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朝日 |
2009/07/19 |
朝刊 | 30面 | No .N143a090719xxx |
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大阪市/西成区 |
プロボクサー |
女 |
22 |
神田桃子 |
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シリーズ・特集;http://www.asahi.com/national/update/0713/OSK200907130065.html | ||||||||||
見出し: 元いじめられっ子の女性プロボクサー「いつか世界一に」 |
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メモ : プロボクサー神田桃子さん(22)=大阪市西成区=は、小学3年から中学までずっといじめられっ子だった。刃向かえば余計殴られるから黙っていた。いじめっ子を遠くに見かけたら走って逃げた。怖いことから目を背けてきた自分に勇気を与えてくれたのは、母に勧められて始めたボクシングだった。 学校に行けば、毎日のようにいじめられた。公園に呼び出されては殴られた。中学2年のとき、いじめられないようにと金髪にして耳にピアスをしたが、結局不良グループの中でいじめられただけだった。何も言い返せない自分を、弱虫だと思った。 中学を卒業して家に引きこもっていた16歳の時、体を動かしたら気分が晴れるからと母の知人の紹介で、ハラダボクシングジム(大阪市住之江区)を訪れた。折り紙やビーズが趣味だった神田さんにとって、殴り合いは見ているだけで怖かった。 それでもシャドーボクシングをして、ミットを打ち、サンドバッグを打った。気がついたら初めての練習は終わっていた。からからに渇いたのどに水を流し込んだ。「うまい」。久しぶりに感じた喜びだった。ボクシングを続けることにした。 しばらくして、中学生の男子を相手に初めてスパーリングをする日が来た。これまで殴られたことは数多いが殴ったことはない。手を骨折したことにして休もうと思ったが、思い直した。「今まで怖いと思うことから逃げてきた。このままではだめだ」。パンチは一発も当てられなかったが、リングに上がれたことがうれしかった。「私だってやれるんや」と思った。 3年前、日本女子ボクシング協会に入り、2009年1月に日本ボクシングコミッション公認ライセンスを取った。同協会に所属して以降の戦績は4勝1敗2分け。たこ焼き店で働きながら、週5、6日の練習を重ねている。 7月23日、大阪府立体育会館(大阪市浪速区)で開かれる今年2戦目の試合で、初のKO勝ちを目指す。身長157センチ、体重約48キロ。「目標は世界チャンピオンです」ときっぱり話す。 |
朝日 |
2008/02/29 |
朝刊 | 30面 | No .N143a080229xxx |
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日本ボクシングコミッション(JBC) |
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シリーズ・特集;http://www.asahi.com/sports/update/0229/TKY200802290375.html | ||||||||||
見出し: 女子ボクシング、プロテストに20人が合格 |
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メモ : 日本ボクシングコミッション(JBC)が女子で初めて実施したプロテストの合格発表が2008 年2月29日にあり、受検者26人のうち20人が合格した。実績のある選手が対象となるB級が14人(受検者16人)、その他のC級が6人(同10人)。最年長は44歳の猪崎かずみ(花形)で、JBC管轄下では男女通じて現役最年長選手になった。 日本非公認団体で世界3階級制覇の経験がある来家恵美子(山木)、世界ボクシング評議会(WBC)元王者の菊地奈々子(白井・具志堅)らも合格。合格者のうち数人は、5月9日の初興行に参加する予定。 |
京都 |
2007/11/20 |
刊 | 面 | No .NNo .N143k071120xxx |
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日本ボクシングコミッション(JBC) |
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シリーズ・特集http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007112000158&genre=L1&area=Z10 | ||||||||||
見出し: 女子プロボクシング認可 JBC プロテストは来年2月 |
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メモ : 日本ボクシングコミッション(JBC)は20007年11月20日、女子のプロ化を認可すると発表した。国内で女子プロボクサーが公認されるのは初めて。第1回のプロテストは2008年2月後半に東京・後楽園ホールで実施する。 JBCはこの日、全国のジムが加盟する日本プロボクシング協会との合同検討委員会で、女子の試合実施に関する規則を固めた。 ルールは(1)1ラウンド2分。日本タイトル戦は8回戦で実施(2)男子最軽量級(47.6キロ以下)のミニマム級を女子はミニフライ級とし、その下に46.2キロ以下のアトム級を設置(3)試合前2週間以内に妊娠反応検査を義務付ける(4)胸部にガードを着用−などとなっている。 女子プロ選手を有するジムは、専門知識を持つ女子担当トレーナーを1名以上置くことも義務付けられた。選手の年齢制限は17歳以上33歳未満。 |
朝日 |
2003/08/10 |
朝刊 | 30面 | No .N143a030810m30 |
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京都府/京都市 |
プロボクサー |
女 |
37 |
袖岡裕子 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 京都出身袖岡さん 「女子プロボクシング」日本王座獲得/「次は世界」地元で決意 |
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メモ : 京都市出身の袖岡裕子さん(37)が2003年6月「女子プロボクシング」のミニフライ級の日本王座に就いた。2003年8月9日には地元の南区に帰って報告会を開き、地元の人たちに「次は世界を目指した地」と決意を語った。 袖岡さんとボクシングと出会いは4年ほど前。当時通っていたいスポーツジムで「ストレス解消」の気持ちで、ボクシングとエクササイズを組み合わせたボクササイズを始めたのがきっかけだった。 高校まで器械体操に打ち込んでいた袖岡さんは、もともとからだを動かすことが好きだった。重いグラブやgヘッドギアをつけて試合形式の練習をするうちにボクシングの魅力にとりつかれた。35歳のとき、雑誌で京都出身の女性が活躍しているという記事を読み、思い切って東京のジムを訪ねた。 2001年7月にプロデビュー。最初の2試合は負けたが、その後、6連勝。2003年6月25日のミニフライ級王座決定戦で王座を獲得した。 だが、ボクシングは厳しい。これまで練習中に肋骨を2本折った。試合の後は顔が腫れ、次の日は動けないという。また、プロとはいってもボクシングだけでは生活できず、生活のためにアルバイトも必要だ。それだけに「買ったときの喜びはひとしお」という。 9日に開いた報告会は、約20人が集まった。チャンピオンベルトを披露した袖岡さんに、地元の人々は「たくましくなった。これからもがんばれ」と声援を送った。 |
朝日 |
2003/03/08 |
夕刊 | 2面 | No .N143a030308e2 |
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東京都/日野市 |
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シリーズ・特集; TOPOCS | ||||||||||
見出し: 待望の全日本大会“ゴング”/女子ボクサー普及にパンチ/21人参加へ 技もやる気も十分 |
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メモ : アマチュアボクシングで女子初の全日本大会が15、16両日、東京都日野市で行われる。長年、実戦のリングを求め続けてきた選手たちにとっては、待望の全国舞台だ。女子ボクシングのレベルの高さをアピールし、競技の普及にも弾みをつけようと張り切っている。(津布楽洋一) ■ 15、16日に東京で 2002年10月に開かれた東京都大会は、ピン級(45キロ以下)からライトウエルター級(67キロ以下)の5階級に、会社員、学生ら15人が出場した。 男子の試合に比べてスピード感はやや欠けるものの、パンチの出し方やフットワークなどテクニックでは見劣りしない内容だった。同じ会場で行われた男子高校生の試合では、がむしゃらに手数を出して突進する選手もいたのに対し、女子は的確にパンチをヒットさせる冷静なボクサーが目立った。 日本アマチュアボクシング連盟の吉森照夫専務理事は「外国選手とやるにはもう少しパワーが必要だが、総じて技術的には高かった」と、女子選手に及第点をつけた。 ■ 夫がトレーナー 日本連盟が女子競技会の実施基準を発表したのは、2002年5月。以前からダイエットや健康維持を目的にジムに通う女性愛好家は多かった。本格的にトレーニングに取り組むうちに、実力を発揮する場を望むようになっていった。 アジア選手権、世界選手権の開催など国際的な流れも後押しした。将来は五輪の種目化を目指す動きもあるという。 現在、日本連盟に選手登録しているのは153人。愛好者はさらに多く、民間のジムだけでなく、大学のボクシング部に入部する女子選手も出てきた。今後、選手が増えれば学生大会、高校生大会の開催も検討するという。 全日本大会はライトウエルター級までの6階級に、北海道から熊本まで15都道府県の21人がエントリーした。1回2分の3回制で行われる。胸部を保護するチェストガードの装着や検診項目などを除けば、ルールは男子と同じだ。選手たちのやる気も半端ではない。 ライトフライ級(48キロ以下)に出場する日女体大の小関桃さん(20)は、中学1年からボクシングを始めた。現在はサッカー選手としても活動しながらジムに通い、巧みなアウトボクシングに磨きをかける。「女子の試合ができるようになったのは先輩たちの努力の積み重ね。敬意を表したい。女子でもここまでできるというところを見せたい」 フライ級(51キロ以下)で戦う主婦の柳瀬麻美さん(23)は、所属する東京都北区のジムで、夫がチーフトレーナーを務める。「五輪種目になれば出場したい」と目標を語る。吉森専務理事は「技とスピードの応酬を披露してほしい。競技人口が増えることを期待している」と話している。 ■ プロ化に弾み? 一方、プロはどうだろうか。日本ボクシングコミッション(JBC)は、まだ女子のプロボクシングを認めていない。安全対策や競技人口の少なさなど課題が残る。 しかし、すでに世界では女子の国際連盟、国際協会を名乗る団体があり、日本選手のチャンピオンも生まれている。国内でも女子プロボクシングと称する試合が行われている。アマが隆盛になれば、女子プロがJBCに認められる日も早まるかもしれない。 |
読売 |
2001/11/01 |
夕刊 | 2面 | No .N143y011101e2 |
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兵庫県/西宮市 |
原智恵・多田悦子・石垣多佳 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 女子アマボクシング/最後の全国大会/3、4日 兵庫県西宮市で開催/非公式で活動6年/連盟認知 役割終え |
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メモ : 日本の女子ボクシングのけん引役を果たしてきた「全日本女子アマチュアボクシング大会」が2001年11月3、4日に西宮市の西宮香風高校で開かれる試合を最後に、6年間の活動の幕を下ろす。 国内では女子選手の登録は「危険」という理由で認められず、非公式≠ナ行なわれてきた大会。競技の国際化で女子選手も日本アマチュアボクシング連盟に登録できることになり、発展的解消が決まった。大会を運営してきた原千恵さん(大阪市生野区)は「大会の役割はひとまず終わった。今後は陰で女子選手を支えたいと話している。 女子のアマボクシングの全国大会は、ボクシングを取り入れたトレーニングのボクササイズをしていた原さんが「女子選手にもリングに立つチャンスを」と1996年に開催したスパーリング大会がはじめて。1999年の第4回から現在の大会名で開催してきた。組織もなく知り合いの審判やスタッフの協力を得る手作りの大会を毎年開催。最初は20人だった参加者は次第に増えて、昨年は32人となった。 これまで、日本アマチュアボクシング連盟に女子の選手登録できなかった。しかし、地道な活動が認められ、2000年のこの大会で優勝した多田悦子さん(20)と石垣多佳世さん(29)が、2001年8月に開かれた第1回アジア女子アマチュアボクシング選手権(バンコク)に参加する際、初めて登録が許された。2002年の春からは他の女子選手の登録も認めることが2001年10月6日の連盟理事会で決まり、大会に区切りをつけることになった。 今回は大会に参加経験がある選手が出場する「チャンピオン戦」(8階級)には36人が参加する。2002年以降はどのような形態で大会が開催されるか決まっていないが、原さんは「反対を受けながらも、多くの人に助けられて大会を開催できた。女子ボクシングの道が開けたことを誇りに思う」とはなし、最後の大会を心待ちにしている。 管理人:全日本女子アマチュアボクシング大会事務局のサイト紹介はこちらから |
朝日 |
2001/06/10 |
朝刊 | 30面 | No .N143a010610m30 | ||||||
アメリカ/ベローナ |
レイラ・アリ/ジャッキー・フレーシャー |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 元世界王者の娘対決 判定でレイラ・アリ/「茶番劇」と批判も |
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メモ : 元世界ヘビー級王者の娘同士のプロボクシングの試合が2001年6月8日、ニューヨーク州ベローナであった。モハメド・アリの娘レイラ(23)とジョー・フレージャーの娘ジャッキー(39)の試合は判定に持ち込まれ、レイラが2-0で勝利を収めた。これで戦績はレイラ10戦全勝8KO、ジャッキーは7戦1敗7KO。 試合は約25ドル(約3000円)払わないとテレビ観戦できないペイ・パー・ビューで中継され、報道陣300人以上の取材証が用意される注目の高さだったという。 レイラは対戦前から「父親同士のリマッチじゃないのよ」とボクシングの新たなページになるとアピールしていた。それでも米メディアの中には、父の名前にあやかった金目当ての茶番劇で「スポーツでも娯楽でもない」という厳しい見方があった。 |
朝日 |
2001/02/27 |
朝刊 | 28面 | No .N143a010227m28 |
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アメリカ |
レイラ/ライド |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: アリ(の娘) VS フレージャー(の娘) 6月、因縁の対決 |
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メモ : 1970年代のボクシングヘビー級で、しのぎを削ったモハメド・アリとジョー・フレージャーの娘同士が女子ボクシングで2001年6月に対戦する。3児の母でフレージャーの娘ライド(39)は5戦全勝。「私はボクシングをするために生まれてきた」 アリの娘レイラ(23)は1999年にデビューし、8戦全勝。「あんた(ライド)は私がボクシングを始めたから、デビューしたんでしょ」。私こそ、ボクシングの血が体に流れているわよ。」 管理人:日本でもテレビ中継をするんでしょうかね? |
朝日 |
2001/01/23 |
夕刊 | 1面 | No .N143a010123e1 | ||||||
東京 |
プロボクサー |
女 |
24 |
来家恵美子 |
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シリーズ・特集; 扉を開く 女性アスリートの時代 2 | ||||||||||
見出し: ボクシング ライカさん(24)/強くなる 生きる力 |
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メモ : 鼻骨を折っている。「去年の12月、試合中のバッティングでやりました」。歪んだ鼻筋を、手術でもどした。2000年6月にはスパーリングで眼窩底を骨折し、た。「痛いのは我慢すればいい。つらいのは、けがの後、練習でけへんこと」 来家恵美子はプロボクサー・ライカとして試合に挑む。日本フェザー級1位。通算成績は2勝1分け。日本女子ボクシング協会は1999年に設立されたばかりで、この階級のチャンピオンをまだ認定していないから、1位最高位だ。 京都に生まれた。3歳から高校を卒業するまで養護施設迦陵園で育った。紡績会社で働きながら、短大を卒業した。歯科衛生士の資格を取り、歯科医院に就職した。「一ヶ月でやめました。ナース服きて、スカートはいて、というのが、あかんのですよ。元々、資格は意地で取ったようなもんやったし」 電池製造の会社で働いたが、抱えた空洞は埋まらない。「自分を探してたんですね。生きていることを実感する何かがほしかった」。幼いころから、女を意識することはほとんどなかった。強さへの憧れが膨らんでいく。1998年、アマチュアとしてボクシングを始めた。 「流行のボクササイズのようなものにはまったく興味はなかった。とにかく、強くなりたかった」。 1999年にはアマの全国大会でMVPに選ばれる。 「これや、と思いました。私はボクシングをするために生まれてきた」 2000年、東京の山本ジムにスカウトされて上京。プロボクサーとなった。アパート代と食費はジムが見てくれる。が、生活は楽ではない。試合の報酬は5000円のチケット20枚。自分で売りさばく。毎日、ジムに通った後、焼き肉店で時給1000円のアルバイトをする。 昨年末、育った養護施設に顔を出した。「今度はチャンピオンベルトを持ってくるって、子どもたちと約束したんです。約束は守らなあかん」 (文・編集委員西村欣也) |
読売 |
1999/11/26 |
夕刊 | 3面 | No .N143y991126e3 |
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兵庫県/西宮市 |
ピアニスト |
女 |
41 |
原千恵 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: シェイプアップ…夢は女子プロボクサーに/恐怖心を克服 熱い闘い魅力/アマ大会にOLら38人 |
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メモ : かつては男のスポーツだったボクシングの世界に女性の進出がめざましい。最初はシェイプアップのためにと始めても、練習を重ねるうちに実力を試してみたいと思うようになるもの。「できればプロになりたい」とのめり込む女性もおり、1999年11月、西宮市で開かれた「全日本女子アマチュアボクシング大会」に、そんなOLや公務員、教師ら38人が参加した。 米国では元世界ヘビー級王者モハメド・アリの娘レイラさんがデビューして話題を撒いた女子プロボクシング。日本では安全面などから、日本ボクシングコミッション(JBC)が女子を正式競技と認めていない。 競技人口はまだ少ないが、1999年4月、ニュージーランド出身で女子キックボクシングのプロ選手、マリー・スピードさんらが独自に日本女子ボクシング協会を発足。1999年5月には初代ミニフライ級女王を決める試合を行うなどしてアピールしている。 プロの試合は2、3ヶ月に1度、開かれているが、アマチュア選手が参加できるのは、全日本女子アマチュア大会だけ。1996年、大阪市のピアニスト原千恵さん(41)が所属するジムが初めて大会を開き、1997年から原さんが主催する。試合は1ラウンド2分で3ラウンド闘う。 京都市の小学校教諭・下井英津子さん(29)は、初めての大会で、自分が鼻地を出していることも分からず、相手がサウスポーだということも途中まで気付かなかったほど緊張。それでも得意のストレートが要所で決り、見事初勝利した。人間関係に悩み、人生から逃げ出したかったときジムの募集広告を見つけ、門をたたいた。仕事が終わるとジムで縄跳びやシャドー、スパーリングを黙々とこなす。 逃げ道をなくそうと思って出場した試合は「死ぬほどしんどかった」だが、最後まで戦い抜き、「つらかったことが乗り越えられそうな気がすると、爽やかな笑顔を見せた。 3回目の出場となる学習院大学資料館の学芸員・本多葵美子さん(27)は3-0の判定で余裕の勝利。体力作りのため2年半前に気軽に始めたが、「頭へのダメージが大きく、中途半端な気持ちではできない。恐怖心を克服しながらギリギリのところでファイトするのが魅力」と、のめり込んだ。 毎日約4時間の猛練習。最近は週2回、別のジムへ出稽古に行き、男子プロボクサーにスパーリングの相手をしてもらうほどまでになった。 「できればプロボクサーに」夢は膨らむ。 管理人:全日本女子アマチュアボクシング大会のサイト紹介はこちらから |
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読売 |
2001/06/02 |
夕刊 | 10面 | No .N143y010602e10 | ||||||
大阪 |
レスリング選手 |
女 |
23 |
浜口京子 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 世界最強の女性/東アジア大会で |
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メモ : マットから降りた“世界最強“の女性の素顔は、強さを誇った闘いぶりとは裏腹に謙虚だった。第3回東アジア競技大会レスリング女子75kg級で金メダルを獲得した浜口京子選手。 「地元の大会なので絶対に勝ちたかったんです。プレッシャーもあったけど、応援が励みになって」 会場のなみはやドーム(大阪府門真市)で囲んだ報道陣に対し「地元開催」への思い入れを示す第一声が出たのには訳がある。 元プロレスラーの父、アニマル浜口さんの手ほどきなどで13歳から競技を始め、世界選手権で3連覇したが、いずれも欧州の開催。2004年アテネ五輪で正式種目採用が検討される女子レスリングの認知度を、日本でめったにない国際大会で高めたかったからだ。 一般には知られていないが、日本女子の実力は世界でトップクラス。今大会も6階級中5階級を制した。 浜口さん 「私はみんなに引っ張られるだけだけど、アテネには出てみたい」 |
朝日 |
1999/04/17 |
朝刊 | 19面 | No .N143a990417m19 | ||||||
全日本女子レスリング連盟・浜口京子 |
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シリーズ・特集; Saturday Wide | ||||||||||
見出し: 「金」も視野/夢は五輪 女子レスリング/ホームページで盛り上げ |
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メモ : 女子のアマチュアレスリング界が、国際大会で低迷している男子を尻目に活気付いている。世界でトップレベルの実力があり、2002年の韓国・釜山アジア大会での採用が決定、2002年のアテネ五輪で正式種目に採用されつ可能性があるためだ。五輪当確を目指し、全日本女子レスリング連盟は1999年3月、インターネットにホームページを開設するなど広報活動を強化し始めた。 公式ホームページでは主要大会の記録、全国のクラブ一覧、投書などを紹介している。女子レスリングの話は、これまで格闘技の専門誌でしか見られなかっただけに、宣伝効果は抜群。 日本の女子レスリングは、1997年からの世界選手権では通算8度の団体優勝を飾っている。特に元プロレスラーのアニマル浜口さんの長女、浜口京子は75s級で2連覇、五輪種目になれば最も金メダルに近い。 元ソウルオリンピック代表で4年前に中京女子大付属高校に女子レスリング部を作った栄和人監督は「五輪に採用されることには今の高校生がちょうど脂の乗り切った年齢になる」と話す。1998年の全国高校選手権60s級で準優勝した同校2年の山本真由美も「五輪と言う目標があるから、つらい練習にも耐えられる」と目を輝かす。 小、中学生が加入する「ちびっ子クラブ」が現在、全国に約150あり、男女700人が所属する。高校の女子レスリング部も約20校に増えたが、中学校を卒業すると同時にレスリングをやめる女子が多いという課題もある。 連盟の杉山三郎広報委員 「素質のある女子がやめていくのは惜しい。若い選手が張り合いを持って続けられるような環境作りを進めたい」 管理人:全日本女子レスリング連盟のサイト紹介はこちらから |
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読売 |
2001/10/31 |
夕刊 | 2面 | No .N143y011031e2 |
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シリーズ・特集;ヒート・アップ・スクエア カリスマを探せ | ||||||||||
見出し: どすこい無敵の女横綱/新相撲 築比地里絵さん23/柔道から転身「もっと力つけ自分の技を」 |
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メモ : 慎重1m59cm、体重150kgの体から繰り出す脅威的なパワーで、「新相撲」と呼ばれる女子相撲の横綱≠ノ5年間君臨する。 相撲との出合いは1997年1月。拓殖大学1年生のときだ。柔道の全日本学生女子体重別選手権で3位になり、初タイトルが手の届くところにくると、部の監督から、あっと驚く言葉が出た。 「相撲に挑戦しないか。別の格闘技を経験するのも勉強。結果を出したらグアム旅行に行かせてやるぞ」 「相撲?はぁ……」 相撲のことはほとんど知らない。まして、トランクスの上とはいえ、わましをつけることへの抵抗から、生返事だった。でもグアム旅行は魅力。第1回全日本選手権にぶっつけ本番で臨むと、3歳から柔道で鍛えた体のしなやかさと、持ち前の瞬発力で次々と相手を圧倒し、常夏の青い海をあっさりと手にした。 しかし、4大会連続制覇した1999年、そのつけが回ってきた。ドイツのリーザ市で開かれた初の世界大会。選手の多くは柔道出身で、五輪クラスもいた。その選手達が四つに組み、投げを打つ。その姿は、スタイルを「カッコ悪い」と感じ、押し相撲だけで王座を守ってきた自分よりも、何倍も熱心で、堂々として見えた。結果は3位。中途半端な気持ちが、横綱の座を外国人に奪われる形となった。 「相撲には世界一という明確な目標がある。なんとなく続けてきた柔道はやめよう」 2000年春に大学を卒業し、約20人の相撲部員を抱える運輸会社「間口」(大阪市港区)に入社した。大阪府高石市内の稽古場に週3回通い、男子部員を相手に2時間をみっちり。コーチは同社の社員で、弓取りを務めたこともある元幕下若風(二子山部屋)の相馬学さん。 2000年12月、第2回世界大会無差別級で初優勝。風気味で臨んだ2001年10月28日の世界選手権は3位に終わったが、最も恐れられる存在には違いない。 「今、この競技を引っ張っていく立場。もっと力をつけて自分の相撲を取り続ける」 |
京都 |
2001/02/11 |
朝刊 | 4面 | No .N143k010211m4 |
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ロシア/モスクワ |
オレシャ・コワレンコ |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: ロシアの女性も“どすこい” |
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メモ : このほどモスクワで行われた女子相撲の国際大会。白いまわしを締めたオレシャ・コワレンコ選手は、基本に忠実な突き、押しで土俵際に追い詰め、無差別級で優勝した。 観客も熱心に女子の“新格闘技”に声援を送った。 管理人:女子相撲の土俵は「男子禁制」なのでしょうか?と日本相撲協会に皮肉も言いたくなるのは、私だけでしょうか? |
朝日 |
2001/01/27 |
夕刊 | 1面 | No .N143a010127e1 | ||||||
鳥取県 |
倉吉農業高校 |
女 |
17 |
中上真弓 |
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シリーズ・特集;扉を開く 女性アスリート新時代 5 | ||||||||||
見出し: 相撲 中上真弓さん(17) /鼻折り 名門残った |
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メモ : 円周14m余りの中で、高校生は別人になる。日本海から吹き付ける風は、ビニールハウスに覆われた土俵を気温0℃近くまで凍えあがらせる。158cm、55sの体に付けるのはスパッツとまわしつきの短パン。また割り、すり足、てっぽう…。相撲の練習は地味で単調できつい。しかも女子部員は一人だけ。ぶつかり稽古では鼻の骨を折ったことさえある。 中上真弓さん 「兄が高校でやっていたんですよ。かっこいいなと思ってたんです」 「(初めてまわしを付けた日は)女子更衣室からビニールハウスへ、走りましたもん」 「もう少し試合がやりたいんだけど……」 それが今の悩みだ。 鳥取県の倉吉農業高校は元横綱琴桜(現佐渡ヶ嶽親方)の母校である。学生相撲を経験した顧問の中田延章(49)が3年前に赴任したとき、名門は11年間も休部状態が続いていた。男子に声をかけても、返ってくる言葉は決って「まわし姿が恥ずかしい」ようやく一人が応じて同好会に。翌春、中学時代は走り幅跳びをしていた彼女と男子3人が加わった。彼女抜きに部の復活を考えるのは難しい。今や一人残った2年生。男子を従えて名門校の主将である。 女子の高校大会はなく、試合は年1回、女子の全日本新相撲選手権だけ。今年度は41人が出場した一般軽量の部3回戦で破れた。 中田延章さん 「女の子には無理かなと思ったんですがねぇ」 「最近は女子にも、よく声をかけるんですよ。相撲やってみないか、て」 佐渡ヶ嶽親方 「一度若いもんを連れて、けいこをみにいかなきゃな」 (文・金谷智美) |
京都 |
1999/12/06 |
夕刊 | 9面 | No .N143k991206e9 | ||||||
ドイツ/リーザ |
第8回世界相撲選手権 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 日本、団体8連覇/世界相撲選手権/ポーランド破り/女子は敗者復活で3位/男女平等、まわしも当然/初の国際大会/専用パンツやめ女子もりりしく |
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メモ : 1999年12月5日、日本以外で初開催となった第8回世界相撲選手権で、日本は三選手で争われた団体決勝でポーランドを3-0で下し、8連覇を果たした。 「新相撲リーザ世界大会」として行われた女子の部では、団体の日本と無差別級の築比地里絵(拓大)選手が敗者復活戦に回って3位に入った。鈴木なつ未(拓大)は無差別級の敗者復活戦で敗退した。 「新相撲リーザ世界大会」として行われた女子相撲の初の国際大会で、日本は団体3位と健闘したが、日本の女子が試合でまわしを締めたのは、実はこれが初体験だった。 女子は日本国内では取り組み用の専用パンツを履いているが、高価なため外国選手には不評。1999年12月3日の国際相撲連盟の会議で、今大会では協議用のまわしの着用が決った。 中流級と団体に出場した浅井栄美(愛知・杉山女学園高校) 「パンツの方が軽いので、最初はまわしに違和感があったけど慣れました」 女子の北田登男団長 「相撲はまわしを締めて闘う姿が美しいし気持ちも入る。日本では女子の場合、恥ずかしさもあって専用パンツを使っているが、世界的には男女平等の観点からも、、女子もまわしを使うのが当たり前になっている」 |