元亀二年(辛未)

一月小

一日 本日から三日まで天気快晴。観音寺城に出仕の面々は近習のみである。御一門は三日に出仕する。旗頭は旧冬に免じられたため出仕せず名代を立てて年始の賀詞を申し上げる。

四日 卯の刻に地震がある。近年にない大地震である。午の刻から大雪が降り、酉の刻には四尺余積もる。

五日 大風に混じって雪が降る。申の刻に雷が激しくなる。江北小谷の南櫓が落雷のため焼失する。同日、観音寺城御国の間に落雷があり殿門六つが焼失する。非常に不吉な出来事であるという。

六日 蒲生右兵衛大夫が観音寺城へ注進するには、承禎の嫡男右衛門督義弼が飯道寺の妙作法印を頼り屋形調伏の護摩を今月一日の朝から今日まで執り行っており、明日が結願日のため右衛門督がこの寺へ参るとのことであるという。屋形は大いに怒り平井加賀守、山崎源太左衛門、新庄伊賀守、黒田左門、間宮美作守の五人を飯道寺に遣わして妙作法印を捕縛し、その意旨を詮索される。妙作法印は、決して屋形を調伏していたのではない、義弼が頼んで申されるには、吾は屋形の氏族であり特に父承禎は先年屋形の後見として国政を執っていたが後藤但馬守一族が色々と讒言を企みついには父は屋形から離れあまつさえ居城箕作を去り近年諸国をさまようことになった、しかしその憤りは収まらず今一度我等父子が屋形の後見となり讒者の言が正しいのかどうかを糺すために心を仏神に懸けてこの身が衰えるのを祈りたいとのことであると申す。五人の検使がそこで護摩の檀を見たところ確かに妙作の申す通りである。しかし山崎源太左衛門が、このような重大な祈願では必ず表に武運長久と立て裏に調伏を祀って祈るという古人の言葉があると申して護摩の檀を破って見たところ確かに屋形を調伏するように思われる物が見つかる。三十歳ほどの男を色絵に描き装束を着せ、四目結に桐の紋を折目の間に付け人形の胸に雲光寺の孫嫡と書き付けて、定命今年今月と裏書がしてある。屋形は雲光寺氏綱の孫であり佐々木の正統である。これによりそのように書かれたと思われる。そこで五人の検使はこの本尊と他の護摩に用いられた物等を持たせ、妙作法印と同宿の十二人をからめ捕り、観音寺城へ戻り屋形に報告する。屋形は進藤山城守に命じてこの僧共を野洲川にて磔にされる。このことを聞いて右衛門督義弼は当時鯰江にいたが夜に脱け出して勢州へ落ち延びる。父承禎は山州木津へ退去する。

十一日 屋形が御国の間にお出でになり旗頭等の礼を受けられる。代々伝わる家宝を床に飾る。今年は伊達出羽守が御鎧の櫃を開く。これは田上刑部大夫が病気のためである。

十五日 屋形が八幡宮へ参詣される。この宮にて大神楽が催される。神主右京進実長は去年の志賀合戦の時、陣中までこの神社の巻数を献上したが屋形はこれを非常に悦ばれ本日この社に所領五ヶ所を寄進される。神主右京には別に一ヶ所を与えられる。

十六日 屋形の奥方の病気が重いので旗頭等が出仕する。

二十日 山門へ澤田民部大輔を遣わされる。屋形は少し宿願がおありになり中堂薬師如来へ一書を奉納される。これは近年屋形が病気がちであるためこのようにされるのではないかという。

二十三日 朽木宮内大夫の嫡男信濃守元綱を山州の愛宕へ遣わされる。これは屋形の名代として参詣する。屋形は元綱に龍のひげという脇差を与えられるが、後に元綱はこの脇差を佐々木神社へ奉納する。元綱の本心は屋形の病気快癒を一筋に祈るためであるという。

二十九日 三井寺勧学院の尊雄法印が観音寺城に出仕して口から火を吐く術を屋形に見せる。非常に珍しいことであるという。

二月大

四日 浅井下野守祐政が注進するには、礒野丹波守が信長に内通したという噂を聞いたので本人を観音寺城に召し寄せてお聞きになるのがよいとのことである。

五日 馬渕越前守秀盛を遣わして礒野を観音寺城へ召し寄せられる。屋形は礒野に向かって、汝は逆心などしないが旗頭の中で一人このように言い立てられるのは偏に忠心が浅いためである、居城を去り高嶋郡小川城へ移るようにと仰せになる。真に人は常に心を虚に保ち異念をさしはさんではいけないものである。この礒野は江北にて一軍の大将をも仰せ付けられ形ばかりは武道の評価も詳しい者であるが、常に旗頭等をそねみ各々の働きを評する時には自分の働きばかりを評価する者である。天必ずこれを抑え地必ずこれを埋むという太公望の言葉は尤もである。

九日 屋形の祖父氏綱公の追善が行われる。雲光寺における経中の奉行は新庄伊賀守、澤田民部少輔等である。

十五日 小川孫一郎が注進するには、承禎が三好と合流して泉州にて軍勢を集めているとのことである。

十八日 石山へ参詣する人々が勢多の川下にて大蛇を見るということがあり、国中の人間だけでなく京都の者まで集まりその数は夥しいものである。大蛇の一件は事実ではない。

二十一日 屋形の甥河端左近大輔輝綱を公方が近習の頭として召抱えたいと仰せになる。本日上使中尾主馬助昭光が江東に来て観音寺城に登城する。屋形は仰せを受けて河端殿を上洛させる。室町殿は江州をはばかってこのようにするという。

二十四日 乾甲斐守秀氏を屋形の名代として山州愛宕大権現へ遣わされる。当屋形はこの愛宕の申子であるので殊更に信仰される。

二十六日 卯の刻から午の刻まで洪水が起こる。江州各地の川で水量が増して多くの堤防が決潰し田畑が水に流される。田井里、中村里では民家が一軒残らず水に流され、人や牛馬に至るまで溺れ死ぬ者が多く出る。

三月小

一日 山州平野神社から光るものが出て梅津の里に落ち、民家の多くが焼失する。

三日 佐々木神社にて祭礼が行われ屋形並に旗頭が参詣する。屋形は千手堂から装束にて神社に向かわれ、旗頭等は一列に並んで供奉する。同日、竹生島の神事が例年通り執り行われたが、午の刻に巽の方角から大波が立って縄を切り海中に沈める。屋形は非常に慎まれるという。

五日 竹生島の住僧を観音寺城に召し寄せ、この度の竹生島の大波について旧例、凶事の有無を尋ねられる。住僧が答えて申し上げるには、当家九代目の屋形長命寺秀義公が当国を退き陸奥へ下向された時も竹生島で大波が立ち往来の舟がすべて水にのみこまれて沈んだ、またその後当家十五代の管領雪江崇永氏頼公が遁世された時も竹生島にて大波が発生し通る船の多くが損壊した、その後満経公が威徳院にて自害された時も島に大波が二日間打ち寄せ、さらに先年箕作京兆義賢入道承禎父子が後藤但馬守父子を箕作城にて騙し討ちにしたときも大波が立ったことがあった、代々の屋形の運命に関わっているとのことである。管領義秀公はこれをお聞きになって、確かに予が慎まねばならぬ、しかしながら悪事が起こる事を天女も悲しまれお告げになったのだと思うと仰せになり、竹生島に四ヶ所の領地を寄進される。屋形はさらに、予の国政に悪行がなければ神も今まで通り守護の心で見守ってくださるであろう、悪政であるならばたとえ祈ったところで何の益があるだろうかと仰せになるという。

九日 雲光寺にて屋形の祖父氏綱公の追善が行われる。経中の奉行を宮川豊後守、間宮権頭等に仰せ付けられる。

十五日 野村越中守が観音寺城へ注進する。それによれば武田入道信玄が室町殿と内通し、織田信長を退治するのであれば長嶋の者共をまず緒戦に上洛させるとのことである。室町殿は武田と手を組まれたという。

二十一日 例の山伏が東国から帰国し観音寺城へ出仕して申し上げるには、今月の中旬に甲州の武田が遠州高天神にて織田信長と一戦を交え、大敗を喫して甲州へ退却したとのことである。

二十三日 辰の刻に地震がある。青地主殿頭の女房が物の怪だって観音寺城に参り一通の文書を屋形に献上する。その内容は青地が逆心したとのことである。しかし青地は元来無二の忠臣であるので屋形は少しも気に留められない。これは青地が妾を持ったため本妻が妬んで青地が逆心したと屋形へ訴えたものである。

二十七日 黒田美濃守識隆が備前から江州に参り進藤山城守を介して観音寺城へ出仕する。屋形に拝謁して黒田は、吾は当家の一族である、子々孫々に至るまで正統の屋形に忠義を尽くすと申し上げ、黒田家に代々伝わる赤坂丸という太刀を屋形に献上する。屋形は非常に喜ばれ黒田を称えられる。

四月大

三日 辰の刻から午の刻まで大風が吹き、五畿内の多くの民家が倒壊する。江州兵須大神宮の森では一本も残らず吹き倒される。高嶋越中守の居城が倒壊したと観音寺城へ報告がある。

四日 箕浦入道卜円死去。享年八十四歳。この人は雲光寺氏綱公、東光寺義実公、当屋形義秀公の三代に仕え数々の忠戦に励んだ勇士である。屋形は非常にこの人を慕われる。

五日 屋形が自ら称名念仏を一万遍お書きになり、箕浦入道のために山門恵心院の仏前に供えられる。

八日 目賀田摂津守、同佐太夫等に屋形が諱字を与えられる。これは代々忠臣であるからである。

十五日 京都から上使として上野中務大夫清信が来る。屋形は対面されない。これは室町殿が本心では逆意を抱いていると細井刑部少輔輝重が屋形へ注進したためである。同日、澤田民部少輔の嫡男小十郎に幸津川の庄を与えられる。この者は非常に屋形が気の合う者である。

二十五日 浅井備前守、後藤喜三郎等が観音寺城に出仕して申し上げるには、近日美濃国を退治なさるべきであるとのことである。屋形はこれを承諾されない。

二十七日 久徳左近兵衛尉に屋形が諱字を与えられる。これは去年の数々の軍忠によるものである。旧冬に忠功を立てた面々に賞地を与えられたが、尚もその功を感じて今このようにされたのであろうか。

二十九日 例の山伏が東から戻り観音寺城へ出仕して内密に北條家、武田家、織田家の事を申し上げる。その内容は知らないので日記に載せない。

五月大

一日 礒野丹波守が嫡男孫太郎を使者として屋形へ注進する。その内容は箕浦城の番人である堀掃部助、同次郎等が内々に織田信長へ通じたと確かに告げ知らせる者がいるので、早くこの者共を誅罰されるべきであるということである。屋形はこれを承諾されない。元来堀は箕作義賢入道承禎に奉公していたが、承禎父子が屋形の不興を蒙り居城を去る時にこれを見限り、大原殿を頼って屋形へ目通りし二千貫の地を与えられた。その後坂本表の合戦で大いに忠義を尽くしたため衆に抽んで厚遇されており、とても堀が不忠を起こすことなどあるまいと思われ、逆意の旨を注進してきても承知されないという。

四日 平井加賀守、永原大炊頭、馬渕左衛門太郎等を召し出して明日の佐々木神社の祭礼の儀式等を仰せ付けられる。蒲生郡、坂田郡の番である。いつもこの両郡の若兵等は婆娑羅を尽くし民衆を煩わせるので以上の面々に命じて、そのような輩が居れば斬り捨てよと仰せ付けられるという。

五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形は病気のため参詣されない。近習の面々、近郡の旗頭等のみ参宮する。酉の刻に浅井備前守長政が浅井七郎三郎を遣わして観音寺城へ注進する。その内容は堀掃部助、同次郎等が信長へ内通し逆心したことは既に確実であるので下知があり次第誅罰するということである。屋形は事実と見て、この者共は先年の忠功もあるので助命して開城させよと仰せになる。浅井父子は元来堀と不仲であるので御下知にさらに悪心を差し添えるという。

六日 浅井父子が一万四千騎にて箕浦城を囲み、屋形の御下知によるものであると申して三方から攻め寄せる。堀掃部助、同次郎はただ二人のみで城を出て浅井に向かって、屋形の仰せに背くことはしない、吾等二人が切腹するので士卒は助けてほしいと申し出る。浅井は尤もであると申し、堀掃部、同次郎両人が切腹する。浅井備前守が首を観音寺城へ持参して屋形の御覧に入れる。箕浦城は備前守に与えられる。

十日 堀の一族等は逆心のためすぐに誅罰されその名跡が絶えたので、屋形は掃部助の甥新九郎を取り立てて堀伊豆守とし野村城を与えられる。さらに諱字を与えて秀氏と名乗らせる。逆心の堀の名跡をどうしてこのように取り立てられるかといえば、代々屋形の旗差の頭人を務めているからである。

十四日 尾州から山口左近という者が浪人で江州に参り、進藤山城に仕え本日屋形に拝謁する。この山口左近という者は尾州山口飛騨守の弟であるが、この度信長の家来小森新助という者を討ち当国へ来る。同日、例の山伏が東から戻り観音寺城に出仕して屋形へ申し上げるには、今月十日に織田信長は長嶋表へ出陣し十日から十二日まで合戦をしたが信長の軍勢は大半が討死し、中でも信長の家来で旗頭を務める氏家常陸助卜全という者が討死して信長はかろうじて退却した、この合戦で信長の兵は二千六百余り討たれたとのことである。これをお聞きになって屋形は、元来信長の弓矢は冥加の強い弓矢であるためこのような敗戦を毎度繰り返しながらいつも無事に退却すると仰せになる。この時浅井備前守は屋形の御前に居合わせて、信長の弓矢は侫なる弓矢であり全く将たる者の好むべき弓矢ではないと申し上げる。屋形は、今の時代に国を多く取ろうと思えば真に信長の弓矢のように侫でなくては数国を重なることは困難であると仰せになる。浅井は、確かに信長の弓矢のようであれば国を重ねることはできるであろうが後世に多くの悪名を残すことになるであろう、それならばどれだけ国を取っても無益であると申し上げる。屋形は、侫者は国を重ねて民を貪り義者は時節を得て国を重ね民を救うのであると仰せになる。浅井はそれ以上申し上げることがないという。

十八日 吉田出雲守秀重を京都に遣わされる。この頃室町殿の逆意の噂があるためである。

二十四日 屋形が観音寺城の南に愛宕山を勧請される。本日遷宮等が行われる。屋形は参詣され自ら一書を認めて社殿に納められる。その文面は知らないので日記には載せない。

二十七日 越前の朝倉左衛門佐義景から使節として大陽寺玄蕃という者が来る。義景が申し越す内容は、織田信長が遠三尾濃の軍勢にて近日上洛するとの噂があるがこれが事実であれば連絡があり次第小谷表まで参陣するということである。屋形は大陽寺に返状にて、これは予の願うところである、もし信長が上洛の軍を起こしても追い散らすことはたやすいであろうと仰せになるという。

二十九日 光るものが勢田から竹生島へ飛ぶ。民衆は大いに不安がる。屋形はこれを御覧になって、光物は昔からあるもので心配する必要はないと仰せになる。

六月小

六日 屋形が浅井下野守祐政の小谷へお出でになり、二日間の遊びになる。七日に祐政は若兵にて二陣を作り木刀打の遊びを行って屋形を楽しませる。

七日 志賀で祇園会が行われる。この祭礼は昔は江州になかったが屋形の祖父氏綱公の御代に祈願することがあり、永正十一年に志賀郡西の山に勧請されてから行われるようになる。

十八日 伊豆国から北條氏政の使節が観音寺城に参り、屋形が対面される。屋形は京極長門守高吉に仰せ付けて使節が逗留の間非常に歓待される。遠国とはいえ北條家とは屋形は特に懇意にしておられるのでこのようにされるという。

二十六日 池田入道頼角死去。享年八十六歳。この入道は屋形三代に忠義を尽くし、特に承禎父子が逆心した時も数々の忠戦に励んだ人である。屋形は非常に悲しまれ、池田の庄に一宇を建立して頼角寺と名付けられる。

二十八日 午の刻に四方に黒雲が広がりその中から稲妻のように光ることが長く続く。未の刻には大雨が降り、雹も混じって降る。これは古今の珍事である。

七月大

九日 雲光寺にて屋形の祖父氏綱公の追善が行われる。

十三日 鳥本城が焼失する。町屋四十六棟も同様に焼け失せる。

十八日 出雲国から亀井刑部少輔永綱という者が江州に参り屋形に拝謁する。この人は古い当家の一族であり雲州の大祖五郎義清の末孫で湯三郎惟宗の嫡男である。屋形は大いに喜ばれる。

二十二日 屋形は進藤山城守、馬渕甲斐守等に一万五千騎を添えて江州と美濃の境である黒知川のさかい山に遣わし織田信長が番手として置いた不破河内守を攻められる。

二十四日 進藤山城守が観音寺城に注進するには、昨日二十三日に合戦を行い味方は大勝利を得た、不破河内守はさかい山の城を明け渡して岐阜へ退却したとのことである。この合戦で味方が討ち取った首の数は七百四十三である。さらに不破の家来で采配を預けられた前野大学という者を生捕りにして江州に連れ帰る。この合戦は屋形が信長と手切をされるための合戦であるという。去年志賀表にて合戦をした際、信長は苦戦をし様々な手段で和を請うので屋形は和睦に応じられたが、信長に下心があるのは事実であるとお聞きになりこのようにされる。これより再び屋形と信長が弓矢を交えるようになる。

二十五日 この度の黒知川合戦に功を立てた面々に感状等を与えられる。

八月小

一日 信長から使節が来る。その内容は、先年和睦の折互いに水魚の思いを成し天下の邪路を正そうと申し合わせたにもかかわらず先月黒知川の番手を攻め退けたことは決して承知できないということである。屋形は山岡美作守に命じて即座にこの使節を斬り捨てられる。屋形は、信長の奸侫は今に始まったことではない、信長の申し越す通りであるならばどうして国境に番手を置く必要があるのか、下心があるからである、当国は旧冬から濃州に対して一人の番手も置いていない、これは奸侫を第一とする信長の計略であると仰せになる。

二日 京極長門守高吉、浅井下野守祐政、同備前守、進藤山城守、平井加賀守等が観音寺城に出仕して申し上げるには、信長は近日攻め上ってくるであろう、ならばまず街道筋の城々へ軍勢を入れられるべきであるとのことである。これに屋形は承知されず再び仰せになるには、信長が出陣する時に各々も出陣して合戦するのがよい、元来信長は戦で敵が手強く見えればいくらかの表裏を使って退き下がる男であるのでこちらから油断しているように見せれば必ず出陣するであろうとのことである。そこで街道筋の城々へは一人の加勢も遣わされない。屋形は浅井備前守にのみ、信長が当国へ出陣すれば汝に阿閉淡路守を差し添えるので先陣を仕れと仰せになる。そして屋形は何の考えもなく月日を送られる。

八日 柏原城主澤田民部少輔が、信長が近日出陣するとのことであるので屋形は御油断なされぬようにと注進する。

十二日 大雨が降る。酉の刻に地震がある。

十三日 山門大慈院の法印尊運が死去する。享年七十三歳。屋形は大野木土佐守、和田中書等を山門へ遣わして葬儀を行われる。この寺は屋形から七代前の満高公の菩提所である。このため屋形はこの寺を代々尊敬されるのである。

十五日 卯の刻に山上藤九郎が天狗にさらわれて行方がわからないという話が屋形の耳に入る。管領は、天狗が人をさらうということは昔から言い伝えられているがすべて嘘である、単に野狐の仕業である、みだりに調べもしないで噂をしないようにと近習を戒められるという。

十六日 浅井が観音寺城へ注進するには、織田信長が本日国を発ち当国へ向かうとのことである。

十七日 信長がさかい川まで出陣したと街道筋の面々が注進する。屋形は近習のみを引き具して醒井城までお出でになり、そこから横山城へ移られ浅井父子、阿閉等を召し寄せて、信長は本日必ずこの表まで攻め寄せるであろう、そうなれば例の如く敵をゆるゆると国内へ引き入れ二方向から備を設けて合戦せよと仰せ付けられる。浅井、阿閉は仰せの通りに軍勢を備えるが、信長は今日はさかい川に逗留して攻め入らない。浅井祐政は、いかにも信長は物見を出して屋形がここまで出陣されたことを窺い知って軍勢を控えたと思われる、ならば御本陣を鳥本に移されれば信長は早速攻め寄せるであろうと申し上げる。屋形は、確かに祐政の申す通りであると仰せになり十八日に本陣を鳥本へ移される。案の定信長の物見は、江州の本陣は居城観音寺へ退き後には旗頭のみ少しばかりが居残っていると報告し、十九日には信長が横山表へ出陣する。浅井父子は一直線に攻め懸かり、かねてから決めておいたように阿閉が三千五百騎にて横鑓に突き懸かって戦う。信長の五万騎は先陣、後陣が一つになって戦うが、屋形が鳥本から出陣し金の采配を振り上げて平攻めに攻めよと左右の備えを攻め懸けさせられたところ信長の軍勢は攻め立てられ、辰の刻から未の刻までの合戦で二千四百五十余人が討ち取られる。浅井備前守の手勢一万五千騎が一直線に追討ちをかけるのに信長は苦戦し繰引にて退却するが、信長の旗を浅井の家人伊藤木工丞が奪い取り浅井の本陣に立てる。信長勢はこれを見て味方に逆心する者が出たのでは叶わないと思い込み一人も敵と戦わず退却する。信長は十死一生の合戦をしてさかい川まで軍を退き、屋形は本陣を鳥本へ移される。浅井が勝に乗じて深追いするのを屋形は目加多摂津守を遣わして制止される。これにより浅井が柏原から引き返す。

十九日 京都から上使として上野中務大夫清信が来る。清信は本日鳥本に着いて屋形に対面し上意の旨を述べる。室町殿の上意の旨は、去年志賀表合戦の時数度信長と義秀の和睦を斡旋したが一向に同意しないので勅使を立てるに及びようやく承諾した、このため将軍はあってないようなものだと京童も申しているという、また今このように義秀と信長が弓矢を交えることは天皇に背くことにもなり全く良将のするべきことではない、早く和睦するようにということである。屋形は全く承知されず上使は空しく帰洛する。

二十一日 信長はこの度の合戦で追討ちに討たれたのを口惜しく思ったのか遠三尾濃四ヶ国の軍勢を集めて本日柏原表へ出陣するとの噂を聞く。そこで屋形は七手組の面々、目加多、馬渕、伊庭、三井、三上、落合、池田等に三万五千騎を添えて柏原へ遣わされる。しかし室町殿の上使が信長の陣所に到着して上意の旨を伝えたところ信長は侫将であるので上意ならばと今須から軍勢を引き揚げる。七手組の面々は敵の顔も見ずに帰ることを口惜しく思い今須表まで追いかけるが、信長が使節を遣わして七手組へ申し越すには、上使が度々遣わされたため信長は陣を引き払うものであるとのことであり、信長は岐阜へ軍を引き揚げる。目加多が他の六人に向かって、剛強な敵が引き返してきて戦うことこそ吾等七手組の望む所である、このように弱将が使節を遣わして合戦を断るようであれば戦っても意味がない、各々はどのように思われるかと申せば、皆、尤もであると賛同して今須から当国の七手組が帰陣する。

二十二日 小川城主小川孫一郎が信長へ内通したと屋形がお聞きになり、本日開城させて小川を高谷寺へ追い篭められる。同日酉の刻、新村城主新村河内守氏国が信長に頼まれて信長が再度出陣の折には裏切りをするということが事実であると定まり、浅井左近、乾武蔵守、建部伝吉の三人に仰せ付けて誅罰される。新村河内守は二千五百騎を出して戦うが、浅井、乾、建部は粉骨砕身して戦いついに新村河内守、息子源太郎を討ち取る。家人八百七十二人の首が観音寺城へ進上され、新村父子の首は柏原にて獄門に懸けられる。新村の領地を三つに割って浅井左近、乾武蔵守、建部伝吉の三人に与えられる。

二十三日 この度の信長追討ちの合戦にて浅井備前守長政の家人伊藤木工丞は信長の南無妙法蓮華経の大旗を奪い取った功により屋形に召し出され直参衆に加えられる。さらに、汝が奪い取った旗であれば伊藤家の旗にせよとその旗を与えられる。これより伊藤家の旗は信長と同じ旗である。天晴、時の名誉であると人は皆感じ入る。

二十八日 室町殿が江州観音寺城にお出でになる。屋形は非常に喜ばれる。公儀が仰せになるには、義秀と信長は縁者であると聞くしなにとぞ和睦してもらいたい、両将の軍功により吾は将軍の官位に上ることができた、天下の政務を執るにも偏に義秀、信長両将の力が必要であるとのことである。公儀が強いて仰せになるので屋形も仕方なく承諾される。室町殿は大いに喜ばれ細川兵部大輔藤孝を濃州岐阜へ遣わして仰せになるが、信長は元来大侫の者であるので、公儀の下向は畏れ多いのですぐに上洛仕ると申して藤孝を帰す。

二十六日 信長が濃州から江州醒井まで来て使節二人を遣わして屋形へ申し越すには、公儀が既に下向され管領と信長の和睦を仰せ付けられた上はと思いここまで来た次第である、御返事があり次第参上するとのことである。屋形はすぐに対面すると返事をされる。未の刻に信長は諸軍を愛知川の宿に留めわずか五十二、三騎にて観音寺城に入り上使の礼を室町殿へ申し上げる。屋形が対面され公儀の喜びはひととおりでなく盃を回して万歳を唱えられる。夜、戌の刻に信長は屋形の奥に入り奥方に対面する。信長が涙を流して奥方に申すには、弓矢を取る身ほどつらいものはないとのことである。奥方も同様に涙にむせばれる。真に親子の間柄では尤もであると女房衆も涙を流す。信長は奥方に向かって、義秀は元来気の早い人であるのでたいした遺恨もなかったが数度断絶し合戦に及ぶことになった、さぞかしそなたもつらい事と思ったであろう、これも武士の家の宿命であれば昨日は紅波楯を流し野山に屍をさらすことを厭わず今日は味方となってそなたなどに逢うことができるとは全く思いもよらないことであるが、まずはめでたいことであると申して盃を回す。

二十九日 室町殿が上洛される。屋形も信長も互いに起請文を交わし、以後水魚の如くあると誓われる。室町殿はこれを取って上洛される。

九月大

一日 織田家が美濃国へ引き上げる。屋形は観音寺城下まで送られる。両将は互いに仲睦まじい様子で、今こそ真に婿舅の関係に見える。

四日 堅田の願主である慈敬寺は元来本願寺の末寺として屋形から数ヶ所を与えられ、特に堅田城を預けられているので出家でありながらも偏に旗頭も同然である。江州の一向宗門の頭であるが本日山門が理由もなく慈敬寺を殺したと観音寺城へ注進がある。その内容を尋ねたところ、山門横川の衆徒十二人が先月中旬に山を出て妻帯し堅田に住んで慈敬寺の門徒になった。この事を山門三院の僧侶等が評定をして申すには、慈敬寺は当屋形が懇意にされている僧であれば僧形でありながら甲冑を帯び数々の合戦で忠節を尽くし好きなように法を犯しあまつさえ山門の衆徒を語らって妻帯させたことは大いに山を滅亡させるものである、さらにこのままでは若い衆徒等はこれから先もこの慈敬寺の門弟となる者が多いであろう、そうなれば山門は十年を経ずに滅亡するに違いない、我等の邪魔にならないうちに誅罰しようとのことである。そこで山門で一番智恵の深い人である慈恩院法印が進み出て僧侶等に申すには、堅田へ押し寄せて慈敬寺を攻めたとしてもうまくいくかどうかあやふやな合戦である、ただ騙し討ちにするに如くはないとのことである。衆徒は皆尤もであると賛同し、それならば一向宗門が内々に山門へ欲しがっている止観を一向宗へ授けようと申し遣れば慈敬寺は末代までの宗門の手本が得られると思いやってくるであろう、その時中堂の庭で悪僧等に嘘の喧嘩をさせて慈敬寺を誅殺し一人の衆徒を下山させて屋形へ喧嘩であると訴え出れば万事うまくいくであろうと評議で決定する。そこで今月三日の酉の刻に堅田の慈敬寺を呼び寄せて難無く討ち取ったということである。以上の内容は山門から寝返った衆徒の一人が観音寺城へ来て申し上げる。屋形はこれをお聞きになって心中穏やかでなく、旗頭等を集めて山門を攻めるための評定を行われる。京極長門守高吉は、確かに山門の悪逆はこれ以上ないものであるが王城鎮護、玉躰安全を祈る山であれば医王山王の畏れもあり攻めるのはいかがなものかと申し上げる。屋形は尚も怒りが収まらないが、しばらく怒気を押し篭めておられる。

八日 美濃国織田家から近日上洛するとの使節が来る。屋形は使節に対面して、信長の上洛は確かに望ましいものである、特に河内表への将軍御出陣について評議があるので一日も早く上洛されよと仰せ付けて帰される。信長からの使節は菅屋九右衛門という者で信長の家来の中で弁舌に長けた男である。

十一日 織田信長が江州鳥本まで上洛したと申し越し案内を請う。屋形は早く当城へ入るよう返事をされる。酉の刻に信長が武佐に着陣し、それから観音寺城に入城する。屋形は信長と対面し河内表の計略について数刻評議をされ、後にこの度の山門の暴挙を話される。信長は、当国にて管領から知行を賜る者を長袖の身分でありながら騙し討ちにするとは以ての外の悪業である、山門の滅亡は今この時である、これは管領が滅ぼすのではなく天が行う業である、このような事は時を移せば大体落ち着いてしまうものである、さらに山門は王城守護の地であれば勅意があってからでは容易に滅ぼすことはできない、幸いにも某が上洛してきているので明日払暁より登城を発ち勢多を通って大津から志賀表へ攻め上ろう、義秀は津田の入江から船で堅田に上陸し横川口より攻められよ、七組衆を篠ヶ峯から大原を通り八瀬藪里下松から攻めさせ信長の先手の者共は雲母坂へ回して攻めたならば山門の衆徒を一人残らず誅罰することは手の内にあるだろうと申す。屋形はただでさえ、二度はできない、このようにこそ計らうべきであると思っていたことを信長に見透かされたように申されたため、信長の申し出は尤もであるとして山門を攻めることに決まりそれぞれの軍勢の配置を仰せ付けられる。信長の老臣共や屋形の重臣等は評議を行い御両所へ色々と諫言するが全く承諾されない。特に信長は去年志賀合戦の時山門の悪僧等に度々夜討ちを仕掛けられた恨みがあるので、今屋形が山門を退治しようかと評議されるにつき屋形の思いを口実にして退治を勧める。屋形はさらに怒りを強くして、慈敬寺の長年に亘る忠義へ今この時に報いようと思いなかなか誰の諫言もお聞きにならない。近頃では珍しいことがあると国人は話し合う。

十二日 寅の刻に信長が勢多へ向かう。同時に屋形は船にて堅田へ向かわれる。辰の刻に南からの信長の先手が志賀山無道寺口から攻め懸かり、屋形は仰木下野口から攻め懸けられ山野に火を放たれる。横川口から火の手が上がるのを見て信長の軍勢からも火が放たれる。八瀬藪里の面々が未だ到着しないうちに早くも横川を焼き亡ぼす。八方から火の手が上がるのを見て山門の衆徒は防ぎようもなく西塔へ逃げ退く。そこへ八瀬口から七手組が火を放ち攻め上ってきたため若い悪僧等はあちこち駆け回って石などを落として防戦し、老僧等は中堂、釈迦堂、その他伝教大師の廟所等に入って自ら火を放ち死ぬという。山王の社に入った老僧だけでも七百人を超える。これほどまで大山である比叡山を本日辰の刻から未の刻までに堂社、坊中に至るまで一宇も残さず焼き亡ぼす。射殺され突き殺された僧は数万に及ぶ。この合戦では首を一つも取ることなく焼討ちにする。これは昨日信長と屋形が約束されたためであるという。山門を焼討ちすることは屋形は考えついておられたが仏神への礼を思って引き延ばしておられたところ、思いがけず信長が上洛して屋形へ邪意を吹き込んだためこの焼討ちが起こった。そこで人々は皆信長の悪行であると話す。

十三日 信長、屋形両将が上洛して将軍へ山門退治の事を申し上げる。室町殿は大いに喜ばれる。これは将軍も内心で山を憎んでおられたためである。

十四日 天龍寺の策彦和尚が室町殿へ出仕する。公儀がこの度思いがけず山門が滅亡したことを仰せになったところ策彦和尚が即座に詩を作る。

法衰比叡大中堂    嘆息三災焦上蒼

陽温廿四郡湖水    灰冷三千刹道場

天子願輪懸日月    山王権現歴星霜

白鬚曽斯有神在    七看東海変為桑

将軍は大いに喜んで策彦へ引出物を与えられる。尚もすばらしく思われて天龍寺の領地を倍にして与えられる。同日、室町殿は義秀、信長両将を召し寄せて策彦の即興詩をお見せになる。両将はこれを写し取って楽しまれる。

十六日 両将が河内国退治について申し上げる。室町殿は、合戦が続けば人馬も疲れるであろう、まず今年は本国に帰って休息し来春上洛せよと仰せになり、両将が暇を賜る。

十七日 両将が京を発ち江東へ帰座される。信長は観音寺城に入り十九日に岐阜へ帰る。

二十五日 この度の山門焼討ちにて特に働きのあった面々に屋形が感状等を与えられる。恩賞に与る者は数多いので日記には載せない。

二十八日 卯の刻から酉の刻にかけて大風、大雨がある。近年に例のない激しさで、雷の鳴る音が地面を震わすほどである。

十月小

三日 屋形の御曹司誕生祈願のため佐々木神社にて臨時の祭礼が行われる。屋形が自ら願文を認めて神社に納められる。旗頭等が残らず参詣して御誕生を祈る。

十四日 大雨が降る。近年箕作承禎公に奉公し付き従っていた安彦日向守という者が進藤山城守、目加多摂津守を介して屋形に奉公仕りたいと申し上げる。屋形は承知して礼を受けられる。この安彦は当屋形の父義実公が取り立てた者で度々軍功を立てたため田中城を与えられた。それだけでなく諱字を賜り実綱と名乗る。これにより当屋形は先代の眼力を尊ぶため先年承禎に与して屋形に弓を引いたといえどもこのようにされたのであろうか。

二十二日 当国でのみ風病が流行し多くの死者が出る。このため屋形は旗頭等に命じて国中の寺社にて般若経を読誦するよう仰せ付けられる。屋形は常に神道ばかりを信仰され仏法にはそれほどでもなかったが、近年何を思われたのか殊の外仏道を信仰される。

二十五日 大雪が降る。その量は夥しいものである。

二十九日 田上右馬助入道死去。前屋形義実公が取り立てた者である。

十一月大

十三日 越国の長尾から使節として宇佐美駿河守という者が来る。長尾から屋形へ国の宝物が贈られる。長尾が来年上洛するとのことであり屋形は使節に対面して、上洛については京都からの下知次第で決めるのが尤もであると仰せになる。使節は和田十兵衛尉の屋敷にてもてなされる。この宇佐美は長尾家にて四天王といわれる重臣であるという。礼儀正しく弁舌の巧みな者である。

二十一日 東光寺が落雷にて炎上する。この寺は先代義実公の菩提所である。

二十九日 乾甲斐守を尾州へ遣わされる。屋形の密意を伝えるがその内容はわからない。

十二月小

三日 東光寺へ参詣される。浅井左近に諱字を与え秀政と名乗らせられる。三井寺観音院の別当が登城して申し上げるには、三井寺の智證大師の御廟から光が立ったとのことである。屋形は建部兵衛太郎に見て参るよう仰せ付けられる。

四日 昨日三井寺に遣わされた建部が観音寺城へ戻り申し上げるには、僧が申した通りであるとのことである。世にも珍しいことであるという。

十五日 和田入道覚雲死去。享年八十四歳。屋形三代に奉公し、氏綱公の御代には津田城を預かり野良田合戦で先陣を務めた者である。当屋形の代になってからは諸事軍役を免じられ御伽衆に加えられる。屋形は非常に悲しまれる。

二十日 本日から国内、国外の旗下の城主等が年末の礼に参上する。詳細は記すに及ばない。

二十八日 大雪が降り三尺以上積もる。山上寺が焼失したと報告がある。


元亀三年(壬申)

一月大閏一月小両月一致

一日 大雪が二日まで降る。近習のみが年始の礼を行う。観音寺城の各道路で雪崩により通行困難になり人夫等を使って盛んに除雪が行われる。

閏一月小

三日 天気は快晴。大風が吹く。これは東風である。本日旗頭等の諸礼が行われ、屋形は例年と異なり今年からは太刀一振りではなく矢二筋を献上して礼を行うよう仰せ付けられる。民衆が申すには、これはよくないことである、屋形は戦争を好まれるとのことである。平井加賀守は、武士の家で矢を扱うことは常のことであり今更になって民が申す凶事とはいったいどのようなものであろうかと申し一笑する。

十一日 例年通り御旗の祝儀が行われる。旗頭等が残らず観音寺城に出仕し、儀式等は例年通り執り行われる。

十三日 安彦日向守実綱に本領の田中城を与えられる。それだけでなく白地に四目結をつけた扇子をも与えられる。この扇子は京極長門守高吉が献上したものであるが、これより安彦の家紋となる。どういうわけでこのような物を安彦に与えられたのかといえば、この者は先年の志賀合戦の時その身は承禎に付き従いながらも度々進藤の陣所まで敵の計略を知らせたことがあったためであろうか。屋形の真意はわからない。

十五日 屋形が江東の八幡宮へ参詣される。今月当番の旗頭等が残らず供奉する。

十六日 屋形が佐々木神社に参詣される。供奉等は昨日と同じである。

十八日 観音寺城の鎮守千手観音の仏前にて屋形が自ら国家安全の修法を行われる。本尊は聖徳太子の作であり三尺の仏像である。

二十一日 屋形が上洛される。供奉の面々は近習ばかりであり、旗頭では京極長門守、朽木信濃守元綱、高嶋越中守高泰の三人だけである。

二十八日 白鬚神社から光るものが出て箕浦へ飛ぶ。

二月大

八日 山王権現の中の八王子権現の御神体が早尾の松の梢に飛び上がったと四至内采女正が未の刻に観音寺城へ注進する。屋形は和爾丹後守貞兼、堀藤吉を現地へ遣わされる。屋形が両人に仰せ付けられるには、先年山門が一宇も残らず焼滅した際山王の社殿も余波を蒙り二十一社とその他末社に至るまで残らず焼失した、それならば何を本尊としているのか、神は実体を持たないものであればこれはすべて地下人が事にかこつけてしたことであろう、もしもそのようなことであれば完全に糾明して悪僧等を誅罰せよとのことである。

九日 検使両人が坂本に到着してこの事を調べたところ、ある討ち漏らされた山法師が坂本の地下法師を語らって八王子の神体として仏像を作り早尾の松の梢に乗せて神託を告げさせているとのことである。両検使がその託宣を聞いてみると、義秀、信長が山門を滅ぼした罪はやがて己の身に返ってくるであろう、その罪を悔い正義を思うならばすぐに山門を元のように建立し山王大師を修復せよとのことである。両人はこれをじっくりと聞き、偽物でもこれほど大きな神体はないと思ってよく見ていると何かあったのかこの仏が不意に梢から落ちた。大きなものが松の枝から下へ強く叩きつけられたため箔で覆われた仏はたちまち砕け散り、中から小僧が一人おめおめと出てきた。両人はやはりと思いこの小僧に問い質したところ小僧がこれこれしかじかと話す。小僧の言う通りに上坂本の民家にて山僧十三人を召捕り屋形の下知の通り残らず誅罰して観音寺城へ帰る。前代未聞の変な出来事である。この頃何者の仕業かわからないが上坂本の辻に一首の狂歌が立てられる。

比叡僧がにあはぬ神のまねをして山王こそはあらはれにけり

二十四日 比良山の峰に先屋形が勧請された愛宕大権現の宮が破損したと社僧大光坊覚円法印が観音寺城へ申し上げる。すぐに朽木、平井等に修築を仰せ付けられる。

二十七日 田中坊貞林斎死去。この入道は浅井郡の地下人であったが十三歳の時に天狗にさらわれ四十三歳の春に故郷に帰る。様々な術を使い耳目を驚かすことがあり当屋形が若年の頃寵愛される。当時は御伽衆であった。

三月小

三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形は病気のため参詣されず進藤山城守を代参として遣わされる。その他の旗頭等は参詣する。京極と平井の間で口論がある。

十三日 京都から上使として長岡駿河守昭頼という者が来る。この者は少年の頃当将軍に寵愛された者である。上意の内容は、細川六郎、岩成主税助両人が降人となり室町殿へ忠誠を尽くしたいと申しているがどうするべきであるかということである。屋形は上意をお聞きになって、まず人質を取ってその後礼を受けられるのがよい、人質は親を取ってはいけない、必ず細川、岩成の女子でも男子でもよいので子供を取らねばならない、ある時は敵に走りまたある時は味方に降るような者にどうして仁義があるだろうか、仁義なき者は両親にすら孝心がない、しかし子供は畜生でも大切に思うものである、それゆえに人質には必ず子供を取られよと仰せになる。このように人質を取るに当たっての口伝を上使長岡駿河守へ伝えられるという。

十八日 大坂本願寺門跡顕如上人から使節として小進法橋という僧が江州へ来る。顕如上人の意向は室町殿へ忠義を尽くされるべきとのことである。屋形は小進を人気のない場所へ召し寄せて密意を語られる。その内容はわからない。

二十五日 白井遠江守を大阪へ遣わされる。屋形自筆の書状が送られるが文面はわからない。

二十九日 相坂の番手である山内十兵衛尉が急死したと報告がある。

四月大

十日 室町殿が江州石山寺へ参詣される。屋形は山岡美作守、野村志摩守等を饗応のために遣わされる。

十六日 坂本彼岸所の建立を和田中書に仰せ付けられる。この寺の住僧は進藤山城守の弟であり妙伝という。先月書状にて訴え申したため今このように建立の儀を仰せ付けられる。

二十八日 大風が吹き各地の城が破損する。京中は特に風が強く、今出川の町屋から西へ吹き飛ばされた民家は三百五十軒に及ぶという。

五月小

一日 天皇から勢州へ勅使が遣わされ本日守山に宿泊される。屋形は山田主水正、平川美作守等に仰せ付けて江州内で人馬等をもてなされる。

五日 卯の刻から激しく雨が降り午の刻に晴れる。このため佐々木神社の祭礼は未の刻に神輿が出御する。屋形は病気のため参詣されず、旗頭等は例年通り参詣する。屋形の代参として浅井備前守長政が装束を帯びて神社に向かう。

六日 濃州岐阜から信長の使節として不破河内守が江州に参り観音寺城へ登城する。屋形は病気のため対面されない。信長が近日上洛するとのことである。

七日 京都から上使上野中務大夫清信が江州に下向し観音寺城へ登城する。屋形は病気のため対面されず名代として京極長門守高吉が上使に対面し上意を承る。上意の内容は、義秀、信長は急ぎ上洛されよ、河内国若江城に立て篭もる三好左京大夫義次、大和国信貴城に立て篭もる松永弾正少弼通秀等が近日諸軍勢を率いて上洛するという、両将は早く上洛して両国の敵を退治されよとのことである。京極が承って屋形に申し上げる。屋形は、我が病気は重症であるので旗頭等を上洛させようと仰せになる。この後上使は濃州へ下向する。

九日 織田信長が鳥本から使節を遣わして、室町殿の上意によりここまで上洛したと観音寺城へ申し越す。屋形はまずは当城へ寄られるよう仰せになる。夜になって信長が観音寺城へ移る。屋形は対面して合戦の評議をされるという。

十日 信長は未だ観音寺城に逗留している。屋形は旗頭等を観音寺城へ召し集め、病気のため名代に進藤山城守を大将として上洛させられる。旗頭の面々は蒲生右兵衛大夫、山崎源太左衛門、新庄伊賀守、和田和泉、和爾丹後、建部右近、小川土佐守、吉田主膳正、堀伊豆守、朽木信濃守、山岡美作守、安彦日向守、久徳左近兵衛、三上伊予守、楢崎太郎左衛門、今村掃部介等である。総勢二万八千七十余である。

十一日 江州の旗頭等二万八千七十騎が卯の刻に出立して上洛する。進藤山城守には屋形自ら代々相伝の軍配団扇を渡される。これは名代の証である。堀伊豆守は代々当家の旗を預かる家であるということで本日初めて四目結の紋を与えられる。

十二日 信長軍三万六千騎が辰の刻に武佐を発ち上洛する。同日、信長が京都に着き妙覚寺に着陣し、江州の軍勢は東福寺に着陣したと観音寺城へ注進がある。

十三日 将軍室町殿の上意により江州勢が先陣、織田信長が二陣、三陣が将軍の五千七百騎にて出立する。江州の軍勢は大和国信貴城へ向かい、信長は河内国若江城へ向かう。

十四日 昨日の評議での決定が替わり本日はまず松永が味方を立て篭もらせた高屋城を攻め落とすことに決まる。先陣である江州軍の大将進藤山城守は左手へ攻め懸かり、右手へは信長勢が攻め懸かる。室町殿は中村に本陣を置かれる。本日の合戦は午の刻に始まり未の刻に終わる。

十五日 高屋城の両大将細川六郎四郎、奥田三河守が使節を遣わして申し入れるには、一命を助けてもらえるならば城を明け渡すとのことである。これにより午の刻に決着がつき細川六郎四郎、奥田三河守両人が剃髪染衣の姿になって開城する。室町殿は細川、奥田に対して、助命された上は高野山に入るよう仰せ付けられる。両人は謹んで命を承る旨申し上げる。これより細川、奥田の兵は皆室町殿の軍勢に入る。

十六日 信長が若江城へ攻め懸ける。午の刻から酉の刻までの合戦で城兵七百八十騎を討ち取るという。同日、江州の名代進藤山城守、その他旗頭等が大和国へ向かったところ松永弾正通秀が人質を出して降参してきたので大和まで行かずに済む。松永弾正の出した人質は嫡男右衛門佐の嫡子で当年七歳になる万千世丸という童子である。すぐに室町殿の本陣に差し置かれる。

十七日 卯の刻に三好左京大夫義次が同右馬頭政次を遣わして、松永が貴軍に降った上は三好も味方に参上しよう、先年永禄年間に忠義を尽くしたことを思い末永く三好の正統並に四国の管領を仰せ付けてもらえればありがたいと申し越し、三男三好忠五郎に家老等の子三人を添え人質として差し出す。これにより諸方も幾許もなく無事に治まり将軍も信長も江州の名代山城守も上洛する。

十九日 信長が都を発ち濃州へ下向する。二十一日まで江州観音寺城に逗留する。江州の名代山城守、その他旗頭の面々が京を発ち江州へ帰る。

二十一日 信長が観音寺城を発ち岐阜へ帰る。

二十八日 屋形が病気のため京都から上使細川兵部大夫藤孝が下向する。屋形は上使に対面される。病状は非常に重く国中の旗頭等が観音寺城に集まる。

六月大

三日 越国の朝倉左衛門督義景から使節が来る。これは屋形が病気のためである。越国からの使節朝倉采女正という者が観音寺城から越前へ帰る際佐保山の船場にて江州の旗頭蒲生右兵衛と口論になり、蒲生の郎等町主馬助という者が越州使節采女正を即座に討つ。この事が観音寺城へ注進されると屋形は大いに怒り蒲生の出仕を止められる。蒲生の家人町主馬には切腹を仰せ付けられる。

四日 昨日の事件により越州へ戸田十内左衛門を遣わされる。

八日 越州への使節戸田十内左衛門が帰る。朝倉から書状がある。この度使節が口論、喧嘩になり討たれた事につき屋形が蒲生を押し篭め討った相手を誅罰された事は生前の面目であるとのことである。

十五日 信長から使節が来る。これは屋形が病気のためである。

二十一日 信長の嫡男が元服し城介になったことについて屋形の奥方が濃州岐阜へ使節を遣わされる。この使節には江州の者を遣わすべきであるのに奥方は昔尾州から召し具された岡部又兵衛入道覚雲を遣わされる。奥方の本心は疑わしいといわれる。

二十九日 今月一日から今日まで雨が一滴も降らず田畑に大きな損害を被る。疫病が流行し江州内で病死する者は八百余人に及ぶ。

七月大

四日 堂上人と北面衆の間で内々に争論がある。室町殿が双方を召し出してお聞きになったところ堂上人の方に理が認められたため北面衆六人を流罪にされる。この六人は後に尾州に下り細井という者を通じて織田右馬介に奉公するという。

九日 屋形は病気が少し快方に向かったので雲光寺へ参詣される。当直の旗頭等少数が供奉する。この寺は屋形の祖父氏綱公の菩提所である。

十四日 本日から十六日まで江州の浦々にて殺生を禁ずる旨を旗頭の面々に仰せ付けられる。これは屋形の母公への追善のためであるという。

十五日 今日、四十五日ぶりに雨が降る。卯の刻から降り始め午の刻に大洪水が起こる。枯れかけた草木が一瞬にして生色を取り戻す。

二十二日 箕作承禎の次男賢永は近年舎兄の不忠のため父承禎と共に当国を去り、泉州に居住して三好に同心したり或いは伊勢に居住して浪人をしていたが、本日江東に来て進藤山城守、平井加賀守等を頼り屋形へ書状にて訴える。その内容はこうである。

恐れながら我が寸志の旨を申し上げる。父承禎は幼少の時当家の正統雲光寺殿の養子となり先代義実公の舎弟となった。このため義実公逝去の時当屋形が御幼少であるにつき愚親承禎が管領職を預かり当家の後見となって月日を送るうち、後藤、浅井の悪臣が様々な讒言をする。しかしながら父承禎は非義もなく果たして善政を敷く。そこへ去る永禄年間に箕作城にて後藤父子が不慮の喧嘩で当座に討たれ、その相手建部、種村はすぐに当国を去り勢州に居住する。浅井備前守は邪心を差し挟んでこの事を申し上げ、舎兄右衛門督義弼が当家の正統に逆心して亡ぼそうとしていると度々訴える。父承禎は数通の起請文を奉って奸計など身に覚えがないことを屋形に申し上げすぐに御赦免を蒙る。しかし讒者浅井長政は度々舎兄が邪計を企てていると訴え、ついに当城を去り各地に居住することになった。屋形はこの事を糾明し某賢永に当国において一城を預けられよ。千万の重臣を抱えるよりもはるかに道理に適っているはずである。よろしく披露して頂きたい。仍って件の如し

    元亀三年七月二十二日                           大原二郎源賢永

                 進藤山城守殿 御披露

進藤山城守、平井加賀守等が当屋形義秀公へこの一巻を御覧に入れたところ、屋形は大いにお怒りになり、承禎父子三人が当国を去ってからは三好一族と手を結び各地にて当家を滅ぼすための謀略をめぐらしていたことは内々に耳にしており、このように理に見える非計で吾を欺こうとする者の書状を何の考えもなく取次ぐとは非常に浅はかであると仰せになる。大いに立腹し更に仰せになるには、賢永は元来無学の者である、なるほどこの一書の有様を見れば江雲寺の覚伝和尚の筆跡である、この僧は元より愚僧と思っていたがこのようなものまで作るとはけしからんことであるとのことである。そこで覚伝和尚へ寺を明け渡して立ち退くよう朝日伝九郎秀直を遣わされる。

二十三日 進藤山城守に命じて賢永にすぐに国を去るよう仰せ付けられる。退去を延ばし遅らせれば成敗するとのことであるという。元来屋形は仁義の勇将であり少しでも非義があればその処置を先延ばしにされることはない。このため国人は少しでも非義があれば沙汰が下される前に身を退く。

八月小

三日 浅井備前守長政は若年の頃から数々の軍功を立てているので屋形が江州総旗頭職を与えられる。それだけでなく御紋等まで与えられる。進藤、平井、馬渕、目加田、伊庭等の老臣は浅井に総旗頭を与えることについて諫言するが屋形は承知されないという。この頃の小歌に、猿もこのごろ人に似てをやかたさまのだいをする、というものが童子共の口にのぼる。よくないことであると古老はささやくばかりである。

十日 酉の刻から大風が吹き当国大津の町屋が一軒残らず焼失する。国人は日吉の祟りであると言い合う。

十一日 この度の大津の火災を屋形は憐れに思われて和田中書秀純、和爾丹後守秀貞等に仰せ付け高嶋朽木谷、その他各地の山々から材木等を大津の町人等に与えられる。家一軒の主に大小の材木五十本ずつを与えられる。

二十一日 越国の朝倉左衛門督義景の家人が喧嘩をして国を退去する。このため本日義景から使節として大野三左衛門という者が来る。喧嘩の次第は次のようなものである。義景の妻は越後の長尾謙信の娘であるが、この娘に謙信から村井同右衛門という者が付けられてきた。この同右衛門を少しの口論で五人が井戸の中へ蹴り落として逐電する。このため義景は怒って近国へ触れ渡しこの五人を捜す。すぐに江州屋形へも使節を遣わして五人の名を記した書付を送る。この五人とは前波九郎兵衛尉、同想吉、富田孫六郎、戸田與次郎、毛屋伊介である。この五人は江州へは来ず、後に伝え聞くところでは濃州へ向かい信長に付いて奉公するという。

二十八日 本願寺から使節が参り密状を献上する。屋形は使節に会われない。何についての密状かはわからない。

二十九日 大原賢永の家人の一人が進藤山城守の居城である木濱城に放火を企むが同志の者が裏切り進藤に告げ知らせる。これにより家人は召捕られ即日野洲川原にて火焙りにされる。悪人の主人大原賢永は大いに進藤を恨むことがありこのようにしたという。賢永は承禎の次男であり大原中務大輔高保の養子となって大原を名乗る。大原高保は当屋形の祖父雲光寺殿の三番目の舎弟であり大原氏の名跡を継ぐ。高頼公の三男である。

九月大

九日 観音寺城出仕について進藤山城守と浅井備前守の間で先後の争いがある。京極長門守高吉が仲裁に入り事無きを得る。これは時の権勢を争うものであるという。

十四日 駿河国今川家の浪人金屋出雲守が澤井采女を通して屋形に拝謁する。この金屋は元々は出雲から武者修行に出た者で今川家にて大身に取り上げられた者である。

十九日 百済寺の僧三人が先年信長へ内通していたという報告があり既に誅罰することに決まっていたが、屋形は、年月が経ってから過去の罪を咎めるのは盲将のすることであると仰せになり助命される。本日その沙汰があり三人の僧が国を引き払う。

十月小

十五日 屋形は病気のため進藤山城守、後藤喜三郎に兵八千五百を添えて若州へ遣わされる。若州の武田大膳大夫義統は二代に亘り江州の旗下にあったが最近屋形が病気であるので時勢を見て忽ち三好と手を組んだと申し上げる者があり、若州退治のため本日両藤を若州へ遣わされる。

十九日 両藤が若州から帰る。今月十六日に合戦を行い武田が大敗する。これにより以前のように旗下に付いて忠義を尽くすことに決まり、義統の嫡子国千世を江州へ人質に取って帰る。

二十四日 今年初めて雪が降る。進藤、後藤の両人に若州遠敷郡を与えられる。これはこの度の軍功に対する褒賞であるという。

十一月大

九日 志賀郡四位宮が焼失したため建立等を青地伊予守に仰せ付けられる。この社は大津焼失のときに同じく焼けたという。

二十日 大雪が降り雷が激しくなる。これは大いに天下の凶事であるという。百年以上雪中の雷ということはなかったという。

十二月大

十日 三好左京大夫義次から使節が参り和睦を申し入れる。屋形は特に申されることもなく伊達出羽守に命じて観音寺城下の大橋にて使節三好主計をあっさりと斬り捨てられる。

十八日 九州から松田左近右衛門という者が武者修業に参り永原筑前守を通じて屋形に拝謁し中泉庄百貫の地を与えられる。この松田左近は九州で度々の合戦に勇力を尽くし近年は尼子に仕えていた者である。中国では場数を踏んだ武辺者であるので鬼左近と呼ばれ、大力である。

二十日 屋形が長命寺へ楢崎太郎左衛門を名代として遣わされる。同じく東光寺へは進藤山城守が御名代として参詣する。屋形は毎年十二月に御先祖の廟所へ参詣されているが今年は病気のためこのようにされる。

二十一日 雲光寺の上人教澄が死去する。この上人は細川修理大夫晴元の舎弟である。享年六十九歳。酉の刻に東方に赤い気が立ち、北方に虎のような黒雲が現れる。


巻第十六・完