紀伊半島の旅(その6)

熊野那智大社から補陀洛山寺

今日も、長い行程になり2回に分けて記述します。

朝起きて、例によって風呂に入り、予定より早く、8時過ぎに宿を出てしまいました。

熊野那智周辺(観光協会パンフレット)

ここから、熊野那智大社に向かいます。途中、世界遺産熊野古道の一つである大門坂(参道)が有り、本来、ここを歩いて上るのですが、二手に別れ、小生は入口の多富貴王子のところまで行って雰囲気を見て、車で山上の駐車場まで行き、女房と娘は歩いて上りました。

   

大門坂の入口                            参道の入口

  

参道(熊野古道)                            多富貴王子跡

休日で朝から大勢の観光客で、早めに駐車場に行ったのが正解で、暫くすると満杯になってしまいました。

         

十一文関所跡(昔、参拝料を取った)                       参道のたたずまい

ここの写真は、娘が撮ったもの

ここで、待つことも無く、二人が上ってきて、表参道から大社に向かいます。参道の長い石段は長く、いささかばて気味。

    

参道の上り口                          ようやく大鳥居

参道を上ると、右に青岸渡寺があり、左は那智大社の大鳥居と境内が続いています。

      

大鳥居からさらに登る 

  

最後の鳥居から拝殿と本殿へ

熊野那智大社はいわゆる熊野三山(ここと熊野本宮大社熊野速玉大社)の一つで、熊野夫須美大神が主祭神とです。かつては、色々な名前があり、那智山権現などもその一つです。

拝殿の正面は鈴門を挟んで本殿で、右から滝宮(第一殿)から若宮(第五殿)が並んでいます。この中で第四殿(西御前)が最も大きく、若宮の南西には第六殿があります。 第一殿から第五殿までの本殿は熊野造といわれます。戦国時代の戦いで燃えたが後に再建され、1853年(嘉永6年)に修復され他とのことです。いずれも国の重要文化財に指定されています。

       

那智の山々                         大楠  

熊野三山の他の2社(熊野本宮大社、熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されましたが、那智では観音堂が残されました。これが今の青岸渡寺です。青岸渡寺西国一番札所だったこともあるのでしょう。

那智の滝を見渡せる寺の前の広場には、西国第一番御詠歌補陀洛や 岸うつ浪は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝つせ」と有りました。

  

青岸渡寺                         西国第一番御詠歌(向こうは那智の滝)

ここから見た那智の山々、三重塔を背景にした那智の滝も中々の景観です。

   

三重塔と那智の滝(ここを下って滝の駐車場へ)

那智大社は山の上に社殿がありますが、元来は那智の滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられます。那智の滝は、上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験道の修行地となっています。滝には飛滝神社があります。

滝までの道は、青岩渡寺から途中の国道までは新しいものですが、途中からは古道で、でこぼこの石で舗装?された下り坂は薄暗く、足首や膝にこたえました。

    

飛滝神社鳥居                           滝への道

那智の滝

ここから途中の駐車場まで戻り、老夫婦はここで一休み、娘が車を取りに行きます。

 

那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺があります。

ここは仁徳天皇時代にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺で知られています。

江戸時代、那智七本願の一寺として大伽藍が有りましたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て流失し、その後、仮本堂であったのを、1990年に現在の室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建されました。

  

補陀洛山寺                            再現した渡海船


陀洛渡海
に使われたと言う船を再現したものが、おいてありました。この船には、櫓や帆などは一切無く、海に出ると黒潮に乗って海に消えていくことになります。

隣接する浜の宮王子社跡には熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)が建っています。

 

(後記)補陀落渡海(以下、Wikipediaの記述を簡略化)

 この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(陀落山寺の住職など)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。

最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという[1]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。

熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀落山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀落山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。

補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来に共通する、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩の浄土である。

その5へ       その7へ