三陸海岸を下り本州最東端トドが崎へ
八戸をレンタカーで出て、三陸海岸を楽しみながら宮古で一泊し翌日は「喜びも悲しみも幾年月」の舞台の本州最東端トドが崎に行き、釜石でレンタカーを返して、JRで日立に戻りました。
種差海岸から野田の西行屋敷へ
レンタカーは前の日のうちに確認しておいたので、開店8:00に出発できました。
レンタカーは一人で乗るとかなり割高です。しかし、二人以上で、JRと併用するならJRのレンタカーを使うと「とれんた君」などというサービスもあり、同乗者のJR料金も安くなるので自家用車で行くのとあまり変らないでしょう。駅に隣接した店ですからJRとの接続も便利です。
ただし、借りたのは、Vitzでしたが座席が高く、アクセルが軽く、慣れるまでに苦労しました。しかし、回転半径が小さいので道でバックするのは楽でしたが、傾斜のある山道を走るのには、体が浮く感じです。
八戸市は、少し遠回りになりますが、フェリー港の方に行き、其処からウミネコの繁殖地として有名な蕪島にまず行って見ました。ここは今は陸続きで簡単に行けます。
今は子育ての最中で沢山のひな鳥もいました。「ウミネコ爆弾に注意」などという看板が有って、こうもり傘が置いてあります。頭上も周辺もウミネコだらけです。
蕪島(今は島ではない) 狛犬も(黒っぽいのは子供)
賽銭箱も 蕪島から見た八戸港
ここを出て岬を回ったところに葦毛崎展望台があり、種差海岸の一帯が良く見えます。ここは、戦時中、電波探知機の基地があった所を展望台としたものです。
葦毛崎展望台 展望台からの景色(このような海岸が多い)
更に進んでいくと、広い砂浜の大須賀海岸の横を通ります。親潮の洗う海岸ですから、漂着物など全く無く、昔の海岸そのままです。
大須賀海岸辺り 白浜海水浴場辺り
この辺から、八戸線に沿って海岸を走りますが、特に何も無く、階上(はしがみ)と言う駅付近から国道45号に出て、進むと岩手県に入ります。
進んで久慈に行くと、ここからは三陸鉄道北リアス線に沿って45号が続き、道の駅「のだ」が有ります。ここで一旦休憩。道の駅の横には、「野田塩ベコの道」の記念像があり、このいったいが、昔、製塩が行われ、内陸に牛で運ばれた事を示しています。
確かに、海岸は険しく海路も大変で、稲作も大変であったので、これが収入源であったのでしょう。
道の駅「のだ」 塩ベコの像
ここから進んで野田玉川駅の近くに、西行屋敷跡が海岸の崖の上にあります。玉川と言う小さな漁港の傍で分かり難い所でした。平安の末期頃、西行がここまで来て、美しい景色に魅せられて、庵を作って滞在したとのことです。
「野田の玉川」というのは、昔の歌の題材としても有名で、能院法師や順徳院の和歌の碑がありました。遠く、都でここを想像して歌ったのでしょうか? しかし、西行の歌はありません。
西行屋敷跡の碑
夕されば
汐風こして
陸奥の
野田の玉川
ちどりなくなり
能因法師
みちのくの
野田の玉川
見わたせば
しほ風こして
氷る月影
順徳院
順徳院などの歌碑(大きいほうが江戸時代の句碑)
黒崎灯台から北山崎展望台そして宮古浄土ヶ浜
ここからまた、45号で普代まで行き、県道44号に入って海岸を進みます。普代の手前辺りの国道は、スノーシェードなどもあり北海道などとも似た感じです。
海岸の国道45号
少し進むと、黒崎灯台があり、国民宿舎や、北緯40度の碑、幕末の砲台跡などがありました。黒崎灯台で、買ってきた昼飯やら、サクランボ、三階滝の水など飲んで少し休憩です。
北緯40度の碑 黒崎灯台
ここから44号を進んでいくと、北山崎展望台です。ここも360段のどの階段を下っていくと、観光写真によくある展望台に出ます。ここからの眺めは中々のものです。
北山崎展望台から 証拠写真(いささか被写体がおかしい)
さらに進むと一帯は弁天崎などというリアス式海岸地帯なのですが、全面通行止めの標識があり、45号に出ろとの事。NAVIで見ると45号までたいした距離で無いと思ったのですが、これが大間違い。進んで行くと45号を通り過ぎてしまいました。
見れば、45号は、遥かな谷の上を通っており、行く道は谷底で、ずーと先まで行って戻って合流するのです。ここで、ずいぶんと時間を無駄にしてしまいました。
うまくいけば、この先の三陸で数少ないという温泉の小本温泉に入ろうと思ったのですが、むなしく通り過ぎて、宮古まで直行です。
宮古で駐車場に着くと、浄土ヶ浜を回る観光船の時間まで10分でぎりぎりでした。
浄土ヶ浜と言う名前は300年ほど前に付けられたというのですが、奇観ということから言うと仏が浦にはかなわないでしょう。しかし、船は大きく、今日は生みも穏やかで、説明も詳しく、観光と言う面では良く出来ています。
浄土ヶ浜観光船から(餌を貰うウミネコ) 潮吹き穴
ろうそく岩 姉ヶ崎
浄土ヶ浜
船から下りて、海岸を散策し、宮古の町に入って宿に向かいました。見たこの町は駐車場で聞かなかったら一方通行が多く、行くのが大変だったでしょう。
宿は、宮古ステーション古窯というビジネスホテル風ですが、シングルの部屋がなかなかよくできています。
ホテルのフロントに飯は?と聞くと駅前のすし屋を教えてくれ、ここで鮨以外もやっていると言うことで行ってみると、親子でやっていて中々繁盛しています。雲丹やほやなども食って一杯飲んで満足です。
今日の走行距離は191kmでさほどではないが当初予定では余裕を見て170kmでしたので迂回路を走ったりして、なれない車でいささか疲れました。
7時から朝食というので。7時半に出発できました。宮古湾を左に見て45号を進むと、この一帯はホタテの養殖が盛んです。
津軽石から県道41号に入り重茂半島を南下しますが、道が狭く、なれない車で苦労しました。25kmほど進んで姉吉と言う漁港の横が、トドが崎(?ヶ崎)への道の入り口です。
距離的には、往復8km位ですが、最初に100mほど上る道がきつく、途中は起伏もありますが、道は整備されています。
崖がきつく、侵食が進んでいるので上の方にしか道が付けられなかったのでしょう。熊が出るかもしれませんなどという注意書きもあります。
とどが崎への入り口(歩く他無し) 最初の上り口(舗装されている)
まだまだ 途中の道(よく整備されている)
たどり着くと、岩場の上に本州最東端の碑があります。ここの灯台は「喜びも悲しみも行く年月」もととなった燈台で、灯台守の妻、田中きさんがを書いた「本州最東端」が刻まれています。
本州最東端の碑 トドガ崎灯台
これで本州の最南端を残し、四国、九州、北海道(知床は行ける所まで)皆回りました。
最南端潮岬も学生時代に行きましたが、そのうち、熊野などと共に行きたいところです。
誰もいない灯台のあずまやで休んでサクランボなどを食い、帰ってきて汗びっしょり。漁港で漁具などを洗っていた漁師に水道を借りて、身体を拭き着替えました。ここでは雲丹を取っており、実をむいて中身だけを出荷しているようです。
11時半近くにここを出て、一路釜石へ。今日は時間が限定されていますが、また20km近い山道で、ようやく45号に出ました。この辺りはホタテの養殖が盛んなようです。
ホタテの養殖
釜石の「鉄の歴史館」に着いたのが12:30です。飯を食う暇も無く、ここを見ました。ここは明治初期の釜石鉱山からの採掘、高炉製鉄、合併、分離、合併の釜石の製鉄所の歴史が示されています。
ここで本格的に洋式製鉄を始めた大島高任が、水戸の反射炉を造ったと言うことも知ることが出来ました。
平成元年、高炉を廃止、線材を中心する複合生産になりました。平成4-5年にかけて、釜石鉱山も廃止されています。
鉄の歴史館 外にあるモニュメント(ぴょっこりひょうたん島の歌碑)
このモニュメントは、作者の井上ひさしがこの地方の出身だと言うことでしょう。彼には吉里吉里人と言う作品もあるが、吉里吉里はこの地方の地名でも有ります。
鉱山鉄道の蒸気機関車 館内
大島が作った水戸の反射炉 館内から見た釜石観音
さてここを見たら、もう時間がありません。45号の向こうの釜石観音を横目に見て、JR釜石駅でレンタカーを返却(今日の走行は約90km)。駅で遅い昼食を済まし、釜石線の快速で新花巻に向かいました。
遠野辺りからは平野となりますが、其処までは全くの山中を走る路線です。
山中を走る釜石線 新花巻で交差する釜石線の列車
新花巻ー仙台(新幹線)仙台ー大甕(常磐線)と乗り継ぎ、大甕に21:01に帰り着きました。