竜飛海底駅から八戸へ
今日は函館から八戸への旅です。現代の技術の粋を集めた青函トンネルと遥かなる縄文時代の人たちの残したものを見て回ります。
「青函トンネル、竜飛海底駅」
今日は、函館発10:40だが指定が取れず、海底駅では自由席車両の2号車のみがドアが開く。早目がいいですよと言う前夜の駅の案内に従って、少し海岸辺りを散歩して、1時間ほど前に行くと、9:40に入線だと言うので、席は確保できた。海底駅までは、約1時間である。
海底駅で降りるには、予め、整理権を購入しておく必要があり、海底駅から八戸への列車も指定されています。
今回の時間は、次の通り。
函館 竜飛海底 八戸
10:40 11:48 (白鳥18号竜飛)
13:59 15:50 (スーパー白鳥22号)
海底駅に着くと、28人が参加。分からずに間違って降りてしまったおばさん二人。降りたのは30人。
ちゃんと説明人がついてきて、色々と説明してくれる。北海道行きの対向電車の通る所を見せてくれたりもしました。線路は、新幹線が通れるよう3線路にできるようになっています。
また、海底部分は年間を通じて温度差が無いこともあり、全長が一本のロングレールとなっているそうです。
函館発白鳥
海底駅(降車口は一箇所で、前後はこんな感じ) 反対側の降車口
線路(白いのは、新幹線用線路の固定台座) やってきた列車
ここは、もともと、何かがあった時の避難通路で1600?段の階段を上って地上に避難できるようになっている。何か?とは北陸トンネルであった列車火災を基本的には想定しています。従って、北海道側にも吉岡海底駅があります。
竜飛海底駅から地上に出ると、青函トンネル記念館があり、階段国道などと共に、竜飛岬の観光の目玉となっているのです。
案内人の話やWikipediaの記事などを纏めると、次のようになります。
「青函トンネル」
2009年現在、トンネルとして世界一の長さ。津軽海峡の140mの海底下約100mの地中を通っている。全長は53.85km。青函トンネルを含む区間は、函館市と青森市間を結ぶ津軽海峡線の一部だが、最初から新幹線規格で建設されている。
1972年の北陸トンネル内での食堂車から発生したような列車火災事故などに対応する為、海岸直下から少し海岸よりに定点と言う消防設備や脱出口を有する施設が設置されている。これがトンネル施設見学ルートなどに用いられている。
北海道側を吉岡海底駅、本州側を竜飛海底駅と言うが、2007年に新幹線の3軌道化の試験などの為、吉岡海底駅は閉鎖されている。
また、青函トンネルは通信の大動脈でもある。 青函トンネルの中には光ファイバーケーブルが敷設され、北海道と本州を結ぶ電信・電話の重要な管路となっている。
青函トンネルの構想は戦前からあったが、1950年代には朝鮮戦争による機雷の流入、1954年の洞爺丸事故など、航路の安全が問題となり、建設が決められた。
当初、距離の短い下北半島からのルートも検討されたが、水深が深く、火山帯があり、掘削に適しないと言うことでこちらのルートとなったもの。
しかし、こちらのルートでも、当初はTBM(トンネルボーリングマシーン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできないとかでTBMでの掘削を諦めた。そして、本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進んだ。
更に海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増え、そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法です。つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進むのです。
工事開始から営業までの経緯は次の通り。
1961/3- 北海道側吉岡で斜坑の掘削開始
1967/3- 北海道側で先進導抗の掘削開始
1971/11- 本坑の起工式
1983/1- 先進導抗貫通
1985/3- 本坑貫通
開業当時、航空機輸送が盛んで、無用の長物と言われた時期もあり、高速フェリーなども運航されたり、色々と問題にされていたが、今日では、本州―北海道の交通の大動脈となり、新幹線の建設が期待されている。
説明を聞きながらかなりの道のりを歩くと、上に上がるケーブルに到着。これで地上に出ます。
ここからかなり歩く 竜飛定点
ここまでが地上からの見学者 更に進む
説明パネル(沢山ある) 工事で使った機材の展示
ケーブル(もぐら号) 内部
かなりの勾配 ここで終わり
上は青函トンネル記念館です。今回の失敗は、降りて2時間あるので、記念館で飯を食っても十分時間があり、外に出て少しは散策できるかと考えたのですが、丁寧な説明もあり、飯を食ったら、20分位しか時間が無く、遠くには行けませんでした。
外にはあまり出られず食堂から 記念館の展示
帰りの電車
列車の中で飯を食えば、もう少し時間があったのにと思っても後の祭り。帰りの列車の指定も取れなかったのですが、八戸まで坐って行く事が出来ました。
「八戸歴史博物館 土偶展」
八戸駅に降りると、お目当ての土偶展の広告が出ていました。しかし、4時近くで、博物館は、4時半が最終入場時間です。タクシーに荷物を積み、博物館に出発しました。
八戸駅のコンコース 駅前
八戸という町は、平野の中のかなりダダッ広い町で、町の中心は本八戸と言う所で八戸駅とはかなり離れています。八戸市博物館は、14世紀に建設された南部氏の居城跡の根城の傍にあり、八戸と本八戸の中間です。
土偶の歴史は、縄文初期から晩期まで、様々なものがあります。亀ヶ岡遺跡の遮光土偶などは有名ですが、今回の展示で、実に様々なものがあるのに驚かされました。
博物館 国宝合掌土偶
合掌土偶 一寸違う土偶
様々な土偶や土器 出産の姿の土偶
博物館から見た八戸駅方面 本八戸の横丁
ここから、駅前の宿に戻り、荷物を預けて再び駅に向かいました。明日のレンタカーのチェックをして、観光案内所で本八戸の町の様子を聞いて、バスで出かけました。
繁華街には、宣伝されているような色々な横丁がありますが、基本的には一パイ飲み屋風で、旬の雲丹やホタテを食わせると言う所ではなく、結局、料亭風の店で、いささか、値段の高い飯となりましたが、味も良く満足でした。
宿は「八戸駅前温泉旅館」という所で、まあ、名前の通りです。
(ついでに)
旅から帰った、すぐの日曜日は団地の一斉清掃日です。公園で草取りをしていると、近所のオバサンが「内の亭主は草取りなどやってくれないんですよ」ぼやきます。
何の気も無く「男は草取りの姿勢がキツイんですよ」などと言って、ふと、例の土偶の形を思い出しました。女性は、しゃがんだ姿勢が安定している。子供もこの姿勢で生んだのだろうと。
そういえば、田舎では、百姓仕事の合間に、男は立小便、女は腰を落として小便をしていたこともーー