Top Pageへ戻る

考えるヒントのお蔵  性と文化の棚  第3番
入墨と奢侈(しゃし)禁止令  統制と抵抗の歴史
京都のとある女子学園。中学校3年生の研究旅行は北海道、高校2年生の修学旅行は沖縄。「北の大地と南の島めぐり」となれば、まるで旅行会社のパックツアーの様です。

が、この二つの旅行は共通するキーワード「自然・環境」「文化・民族」「人権・平和」によって深く結び付けられているのです。(とは思っていない先生の方が多いかも……)

この10数年、学校教育の場でも国際化≠フ必要性が叫ばれ、社会科の必修が世界史になり、形式的には選択科目だった外国語(英語)が必修科目になりました。その一方伝統を重んじよ≠ニ声高に叫ぶ人があらわれて、諸外国から厳しく批判されるような日本史の教科書が公認されたり、美しい日本語が失われていると国語教育が批判されています。

そうした国際化と伝統ブームを背景に、「異文化に触れ自国の文化を見直そう」とばかりに海外への修学旅行が公立学校にも広まりつつあります。また国内の異文化≠求めて沖縄への修学旅行も盛んです。

しかし2001年9月11日のテロの後、多くの学校が海外や沖縄への旅行をあわてて取り止め、ディズニーランドや九州の温泉地に行き先を変更した事実は、国際化や伝統文化の復活を唱える学校教育の底の浅さ≠露呈したと言えるでしょう。

これまでも偏狭な伝統護持と卑屈な国際化を権力者が振りかざした歴史は幾度となくあります。今回は鎖国と文明開化の時期に注目し、入墨と友禅を切り口にして権力者の統制とそれに抵抗する庶民の歴史を振り返り、現代の学校や社会の課題を考えるヒントを見つけていきたいと思います。


 1 琉球とアイヌの同化政策

明治政府は日清・日露戦争の過程で「神国日本」を押し立て、日本は天皇を頂点とした大和民族のみで成り立つ単一民族国家≠ナあることを装おいつつ、世界の列強≠フ一員となるためにアジアへの侵略を推し進めていきました。そうした皇民化・富国強兵政策の元、日本国内での異民族弾圧=琉球王国の解体とアイヌ民族の同化政策が進められました。

北海道のアイヌも、沖縄のウチナンチュー(琉球王国人)も固有の文化を持って暮らしてきました。その文化を破壊し、彼らの存在を抹殺しようとしたのがシャモ(和人)あるいはヤマトンチュー(ヤマトの人)と呼ばれた日本人≠ナした。

軍国(帝国)主義の元では侵略して奪った占領地はもとより国内においても国家の一員≠ナあることが最優先され、個人の価値観やマイノリティの文化は軽視(多くは蔑視)されます。そしてその文化・思想統制の矛先は、文化の基礎となる言葉文化の表現である服装に向き、その統制の最前線となるのは国や時代を問わず学校です。

こうした国家による文化統制が何をもたらし、それに対して人々はどう対応してきたのかを、軍隊と学校と入れ墨の関わりから考えてみましょう。それを考える鍵となる年が1872 (明治5)年です。


1872 (明治5)年
国民皆兵を求めた「徴兵の詔(みことのり)」の発布(徴兵令は翌年1月公布)。
学校制度や教員養成に関する基本的な規定を定めた「学制」の公布。
そしてもう一つ「入墨禁止令」が発布されました。

明治政府は、西欧人の文化を基準にし、外国人から野蛮と思われかねない伝統的な習慣・風俗を禁止しましたが、その一つに入墨がありました。入れ墨は江戸の市中でも広く行なわれていましたが、特に問題とされたのは他民族である琉球・奄美諸島の人々とアイヌ民族の入れ墨でした。対外侵略と現地における皇民化政策と平行して、アイヌも琉球民族も立派な日本人≠ノなることを強要していく歴史がここから始まるのです。


1879(明治12)年
琉球処分」が行なわれました。清国への朝貢を差し止め、王は東京に住まい、首里城は開け渡して王府は解体することなどが求められました。大日本帝国政府は400名の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言。3月31日には尚泰王は首里城を明け渡し沖縄を離れました。

1871(明治4)年の「廃藩置県」で琉球は鹿児島県の管轄下に置かれていたのですが、その王朝制度が問題になっていたため、王国解体が強制的に行われたのです。


1895(明治28)年
台湾は日本最初の植民地とされました。1894(明治27)年8月1日から1895年4月にかけて朝鮮の帰属をめぐって行なわれた日清戦争終結後の下関講和条約により日本の侵略の歴史が始まったのです。

そうして得た領土防衛のため1898(明治31)年には先島を除いた沖縄県全域に、1902年には宮古・八重山両郡にも「徴兵令」が施行され、沖縄の人々は日本軍の兵隊にされます。

こうして弾圧した異民族≠ェ権力に刃向かわず、その天皇を中心とした社会体制を受け入れて適応≠オているかどうかをチェックする一番単純な方法の一つに服装規制≠ェありました。そこで持ち出される規制の基準は、支配者によって都合よく作り上げられた「日本の伝統」だったのです。


1899(明治32)年
沖縄では「入墨禁止令」が出され、北海道では「北海道旧土人保護法」という名の「アイヌ文化抹殺法」が制定されます。

沖縄ではハジチと呼ばれた女性の入れ墨の禁止とともに、若い男女がモーとよばれる野原で夜歌ったり踊ったりして遊ぶモーアシビ(毛遊び)の禁止、裸足の禁止、結髪の禁止、和装の奨励、火葬奨励、標準語の励行が進められます。
(参考:「巫女と遊女の統制史−明治期から昭和初期までの沖縄近代化政策をめぐって−」    http://homepage2.nifty.com/RYOKO/jyuri%20to%20yuta.htm

奄美諸島は鹿児島県に属していたため入墨禁止令が発布されたのは1876(明治9)年5月ですが、ハズキと呼ばれた入れ墨は、大人の女になったあかしとして、また奄美女性に許された唯一の装飾として女性のあこがれだったため、禁止令は徹底せず、その後もこの風習はひそかに行われたそうです。
(参考:「南東雑話の世界」  http://www.minaminippon.co.jp/bunka/nantou/0721.htm

北海道ではアイヌの習俗である男の耳環・女の入墨が禁止され、死者が出た際に家を焼く風習の禁止、伝統的狩猟法である仕掛弓や毒矢の禁止、アイヌ語の禁止と日本語の強制、創氏改名の強制が行なわれます。
(参考:「アイヌ民族の『明治』」  Http://diamond-dust.com/ainu/history-6.html


1910(明治43)年
1904(明治37)年から翌年にかけて行なわれた日露戦争後の1905(明治38)年11月、大日本帝国はすでに韓国の外交権を全面的に掌握し、伊藤博文が初代統監に就任していました。5年後の1910(明治43)年8月22日には「日韓併合に関する条約」、翌29日には「日韓併合に関する宣言」が調印されて日本は韓国の統治権を確立しました。これにより1392年から続いた李王朝は消滅しました。

そして1945年の日本敗戦の日までの36年間、大日本帝国政府は「内鮮一体」の名の下で朝鮮の人々を天皇の臣民としてふさわしい人間≠ノするため、朝鮮古来の名前を日本風の名前をに改めさせ(創氏改名)、日本語を強制しました。


 2 洋の東西を問わぬ庶民のしたたかさ

さて、ここで押さえておきたいのは日本の伝統美≠フ代表である着物は、「呉服」とも言うように中国の"呉"の国の服から由来しているということ。そして、江戸幕府による度重なる奢侈(しゃし=贅沢)禁止令をくぐり抜けて発展してきたという歴史的事実です。

五代将軍・徳川綱吉は、1698(元禄11)年に「奢侈禁止令」を布告し、金紗や刺繍、総鹿子などを禁じました。このため染≠ナ華やかさを出すため、友禅染が大流行しました。

戦乱に明け暮れた中世の庶民にとって、この世は憂き世であり来世にこそ幸せがあると考えざるを得ず、自然と禁欲的になりがちでした。しかし、近世に入り平和な元禄時代を迎えた江戸庶民は、現世での人間的な欲望を肯定するようになり、華麗で豪華なものを好むようになりました。

そうした人々の生きる力から浄瑠璃や歌舞伎が起こり、文学・絵画・工芸・陶芸・染職・彫刻・建築と、新たな日本風の伝統文化が花を咲かせたのです。

江戸時代は身分制の時代で、衣服も身分によって様々な制約がされていました。また、幕末に至るまで、幕府は治安維持や財政再建を口実に衣服や装飾について度重なる禁止令を出します。しかし、町人たちはその規制を無視して友禅をはじめ様々な商品を盛んに流通させていったのです。
(参考:「友禅美術館古代友禅苑」(西本願寺のすぐ北側)   http://www.kodaiyuzen.co.jp/yurai/yurai.html


日本の伝統日を代表する友禅は、その後南の海から渡ってきた中国やインドの更紗とともに沖縄の伝統的な染物である紅型に影響を与えていきます。着物一つとっても純粋な国産≠ネどなく、多様な文化が交差する中で互いに影響し合っているのです。そして王侯貴族などの支配層のみならず、多くの庶民がそれぞれの風土にあった着物の美しさを育てていったのです。


こうした統制と抵抗は日本に限ったことではなく中世のヨーロッパでも同様でした。中世ヨーロッパでは、奢侈禁止令や衣服規制令が多く出されたそうです。

イギリスのエドワード4世時代には「年間40ポンド以下の所得者は、高価な毛皮や金銀の装飾を禁止する」とされ、1486年のドイツでは「男性と子供の衣服の丈は膝までとする。女性はシュミーズを着てはいけない」とされたということです。

服装は大体は職業によって決められ、姿を見れば身分などが分かるようになっていたそうですが、それにもかかわらず、農民たちが美しい衣服を身に着けていたという記録もあるようです。
(参考:「中世史のはなしvol.1」   http://www.hi-net.ne.jp/~ikds5287/d4.html



洋の東西や時代を超えた権力者による支配の手口≠ニ庶民のしたたかな抵抗≠フ姿を、装飾や服飾の文化・風俗史から学んでいくのも面白いでしょう。

図書紹介
サイト紹介
性と文化の棚の目録にもどる