紀伊半島の旅(その3)

根来寺、粉河寺から谷瀬の吊橋、

 初日は朝早く起き、飛行機で関空にきて和歌山周辺の神社を回りましたが、和歌山市周辺は平坦な土地で、歩くのはさほど苦になりませんが、田舎に行くと道路が狭く、運転には苦労します。道が狭いことよりも、地方に行って困るのは、道を良く知っている地元の人とのすれ違いです。

しかし、景色の良い和歌の浦で一泊して朝の露天風呂に入って気分一新、今日はまず寺参り、そして紀伊山中を南下して熊野本宮大社への道です。

朝の露天風呂からの和歌の浦(中央は海南火力発電所)

 今日から連休で、市内は通勤の車も少なく、24号を紀ノ川に沿って東に進み、県道7号から、少し入ると中世まで強大な勢力を誇った新義真言宗総本山根来寺です。

(正式には一乗山大伝法院根来寺この寺の由来をWikipediaから抜粋してみましょう。

平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)1130年に高野山内に一堂を建て、伝法院と称した。鳥羽上皇覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。覚鑁鳥羽上皇院宣を得て、高野山大伝法院密厳院(みつごんいん)を建立した。

覚鑁金剛峯寺座主に就任し、当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、反対派1140年には、覚鑁の住房・密厳院を含む寺院を焼き討ちするという事件が発生。覚鑁一門高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。

豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。

覚鑁1143年、49歳で円明寺で没する。それから1世紀以上後の1288年、大伝法院の学頭であった頼瑜大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。

室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2700とも)を数え一大宗教としを形成し、真言宗三大教団の一つとして、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧兵1万余の一大軍事集団を擁した。

また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。そして、鉄砲生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに織田信長、豊臣秀吉に抵抗するが、天正13年(1585年)、秀吉により大師堂、大塔など数棟を残して焼討ちされた。その後、江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。

根来寺のマップ(寺の資料より)

      

大塔                                  大傳法堂

   

光明真言殿                                本坊庭園

大門

 確かに、大塔大門(江戸時代に建立)などの規模は大きく、往時の姿を忍ばせますが、あまりにも広かったこともあり、全てを回ることは出来ませんでした。

ここからさらに進むと粉河寺(こかわでら)です。ここは西国33ヶ所第3番札所でもあります。

天台宗系の粉河観音宗総本山。本尊は千手観音。国宝の粉河寺縁起絵巻によると、770年に猟師の大友孔子古(大友のくじこ)が山中に不思議な光を発する場所を見つけ其処に庵を結んだのが最初と言う。その後、彼の家に童子が宿を求め、泊めてやったお礼に千手観音を彫って残していった。彼は殺生をやめて観音を信仰するようになったと言う。

門前には幾つものお堂などもあるが、反対側で道路工事などやっていてここもまたいささか風情が無い。しかし、寺は中々立派である。
ここは桜が綺麗らしい。

   

大門                               大門からの道

   

     中門                                ここにも芭蕉の句碑が

   

               本堂                              本堂の前庭(高さの差を石積で庭園としている)

 

さらに紀ノ川を遡ると、秋の田の稲と畔の紅い彼岸花が美しい光景を見せてくれました。真田昌幸、幸村親子が追放された九度山を横に見てさらに進みます。

この辺りの風景

24号線から対岸の県道13号、国道370号、県道55号と進みました。こちらは道幅は狭いのですが対向車も少なく、堤防から紀ノ川が良く見えます。さらに進んで国道168号に至りここを南下して、熊野本宮大社に至ります。

168号では北畠親房の墓などを横目に見て、道の駅「吉野路大塔」に着き、ここで昼食。

道の駅「吉野路大塔」

さらに進んで、谷瀬の吊橋です。今まで色々な吊橋を渡りましたが、高くて長くて危なっかしいと3拍子揃っているのはここでしょう。

     

谷瀬の吊橋                                  吊橋の上で

ここを渡ると、100mほどの所に黒木御所跡があります。ここは南朝の護良親王が逃れてきた時の御所だそうです。

黒木御所跡

戻って、さらに山中の道を進むといよいよ熊野本宮大社です。この辺はずいぶんと道も良くなりました。

熊野(新宮)川に沿って

もともと本宮は、熊野川の中洲の大斎場と言われる場所にあったのが、1889年(明治22年)の大洪水で流失し、残った社殿をそっくり今のところに移設したものです。

大斎場の近く

日本の神社は、火山の噴火や洪水、火災、落雷などでよくやられていますね。

創建は不明。江戸時代までは、熊野大権現であり、神仏混交で祭神はそれぞれ、仏の化身ともされていた。主祭神は熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)、熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)
明治に至るまでの社殿は大斎場(おおゆのはら)にあり、水害など無かったと言われており、明治になって森林を乱伐した為に洪水が起こったと言います。(この時、同じように水害にあった上流の十津川村の住民が北海道に移住し、新十津川村を建設したとのことです)

     

参道入口(左は八咫烏の大幟)                          参道

   

拝殿                                    本殿

神社の横を少し登ると、祓所王子跡があります。ここは中辺路の最後の辺りで、何でこんな所に、王子があるのか分りませんでしたが、河原の大斎場に神殿があったということで納得しました。ここから下っていくと昔の本宮に着くのです。

   

祓所王子の跡                               古道の石段

その道が、本宮横の道が古道の面影を残しています。

参拝を終わり、回り道をして世界遺産にもなっているつぼ湯のある湯の峰温泉に向かいました。途中、小栗判官誕生の地なるものもあり、熊野古道大日越湯峰王子があり、入口から少し上ってみましたが、先が分らないのであきらめました。   

   

湯峰王子への上り口                         こちらの古道はまるで獣道

 湯の峰温泉ではつぼ湯に入ってみようかと言うことになりましたが、順番待ちで諦め、今夜の宿の川湯温泉木の国ホテルに向かいます。

   

湯の峰温泉街                            世界遺産のつぼ湯

ここは、それぞれの宿が河原に露天風呂を設けています。混浴ですが女性には、人間ドックで着るような浴衣?を貸しています。

     

河原の露天風呂                            思案顔の女房殿

晩飯は、やたらと量の多い旅館形式。女房殿は思案顔。ここにあるもののほか、茶碗蒸しやら、てんぷらやら、後、4,5品出て、さらに、さあ、御飯は?と言われてもーー

今日の行程は約180km

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