山陰・山陽の旅(その3)

                   思い出の道(その3) 朝来―姫路―岡山―広島

   旅もようやく北近畿から山陽道に入ります。これからが本当の中国地方の旅になります。この地方にも、まだ、いくつもの思い出があり、そこを旅することになります。

 

(3月31日)

 7時に宿を出て車を清掃、7:40に出発。円山川沿いに南下し、鳥居橋から出石神社に行く。出石神社は但馬国一宮で、出石の町からすこし離れており、古い神社らしい趣がある。神職の奥さんらしい人が掃除をしており、お守りを授けてもらう。

 この神社もまた、渡来人の神社である。古事記や日本書紀では、祭神の天日槍命新羅の王子で、8種の神器を持って日本に来た(日本から来た女を妻としたが夫婦喧嘩をして帰ってしまったのを慕ってきた?)と言う。そして、但馬に住み着き、この地の開拓に努めたと言われ、但馬はこの一族の根拠地になったと言う。元の妻の国の難波に行こうとして海の神に妨げられたとか、自分で住みやすいところを探しますと言って、近江から若狭、そして但馬に来て、地元の長の娘を娶ったと言われ、後からきた渡来人が住む場所を見つけるのも大変だったのだろう。

 

             出石神社                                       拝殿

 ここから、出石市街に向かう。すると正面にお城が見える。何時、出石城が再建されたのかと思って近付くと、張りぼて。町の青年会が160枚のベニア板を使って先週の桜祭りに合せて作った出石一夜城なるものであるが、残念ながら、桜はまだ。

 

           ベニヤ板一夜城                    出石城址(ここに作ったのだ)

 出石の町は小さいが綺麗な町。今は豊岡市に合併されている。江戸時代、三大お家騒動の一つ、仙石騒動があったところでもある。

出石皿そばが有名とか。辰鼓櫓は城主の登城を知らせる櫓を明治14年に西洋式の時計をつけた時計台に改造したもので日本最古?という。(札幌と同じ時期)

             城跡から見た町並み                  辰鼓櫓

ここから県道10号を行こうとすると、和田山方面は通行止め。昨年の台風、豪雨などの影響である。仕方がないので国道10号を遠回り。果たして、奥多々良木ダムに約束の10時が厳しくなった。

312号を進み、朝来に着き、奥多々良木ダムへの道に入る。ここは昔は農家がダム保障で貰った金で立てた豪邸があるのみであったが、今は開けてにぎやかになってダムサイトも観光地化している。

奥多々良木発電所に着いたのが10時5分。所長が出迎えてくれた。この発電所は、その後の増設も含め、1932KW500kVの揚水発電所では世界最大である。関西電力の原子力発電の電力貯蔵の大きな部分を担っている。自分が設計し会社にとっても、最初の500kV変圧器が納入されている。

所長も建設当時の昭和49年頃、ここにしばらくいたこともあると言う。そして、普段は入れない上部調整池の黒川ダムまで案内してもらった。この周辺の山も昨年の台風でやられ、流木なども多かったと言う。発電所内に入って、発電機や変圧器を見たが、当時の製品とその後増設されたものの大きさ、騒音などだいぶ違い、技術の進歩を感じさせられた。

それにしても、はや30年以上の年月が過ぎたが、これから何年運転するのだろうか?おそらく当時手がけた大半の製品が自分が死んでからも使われているであろう。

個人としては、喜ぶべきことだが、あまりに寿命が長すぎて会社としては困ったものですよと、つい所長にも愚痴をこぼした。
                      
         下部調整池                                上部調整池
                
                                     ダム全景
                   
      工場試験時の640MVA変圧器            黒川ダム

                  奥多々良木揚水発電所

所長に感謝し、発電所を出て、道の駅「あさご」で昼食をとり、播但道に乗って姫路に向かう。この道は一部、工事中で対向車線の片側閉鎖で交互通行の所があったりしたが、通行料が少なく、1寺半には、姫路城に入ることが出来た。

久しぶりの姫路城だが、やはり、天下の名城である。天気も良く城から見る景色も素晴しかった。

 

        姫路城(例年なら桜が咲いているのに)        城からの姫路の町

 城を出て、西国33ヶ所27番札所書写山円教寺に行く。ここは天台宗三大道場の一つとかで、修行僧など受け入れる為、規模が大きい。

ケーブルでのぼり、深い木立の中を歩いていく。建物は何回も火災にあい、大正年間に再建されたもの。

 

          円教寺山門                            本堂

 ここを降りると、4時になり、駐車場の売店で団子など食って、そこの夫婦と話す。やはり、桜は一週間以上、遅いと言う。気ままな旅でうらやましいなどと言われつつ16:40に別れて姫路西ICから高速に乗り岡山ICに17:20に着いたが、退勤時となって市内で時間がかかり、宿の岡山キャッスルホテル(ビジネス)の駐車場に契約時間の6時を待って入る。

 昨夜来、うまいものを食っていないので何か食おうと思ったが、歯が痛くて硬いものが噛めないというアクシデントで、結局、豆腐料理屋があったので豆腐かに雑炊とか言うものをメインに食って一杯やって終る。

(この日 226km)

 

(4月1日)

 朝、7時過ぎにホテルを出て、徒歩で後楽園に向かう。近くだろうとろくに調べもしないで行ったのが大間違いで、片道2km以上もあった。

先ずは、岡山城に向かう。コンクリート造りだが、外観は素晴しい。本丸の横を通り、旭川を渡って南門に出たが、ここは8時半にならないと開かないと言う。仕方がないので川沿いの遊歩道をとおり正門に向かう。堤防の桜はまだつぼみ。椿が満開で一面に散り敷いて、誰がやったのか柵の柱の上に一つずつ並べてあった。

            朝靄の岡山城                     誰が置いたのか椿の花

正門には、8時前に着く。入場料を聞くと65歳以上は無料だと言う。久しぶりに行ったが、中は水戸の偕楽園などよりもよほど良く整備されている。残念ながら、兼六園後楽園と来て偕楽園は3番目である。御三家と同じだ。中国人の4人連れがいたので写真を撮ってもらう。

 

           園内から見る岡山城                  後楽園

帰りは歩いたのでは、距離もありタクシーで帰る。運転手が赤字だと言うのに、駐車場もただ、2千万円もかけてトイレなど作ってなどと文句を言っている。65歳以上はただだよとも言えず黙って帰る。出発しようとして、今度は契約駐車場出口でひと悶着。1000円のはずが金を入れてもゲートが開かない。管理人が6時前に入ったからだというが、どうもぎりぎりに入ったらしく、数十秒の差で6時前だったらしいことが分かり、しょうがないですねと言うことになった。岡山周辺は、前回の四国旅行の時に廻ったので今回は省略。

岡山ICから、快調に飛ばし、途中、小谷SAで給油しタイヤの空気圧を調整。西条ICで降り、八本松から新広島変電所に向かう。この辺の農家は茶色の立派な瓦葺が多い。

この変電所の変圧器は、昭和50年代の前半に、九州から中部までの500kV連携線の一部として、設計製作したものである。変電所の横の道を奥まで行くと道がL字で行き止まり。狭い所で方向転換しようとしたら、草に隠れて側溝があり脱輪。しかし、そこは四駆の威力で難を逃れる。

 

          西条周辺の農家                       新広島変電所

 再び、西条から375号線でに向かう。江田島の見学時間は、1時と3時というがこの道は混んでいて、1時には間に合いそうも無く、先に島めぐりをすることにする。

音戸大橋から早瀬大橋を通り、西能美島の沖見町に入るとNAVIでは岡の上野狭い道を行くことになった。見れば海岸に広い道がある。どうやればいけるか?そこへ軽のおばさんが横道を下っていく。これについて行けば良いと、後を行くと対向車が来た。やはり、軽のおばさん。お互い交換できる場所を知っているおり、軽同士ですれ違ったが、こちらは大変。かなりバックする必要がある。

ここなら良いだろうと左に寄ったら、後輪が脱輪。今回は、かなり高い崖で、ジャッキを使うことも出来ない。3人でああでもないこうでもないとやっていると、傍の工事機材置き場に小型のパワーショベルがあり、丁度、昼飯を食って帰ってきた工事のおじさんにこれで上げてもらって危機を脱出。良かった!!!

 ようやく下りて進むと小さな港があり、一休み。車を下りて岸壁の方に行くと、親父がいて何処から来たかと聞くので、日帰り温泉などの入りながら旅をしていると言うと、ここにもかんぽの湯があって500円だ。最近、1700mも掘って新しく温泉が出てそこは300円だが塩水に近い。俺は漁師なので塩水は沢山だ。など中々の話好き。聞けば、同じ年で、二軒先に子供の家があり、飯を一緒に食うことにしているが、嫁と姑は中々大変だなどと話好きで30分も色々と話してしまった。この辺の人は、先ほどのおばさんと言い、人懐っこいところがある。

 さて、そうこうして江田島に着いたのは、2時45分頃、すでに30人ほどの見学者が集まっている。

案内は、退職した自衛官で、「年金まで後7年」などと言いながら設備の説明などしてくれたが、歴史的なことよりも雑談が多い。

ここで、愛国的?説明などすると、反戦団体などに口実に使われるのだろう。曰く「ここの松は、全て男松を植えたが、一本だけ女松があり、それが之です」とか「この建物のレンガは英国から一個ずつ紙に包んで輸入したが当時の工夫の日給より高かった」とか、差しさわりの無い話である。しかし、その合間にも、日本国旗の由来とか、朝鮮はけしからんとかも言う。

教育参考館の横には、真珠湾攻撃に使った特殊潜航艇などもある。資料館の中には特攻隊の兵士の手紙などもあるが鹿児島の知覧のように読めないのが残念であった。

 

    大講堂(右の建物が新しいレク施設)                教育参考館  
                        
 
                        特殊潜航艇と大和の主砲砲弾(中央)

明日は、220名の入校式とかで、予行演習をやっていた。本来なら桜が満開なのにと残念そうである。

 帰る途中に立派な施設があるので聞くと、あれは隊員のレク施設で、上の方の階には、幹部用のゴルフシュミレーション設備もあるという。道理で良心に恥じる?所があるので説明案内には建物の写真もなく、何も書いていないんだろうとこれまた冷やかした。

 ここの一階には、喫茶店や土産物屋があり、忘れた帽子の代わりや、海軍名物のカレーなどを買う。

                                     

            幹部入校式の予行練習(事務次官も来る?)

 見学が終わり、4時半ごろここを出て、に6時20分につき、広島まで高速に乗る。ここか、料金所が細切れで3回も金を払う。ゲートで聞いたら、公団やら市やらと管轄が違うらしい。

今日の宿はかんぽヘルスプラザ広島。7時半位について、近くスーパーで、明日の朝飯も仕入れて帰る。

(この日336km)

(江田島)

 明治21年に築地から移り、以後、海軍兵学校として終戦まで続き、世界3大海軍兵学校(アナポリス、ダートマス、江田島)と言われた。

戦後は、10年ほど米軍が教育施設などとして使い、昭和31年に返還。当時、横須賀にあった術科学校を移転し、32年に幹部候補学校を開校した。

この一体は、呉の海軍工廠とともに海軍の最大の基地でもあった。呉では、大和を建造したドックの名残なども見ることが出来る。

 

(天台宗3大道場)

 色々なHPやブログにもっともらしく書いてあるが、比叡山延暦寺は分かるとして、残る二つが大山寺、円教寺らしいが、これもかなりのこじ付けか

このHPにも流用して書きましたが、良く分からないと言うのが本音です。

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