元亀元年六月の江北姉川合戦について目賀田摂津守入道頼鬼、浅井土佐守入道時雲の両名が日記に記した内容である。


二十五日 信長が岐阜を発ち江州に来る。三河、遠江、尾張、美濃四ヶ国の軍勢を揃えその数六万三千である。

二十六日 信長が柏原に着陣したと観音寺城へ注進がある。屋形は七手組、進藤山城守、後藤喜三郎、目賀田摂津守、青地駿河守、平井加賀守、伊達出羽守等に二万七千騎を添えて信長退治に柏原へ遣わされる。

二十七日 信長と江州の旗頭が柏原にて合戦をする。辰の刻から午の刻まで続き、信長の軍勢二千五百騎を討取る。味方は八百三十騎が討死する。屋形は鳥本まで進軍される。本日箕作承禎父子は柏原なちそ村にて信長の横鑓の軍勢二百五十騎を討取り、屋形は大いにその手柄を称えられる。同日信長が小谷表へ向かう。屋形は江北横山城に大野木土佐守、三田村左衛門佐、野村肥後守、同兵庫頭、澤田民部少輔の五人を入れ八千五百騎を添えて信長の横鑓の軍勢を討取るよう仰せ付けられていたが、信長の先陣一万五千騎が横山城を包囲する。酉の刻から子の刻まで合戦し城中の兵八百三十七騎が討死したと注進がある。信長の軍勢は九百八十騎が討死したという。浅井備前守父子は横山へ加勢に向かうと観音寺城へ申し上げるが屋形はそれを止められる。屋形が仰せになるには、浅井父子が横山に加わるのを見れば信長は軍勢を退くであろう、しかし横山を堅く守らせ一両日も合戦すれば信長は攻め倦んで軍勢を分け以前の鬱憤を晴らすために必ず小谷へ向かうはずである、その時に江東、江西の軍勢で追いかけて一戦すれば信長の軍勢は必ず敗北するであろうとのことである。このために浅井父子の加勢をお止めになる。

二十八日 卯の刻に信長が小谷へ進軍する。浅井下野守祐政は屋形へ後詰を請い、屋形が辰の下刻に観音寺城を発ち小谷表の後詰として横山城に入られる。浅井父子は屋形の後詰を聞きその御紋の旗を見て小谷城を打って出る。その軍勢は一万五千騎である。また越前から朝倉義景の援軍一万七千騎が参陣し、大将朝倉孫三郎宗景が浅井勢と合流して戦う。午の刻に浅井の先手三千騎が信長の九番、十番の陣まで乗り崩し、このため信長の本陣は大いに敗北する。越前の加勢も信長の左備を乗り崩す。義景の家来に真柄十郎左衛門という三十五人力の者がいたが、申の刻に越前勢が敗北した際にこの者が一人踏み止まり数十人を討取る。最後には徳川三河守家康の家人向坂式部、澤田十内という者が二人してこの真柄を討取るという。本日の合戦で浅井父子と越前の加勢は姉川を隔てて戦ったが川を渡って戦うことが四度に及ぶ。戌の刻に屋形は七手組を先陣として信長の備に攻め懸けられる。浅井父子も示し合わせて打って出て戦う。信長は四千五百騎を出して陣を繰引にしようとするが屋形の先手は二手に分かれて追撃し、浅井父子も横鑓に攻め懸け首三千四百を討取る。信長は軍勢を十三段に備え繰引にて濃州岐阜へ退却する。この度信長は二度の合戦に敗れ退却したが、濃州今須という里に一首の狂歌が江州から立てられる。

昔より平氏の勝し事そなき今の織田家は二度かけてまく

この落書は柏原の百姓五郎介という者が立てたという。屋形はこの事をお聞きになって固く禁じられる。

二十九日 昨日の姉川合戦にて先陣を務めた面々に屋形が感状並に所領を与えられる。先陣にて攻め懸けた面々は礒野丹波守、高宮三河守、大宇大和守、山崎源太左衛門、赤田信濃守、連大寺主膳正、和田伝内、澤田民部少輔等である。昨日午の下刻に信長の先手坂井右近太夫の三千騎を乗り崩し、首千七百四十三を討取る。さらに坂井の嫡子久蔵等を討取る。

先陣の面々が討取った首の事

一 首二百九十五         礒野丹波守

   このうち大将首が三

一 首二百七十五         高宮三河守

   このうち大将首が二

一 首二百八十七         大宇大和守

   このうち坂井の軍奉行可児與兵衛を大宇の家来宇田藤十郎が討取る

一 首百五十四          山崎源太左衛門

   このうち坂井右近の嫡子久蔵を山崎の家来角五郎兵衛が討取る

一 首百九十四          赤田信濃守

   このうち坂井の甥坂井十兵衛を赤田の家来澤井大介が討取る

一 首百七十           連大寺主膳正

   このうち大将首が一

一 首百七十四          和田伝内

   このうち坂井の旗奉行不破源太郎を和田の家来古元忠内が討取る

一 首百九十三          澤田民部少輔

   このうち坂井の伯父道全斎を澤田の家来東十兵衛が討取る

一 昨日の合戦で味方が討取った首は全部で四千五百七十三である。味方の討死総数は三千九百三十七人である。

同日屋形は浅井下野守祐政、同備前守長政父子にこの度の合戦の褒賞として高嶋郡、志賀郡内の四十五ヶ所を与えられる。

七月小

九日 屋形が雲光寺に参詣される。この寺は屋形の祖父氏綱公の廟寺である。旗頭等が残らず供奉する。この寺の和尚は今日まで七日間の読経を行う。

十四日 本日から十六日まで屋形は旗頭等に命じて江州浦々にて殺生を禁じられる。これは母公青樹院殿のためであるという。

十六日 午の刻に地震がある。青地伊予守の居城青地城が未の刻に焼失する。

二十日 摂津国の三好笑岩が屋形へ使節を遣わして、手を結び信長を退治しようと申し入れる。屋形はこれに同意されず、それどころか使節武藤美作守という者を進藤山城守に命じて野洲の川原にて殺される。

二十七日 濃州岐阜から信長が織田市令介という者を使節に遣わして屋形へ和睦の書状を送る。屋形は浅井父子、進藤等の旗頭とこの事について相談される。浅井備前守長政が何事かを申し上げ屋形は和睦に同意されないという。

二十八日 志賀の八幡宮から光るものが出て、この宮が強く鳴動したと社人権佐秀方が観音寺城へ申し上げる。

八月大

六日 室町殿が江東に下向され観音寺城に到着される。屋形と信長との和睦を仰せになるが、屋形は上意を受けず信長の邪欲を述べられる。公方は力なく坂本に移り山門の衆徒等を頼みにされるが、山門三院の執行代は屋形が承諾されなかったことを聞き上意に応じない。このため公方は為すすべもなく帰洛されるという。

七日 屋形の後見である箕作承禎公父子は近頃は屋形と和解し日野谷に居住し、今年初めからは野洲の城に移っていたが、三好家と未だ通じており卯の刻に野洲の城を出て摂州野田城へ入る。息子右衛門督義弼は福嶋城へ入るということである。同日浅井下野守祐政が観音寺城へ出仕して屋形に申し上げるには、承禎父子は元来御一族とはいえ大いに不忠の人である、この下野守に仰せ付けられれば早速追討するとの事である。屋形は一笑して、もう遅いと仰せになる。

十五日 室町殿から上使が来る。それによれば、内々に信長に頼んで摂州の数ヶ所の城に立て篭もった三好一家の者共を退治することになったが、ついては江州の屋形も旗を揚げて摂州表へ出陣して頂きたいとのことである。屋形は、信長に頼まれた以上当国から軍勢を出す必要はない、信長が出陣しないのであれば軍勢を差し向けて三好家を退治しようと返事をされる。

十六日 屋形は北郡の旗頭等を観音寺城に召し寄せて、室町殿の頼みにより信長が近日摂州表へ出陣するがその際には当国を通ってまず上洛するであろう、美濃の軍勢を国内へ引き入れて東西から押し寄せ一騎も残さず討取ろうと仰せになる。京極長門守は、信長はそうではなく伊勢から上洛するであろうと申し上げる。はたして高吉の申した通り信長は十八日に濃州を発ち伊勢路から上洛する。

二十九日 河内若江から報告がある。室町殿と信長は摂津国野田、福嶋退治として昨二十八日に野田表へ到着し、今朝合戦を始めるとのことである。野田、福嶋の両城には三好一家が残らず立て篭もっている。野田城には三好山城守入道笑岩、同日向守、同下野守、同備中守、同為三、同新右衛門尉、東条紀伊守、乾伊賀守、澤田式部少輔、篠原玄蕃允、奈良但馬守、岩成主税頭、松山新入斎が立て篭もり、その他にも和州多門城に篭っていた松永弾正少弼父子が加わり総勢七千五百騎であるという。福嶋城には安宅武蔵守、息子甚太郎、細川六郎、同右馬頭、同大和守、斎藤右兵衛大夫龍興、同叔父長井隼人佐、箕作承禎、息子右衛門督義弼、木津但馬守宗氏、尼子兵庫頭輝久が立て篭もり、総勢六千三百騎であるという。同日浅井備前守が浅井左近を越州へ遣わして加勢を請おうと屋形へ申し上げる。屋形は長政の思うように任せると仰せになる。

九月小

二日 京都から報告があり、将軍家が信長と謀って上野丹後守を伏見にて討たれたとのことである。

六日 京都六角の館から目賀田久作が書状にて観音寺城へ申し上げる。それによると室町殿が今月三日に細川が開城し放棄した中嶋城に移られたとのことである。

九日 目賀田久作秀三が屋形へ注進するには、将軍家が昨八日に河口表に到着し信長に命じて向城を築かせたとのことである。この他にも色々な事を注進するが時は乱国であり日記に書き留める余裕がない。

十日 越州の朝倉左衛門督義景から屋形へ使節が来る。密状があるが内容はわからないので日記には載せない。近日義景が出陣するとのことである。

十六日(十三日の誤りか)  摂州へ遣わされた例の忍びの山伏大蔵坊が帰国し観音寺城へ出仕して次のように申し上げる。

今月九日辰の刻に将軍家と信長が野田、福嶋両城を攻めたが、午の刻に城中から打って出て信長の先手が崩れ将軍の本陣へ逃げ込む。将軍家の本陣も共に崩れ、九日の合戦は信長の敗北である。

一 同十二日に再び将軍家、信長の軍勢が両城へ攻め懸かり、卯の刻から未の刻まで合戦する。

一 同十二日の夜に三好山城入道笑岩の許より大阪本願寺の門跡へ書状が遣わされ後詰を頼む。三好一家が本望を遂げれば本願寺領として摂津、河内両国を与えるとのことである。これにより門跡が味方となって後詰をする。

十三日 本願寺が未の刻から野田、福嶋の後詰としてろうのきし、河口の二ヶ所の砦へ軍勢を出す。四千三百騎である。信長の先手佐久間右衛門やその他濃尾の軍勢は本願寺勢に攻め立てられて十四町も後退する。

十四日 野田、福嶋の軍勢と本願寺勢が二軍で攻め信長の四番備まで乗り崩し、室町殿の本陣も敗北する。特に信長の家来で采配を取る者四人が討死する。これにより将軍家並に信長が戦場から引き上げるが大阪の軍勢は三度まで追いすがり大いに戦う。信長が十死一生の合戦をすることが十三日の合戦だけで三度もあったという。信長の軍勢は半ばが討たれ都に入る。将軍家は二ヶ所に傷を負われるという。同日屋形は旗頭等を観音寺城に召し寄せて、室町殿と信長は摂津表の合戦に敗れて上洛したという、今この時にこそ上洛し天下に旗を立て将軍並に信長等を誅罰しようと仰せになる。浅井長政は、これは重要な合戦である、朝倉は屋形が上洛されるならばいつでも後詰をすると長年申している、そこでまず浅井方から使節を立てて義景を当国へ招き寄せようと申し上げる。屋形は、確かに義景を後陣として上洛するのはすばらしい案ではあるが二旗にて室町殿と信長を追討したと遠国に聞こえるのは恥であると仰せになる。浅井は、仰せは尤もであるがあちらも将軍家と信長の両将であり、さらに朝倉については後陣であるので二旗とは言い難いと申し上げる。屋形は、それならば汝の方から朝倉へ申し越すようにと仰せになり、浅井方から浅井左近が早馬にて越前へ遣わされる。

十七日 越州の朝倉左衛門大夫義景が二万八千騎を率いて江北高嶋城に着き、朝倉式部大輔を遣わして観音寺城へ案内を請う。夜、屋形は浅井下野守祐政、同備前守長政両人を観音寺城に召し寄せて、汝父子は朝倉と合流し志賀郡へ打って出て今道越えに上洛し白川表に陣を取れ、吾は勢多から大津、山科を経て粟田口から討ち入ると仰せになる。浅井は仰せを受けて夜のうちに小谷城へ戻り朝倉と合流する。

十八日 朝倉、浅井は早くも志賀郡こつか山、苗鹿、雄琴、仰木、衣川、堅田まで進軍したと注進する。屋形は本日上洛の軍を起こすはずであったが、辰の刻から体調が殊の外悪くなり上洛を延期される。申の刻に大洪水が起こり、野洲、坂田、蒲生各郡の堤防七十四ヶ所が決潰し田畑や家屋等が水没する。近年に例のない出来事である。

十九日 屋形の病気がひどいため本日の上洛も延期になる。酉の刻に坂本から浅井が注進する。使節は浅見采女正である。それによれば信長は森三左衛門という者に五百騎を与えて昨夜から密かに宇佐山の砦へ入らせ、また本日未明に今道越えにて織田九郎に二千騎を添えて志賀の森に隠れさせた。浅井、朝倉の陣所から五十町ほどの場所であるが信長勢は皆夜中に忍び入ったため気づかれない。最も思い通りに運んだ信長の計略であるという。そこで信長勢が申の刻に下坂本の町屋を焼こうと打って出るが、朝倉、浅井はすぐに出陣し無事に信長勢を討取る。宇佐山、志賀の森に残った軍勢まで一人残らず討取ったということである。注進は次のような一つ書である。

一 本日辰の刻から志賀表にて討取った首は七百五十三である。この内信長から忍びで遣わされた大将織田九郎は朝倉の家人大陽寺右馬助景春が鑓にて討取る。

一 宇佐山砦にて森三左衛門尉という者を浅井の家人石田十蔵が組打にて首を取る。

一 同じく宇佐山にて信長が采配を預けた者で武藤五郎右衛門、肥田玄蕃允、同彦右衛門の三人は降参すると強く申し入れたため義景と相談の上赦免した。屋形の体調が少しでも快方に向かえば早く進発されるべきである。信長が強く防戦に出ているため延引されるのはよろしくない。それぞれ申し上げていただきたい。

以上の一つ書は浅井下野守、同備前守から進藤山城守に宛てた屋形への注進の通りである。

二十日 午の刻に坂本から観音寺城に注進するには、昨日の合戦で青地駿河守が負傷し夜子の刻に死亡したとのことである。屋形は大病で頭も上がらない状態であるが青地が死亡したとお聞きになると急に起き上がり人々に向かって、青地は元来勇将である、きっとこの合戦は浅井、朝倉の働きが甘かったため青地が深入りし傷を負い死亡したのであろうと仰せになり、浅井父子の許へ厳しい折檻の書状を遣わされる。同日、青地駿河守の当年七歳になる息子を召し出される。父の本領青地に近瀬、手原、高野の庄を添え、父の忠死を證文に記載してその息子千寿丸に与えられる。千寿丸は屋形の御前を退き人々に向かって、父が忠死し子がその賞に預るのは大きな名誉である、子孫代々に至るまで青地の家は不忠の働きはするまいなどと申す。観音寺城に出仕した旗頭等はこの言葉を聞いて皆涙を流す。酉の刻に屋形は病気が重いにもかかわらず青地駿河守の討死を思い返すにつき腹立たしく思い、吾がこの時に当たって病気が重いのは偏に当家の運も末である、命は限りあるが名は末代まで残るものであるのに、と仰せになり、がばっと床から起き上がって盃を取り三度飲み干し、目賀田摂津守を召して佐々木第四神目の大明神から代々伝わる飛龍丸という鎧を取り出させ自ら身に着け軍配を取り、さあ出陣しようと御座所をお出でになる。観音寺城在番の旗頭等がこれはと色めきたち、京極長門守高吉は屋形の鎧の袖を掴んで、これは非常に良将が嫌うところであると諫言するが屋形はお聞きにならず、佐々木大明神も御照覧あれと誓言される。皆為すすべなく供奉し、屋形が大津城に着陣される。

二十一日 卯の刻に屋形が大津を出発される。先手の七手組は早くも山科に進軍し周辺を焼き払う。屋形は大津を発つ時に志賀城に陣取る朝倉、浅井へ箕浦次郎左衛門を遣わされる。その内容は朝倉、浅井は今道越えで搦手へ向かうようにとのことであるという。

二十二日 坂本から屋形の本陣山科へ浅井が注進する。その内容は濃州西方三人衆である伊賀伊賀守、氏家常陸守、稲葉伊予守が軍勢三千二百騎にて柏原まで出陣し近辺に放火したと蒲生右兵衛大夫が注進してきたのでまず屋形が兵を向けられるのがよろしいということである。午の刻にこの使者が山科に到着する。屋形は、どうして三千ほどの小敵を防ぐためにここまで京都に入りかけている軍勢を引き返すことがあろうかと仰せになり、軍勢を送られない。申の刻に再び坂本から浅井が注進し、屋形が国を挙げて上洛することを信長が聞いてこのような行動を起こさせたと見える、どうしても屋形が軍を差し向けられないのであれば浅井が馳せ戻ってこの敵を追い払おうと申し上げる。屋形は、浅井を引き返させるようなことになれば朝倉が違背するであろう、まず軍勢を差し向けようと仰せになり、目賀田摂津守、馬渕源太兵衛尉、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合尾張守、池田孫三郎の七人を山科に残し、その夜は山科に宿泊して翌二十三日に観音寺城に入られる。

二十三日 進藤山城守、澤田民部少輔に七千五百騎を添えて柏原へ差し向けられる。午の刻に始まった柏原合戦で味方が大勝利を得たと進藤、澤田が観音寺城へ申し上げる。その書状には次のように書かれている。

本日午の刻に合戦が始まり未の刻に終わる。敵七百二十三騎を討取り、この他にも氏家、稲葉伊予の家来で采配を取る者六人を討取る。未の刻に美濃三人大将が軍勢を引き上げようとしたところ澤田兵部少輔の本陣を攻め崩し追撃して数多くの首を取る。その後今須まで追討する。すぐに軍勢を戻し申し上げるつもりである。この旨屋形へ申し上げていただきたい。恐惶謹言

    九月二十三日未刻                            澤田民部少輔

                                        進藤山城守

             目加田左大夫殿(後の伊豆守)

二十四日 午の刻に坂本から朝倉、浅井が観音寺城へ注進する。それによれば信長が本日卯の上刻に京都を発ち今道越えにて志賀、宇佐山の両城に兵を入れ穴穂表に陣を張ったため味方が苦戦しているので早急に屋形に後詰をして頂きたいとのことである。これは屋形が柏原の敵を討つために山科を引き払われたことを詳しく知っており、今朝未明に今道越えで志賀、宇佐山に入ったということである。山科へは織田大隅守信廣に一万五千騎を添えて江州七手組に差し向けたという。屋形は観音寺城を発ち坂本表の後詰として勢多へ進発される。信長は屋形の後詰を予想して三井寺の西、山本、西郡の二ヶ所に二重の堀を構え、宇佐川を切って四十二ヶ所に堤防を作り、軍勢を伏せて大津から攻め懸かる敵を防ぐ。屋形は馬場、松本、大津に陣を置かれる。浅井、朝倉は上坂本、千野、仰木、雄琴、苗鹿の五ヶ所に陣を置く。山門の衆徒六千人は早尾の上、鉢ヶ峰、青山、壷笠山に陣を取って戦う。信長は志賀、宇佐山に陣を取る。将軍義昭は将軍塚に陣を置かれる。同日下坂本の住人水口大学助、山下藤兵衛尉、安元次郎助の三人が寝返り信長側につく。このため下坂本の町が信長方に奪われ、浅井の家人五十四人が討死する。この中でその名を知られるほどの者は西濱久内、谷主馬助、和田太兵衛、三田村武左衛門等である。この者共は皆数々の軍功を挙げており、陪臣であるとはいえ屋形から盃を賜るほどの者である。同日夜、子の刻に山科にて信長方織田大隅守の軍勢と江州七手組が夜軍を行う。敵二百四十三人を討取り、味方は百九十四人が討死する。対等の合戦であるという。

二十五日 屋形が大津から志賀郡表へ進軍される。午の刻に宇佐川にて屋形の先手と信長の抑えの軍勢が戦う。浅井備前守が使者を遣わして屋形の本陣へ注進するには、坂本表の軍勢が動く前に大津から信長に攻め懸けられるのはよくないとのことである。その理由は南北から攻め寄せれば信長は一戦も交えずに軍勢を入城させるであろうことは確実であり、日を延ばせば必ず室町殿の本陣まで残らず志賀、宇佐山へ引き入れるはずで、その時に合図を定めて前後から押し寄せ一戦すれば一人残らず討取ることができるであろうからである。屋形はこれに賛同され、先手を戒めて志賀、宇佐山を攻められない。

二十六日 両陣がにらみ合い、合戦は行われない。

二十七日 酉の刻に洪水が起こる。戌の刻に大津の浜町が三町焼失する。これは信長方から送りこまれた忍びが舟にて浜町に火をかけたという。浜町の町人で松坂屋宗安という者は元来濃州の不破の者であったが信長の家人松井藤蔵という者の兄であるので忍びを引き入れる。すぐに乾式部の手の者が火付十一人と宗安を召捕り屋形の本陣松本へ引っ立てる。屋形はこの火付十一人を野村吉五に命じて大津の北茨川の浜辺にて磔にされる。これは信長方の陣所に見せるためであるという。大津町人松坂屋宗安については、生国の好を思い信長へ忠義を励み信長方の忍びを引き入れたことは確かに憎い事であるが、先祖の主人を慕い敵国に居てもその心差しを遂げたことは尤もなことであるとして逆に黄金二十枚を与えて美濃国へ追放される。これは江州の地下人に至るまですべての者が他国に居住していても先祖譜代の主人を捨てることがないようにとの屋形の計略であるという。

二十八日 屋形の一族である箕作左京大夫入道承禎、息子右衛門督義弼は先年江州を退いてからは摂州にて三好家と合流し信長と度々弓矢を交えてきたが、今屋形と信長が不和になり合戦をしていると聞き、予め計らって家人三雲武左衛門、三上伊豆守両名を信長の本陣志賀城へ遣わし味方になる。この合戦で信長が勝利し天下一統を成し遂げれば江州の正統管領職を賜るということで本日舟にて山田から唐崎の浜に上陸し信長の味方になるという。この承禎父子は屋形に近い一族で、特に定頼、承禎二代の間は屋形の後見として箕作に居住し国政を執り行っていたが、去る永禄六年に本屋形に取って代わるために後藤但馬守父子を討ってからは江州の旗頭等悉くに憎まれ度々屋形に訴えられて、ついには箕作城を召し上げられて国を退き方々をさまよってこのように当屋形に敵対する。

二十九日 卯、辰の刻に光が消えて国中が暗くなり暗夜のようになる。江州のみで起こり他国ではこのようなことはないという。不思議なことである。同日室町殿から屋形へ上使が参る。その内容はこのように両軍が日数をかけて合戦をすれば非常に民が苦しむことになり、特に信長と義秀は水魚の思を為すべきであるということで、様々なことを一つ書にして差し寄越す。屋形は、信長は両陣に挟まれ危険な合戦であると見て将軍へ申し上げ和睦を取り結ぼうとしていると仰せになり、信長が降参するならば上意の旨に従うと将軍家へ返事をされる。以後、上使は来ない。

十月大

四日 唐崎に陣取る信長の家人津田太郎左衛門尉が寝返り、忠義を尽くすと進藤山城守を頼って屋形に申し上げる。これにより進藤が人質を取り、唐崎へ三井出羽守、坂田掃部助に八百五十騎を添えて遣わされる。津田はすぐに己の陣取る小屋等を焼き、同所に陣取る柴田修理、織田市令介等は七百騎ほどで戦う。これを見て宇佐山に控える信長の後陣佐久間右衛門尉、不破河内守、丹羽五郎左衛門、安藤伊賀守等が四千騎ほどで一途に援軍に駆けつける。味方の軍勢は激しく戦うが津田太郎左衛門が討死し足軽二百人ほどが討たれたため三井、坂田は軍をまとめ舟で大津へ退こうとするが、信長の軍勢はこれに勢いを得て三千ほどが舟に乗り追いかける。三井、坂田は三度取って返して舟軍をする。大津に控える進藤山城は味方の苦戦を見て六千七百騎を二手に分け舟数百艘に乗り込んで助けに向かう。これを見て信長勢は叶わないと舟を唐崎に引き上げようとするが、早くも進藤の兵船がこれに追い付き唐崎と柳ヶ崎の沖で二度舟軍をする。進藤の軍勢が勝利を得、首七百を討ち取って大津に漕ぎ返る。味方の討死は三百人に及ぶ。この合戦は唐崎の舟軍と後世に至るまで言われる。これより信長は陣所を固め何とかして退却しようとする。毎日矢軍はあっても敵味方が入り乱れる合戦はない。信長の生涯での苦しい合戦はこれである。

八日 屋形が信長へ使節を遣わして仰せになるには、このように対陣が長くなれば人馬を疲れさせることになる、来る十日に一戦を交えようとのことである。信長からの返答では、十五日に勝負を決しようとのことである。これを聞いて屋形は、信長は必ずこの言葉に違う心積もりであろう、強引に十日に攻め懸けようと仰せになる。進藤山城守、京極長門守両人は諫言して、信長が日時を延ばしたのは偏に降参の言葉である、どうして降人を攻める法があろうかと申し上げる。屋形は一笑して、汝等の言葉に任せようと仰せになる。

十一日 山門藤本坊から使僧を以って屋形に注進するには、信長が苦戦しているため天皇から勅使を遣わして義秀、朝倉と信長の和睦の勅定を下して頂きたいと室町殿が奏上されたと聞いたとのことである。これを聞いて屋形は、武の法においては勅定も受け入れることはないと仰せになる。

十二日 東国から例の山伏が帰国して屋形に申し上げるには、豆州の北條左京大夫氏康が今月三日に病死したとのことである。享年五十六歳であるという。

十六日 夜、月に光がない。

十八日 夜、星が月を貫く。これは大いに天下の不吉であるという。

二十日 屋形が目賀田摂津守の息子小隼人佐を信長の陣所へ遣わして仰せになるには、このように対陣が長くなるのは人民の疲れである、今月二十四日に勝負を決しようとのことである。酉の刻にこちらからの使節に信長が菅谷九右衛門、佐々内蔵助両人を差し添えて返事をする。それによれば仰せのように長陣にて人馬の疲れを痛ましく思うのには同感である、そこで今月二十四日に一戦を遂げようということは尤もであるのでその日を期日と定めて一戦するとのことである。

二十三日 屋形は朝倉、浅井へ使節を遣わして、明日二十四日に信長と勝負を決することに定まったので其方等は高山、志賀の両城へ攻め懸けよ、こちらからは宇佐山と砦二ヶ所を攻めると仰せになる。浅井、朝倉は心得たとの返書を酉の下刻に差し越す。戌の刻に室町殿が勅使三條大納言殿と同道して屋形の本陣松本へお出でになる。屋形は進藤山城守、後藤喜三郎、京極長門守等を召して、室町殿は当家の恩を早くも忘れ信長に与して今苦戦に陥ったためその身を敵陣になげうって来られた、これは天が与える機会である、討ち取ってしまおうと仰せになる。京極長門守高吉は諫言して、仰せは尤もであると思うが今室町殿はその身を捨て勅使を頼みにしてお出でになったのであり、これを討つのは童子を殺すことと異ならない、さらに勅使を無下に追い返すことは神明に恐れ多いことであるので一応勅旨に応じられるのがよろしいと申し上げる。屋形は、それならば京極が出迎えて室町殿の仰せを聞いて参れと仰せになり、長門守高吉が室町殿に参上して御諚の旨を承り、それから勅旨三條大納言殿と同道する。屋形は勅意の旨をお聞きになってあれこれと言うこともなく受けられ、室町殿と三條殿を帰される。

二十四日 屋形は諸将に対して、信長が志賀表から軍を引き払い退却すれば勅命に従い味方も軍を引き上げよと触れ渡される。しかし本日信長は軍を退かず、このため味方も陣を引かない。

二十六日 卯の下刻に信長の先手七千五百騎が二手に分かれ柳ヶ崎から南へ向かって攻め懸ける。進藤山城守、京極長門守、黒田美濃守等は大津から茨川表へ打って出て、宇佐川尻にて敵味方がぶつかって合戦となる。午の刻から申の刻まで続く。今日は黒田美濃守識隆が先陣を仕り味方が勝利を得、首八百七十三を討取る。敵は志賀に引き上げるが、信長は目の前で味方が敗北するのを見ながら助けることができなかった。これは背後に朝倉、浅井が控えていたからであるという。信長一世一代の苦しい合戦と世に言われるのはこれである。

二十七日 本日から十一月まで降雨により合戦はない。

十一月小

一日 京極長門守高吉を観音寺城へ遣わされる。これは屋形の母公松樹院殿(青樹院の誤りか)の年忌により威徳院にて法事をするためであるという。

四日 大雪が降る。

五日 京極長門守が観音寺城から戻る。

十三日 浅井下野守祐政は観音寺城の留守居番を命じられていたが昨日十二日から病気が重いと屋形の本陣松本へ報告がある。このため朽木信濃守元綱を観音寺城へ遣わされる。

十五日 比良山から光るものが飛び出し山門の西塔釈迦堂に落ちる。坊舎五ヶ所が焼失する。

十六日 堅田の今城に留め置かれている澤田小太郎秀重が書状にて屋形へ注進する。それによれば堅田の者共二百五十人が猪飼甚介、馬場孫次郎、居初又次郎、角藤三、南主馬介の五人を大将として信長に寝返り忠義を尽くすことになったため早く加勢を遣わして時を移さずこの者共を誅罰すべきであるとのことである。

十七日 楢崎太郎左衛門に弓兵五百騎を添えて堅田へ遣わされる。屋形は楢崎に、あの五人の者が信長に属し人質を出せば信長は堅田へ加勢を遣わすであろう、加勢は自由に入らせてから誅罰せよと仰せ付けられる。

十八日 申の刻に洪水がある。酉の刻に東に赤い気が立つ。その形は龍のようであり、世界は大いに赤い気を映す。人面草木すべてが赤くなる。

十九日 堅田へ遣わされた楢崎太郎左衛門から注進がある。その内容は、堅田の謀反人共が信長へ加勢を内々に請い、今朝人質等を志賀へ送ったということである。同日澤田小太郎秀重が注進するには、平野田中坊徳円入道が寝返って居城を焼き払い志賀表へ参陣したとのことである。

二十日 屋形は新庄伊賀守信秀を浅井備前守長政に遣わして、平野田中坊が寝返り志賀表へ参陣したとのことである、早く其方の陣所から軍勢を出して踏み潰せと仰せ付けられる。同日堅田から注進がある。信長から加勢として坂井右近という侍大将が千三百騎を添えられて遣わされ、昨日二十日の夜舟にて堅田に入り猪飼、礒部の館にて火の手を上げ今堅田城にも火をかけたと楢崎、澤田方から屋形の本陣松本へ注進される。

二十一日 屋形は箕浦次郎左衛門を堅田へ遣わして、信長が大軍を堅田に遣わしたと聞く、そちらから朝倉、浅井の軍勢へ加勢を申し入れ一人残らず討ち取れと仰せ付けられる。

二十二日 室町殿から上使として細木右馬頭が遣わされる。屋形は対面されず上使は空しく帰る。同日山門恵光坊から使僧が参る。屋形は対面して軍事についての意見をお聞きになる。詳しいことは知らないので記さない。

二十三日 洪水により坂本新居殿の宮が水に浸かり流される。大宮川の水は十合になり八條の町屋百三十余軒が被害を受け、多くの牛馬が流されて死ぬ。

二十四日 酉の刻に堅田へ遣わされた面々が注進するには、本日午の刻に今城へ攻め寄せ敵の首百二十三を討ち取り、味方では雄琴城主和田中務丞秀純が深入りして負傷し十死一生の状態であるとのことである。屋形義秀公はこれをお聞きになって和田の働きに感じられ即座に自筆の感状を与えられる。この和田の働きとは今城の二の丸に乗り込んで敵十二人と一人で戦い、十四ヶ所も傷を負いながらついに味方の陣に帰ったということである。

二十五日 堅田から屋形の本陣松本へ注進がある。本日午の刻から申の刻までの合戦で堅田今城、礒部城を攻め落とし、信長から遣わされた侍大将坂井右近、安藤右衛門尉、武藤美作守、その他采配を取る者の首四つを含む千五百八十三の首を討ち取る。このうち坂井右近の首だけが松本の本陣に送られる。屋形は喜悦して三上伊予守に志賀への贈り物にせよと仰せ付けられ、騎馬武者三人に坂井右近の首を持たせて信長の本陣志賀表へ遣わされる。屋形は三上伊予守に、汝は一書をしたため信長方へ坂井の首と共に送れと仰せ付けられたため、三上はすぐに筆を取り次のようにしたためる。

急いで申し遣わす。この度堅田の者共が逆心しそちらの軍に従うこととなり信長は喜悦してすぐに坂井右近に一千余騎を添えて堅田へ遣わし近辺を焼き払ったが、こちらの若兵共が急に攻め懸けたところ運命も尽きて右近は討ち取られた。屋形は信長が右近を家臣の柱のように思っているとお聞きになり、一見すればもう首に用はない、亡くなった後でもその生前を懐かしみたいであろうから坂井の首を信長方へ送れと仰せになった。そこで大いに忠義を尽くし討死した者の首を御覧に入れるために送るものである。恐惶謹言

    元亀元年十一月二十六日                           三上伊予守 在判

               織田上総介殿御内ニテ

                     佐久間右衛門尉殿

二十六日 大雨が降り申の刻に晴れる。酉の刻に信長の陣所志賀表から大津に陣取る味方の中備進藤山城守へ使節が参る。これは今朝三上伊予守から信長の家来佐久間右衛門へ送られた首の返状である。その内容は次のようなものである。

今朝珍しい書状にて特別に管領の仰せとして坂井右近の首をこちらまで送られた事をすぐに信長へ申し上げたところ非常に感動された。真に良将の行いであると当陣の面々も涙を流した。たとえ敵となり味方となるもこのような心差しを持つことこそ大将たる者のあるべき姿であるということを相心得たと申すようにとのことである。恐惶謹言

    元亀元年十一月二十六日                           佐久間右衛門尉 在判

               近江管領御内ニテ

                     三上伊予守殿 御報

二十七日 進藤山城守が屋形へ申し上げるには、昨日堅田にて討ち取った坂井右近の首を三上に仰せ付けて敵方へ送ったことはどうしても納得がいかないとのことである。屋形はこれは一つの謀であるとのみ仰せになる。御本陣の面々も山城と同感である。同日志賀表から騎馬武者三十四騎が大津へ来る。これは坂井右近の一族である。この者共が三上伊予守を頼って屋形に申し上げるには、一族の右近は堅田にて討死し首を取られたが屋形は一見された後そのまま首を敵陣に送られた、これは真に並ぶ者のない良将の行いだと思いこの恩に報いるため坂井一家の者は只今御味方に参じた次第である、次の信長との合戦に先駆けを仕り討死をしてその名を右近共々清める所存であるとのことである。屋形はこれをお聞きになり、申すことは尤もであるが武士たる者にとって逆心の名を受けることは戒め嫌う所であるので元のように信長に仕えよと仰せになる。しかしこの者共がどうしても軍勢に加えてほしいと申すのを聞いて屋形は、それならば進藤山城守に預けようと仰せになり、山城が坂井の一族三十四騎を預かる。

一 屋形が坂井の首を信長へ送られたことに信長の将兵は残らず感動し、一人二人ずつ志賀表を引き払い多くが味方に降る。

一 山岡美作守が進藤山城守に語るには、この度屋形が坂井の首を敵陣に送られた本心を考えるに決して慈悲の心から送られたのではあるまい、慈悲を装って敵兵を味方に招こうとする慈悲の手立というのはこれのことであろう、とのことである。山城守は一笑して、其方の蔑みの気持ちを昨日語っておればおそらく名言となっていたであろうが今や坂井の一族も味方に降りその他の士卒もいくらか味方に参じてきており、それを見た後にそのように言うのは後定言であって勇者の嫌う所である、と申してお互いに論を戦わせる。馬渕但久斎が両方を諌めて論争を止める。長い論談であるので日記に載せることはできない。

二十九日 志賀表から信長方の武士が一人大津に来て申すには、信長方の軍兵等は長陣に退屈し或いは味方の苦戦を思い日毎に軍を退いている。これを見て信長は室町殿に申し入れ天皇の勅定を下して義秀公との和睦を調えようとしているとのことである。

十二月大

一日 卯の刻から申の刻まで大雪が降り四尺余積もる。近年江州ではなかったほどの大雪である。

四日 坂本から朝倉左衛門督義景の使節が屋形の本陣松本へ来る。それによれば山門では大雪により諸軍が難儀をしているので明日残らず陣所を引き払い上下坂本、仰木、千野、苗鹿、雄琴、衣川、堅田に陣を据えるとのことである。同日、浅井備前守長政からも屋形へ注進があるが密状であるので内容はわからない。

六日 江北の錦織源五郎は内々に信長に通じ逆心の企てがあったため、建部藤蔵を遣わして正念寺にて誅殺される。午の刻から大雪が降る。北の空が赤く、丹のようである。北を向けば人の顔が赤く染まる。

七日 天皇が病気であるという噂が流れる。戌の刻に下京で二十九町余が焼失したと報告がある。

八日 只興寺右馬允が急死したと観音寺城から屋形の本陣松本へ注進がある。実は急死ではなく屋形の奥方が不破吉五という者に仰せ付けて討たせたという。屋形の奥方は信長の息女であるが今敵味方となったため思い悩んでおられると申すのを伝え聞かれてこのように殺されたという。

十日 京都から勅使として日野大納言殿が来る。室町殿は勅使と同道して屋形の本陣松本へお出でになり屋形と信長の和睦を仰せになる。勅意の旨は、四海の乱逆を治める者が逆に兵乱を起こしていることに非常に心を痛めている、速やかに義秀と信長は和睦して天皇を守護し将軍を洛内に入れよということである。勅意であるので異議なく屋形と信長が和睦される。しかしながらお互いに対面することはない。

十一日 勅使日野大納言殿が帰京する。午の刻から大雪が降り、三間先にいる人も見えないほどである。

十二日 室町殿が上野中務大輔清信を上使として遣わし、この度の和睦をめでたく思う旨を述べ万歳丸という太刀を屋形へ贈られる。同日、室町殿と信長が今道越えにて上洛する。朝倉左衛門佐義景、浅井下野守祐政、同備前守長政が松本へ来て屋形に出仕する。この度の合戦について評議を行い忠功の者七十六人に褒賞を与えられる。屋形は朝倉に向かって、其方はまず帰国せよと仰せになり、浅井には、小谷へ引き上げよ、信長は元来表裏のある武将でありこれは一時の和睦であろう、吾一人が上洛すると仰せになる。浅井長政は、もしも信長が本心から和睦していないのであればよもや近江を通ることはあるまいと申し上げる。屋形は、たとえ一時の難を逃れるために信長が表向きに和睦したのであってもそこまでの事はないであろうと仰せになり、朝倉、浅井を帰して屋形のみが上洛することに決められる。

十三日 屋形義秀公が上洛され東福寺に着陣される。

十四日 室町殿から上使が参り、義秀、信長御両所が将軍の御所に出仕される。両将は対面して、お互いに心を隔てないとの起請文を書く。信長は相国寺へ帰り、屋形義秀公は東福寺にお帰りになる。

十六日 将軍の御所にて能が催される。信長は病気と申して出仕しない。屋形は出仕される。

十七日 室町殿が天皇へ奏上し義秀、信長の官位を進められる。屋形は、勅命であってもこの度官位を進めるつもりはない、家人等に受領等を与えようと仰せになり、官位を進めず家人二十五人を諸大夫に進められる。信長はこのようなこともなく一人四品侍従になるという。

十八日 屋形が江東に戻り、酉の刻に観音寺城に入られる。

二十日 織田信長が京を発ち大津から観音寺城へ使節を遣わす。使節が屋形に申し上げるには、本日信長が観音寺城に入り奥方にも対面したいとのことである。屋形は承知したと仰せになる。浅井父子は観音寺城に出仕して、信長が和睦をして当城へ立ち寄るというのは天の与える所であり討ち取るべきであると屋形に申し上げる。屋形は、謀といっても人を騙し討ちにするのは大いに良将の恥じる所である、天命に従わず人を害すればその罪は時を経て自分に返ってくると呉子も言っていると仰せになる。浅井下野守は再び諫言して、屋形の仰せではあるが信長は表裏あること甚だしい男であり、美濃へ帰って諸方へ使節を遣わし人馬を休息させれば必ず当国へ攻め寄せるであろう、そうなれば味方の人馬もその大半を損ねることになる、今この時に討ち果たせば味方の人馬を労せずして勝利を得ることができようと申し上げる。屋形は、もし吾が信長を騙して本日当城にて討てば後世まで佐々木家の悪名を残すことは必定である、とりあえず今回は信長を美濃国まで帰すと仰せになる。同日未の刻に信長が五万七千騎にて守山観音堂に到着し、菅屋九右衛門、不破河内守という者共を使節として観音寺城へその旨を申し入れる。屋形は両使に対面し、来訪を待つと返事される。酉の刻に信長が騎馬五十三騎にて観音寺城へ来る。最初は御国の間にて屋形が対面され、後には信長と同道して奥に入られる。屋形の奥方とも対面したということである。屋形の奥方は信長の息女である。実際には信長の兄織田大隅守信広の息女を信長が養女にして江州屋形へ先年嫁がせる。詳しいことは永禄の日記にあるのでここには載せない。夜、子の刻に信長が守山に帰る。

二十一日 信長が守山を発ち美濃へ下向する。同日進藤山城と浅井備前が観音寺城の御広間にて口論になる。進藤が、今年志賀表にて浅井殿がひたすら攻め懸けていれば信長は討たれていたものをと申せば、浅井も、吾もそのように思うが屋形の御軍法に背くわけにはいかないのでと申す。進藤はさらに、それは其方が元来信長の妹婿であるため油断があったのだと申して互いに何度も言い争う。平井加賀守が進み出て、双方ともに理を得ていないと申せば、浅井が、この長政は未来永劫忠臣の名を得るであろうが進藤殿は味方の勢威が尽きれば必ず二心を抱くであろうと申す。進藤は大いに怒り二心とは何事ぞと既に太刀に手をかけようとする。当番の面々、京極高吉、朽木等はこれは一大事と割って入り浅井、進藤を仲裁する。これより進藤山城守と浅井備前が互いに勇勢を競うことになる。はたして浅井はその言葉に違わず信長の旗下につくこともなく討死をすることになる。

二十二日 屋形は旗頭等へ、今年の志賀表での合戦は長陣であったため来る年始の礼を免ずると仰せ付けられる。そこで近習のみ観音寺城に残り皆暇を賜ってそれぞれの領地、城に帰る。

二十四日 信長から使節が参り、この度の和睦を非常に喜んでいる旨を申し上げる。屋形は使節に対面されない。午の刻に大雪が降る。戌の刻に星が月を貫く。西方に客星が現れる。

二十八日 屋形の一族箕作承禎父子が数年の非義を免じ観音寺城へ出仕させてほしいと三雲豊左衛門を遣わして訴える。屋形は大いに機嫌を損ね返事をされない。そして京極、朽木、浅井父子へ、江州国内に承禎父子を居住させぬよう仰せ付けられる。しかし平井加賀守が、一度当家の後見と呼ばれた人であれば国内に居住することは許されるべきであると強く申し上げ、屋形はこれを承諾される。これより承禎父子は平井加賀守を非常に懇志にするようになる。この平井加賀守という者は江州にて真儒の名を得た者である。平井の父道誉は屋形の祖父雲光寺氏綱公が取り立てた者で、北白川の合戦にて一番に先駆けをした勇士である。


巻第十五下・完