少年犯罪は「罰を厳しくする」ことで減るのでしょうか | |
少年による事件がマスコミに大きく取り上げられ、少年法が「改正」されました。 「被害者」やその家族の方々の怒りや苦しみをしっかりと受けとめつつ、「加害者」が罪を犯さざるを得なかった背景や、罪を償いながら立ち直る道筋を明らかにする。ヒステリックな反応を慎み、加害・被害を越えてこの社会に何が必要なのかを考える心のゆとりを失わないようにしたいものです。 戦後の少年犯罪の実数は1983年の31万7000人をピークに、1995年に19万3000年にまで減少していました。それが1999年には24万人にまで増加に転じています。 また殺人などの凶悪犯罪は1966年346件だったものが1997年には45件にまで減少していたのが1998年には83件に増加しています。 「少年法(罰)が甘すぎたから犯罪が増加・凶悪化した」という根拠はどこにもないのです。 しかし、この数年の間に起った神戸の少年殺人事件以降、バスジャック事件などいくつかの事件が連続し、それをマスメディアがセンセーショナルに報道することで世論は大きく揺れました。学校・警察・司法への批判も高まり、少年犯罪に対する厳罰化を求める声に押されて、少年法の「改正」がなされました。 冷静に過去を振り返ってみれば、1950年代の経済的貧困を背景とした窃盗や強盗、1960年代から70年代にかけての暴走族や校内暴力、シンナー中毒による非行。その後に続く金属バット事件に象徴される家庭内暴力、事件の減少と共に増加した不登校、そして小学校に始まる学級崩壊…… 戦後五十年、子ども達が抱え、子ども達を巡る問題は形を変えながらも常に存在し続けてきたわけです。 では、「問題」は何なのでしょうか。社会・政治・教育・家庭・個人のそれぞれに対して、様々な分野の論者が分析を試みています。その中には民主主義や女性解放や子どもの人権そのものまでをも否定しかねない乱暴な意見もあります。 そうした分析や批評の一つ一つも「考えるヒント」になるかもしれません。しかし、最も重要なことは、いくら経験を重ねようとも完璧になれる人間などおらず、それでも失敗を重ねながら少しずつ成長していくしかないのだと自覚することでしょう。 病気は「予防」が肝心だといわれます。しかし、人の成長には失敗が不可欠です。失敗(時にはそれが犯罪となるにしても)を防止することが可能かつ最善であるかのような「幻想」を捨てることからはじめない限り、問題は一層深刻となっていくのではないでしょうか。 ただ、少年よる犯罪に限らず犯罪被害者やその家族の方々が「泣き寝入り」で済まされるはずもありません。犯罪者の人権が保護される以上に被害者や家族の人権が保護されるべきであることは言うまでもありません。 ここで大きな課題になるのはマスメディアや地域の対応でしょう。犯罪の「容疑者」が「犯人」であるかのように報じ、取り返しのないような事態を引き起こした「松本サリン事件」の記憶は忘れることはできません。冤罪(無実の罪)事件はあとを絶たず、小さな事件は冤罪であったという報道を目にすることも限られています。 さらに、悲痛な思いで苦しみに耐え、怒りに打ち震えている被害者やその家族を「のぞき趣味」で追いかける報道は暴力といっても過言ではありません。 北欧諸国では、罪が確定するまでは「容疑者」の顔写真のみか、氏名も明かさず、被害者についても伏せることになっているそうです。 罰は罪の償いと被害者の心のけじめになるでしょう。しかし、それで救われるものには限りがあります。必要とされるのは失敗や痛手から立ち直り、悔恨と苦渋を抱えながらも支え合いながら、共に生きていける人同士の関係を築き上げることではないでしょうか。 「心の教育」や「奉仕の精神」は偏狭なナショナリズムのためにあるのではないでしょう。次の時代のために何かをというのであれば、私達自身が今ある世の中の矛盾と向き合い、時には闘う勇気を振り絞ることしかないのかもしれません。 親や学校が少年犯罪や非行へどうアプローチすべきかを考える糸口になりそうなのが、次の『毎日教育メール』の記事です。少年たちを心が弱く道にはずれていると非難するより、どうサポートしていくかを大人はもっと冷静に考えるべきでしょう。
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