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吏部

役職名 定員
尚書 一人 正二品
左、右侍郎 各一人 正三品


尚書は国家の官吏の採用を行い、功績に報い、勤怠を調べる命令を出す事をとりしきり、人材の優劣を見分けることによって皇帝の政治を補佐する。思うに、古い時代の冢宰の職にあたるもので、他の五部と比べて特に重要である。侍郎はそれを補佐する。

属官
部署名 役職名 定員
司務庁 司務 二人 従九品


司務は催督(業務の催促)、稽緩(業務が滞っているものの確認)、勾銷(不要な業務の抹消)、簿書(業務の文書の管理)を処理する。
明初、主事と司務それぞれ四人を設置し、首領官として主事の印を授けた。洪武二十九年、主事を改めて司官とし、司務二人を裁量させた。他の各部(戸部、礼部、兵部、刑部、工部)も同様である。

四清吏司
部署名 役職名 定員 職掌
文選司 郎中

員外郎

主事
各一人

各一人

各一人
正五品

従五品

正六品
(下記に詳述)
験封司
稽勲司
考功司


洪武三十一年文選司に主事一人を増設した。正統十一年考功司に主事一人を増設した。

文選司

文選は官吏の席次や昇進、転任について処理し、それによって尚書を補佐する。

文官の品は、九段階に分かれ、品には正と従があるので、級は十八となっている。九品に入っていない者は未入流(流外官)という。
官吏の選抜は、毎年大選、急選、遠方選がある。歳貢(毎年地方長官が有能な人材を推挙する)の時は教選があり、時々揀選もあり、また科挙受験者が恩選を乞うこともある。選抜された者は皆資簿に登録され、品秩を整理されて、銓選注記(官吏候補として記録したもの)を公平に判断して序列をつけ、移動させた。
昇進は、必ず考満を行いよく考慮する。もし欠員があるところの補充に当れば考満を待たずに昇進させる。これを推陞という。類推は一人を上げることであり、単推は二人を上げることである。三品以上の官と九卿及び僉都御史、祭酒は、廷推によって二人或いは三人を、また内閣や吏、兵の二部の尚書は廷推によって二人を上げることができる。
王府の官は、王府以外に影響力を持たない。王の姻戚となった者は、王府の官には任命されない。
大臣の一族の者は科道官(都察院の六給事中及び十三監察御史)に就くことはできない。
同僚であった者や同じ一族の出身者では、下の者が上に立つ事はないようにする。
一般の官吏で、その才能と地位が見合っていない者がいれば、詳しく調べて入れ替えを行う。
昇進の推薦をする者、または自ら昇進を請う者があれば、ともに皇帝に願い出る事ができる。
臨時採用や試験採用、実際の任用等によって年齢に応じた地位を定め、新設の部署、廃止・併合された部署、兼任の部署など煩雑なところをまとめ、推挙、再登用、徴用などによって民間に隠れた人材を奮い起こさせ、給与と書付によって余裕を与え、左遷や罷免によって罪を抑え、業務の予定から行政活動を監督し、休暇を与える事で情けを尽くすのである。

験封司

験封は爵位の贈与、官爵の世襲、死後贈与、下級官吏の人数について処理し、それによって尚書を補佐する。

爵位については、国家にかかわる軍功を挙げた者でなければ得る事ができない。封号は特別の指示がなければ与える事はない。
(爵位を有する者は)何代目かに関わらず誥書という任命書を与えられる。衍聖公(孔子の子孫に代々与えられた爵位)及び皇帝の外戚への温情による封爵については任命書は発行されない。
任命書は左右一対あり、左は宮中に保管され、右は封ぜられた功臣の家に与えられる。爵位が世襲される時は、その任命書を徴収し、それまでの功績や罪科を調べ、分家も含めた一族についても厳しく調べ、そうして代々の任官等についてきちんと整理するのである。
土官(主に西南地域の異民族を領掌した世襲の地方官、異民族の長が任命された)については世襲を許すかどうかについて勘案し、文選司へ移して更に議論する。宣慰司、宣撫司、安撫司、長官司等土兵を率いるものは兵部に所属する。
[广/陰]敍(父祖の功績によって子孫が官位を受ける事)については、明代始めに一品から七品までの官は子供一人を官位につけることができるようにされたため、俸禄を子に伝えさせる事ができた。洪武十六年に官の子孫に対する[广/陰]敍について定められた。正一品官の子は正五品に採用する。従一品官の子は従五品に採用する。正二品官の子は正六品に採用する。従二品官の子は従六品に採用する。正三品官の子は正七品に採用する。従三品官の子は従七品に採用する。正四品官の子は正八品に採用する。従四品官の子は従八品に採用する。正五品官の子は正九品に採用する。従五品官の子は従九品に採用する。正六品官の子は品階には入らないが上等職に採用する。従六品官の子は品階に入らない中等職に採用する。正従七品官の子は品階に入らない下等職に採用する。後に(官位を子に譲るのは)だんだんと制限されるようになり、京官の三品以上でその功績がはっきり認められた時、初めて子供一人を官位につけさせられるものとなった。それを官生という。また特に目をかけられたものは恩生といった。
封贈については、公、侯、伯の死後に与える封爵(領地と爵位)のことであり、皆順当に一等を上げられる。三品以上で政治的功績の高かった者や死によって皇帝を諌めた者、節義のために死んだ者、戦死した者については皆死後に官位を贈られる。
(品官に)任命されれば、最初に位のみの(職掌外の)等級を授けられる。京官(中央官庁の役人)で科挙に一度で合格した者、及び外官(地方官)で科挙に一度で合格したうちもっとも評判のよい者には、全員に本人にだけ「誥敕」(皇帝よりの布告文)が与えられた。七品以上であれば全員その先祖へも爵位が授けられた。五品以上には「誥命」が授けられ、六品以下には「敕命」が授けられる。一品へは(本人と、本人以外の先祖の)三代へ(合計で)四軸、二品、三品へは二代へ三軸、四品から七品へは一代へ二軸。八品以下の流内官(九品以上の正式の官)へは本人へのみ一軸。一品の軸は玉製、二品の軸は犀(の角)製、三品、四品は[沃/金]金(しろがねのメッキ)製、五品以下の軸は角製である。曽祖父や祖父、父へは皆その子孫の官品と等しく与えられる。公、侯、伯は一品になぞらえた。外内命婦(外命婦と内命婦。高級官の妻や皇帝の妃賓)については夫や子の品に準じさせた。
生きている間に授けられたものは「封」と呼び、死後授けられるものを「贈」と呼ぶ。もし、何かの罪を犯せばすぐに取り上げられた。
文官の位のみの(職掌外の)等級は四十二ある。それは科挙の成績によって差をつけられる。正一品は、最初に特進栄禄大夫を授けられ、特進光禄大夫へ昇進する。従一品は、最初に栄禄大夫を授けられ、光禄大夫へ昇進する。正二品は、最初資善大夫を授けられ、資政大夫に昇進し、資徳大夫を加えられる。従二品は、最初に中奉大夫を授けられ、通奉大夫へ昇進し、正奉大夫を加えられる。正三品は、最初に嘉議大夫を授けられ、通議大夫に昇進し、正議大夫を加えられる。従三品は、最初亜中大夫を授けられ、授中大夫に昇進し、大中大夫を加えられる。正四品は、最初に中順大夫を授けられ、中憲大夫に昇進し、中議大夫を加えられる。従四品は、最初に朝列大夫を授けられ、朝議大夫に昇進し、朝請大夫を加えられる。正五品は、最初に奉議大夫を授けられ、奉政大夫に昇進する。従五品は、最初に奉訓大夫を授けられ、奉直大夫に昇進する。正六品は、最初承直郎を授けられ、承コ郎に昇進する。従六品は、最初に承務郎を授けられ、儒林郎に昇進する。優秀な吏(下級役人)で官職に就いた者は宣徳郎を授けられた。正七品は、最初に承事郎を授けられ、文林郎に昇進する。優秀な吏(下級役人)で官職に就いた者は宣議郎を授けられた。従七品は、最初従仕郎を授けられ、徴仕郎に昇進する。正八品は、最初に廸功郎を授けられ、修職郎に昇進する。従八品は、最初に廸功佐郎を授けられ、修職佐郎に昇進する。正九品は、最初に将仕郎を授けられ、登仕郎に昇進する。従九品は、最初に将仕佐郎を授けられ、登仕佐郎に昇進する。
外命婦(公主や王妃及び夫によって封号を受けた者)の号は九ある。公は某国夫人という。侯は某侯夫人という。伯は某伯夫人という。一品は夫人といったが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人という。三品は淑人という。四品は恭人という。五品は宜人という。六品は安人という。七品は孺人という。その子孫が封爵を受けると「太」の字を加えられるが、夫が生存している場合にはそのままである。
封贈を受ける回数については、七品から六品になるのが一回、五品が一回、初制では四品も一回あったが後に省かれ、三品、二品、一品がそれぞれ一回である。
(夫を同じくする)三人の母(妻)が並んで封を受ける事はなく、二人の場合でも優れた者の方から封じていく。
父の職が子よりも高い場合には、(子の封を)一階を進める。父の俸給が停止された場合や、子が他家の後継ぎとなるような場合には、いずれも(父の)封を(子に)移しかえることができる。
嫡子がいるのにその生母を封じていない場合には、生母を封じないうちは先に(他の)妻を封じる事はない。妻を封じる場合は、正妻一人と(正妻が死んだ後は)後妻一人までに止める。
封贈がなされたのちに汚職が発覚した者は、追って剥奪される。

稽勲司

稽勲は勲級(功績に対する評価)、名籍(姓名・身分などを記載した戸籍)、喪養(家族の世話や喪に関する事)について担当し、それによって尚書を補佐する。

文官の勲級は十ある。正一品は左・右柱国。従一品は柱国。正二品は正治上卿。従二品は正治卿。正三品は資治尹。従三品は資治少尹。正四品は賛治尹。従四品は賛治少尹。正五品は修正庶尹。従五品は協正庶尹。五品以上の者については定期的に功績を調べて叙勲を行う。
全ての官の移動や格下げについては、年齢や本籍(出身地)、経歴を書き記す。毎年十二月に行われる貼黄(詔勅の改正)、春と秋に行われる清黄(詔勅の整理)では、全員が内府(宮中の倉庫)へ駆け付ける。何か問題があった場合には、掲示した後に取り外す。
父母が七十歳になった際、特に兄弟のいない者については、帰郷して父母を養う事ができる。
三年喪(父母の死後は二十五ヵ月間喪に服する)については、職務を解いて喪のきまりを守らせる。喪に服させなかったり、喪中である事を隠させたり、喪の期間を短縮させたりする者はきつく取り締まる。ただし欽天監については、三ヶ月喪に服した後急ぎ戻らせ、復職させる。

考功司

考功では、官吏の勤務成績、降格や昇進について担当し、それによって尚書を補佐する。

内官・外官の給与については、三年目で最初の考査、六年目で二回目の考査があり、また九年目には任官から現在に至るまでの期間の考査が行われた。その職務への適応度などについてまとめて奏請(皇帝に決裁を仰ぐ)し、通常、職務不適合であれば(能力に応じて)昇進・降格させる。二等以上の昇進、三等以上の降格はないが、あまりにひどい場合には罷免、または処罰も行う。
京官は六年に一度、巳年と亥年に考査を行なう。五品以下の者で職務に不適応と判断された者については降格や処罰に差がある。四品以上の者で(降格について)弁解するような者があれば、その去就は皇帝の意向に従う。
外官は三年に一度、辰・戌・丑・未の年に入朝(して考査を)する。入朝するのに先立って巡撫官・按察官を派遣しそれぞれその三年間の功績や失敗を調べさせ、(結果を)集めて(朝廷へ)送り、何度も調査して、それによって昇進・降格を定める。
倉場庫の官は一年毎に考査を行なう。巡検史は三年毎、教官は九年毎である。府州県の官の考査は、赴任地の状況によって異なる。
(下級役人)の考査については、(採用から)三年後及び六年後である。(考査後担当を)封験司へ移して調整させる。九年が経過したら、官として採用するかを検討する。
一方、王府や欽天監、また皇帝に直接仕える官等については考査は行なわれない。
内官・外官を弾劾する上奏文があった場合には、その功績や失敗をよく調査して去就について検討し、皇帝の指示を仰ぐ。優れた人材の推挙や、(地位の)保留があった際には、すぐにその(人物の)勤務成績を調べ別(の評価や誤りがないかどうか)明らかにした。

明代 初め 四つの部が中書省に設置され、錢穀、礼儀、刑名、営造について分担した。
洪武 元年 初めて吏、戸、礼、兵、刑、工の六部が設置され、尚書、侍郎、郎中、員外郎、主事が置かれて、尚書は正三品、侍郎は正四品、郎中正五品、員外郎正六品、主事正七品、そのまま中書省の所属となった。
  六年 (六)部に尚書が二名、侍郎が二名置かれた。吏部に総部、司勲、考功の三つの属部が設けられ、(それらの)部に郎中、員外郎がそれぞれ一名、主事がそれぞれ二名置かれた。
  十三年 中書省を廃止し、周官の六卿の制に習って六部の序列を格上げして、それぞれに尚書、侍郎が一名置かれた。ただし戸部の侍郎は二名である。各部は四つの属部に分けられ、吏部の属部には司封が加えられた。属部毎に郎中、員外郎、主事が一名ずつ置かれ、ついで侍郎一名が増やされた。
  二十二年 (吏部の属部である)総部を選部に改めた。
  二十九年 (吏部に)文選、験封、稽勲、考功の四司が設置され、また(他の)五部の(下に)(する部署)はすべて清吏司と呼ぶように定められた。
建文 年間 六部の尚書を正一品に改め、左・右の侍中を設置し正二品侍郎の上位に置いて、ゥ司から清吏の字を除いた。永楽始め、(それらは)全て元に戻された。
永楽 元年 北平(の名称)が北京となったことに伴ない、北京行部が設置されて、尚書二名、侍郎四名と、その下に六曹清吏司が置かれた。吏、戸、礼、兵、工の五曹には、郎中、員外郎、主事にそれぞれ一名ずつ。刑曹には郎中一名、員外郎一名、主事四名、照磨と検校それぞれ一名、司獄一名。その後戸曹も主事三名に増設された。後には(行部を)分けて六部が置かれ、それぞれ行在〜部と呼ぶようになった。
  十八年 北京に遷都すると行部及び六曹が廃止され、六部の官やその属は北京に移って行在とは呼ばれなくなった。(前の都である)南京に残る部署には「南京」の字を加えられるようになった。
洪煕 元年 再び各部の官やその属が南京に(戻されて)設置され、「南京」の字が取り去られた。そして北京にある部署に「行在」の字が加えられるようになり、行部が置かれた。
宣徳 三年 再度行部が廃止された。
正統 六年 北京(の部署)から「行在」の字が取り去られ、南京の方に「南京」の字を加えるようになり、ついにそれが制度として定められた。
景泰 年間 試しに吏部尚書が二名に増員された。天順始め、(それは)廃止され一名になった。
     

 吏部尚書というのは、大勢の仲間の手本となって統率し、それぞれの官の進退を決し、重要な地位に適当な人物を選出する。その待遇は特別であり、他に並ぶ者はいない。
 永楽の始めになると、翰林院の官から選んで内閣へ参加させるようになった。その後大学士の楊士奇等を三孤に進め、尚書職も兼任させたが、しかし、序列は尚書の蹇義や夏原吉よりも下位とされた。
 景泰年間に、左都御史の王文を吏部尚書に昇進させ、学士を兼任させて内閣に参加させたが、その地位はやはり元の序列のままとされた。
 弘治六年二月に内宴(宮中で行なわれる身内の宴)が行なわれ、大学士丘濬はようやく太子太保・礼部尚書という地位によって、太子太保・吏部尚書の王恕より上位となった。
 その後、侍郎や・事(の職にある者)が入閣する場合には、いずれも六部(尚書)より上位とされた。

 

 

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