元亀四年(癸酉) 今年の冬改めて天正元年と号す

一月小

一日 本日から十五日まで観音寺城にて例年通り慣例行事が行われる。この間天気は晴れる。

十六日 江東八幡宮、佐々木神社等へ屋形が代参を遣わされる。これは病気のためである。未だ旗頭等の年始の礼は行われず、これも屋形が病気のためである。

十九日 承禎公の次男大原次郎賢永が勢州から甲州へ武田を頼って下向したと鯰江権兵衛尉が屋形へ申し上げる。また三好義次が大原賢永を甲州へ遣わしたとの噂もある。その詳細は知らないので日記には記さない。同日濃州岐阜から信長の使節が来て書状を献上する。旧冬遠州三方ヶ原にて武田信玄入道父子と信長が一戦を交え大勝利を得たとのことである。これとは別に注進状があり、それには旧冬十二月二十二日の合戦について書かれている。この合戦で信玄が負傷して落馬することがあり、討死したことを信長方へ隠しているのだという。遠国の事であれば噂の真偽もわからないので詳しいことは日記に記さない。

二十一日 屋形が病気のため御名代として平井加賀守が上洛する。同日、越後の長尾謙信から使節が来る。密状があるがその内容はわからないのでここには記さない。

二月小

四日 屋形が病気のため公方から上使が下向する。屋形は対面し、上使松原右馬頭と何やら密談されるが承知されないという。その内容を旗頭等は知らず日記に記すことはない。

二十三日 若州の武田大膳大夫義統が江東に来て観音寺城へ登城する。屋形は病気のため対面されず、武田義統は空しく退出し進藤山城守の居城木濱城に十日余り逗留する。

三月大

一日 屋形の舎弟である和田山の実頼が室町殿の上意により上洛する。目加多摂津守、山崎源太左衛門両人が屋形から差し添えられる。

三日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形の奥方から御祈祷のために金銀の御幣十四本が奉納される。

八日 屋形の舎弟和田山の実頼が京都から江東に帰り観音寺城へ出仕して、この度室町殿から右京大夫を仰せ付けられ、さらに諱字を賜り義頼になったことを屋形へ申し上げる。屋形は、室町殿には下心があるとのみ仰せになり他には何も話されない。

十九日 洪水が起こる。江州各地で河水が九合に達し多くの田畑が被害を受ける。野洲川から牛のようなものが這い上がり落合の堤防で鳴く声もまた牛の鳴き声のようである。そこへ黒雲が降りてきてこの牛のようなものを取り巻き虚空に上がる。他にもいろいろな噂がある。前代未聞の珍事である。

三十日 平井道覚入道死去。享年六十三歳。屋形の御伽衆である。この入道は儒学の道に達した人であり、平井伝という儒道を受納する。

四月小

一日 松永弾正少弼通秀、息子右衛門佐は室町殿へ、忠義を誓い三好の残党を誅伐しようと旧冬から度々申し上げるが室町殿は全く承諾されない。それでも今春も度々上野中務大夫清信を通じて申し上げるため室町殿は本日細井右近大夫を上使として江州へ遣わされる。屋形は病気のため上使に対面されず平井加賀守を通じて、信長と評議をなさるようにと仰せになる。これにより上使が岐阜へ向かう。

四日 上京で三十四町が焼失する。三好の残党共が火をかけたという噂が流れ京中が大いに騒ぐ。詳しく記すには及ばない。

五日 信長から使節として菅屋九右衛門が江州へ来る。信長からの書状がある。松永父子は何度も裏切る者であるが乱国の時代は来る者を拒まないものであり、何度も忠義を誓うと申し上げているならば御味方になさるべきであると室町殿へ返事をするので、そちらからも同様の旨を申し上げてもらいたいとのことである。屋形は、松永は叛服常無い者でありとても将来の見込みがない、そうと知りながら味方にされよとは申し難い、しかしながら近年病気に臥せており自ら出陣することも不自由な身であればどのようにでも諸将の評議に任せると仰せになる。

十日 京都から上使が来る。昨日松永の件がうまくいき室町殿が礼を受けられたという。

十三日 松永父子が京都での御礼を済ませ本日江州に参り、進藤、後藤の両藤を通じて屋形へ礼を行う。正宗の太刀を献上する。屋形は対面されない。この後松永父子は岐阜へ下向し、信長は慇懃にその礼を受けるという。

十九日 例の山伏大覚坊が東国から戻り屋形へ申し上げるには、甲州の武田入道信玄が今月十二日に病死したとのことであるという。

二十一日 室町殿が松永父子を後見として近国の浪人を集め信長、義秀両将を亡ぼす謀叛を企てていると報告がある。屋形は平井隼人佐を岐阜へ遣わして、信長が上洛されよ、吾は病気のため上洛は困難であると仰せになる。同日、志賀郡堅田の地下人、山中新左衛門等、松本の地下人等が室町殿に金で頼まれ同心したと観音寺城に訴える者がある。そこで屋形は伊達出羽守、澤田民部少輔、乾甲斐守三人に地下人等をすぐに誅伐するよう申し付けられる。

二十二日 昨日仰せ付けられた三人がまず堅田へ渡り地下人二百六十七人を一人一人斬り捨てる。大将馬場孫十郎は生きたまま堅田の浦に柴漬にする。その後山中へ向かうが新左衛門は早くもこれを知り京都へ逃げ去る。さらに松本へ向かい地下人四十三人を誅殺する。

二十三日 信長が上洛する。江州からは屋形が病気のため、進藤山城守、蒲生右兵衛大夫、息子忠三郎、平井加賀守、伊達出羽守、三井出羽守、朽木信濃守、多賀新左衛門、澤田民部少輔、山岡美作守、和田和泉守、同中書、礒野丹波守、新庄伊賀守、池田伊予守、同孫太郎、吉田伝九郎、間宮三之助、松下加助、尼子兵内左衛門、高嶋越中守、堀掃部、同伊豆守等を上洛させる。同日、屋形は京極長門守に近習を添えて酉の刻に再び上洛させる。屋形は病気のため上洛できず、この度の京都の騒動が非常に気がかりであるので再度京極を上洛させたのであろうということである。

二十四日 室町殿の御所へ二手に分かれて向かう。大門小路へは信長が十三備で攻め懸かる。西の御門口へは江州の軍勢が屋形の代官進藤山城守を大将として九備で攻め懸ける。未の刻に室町殿から日野大納言、徳大寺権大納言両人が遣わされ、どんな事も義秀、信長両将の指図に任せると仰せになる。これにより信長は軍勢を収め、当然江州勢も同様に兵を収める。

二十五日 江州の軍勢二万七千騎が午の刻に京を発ち江州へ帰る。

二十六日 信長が京を発ち江州に下向し観音寺城へ立ち寄る。屋形は対面してこの度の京都での合戦をお聞きになる。信長は涙を流して、義秀が病気で居られるため早くも公儀が我儘になられた、信長が只一人で粉骨していると申す。屋形も共に涙にむせび、義昭公はとても天下の大器とは言えない御方であるので非義を積み重ねて行く行くは足利の正統を失われるであろうと仰せになる。その後信長は大奥へ入り屋形の奥方と対面する。親子の対面は特に大奥の事であるのでそのやりとりはわからない。

二十七日 信長は岐阜へ帰るが屋形の病気を心許なく思い丹羽五郎左衛門を留め置く。この者は信長が取り立てた者である。

二十八日 大洪水が起こる。大雹が降る。大きさは栗ほどもあり、多くの鳥が打たれて死ぬ。

二十九日 室町殿から上使が下向する。これは屋形が病気のため医師道三が遣わされたものである。屋形は弓削主水正に命じて上使をもてなされる。道三法印は種村江兵衛の館に泊めるよう仰せ付けられる。

五月小

二日 屋形の奥方が伊勢大神宮への代参として織田大学助を勢州へ遣わされる。この大学助は織田家代々の譜代であり特に義士であるので屋形の奥方が輿入れの時に当国へ参り女佐の臣として付き従う者である。

五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形が病気のため後藤彦三郎が名代として参詣する。蒲生郡と野洲郡の間での菖蒲切について訴訟があり蒲生郡の非を仰せ付けられる。

二十七日 日野大納言殿が江東に下向し観音寺城に入城する。室町殿からの内意を伝えるための下向であるという。屋形は対面されず、日野殿は空しく帰洛する。

六月大

七日 志村城が焼失したと観音寺城へ注進がある。志村安房守秀定の女房が狂って自ら火をかけたということである。

十三日 浅井下野守祐政が観音寺城へ出仕して申し上げるには、濃州の信長は侫奸甚だしい者であるので将来国を増やせば必ず当国の害になるだろう、手を切って信長を退治するべきであるとのことである。屋形がその時期はと問えば祐政は今年中であると申し上げる。屋形は、吾は弓矢の冥加が少なくこのような重病を患い自ら出陣する事が困難である、自ら出陣しなければ天下の乱は治め難いと仰せになる。祐政は、御名代としてこの浅井父子が出陣すれば異国はともかく本朝においては堅陣を破り天下に泰平をもたらすことは掌中にあると申し上げ、数刻天下についての評議を行う。

二十九日 京都六角の館に差し置かれている馬渕源太左衛門尉が早馬で観音寺城に駆けつけて屋形へ申し上げるには、室町殿が再び謀叛を起こしたとのことである。未の刻に大雨が降る。酉の刻に晴れる。

七月大

一日 京極長門守高吉を京都へ遣わされる。これは公方謀叛の実否を正確に聞くためである。屋形が京極に密意を言い含められるが、その詳しい内容はわからない。午の刻に京都六角の館から早馬にて観音寺城へ注進がある。その書付は次のようなものである。

一 将軍家の下知として二條の御所に日野大納言、藤宰相、徳大寺権大納言、その他侍大将では伊勢伊勢守、澤田日向守、三渕大和守等に一千余騎を添えて守らせ、将軍家は宇治の真木嶋に立て篭もる。これは今年の春謀叛を起こした時、二條の御所のみで戦い苦戦したので今回は濃州、江州の兵が再び二條へ向かうところを宇治路から横鑓に突きかかり敵を途方に暮れさせようとの計略である。

一 真木嶋に立て篭もる将軍家に供奉する面々は上野中務大夫清信、細川兵部大輔藤孝、赤松主馬介、乾加賀守、同十兵衛尉、長岡駿河守、仁木伊賀守、一色兵部少輔、同式部大夫、澤田左衛門大夫、沼田彌十郎、上野佐渡守、飯河山城守、同肥後守、二階堂駿河守、大草治部大夫、牧嶋孫六、戸田十兵衛、曽我兵庫頭、野瀬丹波守、中坊龍雲院、小川孫太郎等である。この軍勢は二千七百五十騎であるという。

夜、子の刻に屋形は目加田又六を使節として岐阜へ遣わされる。仰せ遣わされた内容は、室町殿が再び逆心し今回は真木嶋城へ立て篭もった、二條御所には公家の面々その他譜代の輩が一千程で篭城しているという、急いで上洛されよ、当国からは名代として家人等を上洛させるということである。

二日 屋形は重病にもかかわらず観音寺城へ旗頭等を召し寄せられる。将軍家の逆乱を治めるために上洛させる面々は進藤山城守、蒲生右兵衛大夫を大将とし、永原筑前守、後藤喜三郎、永田刑部少輔、山岡美作、同玉林斎、同孫太郎、多賀新左衛門、山崎源太左衛門、平井加賀守、小川孫一郎、久徳左近兵衛、青地千世寿丸、池田孫次郎、同伊予守、京極長門守、朽木信濃守、蒲生忠三郎、乾刑部、澤田民部少輔、安彦日向守、間宮左衛門尉、松下加助、堀掃部、同勘九郎、尼子新兵衛、森川次郎左衛門、黒田若狭守、同十三郎、浅井左近、弓削六兵衛、和田中書、和爾丹後守、阿閉淡路守、建部右近等である。信長が当国へ着陣すればすぐに先陣、後陣を定めて上洛する、各々領地へ帰り連絡があり次第用意をして出立せよと仰せ付けられる。この軍勢は二万六千騎である。

三日 岐阜への使節目加田又六が戻り屋形へ返事を申し上げる。信長からの返状があり、明後日五日に上洛の軍を起こすとのことである。

六日 信長が四万三千の軍勢で昨五日に岐阜を発ち昨夕柏原に宿泊、本日観音寺城に着陣する。屋形は病気のため国の間に出られない。信長は奥に入って屋形に対面する。信長は、この度上洛して公方を討ち義秀と信長の両旗にて天下を治めようと申す。屋形は、吾はこの時に当たって重病の身である、自ら出陣することはできず自ずから信長の天下になるであろう、義秀は武運拙い者であると口惜しげに仰せになるという。

七日 信長は屋形に向かって、いつも天下を治める時には必ず佐々木家が功を立てている、そこで屋形の名代衆こそ先陣にふさわしいと申す。屋形は強く辞退されるがついに江州勢が先陣になる。辰の刻に江州勢が上洛する。午の刻に信長が武佐を発ち上洛する。酉の刻に江州勢二万六千騎が東福寺並に四條、五條の辺りに着陣する。亥の刻に信長が四万三千騎にて二條妙覚寺、その他各地に着陣する。

八日 午の刻に二條御所へ江州、濃州の軍勢合計六万九千騎が上下から攻め寄せて合戦をする。未の刻に近衛殿の調停により開城することに決まる。日野大納言殿、藤宰相、徳大寺権大納言の三人は勅勘により京都を引き払う。日野殿は中国、藤宰相殿は石州、徳大寺殿は根来寺へ退くという。三渕大和守、澤田日向守、伊勢伊勢守の三人は真木嶋への先陣に加わり供奉することに決まる。残りの者も同様であり、一々記す余裕はない。

九日 松永父子が室町殿の御味方に参陣したと河内国から報告がある。十五日まで七日間風雨が激しく、また人馬の疲れを休めるため江州、濃州の軍勢は空しく京で時を過ごす。十五日に信長の下知で明日真木嶋へ進発すると触れ渡す。

十六日 卯の刻に両国の軍勢が京を発ち二手に分かれて真木嶋へ向かう。午の刻に信長の家来で梶川彌三郎という者が宇治川の先陣を仕る。江州の軍勢では澤田民部少輔が宇治川先陣を果たす。午の下刻から合戦が始まり未の刻には真木嶋の出城三ヶ所を攻め落とす。申の刻には江州軍は首八百五十三を討ち取る。信長軍は首九百八十余討取るという。申の下刻頃に室町殿から長岡駿河守、飯河山城守両人が遣わされる。どのようにでも信長、義秀の計らいに任せるとの事である。これにより酉の刻に真木嶋城を受け取り、室町殿については信長から佐久間右衛門、江州からは蒲生忠三郎の両人が御供をして河内国若江へ流す。これからはどこへでも参り当家にとっては大敵の三好、松永と手を組むがよいと送り捨ててくる。その他の付き従う者についてはある者は誅殺され、又ある者は遠流にされ落人になる。又すぐに信長へ奉公する面々も多い。日記に記す余裕はない。これにて足利の正統、尊氏卿から十五代の天下を永遠に失うことになる。大功ある信長、義秀両将の恩を忘れ、越州長尾、甲州武田、中国毛利等の使節がたった一両年程に申し上げた何の根拠もない話を真実と思い信長、義秀を退治しようとして逆に天下を失うことになる。

十九日 信長軍四万三千騎を本日改めたところ二條合戦、真木嶋合戦にて討死した者は千五百七十三人である。江州の軍勢二万六千騎の内同様に二度の合戦で討死した者は九百三十七人である。未の刻に大手、搦手の軍勢が上洛する。

二十日 京都にて信長から江州の御名代進藤、蒲生へ評定があり、この度の二條合戦で二度上京の数ヶ所で火災が発生しその上秩序が乱れ上下が乱逆に及び民衆に迷惑をかけたとの事で一行書を出して赦免を触れ渡す。

定條々

一 京中の地子銭を永代に亘り赦免する。もし公家寺社方より地子銭を収納に来たならば、その分を測り代地を以って沙汰を下す事

一 諸役等を免除する事

一 鰥寡孤独の者があれば見繕って援助を与える事

一 天下一の者はどのような道であれ大切にする。ただし京中の諸名人が寄り合って評議をして定め言上する事

一 儒学に心を砕き国家の正政を深く志す者、或いは忠孝烈の者を大いに尊重すると申し上げる。他と異なる扶持を考慮し、又その器の広狭は十分に尋ねて言上する事

    元亀四年七月二十日                              佐久間右衛門尉

                                           蒲生右兵衛大夫

                                           菅屋九右衛門尉

                                           進藤山城守

                                           村井長門守

両軍から五人の判形を加えて洛中へ触れ出す。

二十五日 江州の軍勢が京を発ち下向する。進藤、蒲生両人が屋形へ合戦の様子を申し上げ、それに応じて旗頭等で軍功を立てた面々に屋形が感状等を与えられる。中でも澤田民部少輔は宇治川先陣の功により他と異なる感状を賜り、幸津川、津田、衣笠の三庄を与えられる。進藤、蒲生には二千貫ずつの賞地を与えられる。その後屋形は澤田民部の先陣を尚も感じられ再び観音寺城に召し寄せて四目の御紋を与えられる。

二十六日 信長が京都から下向し武佐に着陣する。酉の刻に観音寺城へ移り屋形に対面する。信長は、天下は義秀と信長のものであると申す。屋形は有無の返事をされずしばらくして、義秀はこの四、五年の間中風の気があり出陣せずに旗頭等を遣わすばかりであればほとんど信長一人の大功であるとのみ仰せになる。

二十七日 信長が岐阜へ下向する。午の刻に大雨が降る。未の刻に大風が吹く。この事について多くの噂がある。

二十八日 改元し天正元年と号す。京都から報告があり、山州淀城に岩成主税助、番頭大炊助、諏訪飛騨守の三人が立て篭もりその軍勢は二千五百余であるという。

二十九日 目加多摂津守に八百七十騎を添えて淀城へ遣わされる。この度京都に残留した細川兵部大夫藤孝が方々から集まった五百騎の軍勢を率い目加多と合流して淀に向かうという。淀城に篭る三将の内、番頭大炊助、諏訪飛騨守の両人が寝返ったため淀城落城に時間がかからない。岩成主税は手勢八百騎で打って出て討死する。岩成の首は細川の家人下津権内という者が太刀打にて討取る。目加多の軍勢は首二百三十一を取る。

八月小

一日 目加多が帰る。屋形はその軍忠を称えられる。細川は大将岩成の首を取ったが、室町殿から退いてからの初めての軍忠であるので岩成の首を持たせて江州へ参り屋形へ礼を為す。二日には岐阜へ向かい信長へ礼を為す。

四日 岩成主税介の首を京へ送り四條川原にて獄門に掛ける。三方に首を載せる。これは大将の面目であるという。この岩成は前将軍義輝公の御代に五奉行の一人であった。

五日 夜、月光が丹のようである。東に大星が現れる。

六日 京極長門守高吉、浅井下野守祐政、同備前守長政、進藤山城守等が観音寺城へ出仕し青地千世寿丸を通じて、屋形に直接言上したい事があると申し上げる。屋形は奥へこの五人を召し寄せられる。浅井備前守は、信長は屋形の舅であり恐れながら長政は信長の妹婿である、臣下として主君の御縁の端に連なる事は身に余る栄誉と覚えるが賢人は二君に仕えずと申すので屋形に言上する事がある、一昨日岐阜の林佐渡守が申し越すところによれば信長が、室町殿を流した以上は天下は織田家のものである、そこで近江義秀を旗下に付けて東国の武田、佐竹、越国の長尾、朝倉を討ち平らげたいと思うと申したところ佐久間という侫奸者が信長へ諫言し、江州の旗頭共に内通し頼まれれば義秀を旗下に付ける事は易いであろう、そうなれば越前の朝倉も異議はないはずである、浅井備前は信長公の妹婿であればまずこれに頼まれれば承諾するであろうと申し上げた、このため明後日に信長からそちらへ頼みの使者が参るのでよくよく分別して返事をされよとのことである、信長から頼みの使者が来たら斬り捨ててすぐにこちらから岐阜を退治なさるべきであると我々は評定したので言上すると申し上げる。屋形は、信長が今天下を治めようと思うのは尤もである、吾は近年病気のため出陣できず天下の安否はただ各々の心中にあると仰せになる。四人がこれを受けて申し上げるには、信長が時を得てこのように思うことは尤もであるが東国、北国、西国の国主で旗下に付いた者は未だ一人もおらず当家の者はたとえ千人が一人になっても信長の旗下に付く事はない、例えば屋形が御病気で御出陣が叶わなくとも京極、浅井、進藤が国にある以上は弓矢に疵がつくことはないとのことである。四人は佐々木神社の牛王にそれぞれ血判をして子々孫々に至るまで屋形の正統へ逆心しないという一通の起請文を作り屋形へ献上する。屋形は、吾は弓矢の冥加も尽き近年はこのように病気に臥せている、これは偏に当家の家運も末である、そうであるのに各々が二心のないことを示すのは真に感謝するほかないと仰せになる。面々は観音寺城を退出しそれぞれの領地へ帰る。

八日 予想通り信長から浅井備前守へ内通を促す使節が来る。その書状の内容は、浅井父子が信長の軍の大将となるならば近江国一円を父子へ与える、それならば近江国守護の義秀に腹を切らせよ、残る旗頭等は其方父子の家人同然に召抱えればよい、吾等は妹御菊を其方へ嫁がせており浅井の事を一方ならず思っている、義秀については近年病気にてあれば各々が主と頼んでも将来頼りにはならない、貴殿の才覚にて越前の朝倉義景をも降せば一層大悦であるということである。浅井はすぐにこの書状を観音寺城へ献上する。信長からの使者は浅井長政の下知にて家来浅見対馬守に申し付け九日の夕方に濃州と江州の境川に磔にする。その傍らに一札を立て、信長の使者不破源太左衛門を浅井の計らいによりこのように磔にする、賢人は二君に仕えずと書く。これより信長と江州は手切れとなる。

九日 浅井備前守が早馬にて観音寺城へ注進するには、日野の蒲生右兵衛大夫、息子忠三郎、阿閉淡路守が信長へ寝返り敵になったことを明らかにしたとの事である。進藤山城守からも注進がある。その他各地の城々から観音寺城へ注進があり、まるで櫛の歯を挽くようである。屋形は中風を患い足も立たない状態であるにもかかわらず御次の間に躍り出て、何々蒲生、阿閉が信長へ寝返ったと、吾が病中のためであると歯噛みされる。そして目加多摂津守を召して、蒲生の人質、阿閉の人質をここへ召し連れよと仰せになり、蒲生の娘と阿閉の八歳になる男子を御座所の白州にて吊切にするよう命じ斬らせられる。屋形は、蒲生、阿閉は代々の大恩を忘れ今逆心したがたとえ吾が病死または討ち死にするとも七生まで蒲生、阿閉の子々孫々を絶やすべく呪うと仰せになる。大の男が眦を決する姿はすさまじいものである。未の刻に屋形は浅井へ使者を遣わし、浅井はそこから出陣して謀叛人の阿閉を討果せ、こちらは蒲生を討果すと仰せになる。夜、子の刻に日野谷へ蒲生退治のため目加多摂津守、山崎源太左衛門、箕浦次郎左衛門、池田伊予守の四人に七百五十騎を与え遣わされる。

十日 卯の刻に合戦が始まる。辰の刻には信長が四万八千の軍勢にて柏原上菩提院まで出陣し、佐久間右衛門尉に二千騎を与える。佐久間は蒲生を助けよと槍衾を作って横鑓に攻め懸かり当国の七百五十騎と合戦になる。蒲生は信長の援軍に力を得て城から打って出て一直線に攻め懸かる。目加多、山崎、箕浦、池田は陣を一ヶ所に置き東西に駆け回って蒲生を城中に追い込み佐久間勢と戦うが、城内から横鑓に撃ちこまれる鉄砲で多くの味方が討たれたため四人の大将が一度に陣を引く。そこへ佐久間信盛の軍勢が三度追いすがるが四人の大将は繰引で退却する。これを近江日野合戦といい四人の旗頭の十死一生の合戦である。

十一日 信長が醒井、番場まで進軍し観音寺城と浅井備前との通路を断つ。門出村、むくち村、こしの内村、しゅ渕村、うくいす華在家、一色村、あつさ河原、なちそ村等に陣を置き観音寺城へ向かう。浅井は屋形への通路を断たれたため阿閉を攻めず小谷城を固めて軍勢を集める。蒲生は甲賀郡を切り取り南近江へ打って出ようとするという。

十二日 屋形は進藤山城守に七千五百騎を与えて本道通を防がせられる。平井加賀守には六千三百騎を与えて下道筋を防がせられる。信長の大軍は二手に分かれて合戦をする。屋形は東の櫓へ手輿で担がれて上られ合戦を見物される。味方の軍勢がややもすれば攻め立てられるのを御覧になって屋形は後藤喜三郎に御紋の旗を与え、三井出羽守、永原大炊頭、三上伊予守、赤田信濃守、建部伝九郎等を添え総勢八千三百騎にて本道で戦う進藤を助けよと出陣させられる。屋形は後藤喜三郎に、吾の旗を見れば浅井父子も力を得て打って出るはずである、今日を最後と思い戦えと仰せになり御団扇を与えられる。後藤は今年二十三歳の若さで大将に任じられた喜びに討死してみせようと八千余騎を二手に分けて時を置かずひたすら攻め懸ける。これに進藤も力を得て戦い、信長の先手一万余騎を柏原まで追撃する。これを見て下道へ向かった面々も同じく追撃し、浅井父子も屋形の旗を見て打って出て小谷表への先手池田庄三郎、不破河内、その他信長の家来衆十二人と合戦する。浅井父子は息もつかせず戦い、信長勢は攻め立てられて陣を繰引にする。酉の刻に合戦が終わり、信長は負けて今須まで退却する。

一 今日の合戦で味方が討取る首は二千三百七十六である。浅井父子が討取った首は八百七十五である。信長の生涯の苦戦であるという。

十三日 昨夜、日野の謀叛人蒲生を踏み潰す事はたやすいので度々の合戦で疲れた人馬を休ませるため攻撃を延引したところ、蒲生が夜のうちに信長の軍勢一万三千騎を再び柏原まで引き入れ各所に火を放つ。これに味方は大いに苦戦する。本日の午未刻には信長の軍勢が再び元のように柏原、醒井、番場まで入れ替わって陣を張る。本日は敵味方に合戦はない。

十四日 蒲生が計略を信長へ進言する。その内容は、観音寺城と小谷城の間に挟まり通路を断ったため敵の兵が心を一つにして戦い味方は度々負けたのである、ならば甲賀谷から百足山を下に見て栗本郡高野、手原、上勾、草津辺りに打って出て観音寺城と小谷を一方にして合戦すれば屋形の軍勢は大半が小谷へ退くであろうという事である。これにより信長は本日未の刻に日野谷へ軍勢を入れ甲賀郡から高野、石部へ向かう。以上の事は蒲生の家人新庄清兵衛という者が観音寺城へ駆けつけて申し上げる。屋形は旗頭等を高野口へ遣わされる。信長が計略としてわざとすることも考えて本道筋、下道筋の軍勢はそのまま留め置かれる。

十五日 早朝に信長の旗などが高野、石部、手原、上勾にひしめいて見える。味方の旗頭等は、和田道犬、同和泉守、狛丹後守、宮川三河守、高木隼人、青地千世寿、永田刑部少輔、大野木土佐守、礒野丹波守、吉田安芸守、鏡兵部少輔、三田村左衛門、三塚備後守で総勢一万三千騎を三手に分けて攻め懸かる。味方は地理に通じているため各地の行き止まりに追い詰めて戦い、信長の四万騎は追い立てられて草津まで退く。そこへ青地や草津の百姓等が一揆を起こし家々を一軒残らず焼き払ったため信長は勢多を越えて馬場、松本、大津に陣を置く。十五日の競合合戦というのはこれである。

一 進藤山城守が申すには、信長が再び大津へ退いたためやがて志賀合戦になるであろう、これは当家の吉例であるとの事である。

一 同日、浅井長政が同左近を遣わして屋形へ注進する。その内容は、信長が蒲生の案内にて甲賀から大津へ打って出た事は望む所の幸いである、信長を決して岐阜へは帰すまい、将来屋形が天下に旗を立てられるかどうかはこの時にかかっているということである。

十六日 信長が志賀郡の城々、雄琴、堅田、和爾、木戸、比良五ヶ所の城を攻める。観音寺城から援軍を送るのは困難であるので落城する。五ヶ所の城主は雄琴城が和田中書秀純三百騎、堅田城が山田民部少輔忠宗八百騎、和爾城が和爾丹後守秀氏四百騎、木戸城が木戸越前守秀資三百騎、比良城が田中左衛門尉二百騎である。これらが城に立て篭もるが信長が四万余騎にて戦うと木戸越前守、田中左衛門の両人が寝返り、さらに残りの城は屋形の援軍を待っても湖上からでは遅くて間に合わないため開城して船で観音寺城へ退却する。これにより信長は志賀郡を手に入れ五ヶ所の城に家来等を配置する。

十七日 信長が高嶋郡へ乱入する。浅井備前守は八千騎で海津へ出向き信長軍四万余と合戦する。信長勢は敗北して今津まで逃げ退く。屋形から浅井の後詰として一万六千騎が船にて今津表へ遣わされ信長勢を追撃する。信長は白鬚神社を通り過ぎ小松まで逃げる。本日の合戦で味方が討取った首は二千七百三十六である。

十八日 午の刻に合戦が始まり味方が大敗する。観音寺城の軍勢は船に乗り込んで四、五町沖から遠矢を射る。浅井の軍勢は塩津まで逃げ退く。本日の合戦で味方は二千八百余が討死する。信長は海津、塩津、今津に旗を立てる。

十九日 信長勢の中で三河国の住人徳川三河守が若狭国へ遣わされる。この者が智略を用い若州一国を合戦もなく治めたと報告がある。これにより信長は大いに力を得て敦賀へ向かうという。同日、屋形は倉田右京進を越前の朝倉へ遣わし加勢を請われるが、朝倉も信長が敦賀を取ると聞き加勢を差し越す事は得られない。

二十日 朝倉義景が二万騎にて江北田邊山まで出陣する。これに味方は力を得て信長方の海津城を攻め落とすが、大つく城を守る浅井備前守の家人浅見対馬守がすぐに寝返ったと報告があり早くも信長方の兵を引き入れたという。この浅見対馬守という者は浅井の家人といえども屋形の御前へ度々召し出された者である。同日、朝倉義景の家人斎藤刑部少輔、小林彦六左衛門、西方院道休の三人が寝返って信長の旗下につく。この三人は義景の旗頭である。この他越前方の城が両日の間に四ヶ所寝返る。

二十一日 朝倉義景が使節を遣わして屋形へ申し上げるには、義景配下の城主等が多く信長方へつき特に敦賀表の兵などは大方寝返ると報告があった、そこでまず軍勢を引き上げ続いて敦賀表へ出陣すべきである、義景が軍勢を引くと見れば信長は続いて越国へ攻め入るであろう、そのとき後から義秀が軍勢を出されれば信長を敦賀郡内にて大方討取る事ができるだろうとのことである。屋形は、義景は大いに臆している、続けて出陣することは困難であると仰せになる。

一 越前平泉寺の僧などまで寝返り信長勢を国へ引き入れると報告がある。その他一軍の大将分の者が十一人も義景を捨て信長へ付くという。

子の刻に義景は北郡表を引き払い軍勢を収めるが田邊山城に早くも寝返る者が出て火を放ち城を焼く。信長はこれを見て刀根山にて朝倉と合戦する。朝倉は三千七百騎ほど討たれ軍勢を退こうとするが信長は四万八千で追いかける。朝倉は三度まで取って返し戦うが、一軍の大将分の者を二十三人まで討死させる。

一 今月数度の合戦で信長が勝利し攻め取った城々は、大つく、焼尾、月かせ、ようの、田邊田上、ひきた、さらに敦賀表での四ヶ所を合わせて十ヶ所である。

二十三日 信長勢は八万余になり越前国に乱入する。合戦をしても大方の敵は寝返りますます信長勢が大軍になる。信長勢は越州府中に旗を立てる。義景は居城を開き越前国大野郡山田へわずか千騎に満たない軍勢で退くが、義景の妹婿大野三河守と朝倉式部大夫の両人が寝返り軍勢で遮って義景に自害するように申す。そこで義景は切腹し、首は信長方へ渡される。越前の侍共には一人も義を思う者はいない。もっとも義景が仁義の大将でなかったからであるが、それにしてもあんまりな事であるという。

一 信長は越前国を容易に退治して同国府中にて家来等に越国を分割して与えるという。

一 この合戦が終わる頃、大野郡にて義景の妹で大野三河守の女房が信長方の下人に生捕られる。府中まで連れて来られた時に一首を詠み井戸に飛び込んで死ぬという。その歌は次のようなものである。

     世にへなはよしなき雲もをほいなんいさ入てまし山のはの月

この一首は信長から天皇の耳に入るという。深い悲しみの歌である。

二十六日 信長は越前を奪い取り、その軍勢八万騎にて越前から江州へ向かう。陣を二手に分け四万騎は屋形が小谷城へ置かれた浅井父子へ進軍する。もう一方の四万騎は高嶋から志賀郡を攻め取ってその後二方向から観音寺城を攻め落とすという信長の策略であるという。

二十七日 信長が小谷表で合戦する。同日、信長の旗頭佐久間、徳川、柴田が四万にて志賀郡比良、小松へ向かう。屋形は進藤山城守、目加田摂津守に二万騎を添えて志賀郡へ遣わされる。両軍は小松にて合戦し味方が敗北する。同郡坂本へ軍勢を退くが佐久間、徳川、柴田は勝ちに乗じて追う。そこへ進藤、目加多が坂本から取って返し堅田と真野の間で再度戦う。未の刻に信長方の軍勢は色めき立ち進藤山城守は勝ちに乗じて追いかけ、信長勢は大溝まで逃げる。二十七日の追まわし合戦というのはこれである。味方が逃げて敵が勝ちに乗じ、敵が逃げて味方が勝ちに乗じるという一日の内に二度の場面をよく考慮したと進藤が自讃するのはこの合戦である。

二十八日 小谷の浅井父子が屋形へ加勢を請う。屋形は大病の身であるが起き上がって、当城は軍勢が少なくてもかまわないと仰せになり、後藤喜三郎、池田伊予守に八千五百騎を添えて小谷の後詰に遣わされる。後藤、池田は信長の横鑓、三備合わせて一万程の軍勢と合戦する。味方は八百余の首を討取り、午の刻の合戦に勝利する。同日、信長は浅井父子と居城の間を断ち浅井下野守祐政の居城を未の刻に攻め落とす。祐政は自害する。備前守長政は打って出て父祐政を助けようと戦うが、信長が伏兵を置いて後ろから取り巻くのを見て取って返し城に入る。これにより祐政は自害する。

二十九日 小谷合戦が辰の刻に始まる。辰の刻から午の刻の合戦で小谷城西櫓から寝返る者が出て火を放つ。西風が強く吹き本丸へ炎を吹き上げ浅井勢は戦えず、大将備前守長政は自害して城に火をかける。両方からの火の手により小谷が落城する。信長はますます利を得て観音寺城からの後詰の軍勢と合戦する。味方は八千で信長の大軍を十四、五町も追い立てるが、衆寡敵せず酉の刻の合戦に敗れて佐保山まで退く。同日、午の刻から大風が吹き酉の刻に止む。幹周り三尺の大木等を吹き倒す。前代未聞の大風である。

九月大

一日 信長軍八万騎が二方から観音寺城へ向かう。志賀郡にて進藤山城守と柴田の軍勢が競り合う。佐保山でも合戦がある。詳しくは日記に載せない。

二日 勅意により信長が佐久間右衛門、菅屋九衛門の両人を遣わして屋形との和睦を申し入れる。屋形は老臣を集めて評定を行われる。皆が申し上げるには、浅井父子が討死しその他越前の朝倉等も討たれた上は味方は次第に勢力が尽きてきている、その上屋形は信長の婿であらせられるので和睦をしても問題はない、特に近年御病気が殊の外ひどく御自身の出陣も困難である、大将がこのように出陣できなければさらに合戦で敗北する事も多くなるであろうとのことである。屋形は、吾は病気が非常に重く出陣できず合戦に不利であることは以前よりわかっている、信長は弓矢の冥加が強い者である、どのようにでも各々が計らえと仰せになり、屋形と信長の和睦が成立する。信長の弓矢は表裏が多いといえども冥加の強い大将であり人は武の冥加が最も大事である、屋形の弓矢は的をはずさない弓矢ではあるが冥加がないと人々は語り合う。

四日 信長が軍勢をまとめ岐阜へ帰る。

一 今月の日記は多くが失われたため詳しくは記さない。

一 屋形は中風のため歩くことも不自由であり以後出陣はない。江州の弓矢が衰退していく始まりである。

一 今年から信長が天下を治める。

二十五日 信長が五万の軍勢で尾州の西方長嶋へ攻め寄せる。長嶋には本願寺の末弟などが立て篭もっており甲州の武田と結んでいる。信長勢は退却時に二千人程討たれ敗北するという。この合戦に江州屋形から一万六千騎の加勢が遣わされるが信長が敗北したという知らせを聞いて今須から進藤山城守、後藤喜三郎、永原筑前守等が引き返し、観音寺城へ戻って屋形へその旨を申し上げる。

十月大

四日 東西に旗雲が立つ。東から消失する。

十一日 平井入道卜心死去。享年八十四歳。屋形三代氏綱公、義実公、当屋形に奉公した入道で数々の合戦に励む。

二十四日 和田和泉守が屋形の名代として山州愛宕山へ参詣する。これは病気快癒の祈願であるという。

二十七日 大風が吹く。西方に赤い気が立つ。これにより人の顔が赤く染まる。

十一月小

九日 箕作承禎公の次男大原次郎左衛門賢永が甲州の武田四郎勝頼を頼って甲州へ下向したと永原道覚入道が観音寺城へ出仕して屋形へ申し上げる。屋形は何の返答もされない。

ここまでは日記が詳しく残っているが、この先は紛失される。このため江州旗頭の家中に書き置かれたものを拾い集めて記す。毎月に限らず記し継ぐものである。

二十五日 佐々木神社にて七日間の護摩が焚かれる。山門の正覚院権僧正がこれを修行する。当屋形の病気快癒の祈願である。

十二月大

二十日 白井山城守秀宗死去。当屋形が取り立てた者である。


天正二年(甲戌)

一月大

四日 地震がある。

二十日 山王大宮から怪しい光るものが立つ。

三十日 屋形の立願のため山王二十一社の社殿を残らず造営される。山崎源太左衛門、池田伊予守等に奉行を仰せ付けられる。

二月小

今月上旬から四月下旬にかけて甲州の武田四郎勝頼が美濃国の信長方の城々を攻め落として帰国するという。

三月小

十三日 信長が上洛する。武佐から観音寺城へ登城し屋形の病気を見舞って涙を流す。信長は一通の起請文を認め屋形の目の前で血判する。屋形の子々孫々に至るまで信長は決して異心を抱かないとのことである。これは信長の例の表裏の一つである。

二十七日 信長が天皇へ奏上して南都の蘭奢待を切り取らせる。旧法に従い一寸八分切り取るという。日野大納言、飛鳥井大納言の両人が勅使として南都へ下向する。信長からは佐久間右衛門、菅屋九右衛門、塙九郎左衛門、蜂屋兵庫頭、武井夕庵、松井夕閑が南都へ遣わされる。このとき信長の指図にて江州からも検使を遣わされよとのことになり進藤山城守、鯰江満介を屋形は南都へ遣わされる。これも信長の江州への一つの計略であるという。

四月大

三日 佐々木神社で臨時の祭礼がある。これは屋形の病気の祈願であるという。同日、大坂本願寺が軍勢を出して信長配下の城を攻める。

九日 信長が先月切り取った蘭奢待を少し箱に入れて江州屋形へ贈る。これも信長の表裏の一つである。

同月、信長は天下の権を取り将軍になるが故意に宣旨の事を隠す。これも近国の守護の気持ちを憚る信長の謀略の一つであるという。

五月小

五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形の名代として三井新三郎安隆が参詣する。

二十日 高嶋日向守秀氏死去。江州の旗頭の一人である。屋形は非常に惜しまれる。進藤山城守の甥である。

二十八日 竹生島から金魚という大魚が観音寺城へ献上される。魚の長さは二尺四寸あり前代未聞の珍物である。

六月小

遠州高天神城を武田四郎が大軍で攻め、徳川三河守家康が信長へ加勢を請う。信長は今月十一日に軍勢を揃え十四日に岐阜を発ち十七日に三州吉田に着く。そこへ徳川三河守から注進があり、高天神城主小笠原與八郎が小笠原の総領を追い出し勝頼へ一万貫の約束で寝返り武田勢を城内へ引き入れたとのことである。これにより落城し信長父子は軍勢をまとめて岐阜へ帰るという。

二十一日 信長が岐阜へ帰り二十二日に江州へ使節を遣わす。信長は弓矢の冥加が強いので遠州表の合戦も手間がかからなかったとのことである。これは偽りであり信長の表裏の一つであるという。

七月大

十四日 蒲生右馬助は長年に亘り非義があったため屋形は平井駿河守定能、宇野七之丞に仰せ付け観音寺城大門の坂にて討たれる。

十八日 武田勝頼が三万五千の軍勢で遠州高天神へ出陣し信長配下の城を攻め落として国へ帰るという。

二十日 尼子寿清寺が出雲国から江州に参り、書状を以って屋形に申し上げる。その内容は、吾は元来当家の末裔であるということである。屋形は進藤山城守に仰せ付けてすぐに対面される。この尼子寿清寺は雲州の正統である。屋形は尼子を御伽衆に加えて常に病気の気分を楽にされるという。

二十九日 信長が六万三千の軍勢で長嶋へ向かい悉く攻め滅ぼす。ただし信長は平攻めに攻めたので一門の多くが討死したという。江州へ来た書付によれば討死した面々は次の通りである。

津田大隅守信広  信長の兄    同半左衛門秀成  信長の舎弟         同市令助信成  信長の甥

同又六郎  信長の弟       同孫十郎長利  信長の弟          赤見左衛門佐信兼  

大野佐治八郎信方        佐渡民部大輔秀賢  江州から遣わされた者である   坂井七郎左衛門

この他七百五十騎が討死するという。

八月小

四日 東に客星が出る。十七日まで消えない。

二十日 目加田左太夫が屋形に諱字を賜り秀遠と名乗る。

九月大

二十八日 江州植村城主植村大和守秀盛死去。享年五十三歳。前屋形に仕え柏原合戦に先陣した功により旗頭を仰せ付けられる。軍功の非常に多い勇士である。

十月大

十三日 屋形は病気の祈願のため浅井右近を熊野山へ代参に遣わされる。この山の梛の葉によって人の死生を知ることができる。そこで右近が屋形の病気を見たところよくないということであった。右近がこの山に宿泊した夜、権現が夢に現れて一文を浅井に与える。その神文は次のようなものである。

江陽廿四郡大守       武運漸絶於子孫

前業前因絶神力       家門従者放十方

雖有子孫又如無       経八十余年成繁

得時国挙武運久       社神移力江湖春

この神文を浅井右近は秘密にして誰にも語らない。江州に帰って山門の正覚院権僧正に語る。僧正は、神文の通りであれば当屋形は十年の内に逝去されるであろう、江州の弓矢は衰え近年の内に屋形に一子ができる、八十余年を経て当屋形の子孫が大いに武功を顕し再び江州家を興す大将となるであろうと申す。この事はついに屋形へ言上されることはない。ある人が申すには、この神文を読んでみたがどうにも句面に得心がいかない、詩ではなく語でもなくまた文でもないとのことである。

二十四日 比良山の愛宕宮が焼失する。前屋形が初めて山州から勧請された神社である。大いに国の凶事であるという。

十一月大

四日 山王聖真子の宮が鳴動する。屋形が大神楽を催される。

閏十一月小

二十日 大雪が降る。雪中に雷が鳴り、これは大いに兵乱の兆しであるという。

十二月大

九日 若狭の局から屋形の御子が誕生するが二十日に死亡する。当家の運も末であるという。


天正三年(乙亥)

一月大

五日 信長が上洛し妙覚寺に本陣を置く。十日に信長の支配国にて道橋の間尺を定め作るよう触れ渡す。

十三日 信長公が岐阜へ帰る。十四日に観音寺城に着き、信長は屋形に対面して病気を見舞う。

二月小

三日 屋形が目加田左太夫秀遠を使節として岐阜へ遣わされる。これは屋形が病気のため志賀、高嶋の二郡を信長へ預けられるとのことである。信長は辞退するがついに屋形は信長に与えられる。これより信長の領地となり志賀郡は明知十兵衛尉光秀が、高嶋郡は木下藤吉郎元吉がそれぞれ支配する。

十四日 木下藤吉郎が観音寺城へ出仕し進藤山城守を通じて屋形に拝謁する。木下藤吉が申し上げるには、佐々木家は天下の武の柱である、そこで屋形の御諱字を賜りたいとのことである。これにより屋形は義秀の秀の字を与えられる。木下藤吉は初めは元吉であったが、これより秀吉と名乗る。秀吉は正宗の太刀を屋形に進献する。これも信長の策略の一つである。信長の心中は、近江国さえうまく誑し込めば天下は自ずから我が物になるであろうということであると現世の人々は語り合う。

三月小

二日 信長が上洛する。

三日 佐々木神社で祭礼がある。信長が観音寺城に参り屋形は対面される。屋形の奥方も対面され、信長は様々な進物を贈る。四日に信長が上洛する。

十五日 今川氏真は近年信長の旗下に付いているが、本日江州武佐に到着する。屋形は使節を遣わして今川氏真を観音寺城へ招かれる。初めての対面である。

十六日 今川氏真が上洛する。

四月大

一日 信長からの使節が江東に来る。禁中の修理の事であるという。屋形は返書をされない。

十日 信長が公家領を改め旧記に従って宛行う。この事を評定するため江州へ使節が遣わされる。屋形は進藤山城守を上洛させられる。そこで信長が評定を行う。これも信長の計略の一つであるという。

十五日 信長が岐阜に下向する。その際京中の取締者として信長から村井民部丞、丹羽五郎左衛門が、屋形から平井丹後守、池田伊予守がそれぞれ留め置かれる。このように信長が一人で計らうことなく江州から二人差し出してもらう事も策略の一つであるという。

五月小

十三日 信長が岐阜を発ち三州長篠表へ下向する。その軍勢は五万三千騎である。長篠は信長の旗下である徳川三河守家康が支配する城である。家康の縁者奥平九八郎家正の居城である。甲州の武田四郎勝頼が三万二千の軍勢で長篠城を囲むという。武田は川を越えて合戦するが、これは信長の謀略によるという。

二十一日 卯の刻から合戦が始まり未の刻に終わる。武田が敗北する。信長は鉄砲を使い勝利するという。

二十五日 信長が岐阜へ帰る。

二十六日 信長の使節林佐渡守が江州に来る。長篠表にて信長が大勝利を得たとのことである。

二十八日(一説に十月二十一日) 城介信忠が二万四千騎にて三州からすぐに美濃国の武田勝頼方の遠山城へ進発する。城の大将秋山、大嶋、座光寺という三人が降参して遠山城を信忠へ明け渡す。降人三人は岐阜にて誅殺されるという。

六、七、八、九月の日記はない。次回に勘案して記す。旗頭家中にあるだろうか。

十二月大

八日 信長が上洛する。家来等の官位が進む。信長の任官がある。

十八日 信長が岐阜へ下向する。今年五月から今月までの日記が特に紛失される。


天正四年(丙子)

一月大

一日 本日から十五日まで江東観音寺城に雲のようなものが覆いかぶさり、国中から山を見ることができない。

二十一日 高頼公の追善が行われる。これは当屋形から四代前の屋形である。なぜ高頼公の追善を行うのかと問えば屋形が度々不思議な夢を御覧になったためであるという。

二月小

四日 江南、江西の鼠が江東、江北へ移動する。日中に人が見ている事も恐れずに鼠が移動するとは珍しい事である。

二十七日 屋形が三上神社の社殿を建立される。奉行は田村兵庫助、池田孫太郎である。

三月大

三日 佐々木神社で祭礼が行われる。蒲生三十郎と浅井助六が喧嘩をして死亡する。それぞれの下人が二十五人も討死する。屋形は大いに怒り両人の妻子等を国外に追放される。

十八日 幸津川の新河大神の社から光が出ていると観音寺城へ注進がある。屋形が目加多を遣わして社を開かせたところ光が瞬時に消え失せたという。

以上の内容は本来は日記に詳しく載っていたはずである。この日記とは後藤豊前入道の覚書であるが凡そ七、八年の日記が紛失しておりその間の出来事は大半が失われている。以上に記した内容は家々に少しずつ書き置かれたものを集めて記したものである。

四月小

二十六日 住吉神社が兵火により焼ける。京都北野神社が鳴動する。江州の白江城が焼失する。進藤山城守、池田伊予守、同孫二郎、山岡孫太郎が一万二千の軍勢で大坂表へ遣わされる。これは屋形が信長の加勢のため遣わされる。

二十三日 屋形が伊勢神宮へ代参として池田孫三郎を遣わされる。これは病気の祈願のためであるという。

五月大

三日 天王寺が焼失する。五日に佐々木神社にて祭礼がある。屋形の御名代として後藤喜三郎が参詣する。

六月小

十一日 伊吹山権現堂の番僧が仏躰のような雪の塊が氷になったものを石の船に入れて観音寺城へ献上する。半ばは溶け失せて少しだけその形を留めている。おそらく元の日記には詳しく記されているであろう。

二十日 平井美濃入道死去。享年七十三歳。江州の旗頭の一人であり、平井加賀守の伯父である。

七月小

九日 雲光寺にて氏綱公の追善が行われる。施餓鬼等がある。日記は紛失する。

八月大

十日 越前国にて朝倉義景の残党が度々一揆を起こすため信長父子が岐阜を発つ。本日岐阜から江州観音寺城に着陣する。屋形は病気が重いので対面されないという。

十二日 信長、信忠が江州から越前へ進発し、十四日に敦賀の津に着陣する。これより一揆の面々が立て篭もる城々を検めて軍伍を定める。

越前国

一 虎杖城には下間和泉守が七百余にて立て篭もる。

一 木目峠城には石田西光寺が五百余にて立て篭もる。

一 鉢伏城には阿波賀三郎兄弟が二百五十余にて立て篭もる。

一 今条、火燧両城には下間筑後守が六百騎にて立て篭もる。

一 すい津城には大塩円強寺が三百にて立て篭もる。

一 河野新城には若林長門守父子が四百騎にて立て篭もる。

一 府中龍門寺城には三宅権之丞が三百余にて立て篭もる。

以上の内容は国人の中に訴え出る者がいて味方が詳しく知ったものである。澤田民部少輔は屋形から信長に添えるため越州に遣わされたが、この澤田の覚書の中にあったためここに記す。

十四日 屋形は礒野丹波守、阿閉淡路守、同孫五郎、馬渕源太郎、後藤喜三郎に五千七百騎を添えて信長軍に遣わされる。午の刻に再び山崎源太左衛門、池田伊予守に二千三百騎を添え信長の加勢に遣わされる。屋形は山崎、池田の二人に御団扇を与えられる。

十五日 子の刻に河野城が落城する。十六日に府中龍門寺城が落城する。十七日には信長が府中龍門寺に本陣を置く。

二十三日 信長が一乗へ本陣を移す。越前の退治が残らず完了する。

二十六日 信長からの使節が江東に参り越前退治の様子を屋形へ申し上げる。元の日記には詳しく載っていたはずである。

九月小

二日 信長が一乗から北庄へ本陣を移し、軍功を立てた面々に行賞を行うという。

二十二日 信長が加賀国へ乱入する。二十九日までに加賀を残らず退治する。

十月大

四日 信長が加州を発ち越前に入る。その後江州へ来る。

十三日 信長が観音寺城に来て屋形に対面する。当国から加勢に遣わされた面々に信長が越前にて加領を与える。屋形は大いに喜ばれるという。

二十八日 朝日藤九郎に非義があったため屋形は池田伊予守に命じて西光寺にて切腹を仰せ付けられる。

十一月小

十三日 越前の浪人朝倉刑部大輔秀景が江州に参り屋形に扶助を蒙る。屋形は非常に憐れまれる。

二十日 兵主大神宮の神主式部大夫に非義があったためこれを追放し、佐々木宮の神主権守秀成の次男右京亮に兵主の神主を仰せ付けられる。この兵主は大社であるので右京亮に諱字を与え秀国と名乗らせる。以上の内容は兵主の神主の家記にあった。元の日記はないのでここに入れる。

十二月大

十一日 池田伊予守が屋形の諱字を賜り秀政と名乗る。越前合戦で軍功があったためである。二十日に信長が内大臣に任じられる。


天正五年(丁丑)

一月大

三日 辰の刻に当屋形の御曹司が誕生する。鷦鷯の御伝がある。旗頭等が残らず観音寺城に出仕する。屋形も年をとり、その上近年は病気のため御当家はまさに断絶しようとしている所での御世継誕生であり、御一門、家来等の喜びは限りないものである。

七日 御曹司の佐々木神社への参詣が行われる。屋形は病気のため御名代として進藤山城守、平井加賀守等が神社へ参る。その他の旗頭も一人残らず供奉する。再び当家が繁栄する始まりであると思われる。若君が宮中にて御名をつけられる。龍武御曹司というのがそれである。これは佐々木太祖神の幼少の頃の御名であるとして代々当家の嫡領につけられるという。

十五日 岐阜の信長から使節として丹羽五郎左衛門という者が参り屋形へ書状を献上する。その内容は、信長は皇家守護のため京から近い所に居城を持ちたいと思っている、江東の安土山を内々に所望する、そうしてくれたならば美濃国にて二郡を屋形へ差し上げようということである。屋形は信長の使節を御寝殿へ召し寄せて、吾は近年中風のため歩くこともできず度々の合戦で自ら采配を振るう事がない、そこで旗頭等を信長の下知に付けようと思う、吾はもはやこの世にいないようなものでありどこにでも信長は居城を持ちたい所に作られよと仰せになる。使節五郎左衛門は涙を流す。信長はこれを聞いて大いに喜ぶという。

この年信長は安土山に城を作って居城とするが毎日屋形へ使節を遣わして病気を見舞う。信長にとっては屋形は婿であるが、元来信長は斯波の家人であったため殊の外屋形を尊敬する。とにかく信長は表裏の甚だしい大将である。信長のようにしなければ当代の天下を治めるのは困難であると武の道に精通した老人たちは話す。安土の信長から使節が遣わされこの度の若君誕生を祝う。使節は明知日向守光秀という者である。様々な進物がある。

十七日 信長が上洛する。これは紀伊国退治のためである。江州からも屋形の代官として進藤、後藤の両藤が上洛し紀伊へ向かうという。

二十五日 信長が観音寺城に参り、若君を養君として守り立てるようにとのことである。屋形は、吾は重病であるのでどのようにでも信長を頼りにすると仰せになる。信長もこの頃はようやく天下の主の相が顕われてきたという。当御曹司の母公は信長の娘であるので、初孫であるとして信長の喜びはひととおりでない。この母公は信長の兄で信広という者の娘であり、信長が養女として屋形を婿に取る。

二月から七月までの日記はない。元の日記にはあったであろうか。

八月大

十八日 大坂付城の城番である松永弾正少弼通秀の右衛門佐が逆心して大坂表を引き払い松永方より断絶の書状が江東へ来る。この使節は屋形が馬渕源右衛門家盛に仰せ付けて鳥本にて討たれる。信長が観音寺城へ来て屋形と松永退治の評定をする。

十九日 松永父子が大和国信貴城へ立て篭もり逆心を明らかにしたと大坂表から再度注進がある。

二十五日 信長から宮内卿法印、屋形から平井加賀守が遣わされ松永に対して元来忠誠を誓っていたのに何事によってこのように逆心したのか問い質し色々と宥めてみるが、松永はついに承知せず両使は江東に帰る。

九月小

二十六日 岐阜城から信忠公が三万五千にて安土山へ参る。信長は軍評定を行い、二十八日に諸軍勢が安土山を出発する。屋形からは進藤山城守、後藤喜三郎、阿閉淡路守、礒野丹波守、池田伊予守、目加多摂津守、乾甲斐守、伊庭采女正、建部源五郎、楢崎太郎左衛門、山崎源太左衛門、京極長門守高吉、澤田民部少輔等が松永退治のため信忠の後陣として上洛する。

二十八日 夜、大彗星が坤の方角に出る。長さは七、八間程である。十月までその光は百里を照らす。

十月大

一日 松永の旗下である森、海老名両人が篭る河内国片岡城を細川兵部大夫藤孝父子、明知日向守光秀、筒井順慶、同伊賀守、進藤山城守、後藤喜三郎が攻め落とす。藤孝の二子が先陣を務める。

八日 信貴城に攻め懸かる。

十日 夜、城中に逆心する者が出て東の櫓に火をかける。松永父子が自害する。先年南都の大仏殿を焼いたのと同月同日に割符を合わせたように久秀が信貴城にて自害する。

十一日 大洪水、地震がある。佐々木山内対馬守高義が急死する。屋形の一族である。

十三日 信長、信忠、その他の面々が大和国から上洛する。

十七日 信長が安土へ帰る。屋形の軍勢は同様に十八日に観音寺城へ帰る。

二十四日 信長が羽柴筑前守秀吉に播州一国を与える。播磨国内の五ヶ所を信長はまだ手に入れていないにもかかわらずこのように沙汰する。

十二月大

四日 大洪水が起こる。


巻第十七・完


明暦弐年丙申霜月吉日

荒木利兵衛

開板