州の織田家、江州の屋形に仰せ付けて洛中諸役の町等へ黄金を与えられる。
二十一日 二條南門に次のような落書が立つ。
なきあとのしるしの石を取集めはかなく見へし御所のてい哉 |
このような落書が何故立つかといえば、この度の二條新御所の造営は殊の外急がれたため遠国から石等を集める時間もなく、賀茂、平野、西山、東山の旧寺等の苔むした古い石等を手当たり次第に集めたところ石塔なども多く含まれていたためである。
二十五日 五條松原通にて例の落書を立てた者を野村越中守の手の者共が捕らえ、二條御所に引っ立てる。将軍家は、これは天が与えた罪人である、どのような罰を与えようかと色々と考え尾州、江州の両将へ尋ねられる。信長は、重罪に処されるべきであり四條川原にて釜で煮殺そうと申すが、江州屋形は、これは全く奉行の罪である、落書を立てるのは治世の誤りを正す行為でありどうして国家の誤りを正す者を罰する法があろうかと仰せになる。将軍家は理に窮してこの落書を立てた者をお赦しになる。この者は世に隠れもない狂歌の名人で名前を無一左衛門という町人である。先年三好家が即位を執り行った時もこの者は数度落書を立てたという。
二十六日 江州、尾州の両将が暇を賜り帰国される。信長は観音寺城に二日滞留し、屋形の奥方へ西美濃の一万貫の地を贈る。屋形の奥方は信長の息女であるのでこのような土地を贈るという。これについて信長の計略があるが詳しいことは日記に載せられない。浅井備前守長政が金言を呈するが世を憚って言わないという。
二十八日 尾州の織田家が観音寺城を発ち、美濃岐阜に帰る。
二十九日 卯の刻に地震がある。一時ほど東方に俄かに赤い気が立つ。
五月大
三日 将軍家が病気のため青地駿河守を京都に上洛させられる。
閏五月小
四日 勢多の社が鳴動する。この社は番神の一つである。
五日 佐々木神社にて祭礼が行われる。天気晴。屋形が参詣され、旗頭等は残らず供奉して神社に向かう。
二十日 若州の武田大膳大夫義統が江州に来る。これは越前の朝倉左衛門佐が去年から越後の長尾謙信と縁を結び逆心を抱いているようなので越前を退治するための評定であるという。
二十五日 将軍家の近習粟津源兵衛尉と江州の旗頭間宮越中守信武が山科にて喧嘩になり、その場で間宮が粟津を討って石山寺に入ったと観音寺城に報告がある。
二十九日 竹生島から秘法について申し上げる。これは屋形の所望によるものである。
六月大
十日 山州西岡に一空という僧がいたが、この者が自分に白山権現が乗り移ったとして様々な神託を述べる。将軍家がこれをお聞きになって二條御所に召し寄せ、南禅寺の秀源首座にそれらについて尋ねさせられたところ一つとして事実はなかった。このため四條川原にて刑に処せられたという。
十四日 大洪水になり長さ四、五尺寸ほどの白毛が降る。江州各地の川で水量が増し堤防等を破壊して多くの田畑に被害が出る。山州賀茂川の水が増して今出川の町屋二十四棟が水没する。
十八日 勢州にて承禎父子が評定をし近日伊賀路から上洛するつもりである、と梅戸殿が観音寺城へ申し上げる。
二十八日 関東伊豆の北條左京大夫氏康へ遣わされた両使が帰国して北條家の返書を屋形に献上する。北條父子は今月二日に神原高国寺にて武田信玄と合戦し大勝利を得た。信玄が軍勢を半ば討たれ富士のふもとを夜通しかけて甲州へ引き上げるところを北條勢は急に追い詰め武田の八幡大菩薩の旗を奪う。この合戦で氏康の軍勢が討ち取った首は千八百五十三である。翌日神原の堤に一首の狂歌が立ったという。
名をかへよ武田かほする八幡のはたうちすててにけた信玄 |
この落書は北條の家人で松野道軒という連歌師が立てたという。以上の内容は関東へ先月遣わされた両使が屋形に申し上げた通り記すものである。この他にも色々な事があるが日記には載せない。
七月小
一日 本日から前屋形義実公の十三年忌の法要が行われる。東光寺にて万部の読経が始まる。経中の奉行は山崎権十郎、片桐半兵衛尉、澤田民部少輔、種田角内左衛門尉等である。毎日国中の旗頭等、その他近習の面々に至るまで参詣する。
八日 屋形が東光寺に参詣される。将軍家から細井采女正が東光寺に遣わされ、名代として焼香する。当将軍は専ら当家の武功により再び天下の座に着くことができたのでこのように礼を尽くされるという。
二十六日 奥州へ遣わされた使節和田兵内が帰国して、会津の盛氏からの返書を献上する。兵内が屋形に申し上げるには、去年から盛氏の家人で近松伊豆守という者が寄子の申し出により居城に立て篭もり会津は大いに動揺した。そこで今月一日に盛氏は近松の居城を攻め落とし近松の家来百七十人を討ち取ったということである。この他にも色々な話があるが遠国のことであれば真偽の程が覚束ないので、わからないことは日記に記さない。
二十七日 三好笑岩が勢州国司と結び、その他にも越前の朝倉、承禎父子、斎藤龍興父子などと通じて来月三日に泉州にて軍勢を揃えるつもりであると河内国若江河内守実氏が観音寺城へ申し上げる。
二十八日 進藤山城守を尾州の織田家へ遣わされる。これは昨日河内国から報告してきた事について評議するためであるという。
二十九日 鳥山実輔入道の子息等に加領の沙汰がある。これは父の忠功によるものである。
八月小
十三日 山門横川の岸から光るものが飛び出て勢田の橋に落ち、橋板四枚が焼け落ちる。
十四日 尾州から進藤山城守が帰国し織田家の返書を屋形に献上する。事態が切迫する前に勢州を攻め討とうということである。織田家は今月十九日に岐阜城を発ち勢州へ進発する予定であるとのことである。
十五日 屋形は勢州へ進軍すると国中の旗頭へ仰せ渡される。
十八日 江南の旗頭等は鈴鹿越えで勢州に攻め入るよう仰せ付けられ、翌十九日に出立することに決まる。
十九日 屋形が数万を率いて観音寺城を出発される。翌日には君ヶ畠越えで北伊勢桑名に着陣される。
二十日 尾州の織田家が岐阜を発ち桑名に着いて陣を置く。江州、尾州の両将が軍評定を行う。
二十三日 両将が木造城に着陣し軍評定を行う。
二十五日 浅香城を攻めることに決まる。織田家からは木下藤吉郎、不破河内守、林佐渡守の三人が八千七百騎、江州からは目加田摂津守、後藤喜三郎、同左馬允、進藤山城守の四人が七千五騎を率いる。本日午の刻に東西から攻め寄せ、未の刻に味方が討ち取った首は三百七十三である。城の大将木造刑部少輔は降伏し、先駆の軍勢に加わり案内することに決まる。申の刻に浅香城が落城し、これを接収する。
二十六日 両将は浅香城の番として瀧川文内、馬渕十兵衛に弓兵七百人を添えて留め置かれる。
二十七日 両将が軍評定を行い、国司父子並に箕作承禎父子等が立て篭もる大河内城を攻めることに決まる。合戦の方法等を今日取り決めて翌二十八日に攻め討つとのことである。
二十八日 大河内城を攻める軍勢の配分は次の通りである。
一 南からの軍勢は江州屋形の四万七千騎である。供奉する旗頭等は蒲生右兵衛大夫、進藤山城守、後藤喜三郎、山岡美作守、同玉林斎、礒野丹波守、浅井備前守、目加田摂津守、伊達出羽守、平井加賀守、三上伊予守、高嶋越中守、山崎源太左衛門、永原大炊頭、赤田信濃守、朽木信濃守、澤田民部少輔、和田中書、吉田出雲守、箕浦次郎左衛門、多賀新左衛門尉、永田刑部少輔、宮川三河守、久徳左近兵衛尉、三井出羽守、馬渕越後守、京極長門守、青地駿河守、同千世寿丸、大野木土佐守、阿閉淡路守、鏡兵部少輔、和爾丹後守、小川孫一郎、大宇大和守、三田村左衛門尉、鯰江又一郎、堅田兵部少輔、和田和泉守、同伊賀守、村井長門守、三雲新五郎、種村大蔵大夫、建部采女正、永原筑前守、乾甲斐守、山内伊予守、間宮左近将監、松下藤五郎、亀井新十郎、森川次郎左衛門、尼子刑部左衛門尉、山田主水正、野村豊後守等である。 一 西からの軍勢は尾州織田家の五万三千騎である。供奉する旗頭等は織田上野介、同掃部、同大隅守、稲葉伊予守、池田庄三郎、和田新介、中嶋豊後守、丹羽五郎左衛門、佐久間右衛門、木下藤吉郎、徳川三河守、氏家左京、塚木小大膳、伊賀伊賀守、斎藤新五郎、坂井右近、蜂屋兵庫、簗田彌次右衛門、中條将監、比田修理、森三左衛門、長谷川與次郎、佐々内蔵助、梶原平次郎、不破河内守、丸毛兵庫、毛利河内守、生駒平左衛門、中川金右衛門、神戸加介、荒川新八、野々木主水、瀧川彦右衛門、前田又左衛門、菅屋九右衛門等である。 |
二十九日 卯の刻から午の刻まで合戦し、江州軍が四千三百二十三、尾州軍が五千二百五十二の首を討ち取る。討ち取った武者大将は遠山右近、植田遠江守、田丸采女正、関越前守、服部十左衛門尉、大宮美作守、神戸肥前守、河曲土佐守、飯高三河守、飯野日向守、阿部上野守、山田尾張守等である。
一 味方討死の事 江州の軍勢では八百五十二人である。この内采配を取る者は朝日孫八郎、波多野彌蔵、近松豊後守、乾甲斐守、池田孫三郎、山田太兵衛、寺澤彌九郎、鈴村主馬允等である。 一 尾州の軍勢で討死した者は九百三十五人である。この内采配を取る者は神戸伯耆守、同四方介、溝口富介、斎藤新五郎、古河久介、河野三吉、金松久左衛門、織田市令介、丹羽彦六左衛門、江田源八、岡嶋十兵衛等である。 |
以上は未の刻に攻撃を休ませた時に敵味方の討死を改めたものである。酉の刻に国司父子から大宮舎忍斎、息子兵部少輔具長が遣わされ、助命してもらえるならば開城して大和国へ退くと申し入れる。江州、尾州の両将は評議を行い、助命をしてそのように計らうことに決められる。
九月大
一日 昨日の取り決めにより国司父子が大河内城を開いて退却する。箕作承禎父子は午の刻に根来寺へ退く。江州、尾州の両将が大河内城を接収し城番を留め置かれる。尾州からは織田大隅守に五百騎、江州からは京極長門守に四百五十騎が添えられ、仮に先ず大河内城に置かれる。
二日 国司に属する城は勢州、伊賀両国で二十四城あったが、その全てが開城し退却したため両将が評議を行いそれぞれの城番を仰せ付けられる。
一 上野城に織田上野介、神戸城に進藤山城守、長嶋城に瀧川左近将監、津城に青地伊予守、松坂城に木下藤吉郎、田丸城に目加多摂津守等が置かれる。残りの城番の面々は記す余裕がないので省略する。 |
両将は勢州を平等に治められ五奉行を山田城に置き各地の関所を破却される。この関所は国司が国を治める際に新しく設けられ、参宮する人々から金銭を徴収していたものである。
十四日 将軍家から細川兵部大輔が上使として勢州に下向する。両将は上使に対面し、勢州が無事に治められたことを悦ぶ将軍家の御教書を賜る。
二十日 織田家が勢州を発ち美濃国岐阜へ帰る。江州屋形も観音寺城へ帰城される。
二十四日 屋形が勢州にて功を挙げた旗頭等へ賞地を与えられる。中でも澤田民部少輔忠氏は大河内南手への一番乗りであったため諸人とは異なる文面の感状を与えられる。
二十五日 織田家が岐阜から観音寺城へ来る。
二十八日 織田家と江州屋形が同道して上洛される。両将共に外様の面々を一人も引き具さず近習のみを供奉させられる。
十月小
四日 江州、尾州の両将が将軍の御所に出仕される。将軍家は両将へ太刀を与えられ非常に慇懃に振舞われるという。
十八日 将軍家は江州、尾州の両将に禁中を悉く修理するよう仰せになる。これは将軍家が再び上京できたことの御祝であるという。両将は評議を行い禁中修理の儀を日乗上人、嶋田所介、村井長門守、三井出羽守、伊庭道楽斎等に仰せ付けられる。
二十日 禁中修理等が始まる。以前より二十五間土地を広くする。
二十五日 尾州、江州の両将が将軍家より暇を賜り京から下向する。
二十七日 高嶋越中守死去。享年五十三歳。江北の旗頭である。屋形は非常に悲しまれる。前屋形の御代に軍功を多く立てた人である。小童にて氏綱公に仕え十三歳の時に江州高崎にて諸人に先立ち鑓を合わせて功を立て、このため氏綱公に特に寵愛され後に一城を預けられる。江州にて武の知識と言われた人である。同日酉の刻に地震があり、戌の刻に初雪が降る。
二十八日 種村大蔵大夫の次男が屋形の勘気を蒙り、雲光寺に入寺する。
十一月大
七日 三上大学助秀氏が翁問答鬼神論という書物を作り屋形に献上する。この三上は若年の頃から学識に誉れのある者である。智恵が深いため俗に近江文殊と呼ばれるほどである。
十五日 尾州から池田庄三郎信輝が江州に参り屋形に拝謁する。池田が人々に語るには、今月三日に織田家が黒赤の母衣衆を十九人選んだということである。これまで織田家には母衣衆というものはなかった。江州では赤白の母衣衆が四十六人いる。
二十六日 大雪が降る。馬渕道雲死去。享年七十三歳。前屋形義実公の御伽衆である。
二十七日 山州紫雲山新黒谷の光明寺が一揆のために焼失したと報告がある。この寺の上人は屋形の一族である。
三十日 蒲生右兵衛大夫の次男右馬大夫氏信が槙尾に入って出家し、百二十戒を保つという。二十一歳であり何故にこのように法心を起こしたのかと尋ねたところ、蒲生の女房は高嶋越中守の息女であったがこの腹の子に家督を譲り右馬大夫を家来のように扱おうとしたためであるという。詳しいことはわからない。屋形は澤田右京亮を遣わして右馬大夫を召されるが、ついに出仕することはない。
十二月小
二十日 大雪が降る。浅井下野守祐政が硯を屋形に献上する。この硯は承元三年に佐々木加地兵衛太郎信実入道西仁が捜し求め時の将軍家に進上したもので平通盛の硯であるという。ところが鎌倉一乱の後相州埋澤という所の草庵に移り、数百年寺門の交割物となっていたが去る永禄元年にこの寺の妙休という上人が持参して以上の由来を語り浅井に与えたという。屋形は大切に秘蔵される。
二十四日 上月美作守を歳末の礼の名代として京都に遣わされる。御進物がある。屋形が上月に密かに仰せ付けられた事があるが、その内容はわからない。
二十五日 屋形は旗頭等に歳末の進物を止めるよう仰せになる。これは無用の出費を避けさせるためである。同日屋形の奥方が病気のため旗頭等が残らず観音寺城に馳せ集まる。
二十六日 屋形が白雲山へ目加田を遣わされる。その理由はわからない。同日織田家から使節が参る。屋形は浅井備前守長政を観音寺城に召し寄せて密かに評議をされる。
巻第十四・完