四国の旅(その6)

                東の岬、そして旅の終わり

 今日(3/20)はあまり天気が良くなく、高知城を見たいと思ったが、早すぎて駐車場が開いていません。

高知城は、山内一豊時代に建てられ、明治維新の廃城令や戦災などにも生き残ったもので、天守を初め多くの重要文化財があります。

                   

                        高知城(遥かに天守を望むだけ)

近くのタクシーの運転手に聞くと、この時間でも天守の傍まで行けるというが、あきらめて先に進むことにしました。

大日寺(第28番札所)に参拝し、龍河洞スカイラインで龍河洞に向かいます。

大日寺は、行基が開基し、弘法大師が再興した寺で、廃仏毀釈で明治17年まで廃寺となっていたそうです。
    

         大日寺山門                             大日寺

このように、土佐は廃仏毀釈の影響が大きく、88箇所の中には、山門など一部が残っていて、本堂や大師堂はあとから建てたところがかなりあるようです。

 龍河洞は昭和の初めに全体が探査されたと言う鍾乳洞です。上の出口付近は、弥生人の住居跡になっていて、当時の土器が石灰で覆われていました。

併設して珍鳥センター(長尾鶏など)、博物館などもあります。これらは無料と言うのは良いですね。
                     

                  龍河洞(中央上にこうもり、左上は上古の壷(合成))

 帰りはスカイラインと平行する県道22号を戻ってくると竜馬歴史館と言うのがありました。パンフレットを見ようとすると若いのがそれは入場するお客さま用ですなどと言うので頭に来て入るのは止めた。

ここを少し進むと昔の野市町で、この近くに、昭和40年代にプレスボードの会社があり、何回か来たことがありますが、印象はすっかり変わり、何処かは思い出せません。

後で町にメールで聞いて大体の場所を知ることが出来ました。この会社とは、材料開発でうろ色と思い出が有ります。

 国道44号線(土佐浜街道)に出ると海岸線をひたすら室戸岬に向かって進むのみです。殆どの川は海に直接流れこむ感じで、田圃は殆どありません。

50kmも進むとようやく道の駅キラメッセ室戸につきます。ここで、一休み。

               

                       キラメッセ室戸

 ここには、鯨館というのがあり、昔の伝統漁法など、鯨についての展示がありました。確かに田畑は少なく、鯨など漁業に頼らないと生活は大変だったでしょう。

少し進み、山の中の金剛頂寺(第26番札所)へ向かいます。道が狭く、車では大変。しかし、88箇所は皆近くまで車でいけるようになっており、本当に歩く人は少なくなっているようです。

 ここは、弘法大師が若い頃修行した所で、807年、嵯峨天皇勅願で寺を開いたと言う。

女人禁制の寺で、嵯峨天皇の金剛頂寺の勅額を受けている。平安時代から寺領も多く、その後も、長宗我部、山内氏の庇護を受け、天皇勅額の威光か廃仏毀釈の影響も少なかったようです。しかし、明治32年に火災で全焼、再建されましたが、本堂は昭和58年のものです。

    

    70mほど登る参道(男坂、女坂は薬王寺に真似?)         金剛頂寺

 戻って、55号を南下し、岬の南端近くから室戸スカイラインを逆行し、最御崎(ほつみさき)寺(第24番札所)を参拝しました。こちらも、嵯峨天皇の勅願で弘法大師が開基した寺だそうですが、廃仏毀釈では「この紋所が目に入らぬか!」の印籠(勅額)が無いためか廃寺となり、大正3年に再建されたそうです。

    

            山門                                 最御崎寺

 室戸スカイラインをさらに進んで展望台へ。四方が良く見える展望台です。ここで4人連れの女の子に写真を撮ってもらいました。聞けば名古屋から来たという。確かに車は尾張小牧NOです。最御崎寺の遍路道でも若い男が歩いており、若い人も来ているようです。

       
         展望台から見た55号線方向         しばしば現れるおばさんと

 ここから室戸岬に戻り、中岡慎太郎の像の所から海岸線に行き、散策しました。



    

         子授けの岩(何かに似ている?)            あこう(亜熱帯植物)の根

 この周辺には、あまり観光設備がありません。客が少ないのか、スカイライン途中でも展望レストランが廃墟をさらしていました。仕方がないので、バス停でうどんなど食って一休みして岬を過ぎ、55を北上です。

こちら側も20km以上も何も無く、宍喰に近付いてようやく、サーフィンの若者を見受けるようになりました。この辺はサーフィンの世界大会も開かれると言うサーファーの聖地だとか。

道の駅宍喰でようやく、ゆっくり休むことができ、ここの温泉に入りました。アルカリ系のぬるぬるした湯で、人も入っています。しかし、設備は古く、出てきて周囲を見渡すとホテルリビエラがあり、こちらにも温泉があって設備は充実しているようでした。400/1000円。

 一休みして、さらに北上。日和佐に着きました。ここでは、薬王寺(第23番札所)に参拝です。

参道の石段(女坂33段、男坂42段)に厄年の数だけお賽銭を積みながら上がると厄除けになると言われ、沢山の一円玉が置いてあります。四国一の厄除けの寺とのことです。本堂との途中に61段の階段もあります。

さて、次の厄年は?と言ってももうありません。遅い時間についたこともあり、寺のおじさんが、熊手とごみ入れを持って、賽銭をかき集めているのは興ざめです。

    

           坊主丸儲け??                      薬王寺

 今夜の宿は、すぐ横の湯元ホテル千羽で古い宿です。温泉は硫化水素系で、宍喰とは湯質が違います。

阿波23箇所霊場の参拝を終ったお遍路さんも良く泊るそうです。この先は土佐で道は長く大変でしょう。

 こちらも大変、夜、女房が電話をしていて、帰ってきて、旅行の予定は取り消した、関空から帰らなくても良くなった、名古屋(単身赴任中)のマンションに一緒に行く。ついては、和歌山で紀三井寺など見たいと言い出した。

丁度桜の季節ではあり、行くのも良いだろうと思って天気予報を見ると、明後日は天気は崩れるとある。したがって、明日中に行ってしまわねばならない。宿も探す必要が出てきました。

 

 今日(3/21)は、四国の最終日。早起きして朝飯前に産卵で有名な海がめの来る海岸に行くことにしました。天気はまあまあですが、風が冷たく寒く感じます。海岸からの日の出は山陰で見えず、日和佐城に行って見ました。ここは長宗我部時代の城を再現したと言うが、因島の水軍城と同じようなもの。

         海がめに来る海岸(まだ暗い)              日和佐城

 飯を食って、最後の目的地、蒲生田岬に向かう。これがまたとんでもないところでした。

55号線から県道200号線に入り、しばらく良くと山の中の狭い道で、田圃の農道のような所もある。突然ですが道が広くなり、船瀬温泉保養センターなどという立派な設備が出てきたかと思うと、工事中で道がなくなってしまう。どうせ、地元の人しか通らないので、説明など不要といった感じです。さらに行くと、両側が1.5mほども落ち込んで切り立ったコンクリート面で、巾が2m強しかない道が40mほども続いたりします。さらに進むとダート道で、車の底をすったりします。

ようやく辿り着くと、岬の小高い高台に灯台があり、大沼という池があって周囲は遊歩道になっていますが、他に何もなし。風は冷たく、女房は何でこんな所に来るの?と文句を言うがそれも当然でしょう。しかし、これで旅の目標は達成。

但し、灯台まで登るのは、さすがにやめにしました。
          

           蒲生田岬                     海岸(夏なら景色が素晴しいというがーー)

    
帰りの道も対向車に苦労して55号に戻り、阿南市津峯(つのみね)神社に行きました。

ここの祭神は賀志波比賣命(天照の幼名などという説もあるようです)で開運延命、病気平癒、海上安全などの神社として阿波蜂須賀家の尊崇を受けてきました。8世紀の初め、津峯山の山頂に創建されたと言われていますが、元は麓にあったということで、その起原は大分古いようです。
    

      津峯神社                               神社(山頂)から見た阿南市

 山頂まではロープウエイがあり、これで登った後200段以上の石段を登って到達します。

ここから先は、徳島市ですが、時間がなくなってきたので省略し、徳島港フェリー乗り場へ。
12:10発に乗り、和歌山着14:10です。

和歌山港から紀三井寺へ。日曜日でもあり、混んでいるがようやく駐車場の空きを見つけて寺に向かいます。八世紀末の開基で、真言宗の寺。多くの重要文化財があり、桜でも有名ですが、まだ、少し早いようです。

和歌山に戻り、和歌山城へ行って見ました。御三家でもあり規模は大きいのですが戦災でやけ、名古屋城と同じく、コンクリート造りです。

    

            参道の桜                        本堂の桜(まだ早い)

           

             多宝塔(重文)                 和歌の浦を見て下さい

   

                 

                          和歌山城

 さて、この夜は、フェリーから予約した駅前のビジネスホテルに泊まりましたが、調査不良。設備は悪く、温泉地でも探して泊まるのが正解でした。

 

 一日伸びて今日(3/22)に名古屋に帰ります。今日は、雨で何処かを回ろうという気にもならず、帰る途中の天理市の石上神社によりました。ここは蘇我氏の根拠地でその氏神です。雨は激しく、神社のみ参拝し、25号線でに抜け、東名阪で帰ってきました。名古屋には2時過ぎに到着です。総行程、約2500kmでした。

                 

                          石上神社

 四国の思い出(その5) プレスボード

それは、今から40年以上も前、開発設計に移って、仕事を始めた頃のことです。

当時、絶縁材料として使われていたプレスボードという板紙を、日本特紙という高知の製紙会社から買っていました。龍河洞から室戸岬に向かう途中の香南市(昔は、野市町)に工場があり、色々な問題があって、出かけたものです。

 ここは、大きな製紙会社と違い、自分の山は持っていません。紙の原料のパルプは購入品です。パルプは高いために、戦前から木綿の着物のぼろを繊維として再生し、パルプと混抄していました。ナイロンも殆どなく、布地といえば、絹、麻、木綿、人絹しかなかった時代です。

染料も藍とか、天然ものですから再生も容易であったのです。

これをビーターという撹拌機に入れ、パルプと混ぜ、叩解(繊維をほぐし、すりつぶす)しますが、今と違い、熟練工が手で繊維を握って具合を確かめます。

そして1mほどの長さの円筒に網を張ったものを回転させ内側と外側の圧力差で網に繊維を付着させ、何回かまわして切り取り薄板状に広げ、それを重ねて板紙状にしていきます。

 今は、大型のプレスで1m×2mほどのサイズを作るのですが、当時は天日に干してローラーで加圧して作っていました。

結局、昭和40年代中頃で、この板紙は使われなくなり、会社も経営不振で三菱製紙に吸収合併されてしまいました。しかし、当時の技術者の何人かは、三菱に移り、その後もお付き合いをしてきたのです。

 会社は何処にあったかなと香南市にメールで問い合わせると親切に教えてくれました。

 

「四国を廻って感じたこと」

 四国は、45世紀頃、弥生人が集落をつくり、8−9世紀頃、朝廷の国分寺、弘法大師の密教が入り、12−13世紀頃、平家勢力の興亡があり、1617世紀に大名の版図が決まり、20世紀に本四架橋ができ21世紀には、人口の減少率が全国一とか。

400年毎に大きな変動があるようです。

 現在、四国88箇所を廻るお遍路さんが盛んですが、明治の初め、廃仏毀釈で大きな影響を受けたことを遍路に行く人は考える必要があるでしょう。

修験道や山岳信仰の場を破壊して、影響を受けたのは、仏教より神道ではないかと思います。「**」神社と看板を架け替えても、中身はなくなってしまっている神社が多いのです。

しかし、お遍路めぐりをするのであれば、神社も廻らないとご利益は無いかも??

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