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皇帝から下されるものについては、詔、誥、制、册文、諭、書、符、令、檄などというものがあるが、その全ての下書きを書いて皇帝に差し出し、それを関係各所に下すようになっている。 |
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また、臣下から皇帝に差し出されるものについては題、奏、表、講章、書状、文册、掲帖、制対、露布、訳というものがあるが、内容を何度も調べて添削し、内容を公平に保って書面が通るようにする。 |
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皇帝が郊祀を行う際や諸国を巡る時ような時にもいつも付き従った。 |
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皇帝が経書を学ぶ席に出席する時は、その内容を把握するようにした。 |
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皇太子が宮を出て勉強しようとした時は、それを取り仕切って教師役の官を任命し、教える内容を指示した。 |
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元服や結婚に際しては儀式をつかさどり、納徴等の使者にもなった。 |
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実録や歴史記録などの書物を編集する際には作業を総裁する官にあたった。 |
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春と秋の上丁の日に孔子を祀る時には、祭事を皇帝に代わって行った。 |
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科挙の会試の時は考試官(試験官)となり、殿試の時には読巻官となった。進士に合格した者の名前などを書き出す際には、大学士の一人が文章をつけて太学(大学)内に石碑を立てた。 |
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大きな儀式や政治上の事柄については九卿や科道官が会議を行うが、決定事項が法律と合っているか、時節に合っているかを確認し、内容が妥当であるかを考えて処理し、皇帝に報告した。 |
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詔を公布するにはそれを礼部に授けた。 |
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敕があればその由来状を考えて、それから皇帝に敕を下すよう願った。 |
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皇帝の血縁である宗室から命名や冊封の願いがあったり、臣下から諡をつけてくれるよう願われると、全て皇帝と論議した。 |
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食事は内裏でとらせ常に皇帝の側にいるようにした。そして宰相という名称を避けて、内閣と名付けた。 |
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洪武九年 |
平章政事、参知政事の見直しをした。 |
洪武十三年正月 |
丞相の胡惟庸を誅殺し、そのまま中書省を廃止した。
その属官は取り除き、ただ中書舎人のみを残した。 |
洪武十三年九月 |
四輔官を設置し、儒士の王本などをその職に就けた。四輔官を設置して、それを太廟に告げ、王本、杜祐、(龍/共)(學+攴)を春官に任命し、杜(學+攴)、趙民望、呉源を夏官に任命し、太子賓客を兼任させた。秋、冬官は空きとし、王本たちに兼任させた。ひと月を上中下の三旬に分けてそれぞれ務めさせた。その地位は公、侯、都督に次ぐものであった。その後、また廃止した。 |
洪武十五年 |
宋代の制度に倣って華蓋殿、武英殿、文淵閣、東閣の大学士を設置した。礼部尚書の邵質を華蓋殿大学士とし、検討の呉伯宗を武英殿大学士とし、翰林学士の宋訥を文淵閣大学士とし、典籍の呉沈を東閣大学士とした。また、文華殿大学士を設置し、徴耆儒の鮑恂、余詮、張長年などをその職にあて、皇太子の補佐をさせた。秩はすべて正五品である。 |
洪武二十八年 |
群臣に敕を下した。「丞相を廃止し、府、部、院、寺を設置してそれぞれに職務を分担させれば、立法に公正さをもたせるようになるだろう。これ以後皇帝位を継ぐ者は丞相を置いてはならない。臣下に丞相を立てよと意見する者がいれば極刑に処する」と。この時、翰林、春房に臣下から上がってくる奏や啓などの意見書を詳しく見るようにさせ、反対意見を述べさせる役を兼任させた。大学士は特別に皇帝の左右にいるようにさせたが、顧問としてのみの役割であった。 |
建文年間 |
大学士を学士と改めた。大学士をすべて廃止し、それぞれに学士を一人ずつ設けた。また謹身殿を正心殿と改め、正心殿大学士を設置した。 |
成祖永楽帝 |
特に命じて解縉、胡広、楊栄らを文淵閣にあたらせ政治の機密事項に参与させた。閣臣が政治に参加するようになったのはこの時からである。ただし、この時入閣した者は皆編、検、講読の官である。属官などは置かず、何らかの役職に就く事はなかった。各役所からの奏上があってもそれに意見する事はできなかった。 |
仁宗洪熙年間 |
楊士奇、楊栄といった皇太子時代からの旧臣がおり、楊士奇を礼部侍郎兼華蓋殿大学士、楊栄を太常卿兼謹身殿大学士と、それぞれ昇進させた。謹身殿大学士は仁宗が初めて設置したものである。内閣の職務はやや格があがった。その後楊士奇、楊栄等は皆尚書の職務を命じられて移動し、内閣にいるといっても官としては尚書である事によって尊敬を受けた。 |
景泰年間 |
王文が左都御史から吏部尚書に進み、内閣に入った。(これまで内閣に属官は置かなかったが)これより後、誥敕房、制敕房に中書舎人を設けた。六部はその意思を恭しく受けるようになり、内閣が取り仕切らない役所はなく、内閣の権力はますます大きくなった。 |
世宗嘉靖年間 |
三殿が完成し華蓋殿を中極殿に、謹身殿を建極殿に改めた。内閣の位はこれによって決まることとなった。
三殿:奉天殿、華蓋殿、謹身殿のこと。永楽十八年九月頃に完成し、翌永楽十九年四月庚子に落雷で三殿とも焼失した。永楽帝はこの直前に京師を南京から北京へ移すという遷都の詔を発していたが、この三殿焼失という不吉な出来事によって世論に動揺を呼び起こしたとも言われる。その後、正統六年十一月にようやく再建された。そして嘉靖四十一年九月に奉天殿を皇極殿、華蓋殿を中極殿、謹身殿を建極殿にそれぞれ改めた。 |
嘉靖年間以後 |
朝廷での席次はいずれも六部より上位とされた。 |