四国を旅して(その1)

            神代の地から弘法大師、平家、そして北の岬へ(04年の旅)

 一日目(3/12)、名古屋のマンションを出て、娘と二人で出発です。途中、京都近くの高速でトラックの跳石で、運転席目の前のフロントガラスにかなりの傷がつけられたのには驚きました。幸い、旅行には支障ありませんでした。
車検が終った後でよかったですね、これだと車検は通らないでしょうと高速のSAのお兄さんが言っていました。

 明石大橋を抜け、淡路島では津名一宮ICで降り、淡路一宮伊弉諾(イザナギ)神宮に行きました。淡路島は、国造り神話のイザナギ、イザナミが最初に作った島であり、アマテラスに国土統治を任せてここに幽宮を作り引退したという土地だそうです。
伊弉諾神宮伊勢神宮は同じ緯度にあり、これを結ぶ中央に飛鳥(明日香)があるというので調べて見るとその通りです。

 伊弉諾神宮、明日香があり、最後に伊勢神宮を造ったというのが正しいのかもしれません。 
 
              明石海峡大橋                 伊弉諾神社              


       拝殿への道                   この辺りからご神木は楠が多い

         伊弉諾神社と伊勢人神宮、飛鳥(明日香)の位置関係

 再び高速に戻り、西淡三原ICで降り、朝の出発も早かったのでクアハウスゆとりっくで温泉に入り、県道25号線で道の駅うずしおに行くましたが、ここから見た渦潮は素晴しいというが生憎と潮の際目で、渦は殆どなく残念でした。大鳴門橋を渡り、四国に入り、岬の先端の孫崎(鳴門公園)に行き、東洋一というエスカレーターで展望台に行くが同じことでした。

    道の駅うずしお                   穏やかな鳴門海峡

 鳴門スカイラインから、徳島自動車道に入り、井川池田ICに向かいます。ここは、四国三郎といわれる吉野川の流域で、時間があれば、川筋を通りたいのですが、計算上、450km位あるので、残念ながら中止です。

途中、吉野川SAにより、美濃田の淵を見ました。生憎、あまり良い天気では有りません。

井川池田ICで高速を降りて、祖谷渓に向かいます。大歩危、小歩危側の国道32号線の予定が、対岸の県道32号線に入ってしまいました。

狭い道で、対向車とすれ違うのも大変な上、「落石注意」の立て札が至る所にあり、しかも、落石も散らばっています。谷に向かって立つ、小便小僧という訳の分からない銅像を横目に見て進んでいくと、宿泊の予約が取れなかったホテル祖谷に来ました。

日帰り入浴をやっていると言い、娘が入りたがっていた温泉に入ることにしました。

      祖谷渓の景色                          なぜここにあるのか意味不明の小便小僧  

この温泉は、ケーブルで170mほど下った川沿いにある露天風呂です。

             露天風呂へのケーブルと露天風呂

 温泉に入って、祖谷渓のかずら橋に行きました。

再び小雨となり、下はぬれていて、橋の板は靴の巾より少し狭い位の隙間があり、渡るのには、中々スリルがあります。とはいえ、かずらの芯はワイヤーで落ちたり、切れたりすることはありません。

       かずら橋の渓谷(奥がかずら橋)と かずら橋(とりあえず第一目標を達成した娘)

 今日の宿は、近くのホテル新祖谷かずら橋で、こちらはケーブルで上に上って入る温泉です。

 

二日目(3/13)。外は3月も中旬だというのに、気温は零度。寒く厳しい環境に住み着いたという平家の落人達の暮らしは大変だったでしょう。

近くの平家屋敷民俗資料館を訪れました。気温はまだ6度。屋根から湯気が立っています。

                

                      平家屋敷

この一族は、堀川という平家残党で、ここに逃れてきて、薬草が多いのに驚き、これを採って
近隣の人達を助けたとか。
そして蜂須賀家が阿波に来た時、戦ったが、後に許されて、西岡
と改姓し、今日に至ったとか。

 ここから、国道32号は、吉野川の大歩危小歩危に沿って下って行きますが、道幅は狭く、車を止める所がありません。 渓流は川下りと相場は決まっていますが、残念ながら時間がありません。

池田を通り、32号線をさらに進み、道の駅「たからだの里さいた」で環の湯に入りました。
ここはアルカリ泉と鉄泉があり、温泉好きな二人にぴったりです。

 さらに進むと、満濃池公園の外周を廻り、満濃池です。最初は8世紀の初めに作られ、これが決壊し、弘法大師空海が827年ごろ改修しましたが、数年後に決壊し、その後、何回も改修され昔の姿は無いと言ってよいでしょう。

          満濃池                           満濃池樋門

四国は、水の少ない所で、至る所にため池があり。弘法大師が作ったという話も数多くあります。後で出てくる田村神社なども大きな湧水に神社を作ったようで、さしずめ、わが家近くの泉神社と言った所でしょうか。

 ここまでくれば、次はこんぴらさんです。

土産物屋が「うちに車を止めれば、店を抜けると50段くらい上に出ますよ」と言うのでそこに止め、「ご利益も50段分減るんじゃないか?などと冷やかし、結局、奥の院まで1368段の階段を上りました。

金刀比羅宮とは、明治以降の名前でその昔は琴平神社で、神仏習合で仏教の金比羅が神になって、金比羅八幡宮となり、明治の廃仏毀釈で神社側が残ったものです。

祭神は大物主命(大国主命の別名とも三輪大神とも言われ大国主命とともに国造りを行ったとも言う)と、四国に流されそこで没した崇徳天皇が鎌倉時代に合祀されています。

戦国時代は、寂れていましたが、江戸時代の初め、○に金の字を入れたうちわを作り、江戸中期から全国に金比羅講が出来、いわゆる金比羅参りが盛んになったとの事。

 江戸時代には、お伊勢参りこんぴら参りが庶民の憧れで、その他、四国88箇所、西国33箇所、坂東33箇所など幾つもの霊場めぐり、それにも行けない人のためには、正月の七福神めぐり、富士山参り(mini富士山が各地にあった)とか色々なご利益を宣伝しています。

 まあ、武家の庇護を受けた禅宗、庶民のお布施の多い一向宗、日蓮宗などに比べ、実入りの少ない天台、真言の密教系が考えた修験道の庶民化?とでも言うべきものでしょうか?

      参道の始まり                             これから本宮へ

                               本宮

                    

                            本宮から見た高松方面

   白峰神社(崇徳天皇を祭る)              奥宮(厳魂神社)

 戻って、次は善通寺に向かいます。四国88箇所の第75番札所ですが、弘法大師生誕地でもあり、807年、唐から帰って最初に建てた根本中堂で、京都東寺、高野山とともに、

天台宗三大霊場の一つです。どうせ、全部は廻らないのですから、最初に行くのに最もふさわしい所でしょう。(来年は創建1200年とか)

ここは、東院(伽藍)と西院(誕生院)に分かれていて、西院の大楠は、名古屋の熱田神宮のものより大きく見えました。


         善通寺                         御影堂
       

        五重塔                           本堂
             

                           大楠

 次は、娘の目的地である讃岐一宮田村神社です。

ここは、8世紀初頭の創建と言われ、定水大明神とも言われ、治水に深い因縁を持つ神社です。祭神は猿田彦の他四神(名前が長くて書ききれない!!)で、大和からこの地に来て、開拓や治水に携わったと言う事です。

諸国一宮の由来を調べると、「神が来て国を平定」「神と地元の神とを祭る」「神が来て殖産」という大きく分けて3つのパターンがあり、それぞれのパターンで時代がおおよそながら見当がつくような気がします。縄文の基盤の上に弥生があり、その上に次の文化がかぶさってくると言うことでしょうか。

                 

                       讃岐一宮 田村神社

 ここから、四国最北端の竹居観音岬に向かいます。ここは屋島の東側の旧庵治町(今は高知市)に属します。島の北端からが、小豆島などを望むことが出来ます。

ここを一周し、屋島に入ります。屋島は、源平の合戦の頃は四国本土と離れた島だったそうで、形が屋根のように見えることから屋島の名がついたとの事です。屋島との間に船隠しというところがあり、平家が源氏の襲来に備えて船を隠していた所。しかし義経は、陸路や島に攻め入り、船で逃げた平家を追って、すこし沖の壇ノ浦で平家水軍を破ったのです。

日も暮れてきたので、屋島の回りも周回し、高松の国民宿舎「栗林山荘」に泊まりました。

 

「四国の思い出」その1  サンマー 四国の三人麻雀

 高松は、仕事で何回も行く機会がありました。

こちらでは、4人いても3人で麻雀をします。3人麻雀、略して「サンマー」です。

普通に、4人座り一人は見ているだけ。麻雀のパイも万子か筒子の2から8までを抜いて花牌を入れてやる。
人の捨てた牌のチーは出来ずポンのみ(上がりはOK)と言った所が基本ルールです。
もちろん、3人でやっても良いのです。(自動台も切り換えて出来ます)

 大きな手が出来て、比較的早く終り、待っている間に飯も食えるし酒も飲めるという考えて見れば、ある種、合理的です。
しかし、慣れないと中々、勝てません。しかも、夜行寝台特急で行き、連絡船で着くと朝で、仕事が済めば、夜行で帰るといった時代が長く続いたこともあり、この麻雀をやる回数が少なく、おそらく負け越しているのは残念です。

                 目次へ       その2へ