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考えるヒントのお蔵 明日の教育の棚 第6番
不登校は、結局自分の「甘え」なの?

「犯人捜し」の泥沼にはまるより、違う一歩をみつけたい

不登校は「病気」ではありません。ましてやズルでも甘えでもないでしょう。生徒同士の「いじめ」や「いやがらせ」、教師の「指導」(脅しや体罰)が、学校に行かない(行けない)原因である場合もあります。それがはっきりしていれば、その解決(というよりも問題の認識と関係の整理・改善)を速やかに行わなければなりません。

しかし、訴えのあった壁が取り除かれても、すぐさま次の壁が現れ、それをまた取り除いたのに……といったことがよくあります。この子が学校に行けない「本当の原因」は何か?と、親も教師も「犯人捜し」の泥沼にはまっていきます。

あれこれ子供を問い詰めても、教師に学校の様子を聞き、子供の友達やその親に電話をかけまくり、気になることをチェックしていってもいっても分からない。

親は学校の指導に疑問を持ち、教師は親の子育てを暗に非難し、周囲の大人も子供も「私達がこんなに心配してあれこれやってあげてるのに」と親にも子にもプレッシャーをかける。

親は追い詰められて自分を責め、時には耐え切れられずに家族にあたる。
挙句の果てに誰もが声を揃えて「結局本人が甘えを捨てなければだめ」……

ある日突然、自分の子供が血を吐いたら……「なぜ、この子は血を吐いているんだろうか?」と、血にむせんでいる子供を遠巻きに見つめながら「原因」を探りますか?それとも、どこかの神社へお祓いしてもらいに行くのでしょうか。たいていは、急いで病院に連れて行くはずです。

もし、その病院が「診断」をして「原因」を探り当てたとしても、「治療」の仕方はわかりませんと言われたら絶望するしかありません。それでまた、別の病院へいって、違う診断と違う原因を聞いて……不登校の場合も、いくつかの相談機関を渡り歩いては、それぞれ言われる事が違うと悩む親もたくさんいます。

私たちは、不登校を引き起こした「犯人」=「原因」探しをするのではなく、本当は、いま何を、そして次の一歩をどうしたらよいのかを探るために、しっかり子どもと(子どもは自分と)向き合うことが大切なのではないでしょうか。そのためにもっとも必要なのは、じっくり待つ勇気と、それを可能にする親子の周囲の援助ではないでしょうか。

どんなコトにも「次に進むにはここを通らなければならない」という関所のようなものがあるのかもしれません。と同時に、山を越えて進むのに、頂上を通らねばならないという決まりもありません。

学校教育を受けることは子どもの権利であり、義務ではありません。親は子ども達の学習権を侵害してはならないし、国はそれを保障する義務を負っているというのが義務教育です。

ずる休み、登校拒否、不登校、学校不適応、落ちこぼれ、怠け者、落伍者etc.どんな名前がつけかえられようと、その根底にあるのは、「学校にちゃんと行くのが普通」、という以上に「善」であるという思い込みでしょう。それが、問題の本質を見えなくさせているのかもしれません。

そして、もう一つ。
「行きたいのに行けない生徒(不登校)はかわいそう。」
「怠けて来ない生徒(不適応)はけしからん。」
「怠業(非行)しておきながら、学校を批判したり勝手なことを言うなんてもってのほか」
「不登校の子を学校に来させないままにして置いたら、他の問題行動やわがままで学校に来ない生徒の「指導」に差し支える。」
というのも、理屈がありそうで実は極めて感情的な決め付け、というより学校(教師)の独善と怠慢です。

その子に困難があるならば、それをその子が乗り越えていくためにどう支援するか。

力を蓄える時間が必要なら待つ。
求める知識や体験があるならアドバイスする。
学校に来させるかどうか、他の生徒がどうのではなく、今困難を抱えているその子を見捨てず切り捨てず、向き合い寄り添う。

それが、親や学校の本来の役割なのではないでしょうか。

学校は、生徒を切り捨てることができます。ほっておいても転校したり、「無事」卒業していきます。しかし、親はそうは行きません。だからこそ、学校は親の指導を云々する前に、親が子どもの成長を支援しやすい環境を整えていくことが大切なのではないでしょうか。

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