天正六年(戌寅)

三月大

十三日 越後国の長尾入道謙信輝虎が病死する。享年四十九歳という。

四月二十八日から五月十二日まで大洪水のため天に届くほど水が満ち溢れ、洛中では家が流され人民が数百死ぬ。


天正七年(己卯)

二條関白晴良公逝去。この者は屋形の伯母婿である。


天正八年(庚辰)

六月大

十五日 夜、星が月を貫く。占者が申すには三年の間に臣下が主君を討つ事があるとのことである。

春、夏に天下で大疫病が流行し多くの死者が出る。江州内で死者は二千余人に及ぶ。


天正九年(辛巳)

一月小

二十五日 京極長門守源高吉死去。道安と号する。屋形の一族であり、特に度々の合戦で軍功を立てたため屋形は他の者とは異なる行賞をされる。京極家の元祖氏信以来の人物であると世に言われる。京極の跡目については小法師高次に確かに仰せ付けられる。


天正十年(壬午)

一月大

十五日 夜、紅気が北方に満ち世界中の人の顔から草木に至るまで皆悉く丹のように赤くなる。

二月小

十一日 屋形の御曹司が若狭局の腹から誕生する。龍勝丸という。奥方の心中がよくないので妾腹の御子を隠す。これにより進藤山城守が預かり養育する。

三月大

三日 佐々木神社の祭礼がある。

先月上旬、岐阜の信忠が信州退治に進発する。これは武田の旗下の木曽義政という者が信忠へ寝返ったためである。また羽柴筑前守は中国にて合戦し備前、備中の城々を攻め落とす。信州から信忠の使節が毎日参り、攻め向かう城々で落城しないものはないとのことである。詳しくは元の日記にある。

五日 信長が五万六千騎にて安土を発つ。屋形からは御名代として進藤山城守に後藤喜三郎、阿閉淡路守、礒野丹波守、平井加賀守、馬渕源太左衛門、山崎源太左衛門、池田伊予守等を添え八千七百騎にて信長公に一日遅れ六日に出陣する。

十一日 甲州、信州の退治が終わる。武田四郎勝頼、息子太郎、その他一門、家来が甲州田野という所で討たれ首が届けられる。詳しくは元の日記にある。これより東国は大方信長の手に入る。

十八日 信長が石山寺に参詣して観音像を拝する。前代未聞の悪行であるという。

四月小

一日 今日から佐々木神社の神事が始まる。

六日 本日は午の日であり祭礼がある。渡物等は例年通りである。

二十一日 信長が東国から上洛し本日安土に到着する。信長は菅谷九右衛門という者に武田退治の様子を詳しく屋形へ申し上げるよう命じ、安土から信長の使節が観音寺城へ来る。屋形は枕から起き上がり詳しく勝頼の死様などをお聞きになって仰せになるには、大いに合戦の法に背いたため武田は滅亡した、とにかく信長は弓矢の冥加の強い大将である、しかしながら無慈悲であるので謀叛により亡ぶ事があるかもしれない、これは古来から良将の言葉として伝わるものであるとのことである。屋形の話される内容には様々な故実が多く含まれる。

二十八日 信長が安土から観音寺城に来て三日間逗留する。屋形は非常に歓待される。

五月小

五日 佐々木神社の祭礼が例年通り行われる。屋形の御曹司が参詣され旗頭等が供奉する。午の刻から大洪水が起こる。

十四日 三州の徳川三河守家康が穴山梅雪を召し連れて安土へ来る。

十五日 中国から使節が来て、羽柴筑前守秀吉が毛利家の城を数ヶ所攻め落としたと報告する。

十六日 信長が甲州の穴山梅雪に都を見物させようと申し、本日徳川三河守が同道して安土を発つ。夜、星が月を貫く。東西に赤い気が立ち旗のようである。東は白く西は赤である。人々が西を見れば赤気が映って顔が赤くなり、東を見れば白気が映って顔が白粉を塗ったように白くなる。前例のないことであるという。

十八日 信長が諸将に近日中国へ出陣するよう命じる。安土在番の面々に暇を賜う。

十九日 屋形の病気が危いため信長が安土から観音寺城へ移る。数多くの名医が京都から下向する。これは信長の下知によるものである。

二十二日 信長が安土へ帰る。屋形の病状が少し回復したためである。国中の大社から神人が巻数等を観音寺城へ献上する。酉の刻に佐々木神社の宮が鳴動する。この月江州にて童子の歌う早歌に、観音寺山になにやら光る御屋形様の太刀のつはつは、というものがあり占者がこれらの早歌を聞いてみたところ大いに凶事であるという。平井加賀入道が申すには、永禄年間に箕作後見承禎父子が当屋形を退けて管領職を奪うためまず後藤但馬守を討ったが、その年の春に当国にて、みをつくりごとう悪しかろをかしませならぬだてをはせぬ物ちや、という早歌が歌われた、はたして箕作殿が後藤を討ってまずい事になりその身を滅ぼしたということである。

二十三日 岐阜から信忠が上洛し安土に着陣する。夜、戌の刻に観音寺城へ参り屋形の病気が重い事を悲しむ。子の刻に信忠が安土へ帰る。

二十四日 午の刻に江陽屋形北陸道管領大光院殿(一説に大養院)崇源参議源義秀公が逝去される。享年三十八歳。御一門から旗頭等に至るまで暗夜に灯火を失ったようである。夜、酉の刻に御遺体をまず比良山の峰に葬る。進藤入道崇雲、後藤喜三郎両人が比良山に参り諸将を下知し、翌日になって江東に帰る。甲賀衆八百人の内三組が比良山に詰めて番をする。

屋形の葬儀は慈恩寺にて行われる。内容については鎖龕が天台山正覚院僧正、起龕が三井寺勧学院権僧正、下火が比良山大覚坊和尚尊海である。

二十六日 本日から比良山にて御葬礼が行われる。七日間の内容は次の通りである。

二十六日 転経   二十七日 頓写施餓鬼   二十八日 懺法   二十九日 入室   晦日 闍維

六月一日 宿忌   二日 陞座拈香 等である。

二十七日 信長が安土から観音寺城に移り屋形の他界をひどく嘆く。同日、屋形の北の方が出家され松樹院殿と名乗る。酉の刻に信長が安土に帰る。

二十八日 午の刻に太陽が光を失う。酉の刻に西方に赤気が立ち人の顔が皆赤く染まる。信長の中国への進発のため近国の面々が安土に馳せ集まる。

二十九日 信長が近習のみ二百騎を率いて上洛し、本能寺を旅館とする。同日、城介信忠が上洛し妙覚寺を旅館とする。

六月大

二日 午の刻に京都から早馬が来て、今朝本能寺にて信長が他界したと告げる。明知日向守光秀が中国への軍勢を丹波から京へ差し向け逆心して信長を討ったということである。京都から同時に届けられた書状は次の通りである。

本日卯の刻に光秀が一万七千騎で丹波から京へ入り、二手に分かれて攻め向かう。光秀は七千騎にて本能寺へ向かう。もし信長へ加勢の軍勢があれば横鑓に攻め懸かって討つようにと明智左馬助を大将として六千騎が内野に控えて陣を取る。卯の下刻に本能寺合戦が始まり、巳の刻に本能寺に火がかけられ信長が自害する。

本能寺にて討死した面々は、森乱丸、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正材、村田吉五、澤田伊賀守、小川愛平、金森義入、魚住勝七、今川孫二郎、乾兵庫助、狩野又九郎、薄田與五郎、森力丸、同小坊丸、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀松、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀介、柏原鍋丸、祖父江孫介、大塚彌三、同又一郎、平尾平助、針阿彌、津田茂助、織田源三郎殿、松田主水正、小倉松助、湯浅甚介、中尾源太郎、高橋虎松丸等である。この他に逃げ散った者は多い。以上の者は残らず討死である。さらに御馬廻衆五十三騎が討死したということであるが確かなことはわからないので名前を記すことはできない。

同日、三位中将信忠は妙覚寺に滞在していたが、本能寺へ駆けつけて合戦しようと妙覚寺を出たところ内野に控えていた明智左馬允が六千にて横鑓に城介信忠の軍勢へ攻め懸かる。信忠は寡勢のため斜めに押し込まれて二條新御所へ立て篭もる。そこで左馬允はすかさず六千の軍勢で二條御所を包囲し辰の刻から午の刻まで攻め戦う。少勢であるので抗する力もなく、信忠も終に自害する。あれほど武勇の威を振るい四海を掌中に握り全国を胸中の謀で操り多くの敵を討ち多くの侍を討たせようやく天下を治め子孫の栄久を得た身であるのに、今日の一時で父子共に黄泉に赴くことになるとは今の世はいやなものである。信忠は前田玄以斎を二條から江州へ返し若君を尾州清洲へ退かせるよう申し付ける。そこで同日京を発ち安土へ向かう途中で観音寺城に参り以上の内容を話す。

この日二條にて討死した面々は、津田又十郎長利、同勘七、同九郎二郎、同小藤次、菅谷九右衛門、子角蔵、菅谷勝次郎、山田十右衛門、澤田越中守、猪子兵助、村井春長軒、子清次、同作右衛門、平川十右衛門、毛利新左衛門、安彦彦三、和田勘介、毛利岩丸、斎藤新五郎、坂井越中守、赤座七郎右衛門、同助六、和気善太郎、井口平九郎、櫻木伝七、団平八、服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、石原主水正、富田太郎左衛門、澤田武介、下方彌三郎、弟喜太郎、塙伝三郎、亀井又五郎、種村彦四郎、春日源八郎、寺田善右衛門、阿部佐平太、福富平左衛門、桑原吉蔵、伏田三吉、清水三郎兵衛、三宅権内、藤田仁右衛門、桑原九蔵、逆川甚五郎、小澤六郎三郎、石田孫左衛門、平田万作、宮田彦四郎、平野新左衛門、同勘右衛門、中山刑部少輔、飯尾茂介、長岡日向守、村井新左衛門、服部六兵衛、高橋藤丸、佐々清蔵、山口十兵衛、同小弁、同半四郎、木造七兵衛、村瀬虎丸、小川源四郎、神戸次郎作、大脇喜八、犬飼孫三、河野善四郎、安元左近、弓削新兵衛、石黒彦次郎、越智小十郎、中根市丞、秋山治兵衛、浅井清蔵、水野惣介、同九蔵、井上又三郎、加藤辰介、岡部又右衛門、竹中彦八、河崎與介等である。以上の内容は岐阜から供奉していった人々を大方調べて記すものである。この他にも討死した面々は多く、詳しいことは後ほど再び記す。

同日酉の刻に光秀が京都を発ち大津に到着する。そこで光秀は勢多城主山岡美作守、同対馬守両人に使者を遣わして、光秀に味方されよ、天下を治めた暁には貴方両人に恩賞として江州を残らずすべて与えようと申し入れる。山岡は光秀の使者を討ち捨てて城に立て篭もる。これにより光秀は大津から坂本城へ向かう。坂本には光秀の伯父長閑がおり、唐崎の浜まで光秀を出迎え同道して坂本に入る。

三日 観音寺城では屋形義秀公が他界されてからまだ十日を過ぎていないのに、今度は屋形の舅である信長が謀叛により自害したと今朝報告があったため上を下にの大騒ぎとなる。そこで進藤山城入道、後藤喜三郎、平井加賀守入道、澤田民部少輔、阿閉淡路守、礒野丹波守、馬渕源太郎、伊庭入道、池田伊予守、三上美作守、建部右近、安彦日向守、弓削主膳正、和爾丹後守、堀伊賀守、浅井土佐守、目加多入道頼鬼、その他当番の面々が集まって評議を行うに、光秀は信長父子を討ち既に昨夜坂本に着いたという、いざ津田の入江から船に乗り堅田に渡って坂本へ攻め寄せ悪人を討ち、幼い屋形を補佐して上洛させ天下に旗を立てようと申す。これは進藤の言葉である。平井は、それならば山岡美作へ使者を立て大津から攻め懸かれと申し付けようと申し、すぐに美作へ使者を遣わす。さらに澤田民部が、光秀は元来気の早い男である、このように評議している間にも当城へ攻め向かってくるであろう、最初に進藤殿が申した通りに決定して坂本へ渡ろうと申し、観音寺城在番の面々やその他近くの城の面々が合計一万二千の軍勢で船数百艘に乗って観音寺城から坂本へ向かう。光秀は三日の辰の刻に大津へ出陣し勢多へさしかかったところ山岡が橋を焼き落とす。そこで松本の土民を集め船橋を架けて渡り下道通から守山に着陣する。しかし屋形の軍勢は残らず堅田へ上陸して坂本に向かい合戦をしている。もちろん坂本には光秀の子供三人と伯父長閑しかおらず、その軍勢も四百程であるので味方の軍勢はただの一戦で攻め落とす。そして明知長閑並に光秀の子三人の首を柳ヶ崎にて獄門に掛ける。しかしその頃光秀は守山から観音寺城へ合戦に向かう。一軍の大将分の者は大方坂本へ向かっており前屋形の近習のみ二百騎程と遠くから駆けつけた旗頭五人の合計三千騎に満たない軍勢で戦うが、蒲生氏郷の家人で新庄という者が光秀に内通し箕作の方から三の丸へ入って火をかける。風は非常に強く観音寺城の本丸へ火が回り、味方は大方討死する。光秀の軍勢は早くも本丸と御国の間の御殿まで攻め上がり、若狭局は前屋形の鎧を着て太刀を佩き当年六歳になる幼い屋形を抱いて後馬に乗り北坂口から落ち延びる。そして池田孫十郎、箕浦次郎介、鯰江権之佐等を見つけて御供をさせる。池田が幼少の屋形をすばやく見たところ紫色の金襴の袋に御家の金泥の巻物を入れ首に掛けておられた。池田は若狭局に向かって、この巻物は世に二つとない物であるのに幼君の首に掛けて落ち行けば光秀の手の者は屋形と知って捜し出すであろうと申す。若狭局は、他国においてはそれが道理であるが自国にて幼少の屋形が居城を落ち行かれるのであれば土民にさえもこの御方が先祖譜代の主君であるぞと知らせるためにわざと私の才覚でこのようにしたのであると申す。そして箕浦城へ落ち行く。江州入替合戦というのはこれである。

四日 安土在番の蒲生右兵衛父子が信長の若君、奥方を日野谷へ退却させる。この時蒲生が安土の番衆を率いて観音寺城の後詰に来るようであれば光秀は討死していたであろうに、今に始まったことではないが蒲生は大いに臆病であると江州の侍は申す。土民に至るまで蒲生を非難する。同日、光秀は老曽に陣を据え、翌五日卯の刻に安土に到着し城中悉く仕置する。そして明知左馬允に二千五百騎を添え安土に留め置く。

五日 坂本へ向かった観音寺城の軍勢は坂本の合戦には勝ったとはいえ観音寺城が攻め落とされ途方に暮れていずれも大津に集まっていたが、幼君が観音寺城を落ち延び箕浦城におられると聞き皆大いに喜んで急いで再度船に乗り大津から箕浦へ渡って幼少の屋形を守り立てる。軍勢の半ばは落ち行き、光秀の天下になると心得てその手に付く者もあり尾州等へ落ち行く者もある。これより江州屋形が落ちぶれることになり無念なことである。

六日 光秀が安土から京へ上洛する。筒井順慶を頼んで使者を遣わすが筒井は同意しない。それなのに織田三七と丹羽五郎左衛門が二人して織田七兵衛信澄を尼崎にて殺す。五畿内の様子は武士も主君を選ぶのに迷い工商も産業を失い、人々の心はあたかも海上で船、筏を得られないようなものである。徳川家康は泉州堺にて穴山と同道していたが世間の安危を窺いやがて伊賀路を通って三州へ退く。羽柴筑前守秀吉は信長の訃報を聞きこれは一大事と思い、龍が雲を起こし虎が風に嘯くかのように中国から立ち上がり今月十二日に山崎に陣取ってまず光秀方へ使節を遣わす。本日は夜になってしまったので明日十三日の白昼に合戦があるだろうとの噂である。

十三日 辰の刻に山崎合戦が始まる。光秀は苛立って川を渡らせる。秀吉はかねてよりこの時を待っており光秀の軍兵が渡河の途中で足軽大将を進め雨のように鉄砲を撃ちかける。非常に秀吉の思い通りに進んだ合戦である。押し合い圧し合い懸けつ返しつ戦い、光秀の兵が敗北する。討死する者は二百五十人に及び、その他は京へ逃げ退く。光秀は明知庄兵衛、進士作左衛門、村越三十郎、山本山入、三宅孫十郎という五人を召し連れて伏見へ落ち行くが、山科を通って江州へ落ちるのに何たる哀れな運命か山科小栗栖まで来て名を記すまでもない野人に突き落とされる。最期の様子はわからないが首は京都に送られて四條河原にて獄門に掛けられる。

十八日 光秀の所領を与えられた面々は十二人である。日記に書き留めるには及ばない。

二十日 諸将が会合を開く。列席する人々の内、大将分の者は羽柴筑前守秀吉、瀧川左近将監、柴田修理亮勝家である。この三人が今年から何事においても天下の権を執る。そうであるとはいえすでに秀吉は総大将のように見える。今年の暮れから天正十二年まで信長の家族と柴田、瀧川、羽柴及び四、五人の大将達が国を争い合戦をするが、江州の屋形は既に世を失った人であるので旗頭等も昔日の十分の一になり幼少の屋形の成長を守り立てるために数々の合戦には出陣しない。また羽柴等三人の旗下についた者共もあるが礼に背くため日記には書き留めない。江州の屋形からの軍勢でないものはすべて記さない。今年から佐々木神社での三月三日の御神事は行われない。神宝を始めとして当国の大乱で失われ、ようやく四、五月の神事が常楽、小中、慈恩寺、中屋の四村の民衆によって行われただけである。これらは昔の社領であった村々である。憐れな事である。


天正十一年(癸未)

柴田勝家と秀吉が江州しづがたけにて合戦し、勝家が敗北する。勝家は越前北庄にて自害する。別記に詳しいのでここに記さない。


天正十二年(甲申)

三月小

八日 小牧山合戦がある。

四月大

七日 今日から佐々木神社の神事が始まる。

九日 長久手合戦がある。合戦についての日記はこれに参加して戦った面々の家にある。当国ではわからないので記さない。

十二日 本日神祭が行われる。昔日の面影の全くない寂しいものである。

紀伊国雑賀並に根来寺を秀吉卿が破却する。

五月小

五日 佐々木神社の神事が先月晦日から行われる。

山州にて一身二頭の子が生まれる。

九月大

一日 秀吉が江州の旗頭等を召し出す。浅井土佐守、目加多入道頼鬼両人が秀吉の呼び出しに応じて出向く。秀吉が申すには、吾は前屋形義秀公の一字を拝領した恩を思っている、幼少の屋形を箕浦城から呼び出したまえ、昔日の恩を返そうとのことである。これにより当年八歳になる幼屋形義郷が上洛する。そこで秀吉は江州にて名字を相続するためにと一郡を与える。今年の六月から秀吉は天下の主となる。前代未聞の大将であると世に言われる。


天正十三年(乙酉)

三月大

二十二日 根来寺が兵火に遭う。これより衰退する。

七月小

秀吉が関白に任じられる。

八月大

二十三日 佐々木黒田美濃守源識隆死去。享年六十一歳。法名宗円。下野守重隆の嫡男である。屋形の一族であるので日記に載せる。

閏八月小

十三日 江州繖山から光るものが出て比良山へ飛ぶ。二十四日まで前屋形の神霊であると国人等は話し合う。今年二條昭実公が死去する。享年三十歳。この人の母公は前屋形の伯母で、氏綱公の娘であるので日記に記す。

十月小

一日 秀吉が北野にて大茶会を催す。


天正十四年(丙戌)

一月小

十四日 戌の刻に江州日吉社から光るものが出て観音寺城へ飛び去る。国中が昼間のように明るくなる。

四月小

大雨により湖水が九合に達し浦々の村百四十五ヶ所で家が水中に沈む。人々は他の村に移る。

七月小

二十四日 陽光院が崩御される。

十一月小

七日 天皇が譲位され二十五日に即位される。関白秀吉公が上洛し、その下知により二十七日に江州屋形が少将に任じられる。これは関白秀吉公の仰せにより諸大夫に任じられるところを、父が参議であったのにどうして下官に任ずることがあろうかとのことでこのようになる。大いに当家の名誉を施す出来事である。

関白秀吉公が姓を豊臣に改める。

十二月大

石山寺の山から赤気が立つ。十二日間多くの人が奇怪に思いこの山へ参詣する。


天正十五年(丁亥)

一月小

禁裏、仙洞から宮々の御所に至るまで関白秀吉公が修理を仰せ付ける。特に禁裏を造営する。

三月

三日 佐々木神社の祭礼が行われる。幼屋形が参詣される。少数の旗頭等が供奉する。今月中旬から秀吉公が絶滅した家々を調査して再興させる。天下の人々は時宜を得て賑わい栄える。

五月大

五日 佐々木神社の祭礼が行われる。京極の家人と石田治部少輔三成の家人が祭礼の前で喧嘩になり双方で二十六人が死ぬ。

九月大

十三日 関白秀吉公が聚楽城に移る。ここは昔大内裏があった旧跡であり、内野のことである。現在の北野の東、戻橋の西である。


天正十六年(戊子)

三月大

十四日 地震がある。

二十日 夜、星が月を貫く。

四月小

十四日 天皇が関白秀吉公の聚楽第に行幸し一泊する。

十月小

一日 義郷公が太閤秀吉卿へ訴える。江州比良山江国寺の僧領の件である。石田三成の讒言により秀吉公は訴えを聞き入れない。


天正十七年(己丑)

関白秀吉公が江州屋形義郷公に命じて山門の焼け跡を建立させ、中堂領として一千石を寄進する。僧房は十四房に過ぎない。

十一月小

四日 関白秀吉公が江州竹生島へ参詣する。

十一日 関白秀吉公が義郷と三日間遊び興ずる。

十二月大

二日 義郷公が多賀神社に参詣される。当家では一代に一度参詣する。由緒があるという。


天正十八年(庚寅)

七月大

十一日 関白秀吉公が相州の北條氏政を攻め滅ぼす。氏政は自害し、息子の氏直は大坂へ上る。後に高野山へ入り病死する。この時の日記は紛失したので詳しく記すことはできない。秀吉公が奥州征伐を行い伊達、佐竹、最上、南部等が悉く降参する。奥州と関東八州すなわち相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、出羽、越中、越後、佐渡をたちまち手中にする。


天正十九年(辛卯)

二月大

三日 東に赤気が立ち、まるで旗のようである。また龍虎のような雲が坤の方角に立つ。これは黒雲である。

四月小

十一日 佐々木神社の祭礼が行われる。

五月大

二十一日 江州比良山が焼失する。三日間燃え続け江州内ではまるで黒雲が覆ったようになり人々は目や口を開けるのが困難である。

六月

二十八日 大雹が降り、鳥などが打たれて死ぬ。

十二月

二十八日 三好次兵衛尉秀次は関白秀吉公の甥であるが、本日関白に任じられる。前代未聞の事である。人々は行く末は長くないであろうと話すという。

二十九日 前関白秀吉公が秀次公へ天下の権を譲る。


文禄元年(壬辰)

一月

太閤秀吉公、当関白秀次公が朝鮮退治を行う評議をする。

三月

二十六日 関白秀吉公父子が諸国の大名等を率いて本日大坂を発ち、朝鮮退治のため九州へ向かう。日記を紛失したので詳しい事は改めて勘案する。

今年、ついに秀吉公は各地に兵を遣わして朝鮮を討ち、皇子を捕虜にする。朝鮮国八州、手に入れた国々は次の通りである。

慶尚道、全羅道、忠清道、京道、黄海道、江原道、感鐘道、平安道

・以上に付属する国々

西生浦、釜山浦、東策、熊川、安骨浦、唐嶋、感昌、忠州等である。

これより朝鮮国は本朝の下につき貢物を進献する。真に秀吉公は神功皇后以来の良将であり、本朝の神妙な武将であるといわれる。

五月

一日 本日から二十九日まで江州三井寺の鐘が鳴らなくなる。そこで天皇から三井寺の開山の廟所にて三十余座の大護摩を焚くよう寺へ仰せ下される。

今年洛下東寺の塔が再興される。檀越は天瑞寺殿である。


文禄二年(癸巳)

一月

五日 太上天皇が崩御し正親町院と追号される。泉涌寺に葬られる。御諱は方仁といい後奈良院の太子であった。弘治三年十月二十七日に践祚、元年は戊午である。永禄三年一月二十七日に即位され、天正十四年十一月七日に譲位される。在位は二十九年であり、神武から百七代の天皇である。

今年の春は夏のようである。山城国伏見城の縄張が始まる。

四月

九日 豊臣家の若君が誕生する。母は淀の局という。江州の旗頭浅井下野守祐政の嫡男備前守長政の娘である。嫡女は京極若狭守高次の妾である。長政には三人の娘がおり、いずれも絶世の美女である。長政の女房は竹生島へ、男女に関わらず天下の権を手にする子を授けたまえと祈り、十一年の間毎年六月に天女を島へ渡す。そして女三人を産む。この淀の局は当屋形の許で養われていたが秀吉公が一柳越後守を遣わして度々所望するので三年前の天正十九年十一月に大坂へ上らせる。淀に居住しているので淀の局と号する。この若君が後の秀頼である。

先帝の崩御につき五畿七道みな物事を慎んでいるのに当関白は不行儀であるので京童共が次のような落書を立てる。

先帝の手向のための狩なれは是やせつしやう関白といふ

父太閤はこの事を聞いて秀次公を諌める。先帝崩御から百日もたたず父子が不仲になる。

惟杏和尚が倭史を考えるに神功皇后が天幹を征伐したのは東漢の献帝の建安五年である。今の文禄二年で千六百三十三年になる。


文禄三年(甲午)

二月

太閤が諸国の守護に命じて山州伏見に城を築く。

二十五日 秀吉公が吉野山で花見を行う。

三月

三日 秀吉公が高野山に参詣する。

七月

二十二日 秀吉公が東寺の塔を建立する。

十月

十三日 江州長命寺から光るものが飛び出る。

十二月

四日 大坂の町に悪徒がおり、七十三人を一人残らず捕まえて誅殺する。この者共は大坂の町に六方から火をかけ住民を途方に暮れさせて金銀重器などを奪おうとしたという。


文禄四年(乙未)

四月小

三日 佐々木神社の祭礼が行われ、申の刻に神輿から光が差す。世にも希な事である。先月から神事が始まる。

五月

十四日 松下兼綱死去。屋形の一族である。

二十五日 当関白秀次公の逆心が明らかになり、七月十二日に高野山に入山する。十三日に秀吉公が検使として福嶋左衛門大夫、福原右馬助、池田伊予守に五千三百騎を添えて遣わされる。この者共は秀次の討手として当日伏見を発ち高野山へ向かう。

七月

十五日 関白秀次公が高野山木食上人の寺にて自害する。御供する面々は山本主殿頭、同三十郎、不破満作、篠部淡路守等である。篠部は関白の介錯を仕る。

十七日 関白秀次公の首、次いで御供の面々の首が伏見に送られる。すぐに翌十八日に石田治部少輔三成を奉行として三條河原にて関白秀次公の首を晒し、次に御供の面々の首を晒す。当関白秀次公に仕えていた面々のうち一味の者共が誅罰される。

熊谷大膳亮、白井備後守、木村常陸守、同志摩守

以上四人は江州屋形義秀公の近習であったが江州が没落した後当関白に仕える。

阿波木工丞、日比野下野守、山口少雲、丸毛不心、一柳右馬介

以上の九人はそれぞれの地で即座に切腹させられる。

御預人の面々は次の通りである。

一柳右近大夫とその妻子

明石右近とその妻女

伊藤加賀守とその妻子

服部采女正とその妻子

前野但馬守とその妻子

但馬守の子出雲守とその妻女

吉田清左衛門、渡瀬左衛門

玄羽、紹巴、安志

江戸大納言

小早川左衛門佐

越後少将

同上

中村式部少輔

同上

佐竹修理大夫

福嶋左衛門大夫

  この三人は後に赦免される。

一 江州屋形右兵衛督義郷は江州にて宛がわれた十二万石の知行を召し上げられる。その身についてはどこの国に住んでもよいとの上意である。秀吉公が申すには、義郷は二十歳にも満たない者であれば単に家老共の仕業であるとのことである。そこで知行を召し上げるのみでその身柄は御預にしない。これにより江州屋形の家が滅ぶ。義郷の罪は家来鯰江権佐の娘を関白の妾に進上したことによる。さらに関白の家老熊谷、白井、木村等は前屋形の近習であったため内々に義郷に勧め関白秀次公と志を同じくするようになった罪であるという。

一 大御所秀吉公は石田三成に命じて秀次公の妻妾、子供を殺す。

秀次公の嫡男仙千代丸、五歳、母は尾張国日比野下野守の娘である。

秀次公の姫君、六歳、母は摂津国小濱御局の娘中納言の局である。

秀次公の子御百丸、母は山口少雲の娘である。

秀次公の子御十丸、母は北野松梅院の娘である。

秀次公の子御つち丸、母は江州義郷の家老浅井土佐守の娘である。

同日に殺された女房達の目録

一番  大上臈の御方一のたいの局、三十五歳

二番  小上臈の御方をつま、十六歳

三番  中納言佐の御局をかめ、二十七歳

四番  をこわの前、十八歳

五番  をいとの前、十九歳

六番  をえんの前、二十四歳

七番  をさこの前、三十三歳

八番  をまんの前、二十三歳

九番  をよめの前、二十六歳

十番  をあこの前、二十八歳

十一番 をいまの前、十五歳

十二番 あせちの前、三十歳

十三番 少将の前、二十九歳

十四番 左衛門督、三十歳

十五番 右衛門督、三十五歳

十六番 妙心、八十歳

十七番 をみやの前、十三歳

十八番 をきくの前、十四歳

十九番 かつしきの前、十五歳

二十番 をまつの前、十二歳

二十一番 をさいの前、二十六歳

二十二番 をこほの前、十九歳

二十三番 をかなの前、十七歳

二十四番 をすての前、二十一歳

二十五番 をあいの前、二十三歳

二十六番 をいまの前、二十五歳

二十七番 をまきの前、十六歳

二十八番 をくまの前、二十二歳

二十九番 をすきの前、十九歳

前大納言の娘

三位中将の娘

津国小濱の御局の娘

日比野下野守の娘

山口少雲の娘

浅井土佐守の娘

松梅院の娘

多羅尾彦七の娘

堀田次郎衛門の娘

乾備前守の娘

出羽最上義光の娘

秋羽道閑の娘

肥前国本江主膳守の娘

岡本美濃守の娘

村井善右衛門の娘

秀次公が内通した尼僧である。

一のたいの局の娘

伊丹采女正の娘

坪内市右衛門の娘

右衛門督の娘

別所三左衛門の娘

鯰江権佐の娘

越前国の百姓の娘

京の町人の娘

古川主膳正の娘

大屋三河守の娘

斎藤平兵衛の娘

大嶋次郎右衛門の娘

木村清兵衛の娘

これより御末衆である。

三十番  をあや、三十四歳    三十一番  東、六十一歳    三十二番  をさん、三十二歳

三十三番  つほみ   三十四番  ちほ

以上の面々を八月二日に京中を車で引き回し、四條の橋の西の土手際にて誅殺する。前代未聞の憐れな出来事である。

十三日 秀次公の母公が出家する。村雲御所という。


慶長元年(丙申)

今年、徳川家康公が内大臣に任じられる。高麗の遊撃将軍が参り和睦を請う。天下で土が降る。

閏七月

十二日 大地震が起き諸国の家屋等が倒壊する。

八月

十四日 全国で長さ四、五寸程の毛が降る。同日、西方に赤気が立ち人形のようである。


慶長二年(丁酉)

七月

十八日 善光寺の如来像が京都に到着し、新大仏の本尊である釈迦像が退けられる。この如来像は太閤が命じて取り寄せたものである。

八月

二十八日 前将軍室町殿である源義昭公が死去する。享年六十一歳。霊陽院殿と追号される。

十二月

四日 江州国内の古城が秀吉公の命により破却される。


慶長三年(戊戌)

一月

二十日 秀吉公の命により花見のために醍醐山の普請が始まる。

二月

三十日 佐々木松下石見守源之綱法名長参死去。享年六十二歳。松下若狭守長則の嫡男である。弘治元年に前屋形義実公の勘気に触れ山州碧海郡松下に居住し、これにより松下を名乗る。元来は江州西條氏の庶流である。

三月

十四日 江州前屋形義秀公の後見であった箕作左京大夫従四位下行源義賢入道抜関斎承禎が死去する。梅心院と追号される。この承禎は前屋形義秀公の祖父雲光寺殿の舎弟箕作弾正少弼定頼の嫡男である。

十五日 秀吉公が醍醐で花見を行う。この時当屋形義郷公は家来小川土佐守、新庄雑斎、同東玉等に命じて山中に茶屋を構え秀吉公をもてなす。そこで義郷公が

聞説醍醐華の世界見来たれは此の処雪の乾坤

と詠まれたところ、即座に秀吉公が

天下残らぬ華の盛には山より山や風にほふらん

と詠む。

八月

十七日 善光寺の如来像が帰国する。

十八日 前関白従一位豊臣秀吉公死去。享年六十三歳。

二十二日 大仏殿が落慶し供養、棟上が行われる。導師は照高院、三宝院、天台真言より計三百人が三十三間堂から二列で歩き向かう。

二十九日 秀吉公を東山に埋葬する。実は吉野に埋葬されるという。

九月

三日 秀吉公の形見の品として大兼光の太刀が江州の義郷公へ贈られる。この太刀は先代義秀公が秀吉へ諱字を与えられた時に贈られたものである。今再びこのように返ってくるのは不思議なことである。

十一月

二日 東方に客星が現れる。


慶長四年(己亥)

四月

十八日 豊臣秀吉の廟が号を賜り豊国大明神となる。

十月

四日 江州志賀八幡宮から光が出る。


慶長五年(庚子)

夏に天王寺が造営される。

六月

十六日 内大臣家康公と中納言秀忠卿が会津の上杉景勝を退治するため進発する。

七月

十四日 東西の方角に毎夜旗雲が立つ。

十七日 家康公を退治するため石田治部少輔三成、毛利右馬頭輝元、長束大蔵大夫、増田右衛門尉、大谷刑部少輔、前田徳善院、小西摂津守、安国寺等が大坂へ集まり東国征伐の評定を行う。江州前管領右兵衛督義郷へは秀頼公の上意であるとして、北国表への大将として参陣されよ、そうすれば太閤からの勘気を赦免し本領を安堵しようとの奉書が遣わされる。使者は南條伯耆である。義郷はこれを引き受けず大坂からの奉書を返す。これにより北国表の大将がおらず大坂の面々は困るという。石田三成は再度義郷を頼み、江州一国の軍勢を差し添えようと申すがついに義郷は承諾しない。このため北国への軍勢派遣は行われない。

十八日 大坂から伏見城代へ使者が遣わされる。城代の松平主殿頭、同五郎左衛門、鳥井彦右衛門、内藤彌三右衛門、息子小市郎、澤田民部少輔は使者を斬って捨て承諾せず、あまつさえ近辺を焼き払い篭城する。これにより大坂方が伏見城を攻める。寄手は筑前中納言、備前中納言、増田右衛門、長束大蔵大夫、嶋津兵庫頭等を大将として総勢三万六千騎で七月晦日に伏見城を取り囲む。鬨の声を三度あげて合戦が始まるが江州甲賀の住人堀十内、山口宗助の一門四十二人が寝返り、子の刻に敵を引き入れ松の丸や殿守に火をかける。これに城内は手のうちようもなく討死し、翌八月一日卯の刻に伏見城が落城する。城内の大将は一人残らず討死する。

二十二日 今日から客星が現れる。天下で疫病が流行し多くの死者が出る。

八月

二日 大坂勢が大津城主京極若狭守高次へ使者を遣わす。高次は使者を斬り同意しない。これにより二日の未の刻から大坂勢が大津城を取り巻き合戦になる。寄手の面々は立花左近将監、伊藤民部少輔、安芸中納言、備前中納言、増田右衛門、長束大蔵大夫、嶋津兵庫頭、堅田兵部少輔、坂田作左衛門、石川民部少輔、高田小左衛門、澤田刑部少、乾備中守、筑紫上野介、久留嶋藤四郎、南條伯耆、同中務、石川掃部頭、木下備中守等を大将とした総勢八万三千騎である。二日から四日まで戦い、四日の午の刻に調停があり京極高次は城を明け渡し高野山へ退くことに決まる。これより諸将は美濃国関ヶ原へ向かう。増田右衛門尉は石田に向かって、志賀北郡へ軍勢を遣わして義郷を攻め滅ぼそうと申す。石田は、それは大事の前の小事である、義郷如きの世を失った者は味方が天下を取った暁には降人となって自らやってくるものである、確かに度々北国表への大将を頼むのを承諾しなかったことはけしからんことではあるが義郷を攻め討てば江州一国の土民等にとっては先祖譜代の主君であり百姓等が一揆を起こすであろう、そうなれば濃州への進軍も延期することになり必ず味方の不利となろうと申す。これは石田三成の金言であると後々までも語られるという。

六日 西国、大坂の諸将は伏見、大津の二城を攻め取って大いに利を得、本日濃州関ヶ原に陣取り東国勢を待ち受けて合戦をしようとの評定が行われるという。同日、伊勢口へ山口十兵衛尉、九鬼大隅守に四千騎を添えて遣わし、舟にて尾三の浦々へ渡り家康方の城々へ放火するよう命じる。また北国表へは加藤主膳正、澤田豊後守に諸浪人、その他集まった軍勢を添えて江州七里半へ遣わす。この有様を上方で家康公に味方する城主たちが武州江戸へ早馬にて知らせる。そこで結木(結城)相公秀康卿を江戸に残して中納言秀忠卿が東山道を攻め上る。秀忠公に供奉する面々は榊原式部少輔、森右近大夫、大久保相模守、酒井右兵衛佐、本多佐渡守で総勢五万七千騎である。また東海道を攻め上る家康公の先手は羽柴左衛門大夫、同刑部少輔、福嶋掃部頭、京極丹後守、織田有楽、同河内守、山名禅高、金森法印、同出雲守、黒田甲斐守、加藤左馬助、山岡道阿彌、藤堂佐渡守、羽柴三左衛門、池田備中守、有馬法印、同玄蕃、田中兵部少輔、伊賀侍従、羽柴越中守、浅野左京大夫、生駒讃岐守、小出遠江守、徳永式部卿法印、同左馬助、蜂須加長門守、堀尾帯刀、中村式部少輔(異説に一学)、富田信濃守、山内対馬守、九鬼長門守、市橋下総守、稲葉蔵人、古田兵部少輔、桑山相模守、亀井武蔵守、寺澤志摩守、石川玄蕃允、佐久間河内守、石川伊豆守、丹羽勘介、中川半左衛門、戸川肥後守、村越兵庫頭、本田因幡守、佐久間久右衛門等である。続いて井伊兵部少輔、本田中務を添えて八月一日に武州江戸を発ち、十四日未の刻に諸軍勢が悉く尾州清洲に着陣する。

十五日 関東の軍勢が美濃国へ進み対陣を張る。敵味方共に軍勢を繰り出して日夜合戦が行われる。ところで北国口では羽柴筑前守が今月三日に三田山を越えて大聖寺表へ進軍し合戦する。城主成田左衛門佐、山口玄蕃允、息子右京進、婿山口源内等が城外へ討って出て戦うが羽柴筑前守(前田のことである)の軍勢が勝利し、山口、成田の大将並に家人七百騎が討死する。これより羽柴筑前守は軍勢を収めて居城金沢へ引き上げるが、小松城主丹羽五郎左衛門が討って出て筑前守の軍勢と戦い大半を討取る。この時筑前守は十死一生の合戦が一日に三度あったという。

二十二日 関東勢七万六千騎が河田の渡(異説に木曽川)を上下から渡り岐阜城を取り囲む。岐阜城主である織田城介信忠の嫡男岐阜中納言秀信は家来の木造左衛門佐、百々越前守に三千二百騎を添えて木曽川を防がせるが、家康公の軍勢が川の上下から渡ったため秀信の先手は防ぐ力もなく敗北し岐阜へ馳せ帰り篭城する。家康公の軍勢は勝に乗じて城際まで追いつめ首四百余を討ち取るという。酉の刻に合戦が終わる。

二十三日 岐阜表の合戦が卯の上刻に始まり各所にて戦うが岐阜勢は度々敗北する。敵味方共に大いに働く。詳しいことは日記に記し難い。同日申の下刻に福嶋左衛門大夫が仲立ちして秀信が城を明け渡す。この合戦の前に秀信が手勢のみでは関東の大軍を防ぐのは困難であるので大坂へ使者を遣わして加勢を請おうと申したところ、石田三成が評議して嶋津右馬頭を岐阜へ加勢に差し越すことに決まる。しかし再度評定が変わり大坂からの加勢がなくなるという。秀信の人質には母公並に今年二歳になる姫君とその母が大坂へ置かれている。姫君の母親は秀信の家臣和田孫大夫の娘であるという。

二十四日 戌の刻に秀信が尾州こをりという所へ行き十月末まで逗留する。十月の二十八日に高野山へ入る。

秀信の軍勢は全部で六千五百三十騎である。

秀信の今度の合戦での旗等の事

旗は白旗二幅に瓜の紋        大馬印はのうれんに瓜の紋

小馬印はさぎの三だんご       番指物はそれぞれの思う通り

秀信が番指物を思い思いにさせたのは少勢を大軍に見せるための手段であるという。

秀信の家来の中で今度の合戦で大いに働いた者については、木造左衛門佐、百々越前守両人は先手である。その他には梶川才次郎(弥三郎の子)、武藤介十郎、入江左近、飯沼十左衛門(勘平の事)、安達中書、山田又左衛門、瀧川治兵衛、和田孫大夫、斎藤斎宮、津田藤右衛門、織田兵部、十野左兵衛、伊達平右衛門、秀信の弟織田左衛門、大岡左馬介等である。

秀信に付き随い高野山へ入った者は伊達平右衛門、安達中書、竹内三九郎、荒川木工左衛門、山井采女正、高橋一徳斎、森左門、越地太左衛門等である。

秀信が岐阜を開城し渡したため大坂にて母公並に姫君を殺す事になるが、秀信の命により家人和田孫大夫という者が八月晦日に大坂にて人質を救い出す。しかし母公と姫君の母は夜中を落ち行くには歩くこともできないので道中にて刺し殺し首のみを下人に持たせ、今年二歳の姫君のみを孫大夫が背負い家人一人で江州へ落ちる。この孫大夫という者は江州が先代の頃甲賀郡の旗頭であった和田大蔵大夫高盛の息子である。

岐阜城が落城した日、瑞蔵寺の三ヶ所の砦も落ちる。この様子を関東勢の大将中納言秀忠卿から武州へ報告したところ内府家康公、同下野守が軍勢を率いて九月一日に武州の居城江戸を発ち十四日に美濃国赤坂の丸山に旗を立てる。ここから西国勢を見渡すと陣立ては十七備である。石田治部少輔、長束大蔵大夫、増田右衛門、大谷刑部少輔、前田徳善院、安国寺、筑前中納言、備前中納言、小西摂津守、龍蔵寺、小野木縫之介、小川土佐守、石原隠岐守、澤田伊賀守、乾豊後守、長曽我部土佐守、安芸宰相、吉川駿河守、鍋嶋信濃守、五嶋大和守、平戸法印、布施屋飛騨守、玉置小平次、熊野新宮、高橋九郎、有馬修理進、秋月三郎、青木紀伊守、太田飛騨守、高橋主膳、堅田兵部少輔、成田中書、岡部又十郎、対馬侍従、脇坂中務、朽木信濃守、森(異説に毛利)長門守、同豊前守、糟屋内膳正、小早川左衛門佐、赤座久兵衛尉、嶋津兵庫頭等である。総勢八万六千騎である。

九月

十五日 関ヶ原合戦が卯の刻から始まり西国勢が敗北する。午の刻に西国勢は悉く追討ちにされる。嶋津は伊勢路へ落ち和泉へ出て堺の港から船で帰国する。その他の面々はその場で関東勢に降参する者もあれば江州北郡へ落ち若狭国へ行く者やすぐに大坂へ帰る者もいる。叛逆の大将石田三成は佐保山の近く薮原にて捜し出され生捕りにされる。小西摂津守行長、安国寺も各所で尋ね出され生捕りになる。関ヶ原合戦の敗北については、金吾の家来平岡牛右衛門、稲葉内匠という者が主人金吾を諌め家康公へ忠功仕るべきであると寝返らせ、十五日午の刻に金吾が六千七百騎で裏切ったため西国勢はたちまち敗北する。

十九日 石田三成等が洛中を雑車にて引き回され六條河原にて誅伐、首が獄門に掛けられる。その後家康公父子は大坂城に入り北国、西国の成敗を執り行う。秀頼は今年八歳であり、家康公は殊の外秀頼を憐れむという。

二十四日 家康公が二條の館にてこの度の関ヶ原合戦で軍功のあった面々に賞地を与える。敵対した大名等もその多くを赦免して以前のように所領等を与える。この時家康公は大いに天下の権を取る。

二十五日 会津の上杉景勝から和睦の使者が上洛する。家康公の旗下になるという。

二十八日 内府家康公が一通の懇書を遣わして江州の義郷を呼び出す。使者は徳永式部卿法印である。これはこの度の合戦で石田三成が秀頼公の上意であるとして義郷に北国表の大将を頼んだのを承諾しなかった事を内府は大いに悦び浪人の義郷を召し出そうということである。義郷は、この度西国勢が残らず東国退治のため下向するのに吾一人石田に味方しないのは内々に内府と通じているからであると人々は言っている、そうであるのに今内府から賞地を受けることはできない、さらに内府に対して何の功もないのに賞を受けるのは非理であると返事をして出仕しない。内府は、今の世の良将であると話すという。

十月

十三日 地震がある。

二十四日 大洪水が起こる。

家康公父子は東国に下向する際江州に立ち寄り、七月の伏見城合戦で寝返った甲賀の者共を訴えた者に水口城にて賞地を宛行う。寝返った者十三人は磔にされる。

京極高次は大津から高野へ向かう道中で関ヶ原での家康公の勝利を聞き、取って返して家康公に拝謁する。内府は喜んで高次に大領を与える。


慶長六年(辛丑)

三月

六日 当国の屋形義郷公が志賀郡の宇佐八幡宮を造営する。

二十九日 志賀郡唐崎の松が先年の兵乱から雑人に枝葉を伐り取られついに枯れてしまったのを義郷公が御覧になり、百姓等に命じて山門無動寺山から一本の枝も伐られていない松を取り寄せ唐崎の洲崎にて高く盛った砂に植え、松の下に別当明神の宮を建立される。義郷公は次の歌を詠まれる。

やちよふれたた唐崎の一松うへし吾身は雲かくるとも

この松は今でもある。良将の形見であり、後年蒲生氏郷は上洛する際に大津からこの松を見て義郷公のことを思い次の歌を詠む。

言語道断君か形見に植をきし志賀若松余所に見とは

今年家康公が令三要、貞観政要を印刷するよう命じる。


慶長七年(壬寅)

四月

四日 大風により多くの民家が倒壊する。

九月

九日 大津の町屋九百七十五軒が卯の刻から子の刻に焼ける。

十二月

四日 洛東の大仏殿が焼失する。


慶長八年(癸卯)

二月

秀頼が内大臣に、家康公が征夷将軍に任じられる。

六月

三日 山門から光るものが出て伊吹へ飛ぶ。

十一月

九日 勢多大明神の宮が鳴動する。江州や洛中の人々がこの宮へ群をなして集まる。時々宮中から光が出てまるで雷光のようである。この宮は大龍神の一社である。


慶長九年(甲辰)

七月

十五日 栗本郡阿彌寺の如来像が汗を流す。頭からは光が出る。国人や近国の人々が参詣する。

八月

十四日 家康卿の命により獅子田楽が催される。諸大名からの馬二百頭が豊国大明神の前を引かれる。四座の猿楽が新能を一番ずつ行う。

九月

二十四日 佐々木神社が鳴動する。屋形義郷は七日間の護摩を命じる。修行する僧は山門横川恵心院である。


慶長十年(乙巳)

徳川秀忠卿が征夷大将軍に任じられる。この時諸侯二十三人が官位を得る。

九月

近国、遠国ともに大疫病が流行し多くの死者が出る。将軍は各国の守護に命じて大般若を唱えるよう諸寺社へ触れ渡す。江州一国で疫病にて死ぬ者は二千人を超える。

十二月

十五日 南海で大波が起き八丈島の近くに一夜にして大山が現れる。今年まであるという。


慶長十一年(丙午)

朝鮮国の僧松雲が来朝し和睦を請う。

今年前将軍家康公が武州江戸城を築く。昔の鎌倉に準ずるという。

六月

六日 大洪水が起こる。

七日 後藤入道が死去する。


慶長十二年(丁未)

閏四月

朝鮮国王から三官使が遣わされ来朝する。六月に帰国する。

今年前将軍が駿河国府中城を築く。


慶長十三年(戊申)

大織冠の像が破損し年を越えても話し合われる。

今年白髭大明神の宮が秀頼公の母公により建立される。その他にも各地で社殿が建立される。


慶長十四年(己酉)

二月

八日 家康公の命により大仏再興の普請が始まる。

三月

四日 四角い月が出る。その消えていく様は夕日が山に沈んでいくかのようである。

五月

三日 屋形の一族である京極若狭守宰相源高次が死去する。享年四十七歳。長門守高吉の嫡男である。法名は道閑と号する。

九月

十一日 進藤入道道全死去。享年八十三歳。


慶長十五年(庚戌)

当将軍が尾張国名古屋に城を築く。

今年嶋津を琉球に遣わす。嶋津は琉球を征伐し国王を生捕りにして帰国する。将軍は琉球を嶋津に与える。

七月

江州の義郷入道台岩が家来山崎左馬頭家盛を通じて前将軍へ訴える。その内容は、山門は既に天正十七年に秀吉公により再興されたが僧米にも窮乏するほどであり本朝の天台山が破滅しようとしているのは悲しいことである、将軍が以前関ヶ原の時に吾に与えようとされた領地を少しでも山門へ寄進してもらえれば大慶であるとのことである。前将軍はこれをお聞きになって、義郷は功があっても賞地を受け取らない者である、それが珍しく所望しておりさらに山領の事は内々に考えていたと仰せになり、すぐに山門へ寺領を寄進される。それは次のような内容である。

比叡山延暦寺に近江国志賀郡内で合計五千石(目録は別に与える)を永代に亘り寄付する。一層寺務に励むよう申し付けるものである。

    慶長十五年七月十七日                             家康判

                   山門三院修行代

九月

二十二日 大仏殿の柱立が行われる。豊臣秀頼公が再興される。近年秀頼公の母公である淀の局は諸寺社を建立しているが、何者かがその本心を落書に詠む。

秀頼の天下をとらぬ物ならは神や佛のはちのかきあき


慶長十六年(辛亥)

三月

二十七日 天皇が譲位する。翌日京都において秀頼公と家康公が会盟する。福嶋左衛門大夫は秀頼公に供奉し策略を施すという。

四月

十二日 天皇が即位する。

六月

三日 東の空に客星が現れる。

七月

十四日 丹州に一頭三足の子が生まれる。この子供は京へ上り洛中を回して見物される。


慶長十七年(壬子)

四月

二十四日 午の刻に雨、雹が降る。

十月

十二日 屋形の一族である箕作後見義賢入道承禎の嫡男右衛門督源義弼が死去する。法名は鷗庵玄雄と号する。


慶長十八年(癸丑)

七月

九日 雲光寺が炎上する。氏綱公の正に命日にこのような事が起きる。義郷公は寺門について改められ、これにより雲光寺は破却される。

十一月

大津四位宮が焼失する。

十八日 当将軍が義郷へ、公方義輝公が所有していた歴代六人の華論二十一ヶ条が江州家に必ずあるはずであると所望する。そこで義郷は書き写して将軍家へ進上する。家来等はこの内容を見て日記に書き留める。その二十一ヶ条というのは次の通りである。

華論六人連衆

池房泉能、江州芦浦寺、堺文阿彌、筑柴朱阿彌、京珠慶房、徳大寺義門

下七ヶ条 (以下訳が困難なので原文をそのまま載せます

一 主居同華二重之見ニ非ス

一 体之留主客ニ華枝ヲ争ハス

一 客居後華之見ニ非ス

一 水邊ニ流テ葉ヲ平向ニ非ス

一 右左之留替共同色ニ非ス

一 後水限同色見越ノ華ニ非ス

一 右左之水邊上下ノ留ニ非ス

中七ヶ条

一 従二真下体葉肉華ニク地骨之見ニ非ス

一 従二真下体刀葉ヤリ葉面見ニ非ス

一 従二真下体并ノタン同色リン華ニ非ス

一 従二真下体押葉アタ葉何に非ス

一 従二真下体二葉ノ上ニ体ナキ事ニ非ス

一 従二真下体二葉ノカリ葉カレハ面見ニ非ス

一 従二真下体谷峯ナクシテ見マキレ平道ニ非ス

上七ヶ条

一 真々体ヨリ曲真ニ非ス

一 真々庭前ニシテ木中ニ体葉ヲワカス

一 真々ノ体遠山ニシテ後ヲ通ラス

一 真々ノ木リヤウ華ケンニナクシテ通ラス

一 真々体庭前ニシテ草華長ケヲアラソワス

一 真々ノ上トヲリ有トモ木華通ラス

一 真々ノ体遠山ニシテ里木後ヲコサス

以上の二十一ヶ条を末代までの華道の法度とする。この他に法があるというのはそれは異説である。これは六人が華論を行って定めた法であるという。


慶長十九年(甲寅)

四月

十六日 大仏殿の鐘を鋳造する。

九月から十月にかけて五畿内にて伊勢踊りが流行する。

十月

二十五日 大地震により各地の堂が倒壊する。


元和元年(乙卯)

五月

七日 大坂合戦が行われる。日記を紛失したため記さない。旧冬十一月十日に将軍父子が京に到着し、十一日に大坂表へ出陣、合戦が行われる。十二月四日の総攻撃の後京極の後室の調停により将軍家は大坂表を引き払い下向する。詳しい日記はない。


元和二年(丙辰)

四月

十七日 相国家康公が他界する。日光山に葬られ、東照大権現宮と号する。


元和三年(丁巳)

五月

一日 大雹が降る。

八月

二十六日 上皇が崩御され後陽成院と呼ばれる。第百八代の天皇であり諱は周仁、陽光院の太子である。母は新照洞門院で勧修寺内大臣晴秀公の娘である。天正十四年十一月七日に受禅、同二十五日に即位、慶長十六年三月二十七日に譲位、在位は二十五年である。玉体は泉涌寺に葬られる。


元和四年(戊午)

八月

六日 六角堂が焼失する。

二十九日 三井寺観音堂が焼失する。


元和五年(己未)

夏から冬にかけて東南の雲間に毎夜白気が立ち、まるで牛の角のようである。大きさは数十丈である。また彗星が東北の方角に現れる。世間で多くの噂が流れる。この時天皇が御製を作る。


元和六年(庚申)

二月

三十日 上京が焼ける。

三月

四日 上京が焼ける。

八月

九日 屋形の一族で箕作後見義賢入道承禎の次男である大原中務大夫源賢永が死去する。享年七十四歳。法名は承漢と号する。この人は関ヶ原合戦の後将軍家から召し出される。賢永の息子は十二歳の時から前将軍家康公に仕えており、その父ということで関東へ伺候する。賢永は若年の頃に父承禎の伯父大原中務高保の養子となり大原を名乗る。関東に伺候した後は再び佐々木を名乗るという。


元和七年(辛酉)

六月

十八日 将軍秀忠公の娘が禁中に入り女御になる。

七月

九日 江州屋形義郷入道台岩が今年四十五歳にして初めて子供を得る。これは佐々木大明神に祈って授かった申子であるという。義郷公の曽祖父である雲光寺氏綱公の正に命日に生まれ安産であるのは不審である、氏綱の再誕であろうと家来は申して祝う。そこで氏綱公の幼名である龍武御曹子と名付ける。鷦鷯の御伝がある。母は岐阜中納言秀信卿の娘であり、和田孫大夫が大坂にて奪い取った姫君である。江州にて百姓に養われていたのを義郷が妻に迎える。

十一月

二十一日 大風が近国の多くの山木を倒す。彌三郎風という。


元和八年(壬戌)

八月

十二日 屋形の一族である京極の次男丹後守侍従源朝臣高知が死去する。法名は道可である。


元和九年(癸亥)

五月

五日 龍武御曹司が元服する。当年三歳であり四郎氏郷と号する。

七月

九日 酉の刻に前江州管領少将源義郷入道台岩が逝去される。源光院殿興山崇岩と号する。享年四十七歳。

一 元和元年、二年に義郷入道が当家の庶流のうち系譜が正しくあるものを金泥の巻に入れる。その家々は次の通りである。

京極家  元祖氏信から参議高次まで十四代続く

黒田家  同氏信から甲斐守長政まで十二代続く

朽木家  元祖義綱から信濃守元綱まで十代続く

亀井家  元祖義清から新十郎茲矩まで十六代続く

尼子家  元祖義清から兵部少輔高忠まで十三代続く

松下家  元祖長綱から石見守之綱まで九代続く

森川家  元祖宗綱から二郎氏兼まで八代続く

以上の七家は元和元、二年に改めて義郷が系譜に書き入れる。この他にも続いている家々は多く、これまでに改められて当家の巻に入るという。

以上の日記は天正二年までは毎月の正記である。それから後の元和までの日記は義郷公の家来の家々に書き置かれたものを集めて記す。屋形代々の日記は天正十年六月四日に観音寺城が落城した際に残らず焼失した。以上の日記は江州七手組の目加田、馬渕、伊庭、三井、三上、落合、池田等の家の日記である。


巻第十八・完