元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

一月大

一日 本日から五日まで天気晴。観音寺城出仕の様子は例年通りであり、記すに及ばない。

六日 屋形が佐々木神社に参詣され、国中の旗頭等が残らず供奉する。今年は青山内膳正信兼が調度掛を務める。本来和田権守がこの役であったが病気のため青山が務めることになる。

八日 屋形が江州の八幡宮に参詣される。午の刻に雪が降る。

十一日 御旗の祝のため国中の旗頭等が観音寺城に出仕する。今年は澤田武蔵守秀忠が御旗の櫃を承って御国の間の床に立てる。堀伊賀守信武が毎年この役を務めてきたが、去年勢州大河内の合戦にて負傷し十二月二十九日に死去したため今年は澤田武蔵守に仰せ付けられる。この役は内容が多いので特に務める者を選ばれる。

十五日 屋形が進藤山城守を京都に遣わされる。これは年始の礼の名代である。同日東方に青気が立つ。牛の角のような形である。

二月大

四日 織田家から使節が参り、今月二十日に上洛するとのことである。密状がある。使節は不破河内守という者である。

十日 大雨が降り、四、五寸の白毛を降らせる。非常に天下不吉の兆しであるという。

二十二日 織田家が岐阜から江州に来て常楽寺に宿泊する。本日屋形は織田家を観音寺城に招待して様々な遊びをされる。強力の若兵を選りすぐって組打の会を行われる。

二十五日 江州、尾州の両将が上洛される。織田家は東福寺に、江州屋形は南禅寺に着座される。

二十七日 尾州、江州の両将が二條御所に出仕される。酉の刻に両将がそれぞれの陣所に帰られる。

三月小

二日 屋形が京都から江州に帰国される。信長は未だ在京である。

三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形が参詣され旗頭等が供奉する。午の刻に神輿が出御する。天気は晴。

十日 浅井下野守祐政と箕浦次郎左衛門が知行地の境界について争論を起こし、本日両者が観音寺城にて対決する。箕浦の方に非が認められ、争論の山五ヶ所が浅井に与えられる。箕浦は父祖の忠功を申し上げて非を利に変えようと荒言したため屋形の思し召しが悪くなり勘気を蒙る。

二十日 京都から織田家の使節が来る。三好残党の追討の評定を行うとのことであるという。

二十三日 江州威徳院が炎上する。この寺は屋形の御先祖である雪江崇永が建立した寺である。このため代々の屋形の菩提所である。炎上についてはこの寺の僧伝空院が酒に酔って狂い寺に火を放ったとのことである。これらの事情を寺から申し上げたところ、屋形は、酒に酔った者を罰するわけにはいかない、国から追放せよと仰せになる。浅井備前守は、僧への戒めに首をはねるべきであると申し上げるが、屋形は承諾されず、汝は非常に不仁であると備前守を責められる。これは屋形がとても慈悲深いためである。

二十七日 屋形が近習のみを引き具して上洛される。南禅寺に着座される。

二十八日 将軍家の御所にて尾州、江州の両将が評定を行われる。

四月大

一日 江州、尾州の両将が泉州堺へ出立し、この地にて町人等の伝家の名物を取り寄せて御覧になる。すばらしい道具が多く織田家はこれらを受け取り代価の金を与える。江州の屋形は三條宗近の打った太刀一振りのみを貰い受け、金五百両を与えられる。これは松屋道円という町人が持ってきたものである。

十日 両将が泉州から入洛される。一日から九日まで両将は泉州にて色々とお遊びになるが記す余裕はない。

十四日 将軍家が江州、尾州の両将に能をお見せになる。公家、武家共に集まる。午の刻に将軍自ら藤戸を舞われ、江尾の両将も同様に高砂、老松を舞われる。太夫は観世、今春で、両太夫が一番毎に能を仕る。洛中の人々が御庭に伺候し前代未聞の見物であるという。

二十日 尾州、江州の両将が二條の将軍家御所にて評定を行う。越前の朝倉父子は将軍家が上洛してからついに一度も使節を遣わすことがなく、逆に三好山城守と内通し謀反を企てていることは既に明らかであるので退治することに決まる。本日将軍の仰せとして両将が京を発ち越前退治に向かわれる。織田家は大原越えで若狭に入り越前へ攻め込む。江州屋形は近江路から若狭を通り熊川に入って越前へ向かわれる。

二十三日 改元により元亀と号す。

二十五日 江州、尾州の両将が越前国敦賀に着陣し軍評定を行われる。同日朝倉が敦賀在番として置いていた大隅守、美濃守が降伏して出頭したため近辺の者が多く味方に降る。

二十六日 まず手筒山城を攻めることになり、江州から進藤山城守、後藤喜三郎、山崎源太左衛門、馬渕伊賀守、目賀田摂津守に八千五百騎を添えて差し向けられる。尾州からは佐久間右衛門、織田上野介、稲葉伊予守、木下藤吉、丹羽五郎左衛門に九千三百騎を添えて向かわせる。両軍が平攻し城中は支えることができず、辰の刻から未の刻までの合戦で一人残らず討死し城に火を放つ。この城は朝倉の家来寺田采女正という者が四千で守備していた城である。

一 本日の合戦で味方が討ち取った首は江州が千四百五十三、尾州が二千三百である。この中には雑兵も含まれる。

二十七日 両将が評議を行い、朝倉中務大夫が立て篭もる金崎城を攻めることに決まる。そこで午の刻に軍勢を差し向けたところ中務大夫が降参したため合戦にはならない。金崎城を受け取るため織田家から瀧川左近将監、山田三左衛門が、江州からは池田孫次郎、朽木信濃守が遣わされる。城を受け取った後門戸を叩き壊し破り棄てる。

二十八日 観音寺城在番に置かれていた浅井備前守が早馬を仕立てて敦賀の陣所へ差し向ける。密状にて屋形に申し上げることがある。使者は浅井雅楽頭である。同日夜に入って屋形は俄かに越前退治の軍勢を引き上げ江州に帰国される。織田家は使節を遣わしてその理由を尋ねるが、屋形は、信長はこの地で対陣されよ、吾は思う所があるのでまず帰国すると仰せになり、江州に帰られる。

二十九日 浅井父子は江州高嶋郡まで出向き、屋形を小谷城へ招き入れる。四十六人の旗頭等を集めて浅井備前守は、時は今である、信長を退治されよ、越前朝倉義景から我等父子へこのような事を申し越して参りました、と一通の起請文を屋形に献上する。起請文には、義景がこれから申し上げる意志は神明にかけて真である、信長退治においては江州の旗下となり忠戦仕る、若州の武田義統、越後の長尾謙信、甲州の武田信玄も内々にこう思っていることは起請文に記してある通りである、とあった。内密の事であるので詳しく日記に載せるのは困難である。江州の旗頭が一同に申し上げるには、今この時に信長を退治して屋形が天下に旗を挙げられれば必ず天下を治められようとのことである。浅井長政は強く屋形に諫言して、両雄並び立たずという事は昔から言い伝えられているが一つとしてそれに違うことはない、高時が滅んだ後義貞と高氏の両雄が勇を競いついに義貞が滅んだのは数々の合戦で機を逃したためである、今つくづく世を推し測るに将軍家は不仁を行っており五年と世を治められるとは思えずその上信長は内心天下を我物にしようと思っていることは明白である、さらに屋形にとっては信長に対する遺恨も多いはずである、と申して次のように挙げる。

一 先年将軍家が再び上洛できたことは偏に江州の働きによるものであったが、信長には東海道十五ヶ国の管領職を与え屋形にはわずか北陸道七ヶ国の管領しか与えなかったことは大きな憤りではないか。

一 信長の近年の働きを見るに諸事我意を通し、天下の事は自分一人の思うがままにしている。ゆくゆくは家来等に大国を与え自分の思い通りの良い結果が得られれば親子のような関係である屋形をも旗下に付けるであろう事は確実である。

一 今、越国の面々が屋形を大将として天下に旗を挙げようと起請文を寄越したのは偏に天が天下を与えているのである。この時を逃されれば北国の面々は当家の武威を侮ることになり、再び天下を取ろうと思われてもその時には何の役にも立たないであろう。

以上の他にも色々と信長の非を申し上げ、ついに屋形と信長の仲が不和になる。

五月小

二日 屋形が小谷城から観音寺城へ帰られる。同日越前の朝倉左衛門佐義景から使節が来る。これは今月五日に義景が敦賀表へ出陣するという知らせである。

三日 屋形が浅井父子を観音寺城に召して、朝倉が今月五日に敦賀表へ出陣し信長と一戦を交えるとのことである、汝父子は高嶋八人衆等を率いて四日に七里半越えで進軍し朝倉の先陣として出陣せよと仰せになる。浅井祐政、同長政は仰せを受けて観音寺城から小谷へ戻り軍勢を集める。

四日 越前から使節があり朝倉の密状が届く。使節大陽寺刑部少輔が申すには、信長が本日卯の刻に敦賀表を引き払い若狭越えにて京に入ったとのことである。屋形は越前の使節を帰される。未の刻に浅井下野守祐政父子に高嶋八人衆を添えて敦賀表へ遣わされる。

六日 敦賀から浅井父子が使者を遣わして屋形へ注進するには、信長は敦賀を引き払い若州の武田義統を攻め落とし、敦賀には越前の抑えとして木下藤吉郎を残しておいたが昨日から朝倉の先陣である朝倉左京進がこれに攻め懸かったところ木下の軍勢が大勝利を得たため朝倉の軍勢は戦意を落としている、明日は当国の軍勢を以って一戦交えようと思っているとのことである。

一 若州の武田義統は家来粟屋越中守が信長へ寝返ったため、為すすべもなく敗退し国を落ち延びる。

一 信長が抑えに残していった軍勢を攻め滅ぼしてから帰国するつもりである。

一 信長は将軍家と合流して江州へ向かうつもりであると噂に聞いたので、逢坂の番に加勢を遣わされるのがよろしい。

以上は浅井父子が敦賀から屋形へ注進した内容である。

八日 敦賀から浅井父子が屋形へ注進する。それによれば昨七日信長の抑えの軍勢を攻撃し首七百五十を討取り、大将木下藤吉郎は五十騎ほどで若州越えに京へ逃げ帰ったということである。同日酉の刻に屋形は若州へ使節を遣わして武田義統を江州へお呼びになる。

十日 敦賀表へ遣わした浅井父子、高嶋八人衆が観音寺城に帰る。

十一日 屋形は浅井父子に賞地を与え敦賀表の働きを称えられる。高嶋八人衆にも賞地を与えられる。

二十五日 天下に旗を立てるため国中の馬揃を行う。軍勢の着到状をつけられたところ五万四千騎であった。

二十六日 香津の目代畑勘六左衛門秀氏が信長に寝返ったと浅井下野守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井に討つように仰せ付けられる。

二十七日 香津の目代畑勘六左衛門が逐電したと注進がある。この者は信長の家人で津田権内という者を婿に取り、信長に五万貫の約束で寝返ったということである。

二十八日 日野の蒲生右兵衛大夫が逆心したと報告がある。同日蒲生誅罰のため進藤山城守が日野へ遣わされるが、蒲生は逆心など無いと訴え嫡男忠三郎を人質に差し出し霊社の起請文を屋形へ奉る。このため日野では合戦もなく進藤は人質を連れて観音寺城に帰る。

六月大

一日 信長が京を発って泉州に入り勢州を通って美濃国へ帰ったと京都六角の館の番である馬渕源太郎が屋形に注進する。同日根来寺に隠れ住んでいた当家の一族である後見承禎父子が江東観音寺城に参り、永原大炊頭を介して屋形との和解を請う。承禎が申すには、屋形と争い国を退いたとはいえこの度織田家と屋形が戦をすると聞けばさすがに当家の嫡領を他所から眺めているわけにはいかない、この度天下を争い上洛されるならば是非とも承禎父子に先手を命じ年来の恥辱を雪ぎ屋形に無二の忠義を尽くさせていただきたいとのことである。屋形はその志に感じ、仇を恩で報いようと仰せになって和解され、野洲郡立入城を与えられる。

四日 承禎父子が八千騎にて美濃国へ出陣したいと屋形へ申し上げるが屋形はそれを許されない。信長の家来柴田修理、佐久間右衛門は九千三百騎にて先月から京都に留め置かれていたが、本日不意に進発して承禎の居城へ押し寄せる。承禎父子は門を開いて打って出て合戦するが承禎の旗頭である三雲三郎左衛門父子、高野瀬美作守、水原遠江守が深入りしたため討たれる。これで敵は気勢を上げ本丸まで攻め寄せて戦う。承禎は早馬を仕立てて苦戦している旨を観音寺城へ注進し、屋形は進藤山城守に七千五百騎を添えて立入城へ遣わされる。敵が観音寺城から援軍が出たのを見て引き上げ退却するのに追い討ちをかけ、山科まで追いかけて首八百五十三を討取る。山科にて敵は取って返し江州の軍勢がまばらに追ってくるのを見て待ち構えて合戦する。これを山科合戦という。敵は半ば討たれて京に退却する。

七日 美濃の前国守である斎藤右兵衛大夫龍興が江東に来て立入の承禎公を通じて味方になると屋形に申し入れる。屋形は龍興は大いに不仁の者であると年来伝え聞いているとして会われない。斎藤は面目を失い津国に退く。京極長門守高吉は屋形に諫言し、乱世では治世とは異なり善悪にかかわらず人材を集めるのが良いというのに龍興を気に入らないからといって帰してしまうのは良くないと申し上げる。屋形は、乱世とはいえ不仁の者を国に置けば大いに害がある、一つには人々は悪に傾きやすいものであるので龍興の侫奸な様子に倣って血気の若兵共は必ず忠義を失うであろう、二つには真の無い者がどうして二心を抱かないということがあるだろうか、三つには邪悪の者は特に乱世においては計略の妨げとなることが多いのである、と仰せになる。

十五日 浅井下野守祐政、息子備前守長政が浅井雅楽頭を遣わして屋形へ注進する。それによれば信長が美濃、尾張、三河、遠江四ヶ国の軍勢を集め八万騎にて今月十九日に岐阜を発ち当国へ出陣すると伝え聞いたので、近日浅井父子は美濃国へ出陣しその上洛の道を遮るつもりであるとのことである。屋形は、願うべき幸運である、信長から当国に攻め寄せることは吾の望む所である、浅井父子においては居城小谷を堅固に守るように、大軍を思うように当国へ攻め込ませ切所に引き込んで一人残らず討取るつもりであるので信長の軍勢を国境まで攻め込ませるようにと仰せになる。そこで浅井父子は屋形の仰せに従い信長の軍勢を待ち受ける。

十九日 信長が八万騎十三備にて近江退治と号して岐阜を発ち今日黒知川に着く。

二十日 信長が評議を行い、まず浅井父子を退治してから観音寺城を攻めることに決まり小谷へ使節を立てる。同日、信長の使節を浅井の館にて斬り捨てる。これは屋形の指図である。

二十一日 信長が小谷へ攻め寄せ鬨の声を三度揚げる。浅井はかねてから屋形と示し合わせた通りに一人も軍勢を出さない。これに敵が勢いを得て小谷口へ残らず軍勢を入れて攻め寄せるのを見て浅井は予め決めておいた合図の旗を揚げ、屋形が五万騎を三手に分けて小谷表へ出陣する。信長は大いに計画が狂って軍勢を引き上げようとするが、浅井が一万五千騎を二手に分けて屋形の本陣と合流し、これより江州勢六万騎が七手に分かれて合戦となる。辰の刻から酉の刻まで合戦が続き、信長の軍勢から二千五百騎の首を討取る。味方は八百騎が討死する。本日の合戦は酉の刻に終わる。

二十二日 信長は苦戦のため軍を退こうとするが、屋形が采配を取り七手組を攻め懸けさせられる。目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭丹後守、三井出羽守、三上伊賀守、落合佐渡守、池田筑前守の軍勢一万八千騎は退却する信長軍にぴたりとついて戦い、浅井父子一万五千騎は鑓を一面に並べて南北から横鑓として攻め懸ける。これに信長勢は苦しめられ信長自ら下知をして五千、三千と繰引で退却させるが、浅井の横鑓は間断なく攻め続けるため信長自らが戦うことが三度もあったという。信長がその生涯で非常に苦しんだ合戦である。まさに信長が討死しようというところで佐久間右衛門という信長の家来が激しく応戦し無事に信長を岐阜へ退却させる。本日の合戦で三千四百五十三の首を討取る。信長は大軍にて近江へ向かったがこの度ほど遅れを取った合戦はなく、次のような落書が立つ。

武士の其をたこてをふり捨て命計はみのをわりまて

この度の合戦で信長の本陣が崩れ美濃、尾張の兵共が数多く国へ逃げたためこのように歌われたのであろうか。江州にて六月二十一日二日の大合戦と後世小童の口にまで語り伝えられるのはこの合戦である。

二十三日 屋形がこの度の二日に亘る合戦に功のあった面々に褒賞を与えられる。働きのすばらしい者には感状を与えられる。浅井父子には当家の武士の棟梁であるとの感状を与えられるという。

二十四日 浅井父子が観音寺城へ出仕して屋形に申し上げるには、信長はこの度の合戦で敗北したがすぐに軍勢を整えて当国に再度攻め入ると思われるので朝倉に加勢を求められるのがよい、朝倉も内々に連絡があり次第出陣すると申しているとのことである。屋形はこれに同意され澤田武蔵守を越前へ遣わされる。密状があるがその内容はわからない。同日逢坂の番の面々、江西の旗頭等を残らず江東に呼び寄せて美濃国からの道中の城々に加勢として入城させられる。

二十五日 越前から使節が参る。信長が攻め込んでくればいつでも義景は加勢に参陣するとのことである。同日大洪水が起こる。酉の刻東南の方角に旗雲が三筋立ち、戌の刻に南から消失する。

二十六日 信長が遠三尾の兵を岐阜に集め近日江州を攻めるための評定を行ったと黒知川の番衆が観音寺城へ注進する。屋形は旗頭等を観音寺城に集め、信長が当国に向かってくる事について合戦の評定を開かれる。浅井備前守が進み出て申し上げるには、この度も当国へ引き入れて合戦するのがよいということである。進藤山城守は、信長は必ず今度は大軍で攻め寄せるであろう、その上で以前の合戦で敗北していることを思えば決して深入りしないであろう、ならばこちらから美濃国へ攻め込むべきである、と申し上げる。そこで浅井は、国境にて一戦しわざと軍勢を退却させれば信長は勝ちに乗じて追ってくるであろう、その際に退却と反撃を繰り返して敵を深々と国内に攻め込ませ、観音寺城に向かう軍勢に小谷から横鑓として突きかかれば再び当家の大勝利となるであろうと申し上げる。どの旗頭もこの案に賛同し、屋形も浅井の計略はすばらしいと仰せになる。浅井はこの度の信長との合戦においては諸事について憚る所なく計略等を屋形に申し上げるが一つとして外れることがない。江州の浅井備前守長政は武勇を兼ね備えた男であるとして屋形は太公望であると賞賛される。確かにその才能を持つ者である。

一 浅井父子の事 父下野守は二十歳になるまでに二度大功を立てたため前屋形義実公の代に小谷城を賜る。小童の頃は小熊丸といい前屋形の小姓である。

一 息子備前守長政は当屋形の近習であり、小童の頃は用猿という者である。十三歳にて野田合戦で大功を立てたため十三歳の時に北郡の総旗頭を仰せ付けられたほどの人である。軍学を修め兵術をよく学び得た勇士である。


巻第十五上・完