奈良−明日香−山城(その2) 明日香を廻る
天気予報では、今日は一日雨ということで、朝、ホテルの窓から見ると雨が降ってはいるが、さほどではない。これなら予定通り、自転車で回れるかもしれない。明日香に来たのは、名古屋に転勤した1999年10月で、その時は、好天で自転車で廻った。今回もほぼ、同じルートを廻る予定である。
明日香のサイクリングルート
予定より早くホテルを出て、近鉄名古屋駅までバスに乗り、西大寺で乗り換え、更に橿原神宮で乗り換えて、ほぼ、1時間で飛鳥に着きます。
着いた時は、小雨がぱらついていて、まずは、踏み切りの向こうの、岩屋山古墳に行って見ました。ここは、7世紀の古墳で、羨道が約12mあり、玄室もかなり大きい。
誰のものかは不明ですがこの時代の古墳とはこんなものと言うことを知るのには良い例です。
岩屋山古墳
ここから駅に戻ると中学生らしい団体が何組か来ていました。雨は小降りとなり、これならサイクリングもOKと喜び勇んで自転車を借り、見学開始までには時間があるので、まずは、キトラ古墳まで行くことにしました。
サイクリングロードを通って行くのでは面白くないので、裏道を通り、坂を上って途中の桧隈寺跡に行きました。明日香村は人口7000人ほどで、毎年、減っていると言いますが、この辺の家は大変立派で驚きました。
立派な家々
桧隈寺跡は、この西側にあって、明治になって寺跡に移された於美阿志神社となっています。於美阿志神社の祭神は、帰化人である東漢氏の阿知使主であり、この一族は5世紀頃、日本に来て、6世紀頃、この地に定住したと言われています。
桧隈寺跡のある13層の石塔は、平安時代のもと言われ重要文化財です。
於美阿志神社(桧隈寺跡)
いずれにしても、古代、仏教伝来と共に、自分たちの氏神神社と寺を両立させたのでしょう。国を統一していく為には、氏族固有の信仰にとらわれない仏教が政治の手段となっていく段階で、仏教中心(蘇我氏)、氏神中心(物部氏)など、様々な氏族がいたのでしょう。
この辺は、小高い岡で、そこを過ぎると、反対側の岡の中腹にキトラ古墳があるはずですが、以前生きた時のイメージが無く、始めはどこか分かりませんでしたが、よく見れば、建物ですっかり覆われています。温度管理をして中が痛まないようにしているということです。
キトラ古墳――これが古墳??
昔は、竹薮だったのになどと言いながら、坂を下ると右手が高松塚です。丁度、駅にいた中学生の集団がやってきました。
高松塚古墳の今 高松塚壁画館
こちらも、古墳の石室はすっかり持ち出しているので、天幕状の外覆が見えるだけです。
少し戻ると、高松塚壁画館と言う小さな展示館があり、出土品や壁画の説明がありました。発見当時の壁画の様子などが良く分かります。
飛鳥歴史公園館
ここから、下ると飛鳥歴史公園館です。天幕など張って、見学者の受付をしています。
申し込みをして、資料をもらい、傍の展示室など見て、10:50、横の研修室みたいな所で説明がありました。発見当時から現在に至る状況を、説明してくれましたが、まあ、「文化庁も色々やっているのでご勘弁をーー」と言う感じでもあります。
立派なパンフレット 修理作業室
36年前の美人も今は昔の面影なし
そこから数分の所の修理作業室を外側からガラス越しに見ます。丁度、10分間です。まあ、特に説明もないのでそんなものでしょう。やはり、1000年近く、バランスが取れた環境にあったものが、外気と触れたことと密閉状態が悪く、虫やら黴やらで、漆喰がやられて、壁画が損傷を受けたのが良く分かりました。
説明員に聞くと今は顕微鏡で見ながら修復をしているそうで、10年はかかるでしょうと言うので、1300年の10年だから大した事は無いだろうと言うと、そう言って頂ければとうれしそうでしたが、時間は10/1300でも、費用は1300/10の何1000万倍と言う所が問題ですね。
さて、明日香村を回りますが、昔のサイクリング地図(女房がとって置いた)、駅前の案内所の地図、自転車屋の地図と皆少しずつ違っていて、道が良く分かりません。
しかし、辻々には案内板が有るので、それに沿って、廻ってみました。
天武持統天皇陵
公園を出るとすぐ横が中尾山古墳で、そこから進むと見晴らしの良い丘が天皇陵です。また、唯一、被葬者が明確な御陵であるとも言われています。
天武天皇(大海人皇子)は壬申の乱で天智天皇の息子の大友皇子を破り、天皇になった。持統天皇はその妻で、夫の没後、姉の皇子の大津皇子を謀反の疑いで殺し、自分の息子の草壁皇子を皇太子としたが、即位前に死亡。その後、自分が女皇となったと言う。
この時代の血なまぐさい相続争いを経て、中央集権が確立し、奈良の都、平城京時代へと続く歴史は、面白くも有りますが、本当??と言う所も有るようです。
大化2年(643)の薄葬令によって、持統天皇は荼毘に付されて、合葬されているとの事です。
天皇陵は八角形で、周囲も開けています。
天武・持統天皇陵 説明
定林寺跡
ここは、聖徳太子建立7ヶ寺の一つと言いますが、その由来は殆ど分かっていないようです。発掘調査で、7世紀前半の建立であろうと言われています。
定林寺跡
ここを過ぎると、明日香村健康福祉センター「たちばな」と言う立派な設備があり、丁度、昼になったので、ここで昼食をとりました。中には「太子の湯」と言う設備がありますが温泉ではないので入湯は止め。一休みして先に進みます。
この辺の家(西側が板壁で窓がない)
橘寺
天台宗の寺で、本尊は聖徳太子と如意輪観音。垂仁天皇の命で不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来するとか。聖徳太子誕生の地でもあり、太子建立7ヶ寺の一つで、平安期まで大いに栄えたが、鎌倉以降、徐々に衰え、戦火にも会って殆どの堂宇は無くなってしまい、現在の本堂などは江戸時代末期(1864)に建立されたと言います。
藤原時代からの重要文化財も多く残っています。
橘寺山門 本堂
二面石(両側が顔)
川原寺跡
橘寺のすぐ前が川原寺跡で、現在は中金堂跡に真言宗の弘福寺が建っています。
ここは、藤原時代、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並んで、飛鳥4大寺に数えられていたが、やはり中世以降衰微しました。
国の史跡となっており、周辺は整備されています。
川原寺跡
ここから橘寺の横を通って、川沿いの遊歩道を遡ると、次の目的地である石舞台古墳です。
石舞台古墳
横穴式石室を持つ方形墳で、上部の封土は無くなっており、玄室に入ることも出来ます。7世紀初期のものと言われ、6世紀末、この地方の権力者であった、蘇我馬子の墓ではないかと言われているそうです。
先の岩屋山古墳に比べ、玄室の大きさも巨大で大規模なものです。
岩屋山古墳の玄室 W:2.7 L:4.7 H:2.6m
石舞台古墳の玄室 W:3.4 L:7.7 H:4.8m
石舞台古墳
ここから、岡寺に向かいます。駐車場の案内人に、山の中に道はないかと聞くと、そちらは、自転車を担いでいくような所、その下の道は側道が無く、車が多くて危険と言うので、下まで下って進んでいくと、散歩道と言う標識があり、ここを進むと、1m位の幅で、片側が高さ1.5m程の石垣で下は用水。落ちたら大変とふらふらと進んで、ようやく、上り口まで行くと、そこが駐輪場で後は歩けと書いてあります。
確かに、自転車は無理で、かなりの距離を歩いて、ようやく、岡寺に着きました。
岡寺
草壁皇子が住んでいた岡の宮に造られたと言い、日本最大、最古のインド、中国、日本の土で作られたと言う、如意輪観音の塑像があります。
古くから厄除け信仰に支えられ、近世では、西国33ヶ所の第7番札所となっています。十五世紀に大風で倒壊した三重塔を昭和になって再建しています。外は、いかにも新しいので、内陣を荘厳にしようと色々と苦心して、年に一度公開しているとか。
ここは石楠花でも有名と言います。
ここからの飛鳥の眺めも素晴しいはずですが生憎の天気で残念でした。
岡寺山門 本堂
日本最古、最大の塑像観音像 (カタログ) 三重塔(昭和61年再建)
岡寺からは下りで、快調に進んでいくと、なにやら立派な寺院が有ります。こんなもの聞いてもいないと思ってみると「天理教岡教会」とか、その横から少し登ると酒船石が
有りました。道路の反対側の平地の中に板葺宮跡の伝承地がありましたが、見ずに通り過ぎてしまいました。
酒船石
薄暗い竹薮の中にぽつんとあります。酒や薬を作る為などと言われていますがさfだかではないようです。平成になって近くで亀形や小判形の石造物も発見されましたが、それらとの関係も分かっていません。
酒船石
飛鳥寺
少し進むと右側が飛鳥寺です。558年、蘇我馬子が発願し、596年、日本最初の本格的な寺として創建されたと言います。本尊の釈迦如来坐像は、飛鳥大仏とよばれ、銅15トン、金30kgを使って609年に作られたといいます。
しかし、鎌倉期に火災に会い、その後、修復されています。確かに見ると首が曲がっているのはそのためでしょうか。実際、顔の一部などを残し、殆どが焼け落ちたとの事でした。
発掘調査の結果、塔を中心に、三つの金堂があり、その周辺を回廊が囲んで、後ろに講堂がある本格的な寺院であったことが分かりました。
少し、奥に行くと、蘇我入鹿の首を祭ったと言う五輪塔があります。
ここは石舞台古墳と共に観光に目玉で沢山の観光客が来ていました。
飛鳥寺 飛鳥大仏(顔など一部を除いて焼失、複製)
蘇我入鹿の首塚
飛鳥坐(あすかいます)神社
祭神は、事代主神他で、延喜式内神社です。江戸時代、ここの高取藩藩主が高取城の鬼門にあたる為、深く信仰していたとのことです。ここの社殿は、火災で焼失し、天明元年(1781)に再建したものだそうです。
天下の奇祭「お田植え祭り(おんだ祭り)」と言う幟がありました。帰って調べてみると祭りで、夫婦和合のしぐさをするのだそうで、神社内にもそれらしいものが沢山ありました。
飛鳥坐神社 拝殿
それらしきもの
飛鳥資料館
奈良文化財研究所の施設の一つで、キトラ古墳の展示、飛鳥における古墳や歴史に関する展示があった。
6世紀頃から平城京成立までの中央集権成立の時代の歴史は、まさにこの地方の歴史であり、朝鮮からの渡来人などとも絡んで、色々と面白そうである。
縄文から弥生、そしてこの時代をつなぐ国の成り立ちの中で、記録が残されつつあった時代でもあり、それゆえに、逆に真実を知るのも難しいところもあるでしょう。
飛鳥資料館 出土品(レプリカ)
甘樫丘
ここから、飛鳥駅に向かう主要道路を通ってしばらく行くと、甘樫丘へ出ます。
麓に自転車を置いて、700mくらい歩くと頂上で、丁度、観光客が二組来ており、ボランティアと思われる人が色々と説明していました。
畝傍山、耳成山、香久山の三山に囲まれたこの地から、橿原、山城、奈良に至る一帯が、大和朝廷が出来上がる道筋であったのでしょう。
甘樫丘(民のかまどは賑わいにけり) 畝傍、耳成山が見える
ここから、まっすぐ行くのも面白くないので、サイクリング道路の標識に沿って、再び、川筋を進み、川原寺跡から亀石に向かいました。
亀石
教会の標識だとも言われていますが、ユーモラスな形の石です。明日香村のシンボルとして、コミュニティバスの名前を、赤カメ、金カメと称しています。雨ならば、これで廻る予定でした。
亀石
鬼の雪隠、俎
更に進み、横道に入ると、古墳の玄室が二つの壊れた、雪隠、と俎があります。
この辺の話として、鬼が霧を湧かし、旅人を俎で料理して食い、市他の雪隠で糞をしたと言われているそうです。
鬼の雪隠 鬼の俎
欽明天皇陵と吉備姫王墓、猿石
欽明天皇陵は、ここではないと言う説もあるようです。平田梅山古墳とも呼ばれ、周囲の堀は幕末に造られたといいます。
その少し手前の丘に登ると吉備姫王墓があり、その中に4体の猿石が置いてあります。吉備姫王は、欽明天皇の孫、天智、天武天皇の祖母です。ここもまた本当??と言う場所です。
猿石は、後世にここに移されたもので、ほかの猿石や橘寺の二面石などとも関係があるのかも知れないと言われています。
欽明天皇陵
猿石
これで、明日香の旅は終りました。駅についた時には日は落ちて、5時過ぎの電車でならに向かい、近鉄奈良駅から歩いてみました。奈良は、意外に食べ物屋が少ないところだと思いました。
今日の旅は、歴史的な事が背景にあり、できるだけ調べて、書いたつもりです。しかし、もともと異論がある所でもあり、その部分は適当に読み飛ばしてください。
奈良へ 南山城へ