白老のポロトコタンから函館

 今日は白老町まで送ってもらい、そこからは、一人旅です。

白老のポロトコタン

白老への途中に三階滝と言うのがあり、その傍の湧水がおいしいというので滝を見て、水を汲んできました。ペットボトルに入れ帰りの列車の中で飲むことにしました。滝への道は旧道で、水を汲みに来る車が入れないよう道幅を半分して橋にしています。

        

三階滝への道                                三階滝

美味い湧水

 早く着いたので白老駅で列車を一台前に切換え、荷物を預け、ポロトコタンまで送ってもらい、ここでTさんとはお別れです。3日に渡っての交流は楽しくまたうれしいものでした。

 もともと、このコタンは別のところにあったものだそうで、博物館なども含め、昔のアイヌの生活を再現すること、また観光施設としてここに再建したものだということです。何軒かのアイヌの住居(チセ)を作り、中で演芸や生活の様子などを見せています。

また、アイヌ民族博物館があり、和人がくる以前のアイヌの生活が示されています。

    

コタン入り口の神の像                           コタンの建物群

 以前、北海道を旅した時、アイヌに興味を持ち、自分なりに考えて見ました。

今回、この民族資料館で、受付の所にいた人(アイヌ?)がご説明しますというので色々と聞くことが出来ました。アイヌの風習などは展示と説明で良く分かりましたが、説明した人も言っていましたが、鎌倉期(12−13世紀)の状況が良く分からないと言うことです。

坂上田村麻呂から源義家などの時代は、東北が大和化され、記録もありますが、その後は国家として組織だった進出が無く、日本、アイヌとも記録や伝承が無いということでしょうか?

           

明治のアイヌ部落(ひえや粟を作る)                  酒つくりの道具(粟などから作る)

           

冬眠の親熊を仕留め小熊を取る。(その年のイヨマンテ用)             神への祈り(中央は熊の頭)

         

鮭の皮の靴                          装飾品(大半の原料は交易で手に入れる)

 

明治の正装したアイヌ 

 

 別棟では、アイヌ伝統の踊り、ムックリという竹で作った笛?の演奏などもやっていました。更に、シナノキなどの樹皮の内皮をさらして作った繊維での織物の実演もやっていました。

これで見ると、彼等の生活の中には、かなり古くから、日本などの製品が取り込まれ、それが生活の一部となっていたことが分かります。

ここにある建物(チセ)などの大きさは、実際のものよりはるかに大きく、本当の意味での生活は実感できません。1000年の歴史の時代を追って考証することは、アイヌの場合、極めて困難なことだなと感じました。

           

ムックリを吹く女性                               ムックリ(入場料代わりに買ってみた)

 

踊り

 コタンの中を歩いて、町の観光案内を見ていると、対岸に温泉があると書いてあります。

時間があるので早速行って入湯。さほど大きくはありませんが300円と北海道価格。風呂は熱めでさっと入り、町に向かいました。国道の角のスーパーで鮨など買い、駅のそばの公園風の場所で休んで昼食。汲んできた水、昨日のサクランボなど食料は豊富。一人旅の気楽さです。
駅前は広い道路で背の高い建物も無く、北海道の小さな町の典型的な姿です。
しかし、国道沿いの店はしまって居る所が多く、少しさびしい感じがしました。

 

白老駅前  

ここからはJRの旅です。登別まで鈍行で20分ほど、10分ほど待って急行で函館まで2時間半弱の旅です。途中は海岸を通るところが多く、新幹線建設の立て札があちこちにあります。

    

鈍行で登別へ                          新幹線建設へのたて看板

函館の観光

函館では倉庫街のそばのラビスタ函館というホテルをとりましたが、函館山からまで一望できる良い場所でした。白老を早く出たので、町を散策することにして、倉庫街に向かい、まず湾内のクルーズに乗ってみました。

    

ホテルから見た倉庫街と函館山                          船から見た倉庫街

      

烏賊釣り船                               青函連絡船摩周丸

       

数万トン級船舶建造中のドック             取り払われた大型ドック

 

運転手曰く、「10万トン級のドックはすでに撤去され、観光用やフェリー用に作られた船は、係留されたまま使われていない。港がもっとも良かったのは、連絡船があった時代だった。その頃は色々な人たちの行き交いがあったのだがーー」

船の係留場に戻る頃は、函館山は霧の中

降りてしばらく行くと高田屋嘉平衛資料館があり、時間は少ないが、ちょっと見て二十間坂へ。この上の道に沿って、教会などがあり、ご存知の観光ルート。何箇所かによって、観光案内に良く出てくる八幡坂を下り。遅くまでやっている北方民族資料館を見て、ホテルの傍まで戻り、海の幸が沢山の飯を食う。ホテルの上の露天風呂も景色がよく、すばらしかった。

          

高田屋嘉平衛資料館                          二十間坂

           

カトリック元教会                          聖ヨハネ教会

     

ハリストス正教会                                ご存知八幡坂

    

ペリー来航の記念像                         旧英国領事館

 

 少し休んで、函館山はまだ曇っているが、上って見ることにする。タクシーの運転手に聞くと今日は夜景が見えるかどうか、確率は五分五分。むしろ、1時間の貸切の契約をして、上まで上がって、暫く待ち、駄目なら2合目なら絶対に見える。タクシーを2合目で止めて見てもらい、教会や倉庫群のライトアップも見たら良いでしょうと言う。

なるほど、費用的には、一人では高いが、二人ならこちらの方が少し高いが案内つきであちこち行くだけお得と言う感じ。山頂では、霧がかかったり晴れたり。しかし、カメラの設定がおかしく、良い写真が取れなかったのは残念でした。

 

 函館山からの夜景(良い写真は他の人のを見てください)

 

倉庫街の夜景

 

翌朝も少し時間があったので岸壁の辺りを散策し、函館駅に向かいました。ホテルの朝飯もまあまあで、観光地の真ん中にあり立地も良く、価格もそれなり(じゃらんのポイントも使ったこともありますが)でした。

    

旧金森洋品店(函館博物館郷土資料館)                       北海道第一歩の碑

 

(アイヌに関する私見)

 (これは、私が勝手に書いたもので、正確かどうかはわかりませんが、おそらくこんなものだと思います。)

明治の土人保護法が平成7年に廃止され、アイヌを先住民族として認めるようになったのですが、アイヌと言う民族の定義は中々難しいと思います。

いわゆる先住民族には、「アボリジニアメリカインディアンのように、長年、殆ど外部と接触することなく孤立に近い状態で生活圏を持っていた人達」と「アイヌのように、縄文時代からの伝承と、その後の大陸や和人との交流があって、自分達の生活圏と文化を持っていた人達に大別できると思います。

 しかし、共通していることは、彼等の生活圏により高度?な力を持った別の人種が入っていき、彼らを圧迫し、資源を奪うということが古代から今日の中国に至るまで続いてきたということです。

文字を持っていない民族は、遺跡などからその様子を知るしかないと言うのが世界共通の現象でしょう。

 アイヌの場合は、まだ、何とかその歴史や文化が残っており、地方によっては語り部などの話の記録もあるので、これを纏めていくことで民族という形が残されるかもしれません。

千島や樺太東北などの各地ではすでにこれは難しくなっているでしょう。日本もロシアもこの地方の人達を移住させたりしてきましたから。東北の蝦夷が平安期に移住させられたり、明治になって択捉などのアイヌが移住させられたりしてきました。

 世界の大国は、皆、このようなことをやってきたのです。そういう意味では、今、中国がチベトや新疆ウイグルでやっていることを非難できる大国は残念ながら有りません。

縄文時代を通じて、東北や北海道は、鮭や堅果と言った越冬食物が豊富で集落の存続が容易であったのでしょう。食料さえあれば、冬場に雪を活用して大型の建物を立てることも可能であったでしょう。

縄文末期から大和国家が成立するまでの1000年近い間、南では「弥生から古墳時代」、北では「続縄文、擦文時代」などかなりの違いが出てきました。

それは、人口増加の大きな南の地方(中国大陸)では、気候変動、戦争といったことが氏族の移動を何回も繰り返す原因となり、後になるほど、より戦闘的で集団としての力の強い氏族が日本に渡ってきたと思われます。日本海側の幾つかの神社を回ってみると、其処の神が何種類かの神器をもって渡来し、大和と一緒に国づくりをしたと言ったことが言われています。

一方、北の地方は、満州やシベリアなどの人達が渡来してきたと思われますが、集団としての力は、すでに住んでいた人達と比べさほど強くは無い。なども持ち込まれたが、ほぼ、力としては同じ位であったのではないでしょうか?

 そして、環日本海の海を通じた交易が広まり、南の文化や資材も入ってきたのでしょう。それは、まずは東北、そして北海道に広まっていったのでしょう。

アイヌと言えば、北海道と言いますが、北海道よりも生活がしやすかった東北の蝦夷にこれらが広がり、一つの文化圏が形成されたのでしょう。

しかし、大和が本格的に東北の経営に乗り出すと、集団としての力の差が出てきます。

大和を形成していた人達は、中国などからの渡来時代、日本での氏族間の争い、朝鮮半島での新羅などとの覇権争いなどを通じて、政治面、戦力面での組織力が圧倒的に北の人達とは違っていたと思われます。

時には、懐柔、時には征服、移住と様々な術策を使って、鎌倉期までには本州は制圧されました。

北海道は、海を隔てていたこともありそれが遅れ、ここに住んでいた人達は、和人の文化を取り入れて、今日的な意味でのアイヌとなったと思われます。

 江戸時代には、松前藩が蝦夷地を支配していました、米を作らない人たちから租税の取立ては出来ません。海産物などを交易と言う形で取り、それを藩の財源としていました。

海産物を交易するとなると、アイヌの方にもそれなりの組織が必要です。いわゆる酋長達がそれを取り仕切ってきたのですが、そこにも和人と組んで搾取をするものがいたり、和人側の交易のやり方が酷かったりと、時には大きな摩擦もあったのですが、それなりにアイヌの生活も成り立っていたと思われます。

東北北海道の地名は、アイヌ(蝦夷)の言葉が語源です。その点では植民地に自分達の母国の地名を多用した西欧と日本はいささか異なりますね)

しかし、幕末ロシアなどが出没すると、北海道(蝦夷地)も日本に一部という考えが強くなり、仙台藩など幾つかの藩に番所を作らせたりし、北の守りを固めました。

 明治になると、国家の政策として、アイヌも国民として取り込んだことにより、アイヌと言う民族は存在しないことになったのです。そして、開拓などでその生活の基盤を奪い、差別化した為に、アイヌは急速に衰退してしまいました。

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