明史のメニューへ

 

戸部

役職名 定員
尚書 一人 正二品
左、右侍郎 各一人 正三品

尚書は国内の戸数と人口、田地にかける税に関する法律について取りしきる。侍郎はそれを補佐する。版籍(土地の区分と所有者、戸籍などを記した帳簿)や一年の会計、賦役(税と労働)の実数について検討するのはそれより下の担当部署である。

         

十年で黄冊を回収し、各戸の上位と下位や半端などに区別をつけ、増減したところを明らかにする。
田や土地については、その占領、放棄、押し付け、名義貸しは禁止事項あり。
家族や家については、その隠し漏らし、逃亡、仲買による売買、利益の分配は禁止事項あり。
後継ぎや結婚については法令にするまでもなく禁止事項あり。
これらをまとめて調べ上げて是正する。


皇帝が自ら土地を耕す時には、戸部尚書がすきを差し出す。


荒地を開墾する事で貧民へ仕事を与える。
戸籍を定める事で流民を落ち着かせる。
土地に区切りをつけることで異端の考えを持つ者を裁く。
帳簿に記録することによって他人の土地を横領しようとする者を抑える。
植物を栽培させることで官にも畑仕事を割り当てる。
土地は草を刈って、馬を与える。農民を集めて生産物や地代を全て出させる。
たまった借金を帳消しにする。
物資を支給して恩沢を施す。
租税や賦役を免除させて本業に復帰させる。
金品を与えて功績を称える。
政令を読み聞かせる事で官民を教育する。
比較検討して市での米の売買を安定させる。
適宜市場を見て物価を安定させる。
貯える政策によって人民が困窮している時は物資を恵む。
人里離れた土地、傾いた窪地、辺境の市場、谷間などを治める事で国家を支え、軍需物資を補う。
漕米の支給や、銀に替えての運送について取り仕切り、舟の輸送を滞りなく運ばせる。
租税の軽減、物資の援助、家産の量による穀物の買い上げ、作物を荒らす蝗の捕獲について法令を出し、災害時のことを思いやる。
物資の輸送、土地の開墾、穀物の買い上げ、納入について法律を定め、地方の利益をもたらす。
給与の制度を定める事によって、身分の上下に関係なく取りまとめる。


洪武二十五年、全ての文武の官の給与制度を改定した。

      数値(石)   増数
  正一品は、千四十四石。
従一品は、八百八十八石。
正二品は、七百三十二石。
従二品は、五百七十六石。
正三品は、四百二十石。
従三品は、三百十二石。
正四品は、二百八十八石。
従四品は、二百五十二石。
正五品は、百九十二石。
従五品は、百六十八石。
正六品は、百二十石。
従六品は、九十六石。
正七品は、九十石。
従七品は、八十四石。
正八品は、七十八石。
従八品は、七十二石。
正九品は、六十六石。
従九品は、六十石。
  1044
888
732
576
420
312
288
252
192
168
120
96
90
84
78
72
66
60
  +156
+156
+156
+156
+108
+24
+36
+60
+24
+48
+24
+6
+6
+6
+6
+6
+6

(6×26)
(6×26)
(6×26)
(6×26)
(6×18)
(6×4)
(6×6)
(6×10)
(6×4)
(6×8)
(6×4)
(6×1)
(6×1)
(6×1)
(6×1)
(6×1)
(6×1)

品秩のない流外官は三十六石。
いずれも米と紙幣をおりまぜた支給である。

                   

属官
部署名 役職名 定員
司務庁 司務 二人 従九品
十三清吏司 詳細は以下
照磨所

          

十三清吏司

十三清吏司は、それぞれの省について分担して担当する。また、両京(京師・北京と、南京)と直隷からの献上物と租税についてや、各機関や衞所の給与、辺鎮の食糧と、米倉に課す塩の税金、課税を行なう税関についても管理する。

部署名 役職名 定員 職掌
浙江司 郎中

員外郎

主事

各一人

各一人

各二人

正五品

従五品

正六品

浙江司は、京師にいる羽林右、留守左、龍虎、応天、龍驤、義勇右、康陵の七つの衛と、神機営の管理を兼ねる。
江西司 江西司は、京師にいる旗手、金吾前、金吾後、金吾左、済陽の五つの衛の管理を兼ねる。
湖広司 湖広司は、国子監、教坊司と、京師にいる羽林前、通州、和陽、豹韜、永陵、昭陵の六つの衛及び興都留守司の管理を兼ねる。
陝西司 陝西司は、宗人府、五軍都督府、六部、都察院、通政司、大理寺、・事府、翰林院、太僕寺、鴻臚寺、尚宝司、六科、中書舎人、行人司、欽天監、太医院、五城兵馬司、京衞武学、文思院、皮作局と、京師にいる留守右、長陵、献陵、景陵の四つの衛、神枢、随侍の二つの営及び延綏、寧夏、甘肅、固原の各鎮の管理を兼ねる。
広東司 広東司は、京師にいる羽林左、留守中、鷹揚、神武左、義勇前、義勇後の六つの衛、蕃牧、奠靖の二千戸所の管理を兼ねる。
山東司 山東司は、京師にいる錦衣、大寧中、大寧前の三つの衛及び遼東都司、両淮、両浙、長蘆、河東、山東、福建の各塩運司、四川、広東、海北、雲南黒塩井、白塩井、安寧、五井の各塩課提挙司、陝西霊州塩課司、江西南[章+夂/貢](カン)塩税の管理を兼ねる。
福建司 福建司は、順天府と、京師にいる燕山左、武驤左、武驤右、驍騎右、虎賁右、留守後、武成中、茂陵の八つの衛、五軍、巡捕、勇士、四衛の各衛所及び北直隷の永平、保定、河間、真定、順徳、広平、大名の七府、延慶、保安の二州、大寧都司、万全都司、並びに北直隷に所属する各衞ゥと、山口、永盈、通済の各米倉の管理を兼ねる。
河南司 河南司は、京師にいる府軍前、燕山右、大興左、裕陵の四つの衛と、牧馬千戸所及び直隷の潼関衞、蒲州千戸所の管理を兼ねる。
山西司 山西司は、京師にいる燕山前、鎮南、興武、永清左、永清右の五つの衛及び宣府、大同、山西の各鎮の管理を兼ねる。
四川司 四川司は、京師にいる府軍後、金吾右、騰驤左、騰驤右、武徳、神策、忠義後、武功中、武功左、武功右、彭城の十一の衛及び応天府、南京の四十九衛、南直隷の安慶、蘇州、松江、常州、鎮江、徽州、寧国、池州、太平、蘆州、鳳陽、淮安、揚州の十三府と、徐、[水+除]、和、広徳の四つの州、中都留守司並びに南直隷に属する各衛所の管理を兼ねる。
広西司 江西司は、太常寺、光祿寺、神楽観、犠牲所、司牲司、太倉銀庫、内府十庫と、京師にいる瀋陽左、瀋陽右、留守前、寛河、蔚州左の五つの衛及び二十三の馬房倉と各象房・牛房倉、京師の各草場の管理を兼ねる。
貴州司 貴州司は、上林苑監、宝鈔提挙司、都税司、正陽門、張家湾の各宣課司、徳勝門、安定門の各税課司、崇文門の分司と、京師にいる済州、会州、富峪の三つの衛及び薊州、永平、密雲、昌平、易州の各鎮、臨清、許墅、九江、淮安、北新、揚州、河西務の各鈔関の管理を兼ねる。
雲南司 雲南司は、京師にいる府軍、府軍右、虎賁左、忠義右、忠義前、泰陵の七つの衛及び大軍倉、皇城の四つの門の倉並びに京師の外にある臨清、徳州、徐州、淮安、天津の各倉の管理を兼ねる。

宣徳期以後に山西司郎中が三人、陝西・貴州・雲南司郎中がそれぞれ二人、山東司郎中が一人増設された。
宣徳七年に四川・雲南の二司に員外郎が一人ずつ増設されたが、後に廃止された。
宣徳期以後に雲南司主事七人、浙江・江西・湖広・陝西・福建・河南・山西の七司の主事それぞれ二人、山東・四川・貴州の三司の主事それぞれ一人が増設された。

それぞれの清吏司は四つの科に分かれている。

民科は、所属する省の府、州、県の地理や人物、地図、歴史、山や川の地勢、土地の肥沃度や面積、人口や世帯数による生産高やその増減数について処理する。
度支は、夏の税金、秋の租税、徴収した税のうちの省の取り分と中央政府へ発送する分及び功労に対する賞与や官吏の給与に関わる経費について処理する。
金科は、商船、海産物、お茶にかかる税及び不正蓄財の没収について処理する。
倉科は、舟による輸送や軍需物資の備蓄に関する出納や会計について処理する。

官の等級は三等に分かれている。吏部から選ばれてきた者は註差という。名乗り出て志願してきた者を題差という。命令に従って移動してきた者を部差という。三年、または一年、または三ヶ月で移動となる。

         

照磨所
役職名 定員
照磨 一人 正八品
検校 一人 正九品

 

                   

 

所轄(管理下にある部署)
部署名 役職名 定員 備考
宝鈔提挙司 提挙 一人 正八品 後に副提挙、典史ともに廃止された。
副提挙 一人 正九品
典史 一人
鈔紙局 大使 各一人 後に副使は廃止された。
副使
印鈔局 大使 各一人 ともに後に廃止された。
副使
宝鈔広恵庫 大使 一人 正九品 嘉靖年間に廃止された。
副使 二人 従九品
広積庫 大使 一人 正九品 嘉靖年間に副使、典史ともに廃止された。
副使 一人 従九品
典史 一人
贓罰庫 大使 一人 正九品 嘉靖年間に廃止された。
副使 二人 従九品
甲字庫 大使

副使

五人

六人

正九品

従九品

副使は丁字庫が二人であったが嘉靖年間に一人を廃止、同時に乙字・戊字の二庫の副使についても廃止された。
乙字庫
丙字庫
丁字庫
戊字庫
広盈庫 大使 一人 従九品 嘉靖年間に廃止された。
副使 二人
外承運庫 大使 二人 正九品 後に大使・副使ともに廃止された。
副使 二人 従九品
承運庫 大使 一人 正九品 嘉靖年間に廃止された。
副使 一人 従九品
行用庫 大使 各一人 後にともに廃止された。
副使
太倉銀庫 大使 各一人 嘉靖年間に副使を廃止。
副使
御馬倉 大使 一人 従九品
副使 一人
軍儲倉 大使 一人 従九品 後に大使・副使ともに廃止された。
副使 一人
長安門倉 副使 各一人 東安門倉はもともと二人であったが、万暦八年に一人を廃止。
東安門倉
西安門倉
北安門倉
張家湾塩倉検校批験所 大使 各一人 隆慶六年、ともに廃止された。
副使

 

                   

 

洪武 元年 戸部が設置された。
  六年 尚書を二人、侍郎を二人置いた。戸部を五つに分割して、一科、二科、三科、四科、総科とした。それぞれの科に郎中、員外郎を一人ずつ、主事を四人置いた。ただし総科については郎中、員外郎それぞれ二人、主事を五人とした。
  八年 中書省が、戸部、刑部、工部の職務が忙しいと訴えたため、戸部の五科については科毎に尚書、侍郎一人ずつ、郎中、員外郎二人ずつ、主事五人、そのうち総科の主事は六人、外牽照科に主事二人、司計四人、照磨二人、管勾一人を置いた。また、在京行用庫を設置し、戸部に所属させた。大使一人、副使二人、典史一人、都監二人を設けた。
  十三年 中書省を廃止し、六部が昇格され、尚書一人、侍郎二人を置くと定めた。四つの属部に分けて、総部、度支部、金部、倉部とした。部毎に郎中と員外郎を一人ずつ置いた。総部の主事は四人としたが、度支部と金部の主事は三人、倉部の主事は二人とした。その後在京行用庫を廃止した。
  二十二年 総部を改めて民部とした。
  二十三年 さらに四部を分割して、河南、北平、山東、山西、陝西、浙江、江西、湖広、広東、広西、四川、福建の十二部とした。四川部は雲南を含む。部には郎中、員外郎それぞれ一人、主事二人置き、それぞれ一つの布政司の人口や世帯数、地租として徴収した金銭や米穀について管理させ、業務量に応じて京師周辺の地域の管理も任せた。一つの部をさらに四科に分けて管理させた。また、照磨、検校にそれぞれ一人置いて、行き来する文書を調べさせ、誤りの訂正などを行なわせた。
  十九年 再度、宝鈔提挙司を設置した。洪武七年、初めて宝鈔提挙司を設置し、提挙一人・正七品、副提挙一人・従七品、吏目一人・説明は省く。所属の部署については、鈔紙、印鈔の二局が、それぞれ大使一人・正八品、副使一人・正九品、典史一人・説明は省く。宝鈔、行用の二庫が、それぞれ大使二人・正八品、副使二人・正九品、典史一人・説明は省く。その後まもなく提挙を正四品に上げた。十三年に宝鈔提挙司を廃止したが、この年に再び設置し、提挙を正八品とした。
  二十六年 浙江、江西、蘇松の出身者は戸部の業務に就くことができないようにした。
  二十九年 十二部を改めて十二清吏司とした。
建文   元通りに四司とした。これについては吏部にも記載あり。成祖(永楽帝)は再び元に戻した。
永楽 元年 北平司を改めて北京司とした。
  十八年 北京司を廃止。雲南、貴州、交趾の三つの清吏司を設置した。
宣徳 十年 交趾司を廃止。十三清吏司と定めた。その後もとに戻したが、職務は他の清吏司に併合した。宗室や勲戚、文武の官吏たちの給与については、陝西司が管理する。北直隷の府、州、衛所については福建司が管理する。南直隷の府、州、衛所については四川司が管理する。国内全ての塩課は山東司が管理する。税関は貴州司が管理する。舟による輸送及び臨、徳にある米倉は雲南司が管理する。御馬倉、象房倉などは江西司が管理する。

 

                   

 

明代初め、司農司を置いたことがあったがまもなく廃止した。

元年 司農司を設置し、卿・正三品、少卿・正四品、丞・正五品、庸田署令・正五品、典簿と司計・正七品とした。
洪武 元年 廃止。
  三年 再び司農司を設置した。河南に置いて、卿一人、少卿二人、丞四人、主簿と録事がそれぞれ二人設けられた。
  四年 また廃止された。その後判録司が置かれたが、これもまた廃止された。
  十三年 判録司が設置された。京師にいる官吏の給与、部署間の公文書や金、米などをやり取りする際の割符について取り仕切きらせ、判録一人・正七品、副判二人・従七品を置いた。まもなく判録を改めて司正とし、副判を左・右司副とした。
  十八年 廃止。

これらは戸部には所属しない。

         

総督倉場(米や、燃料となるまぐさを置く倉庫の総督)を一人置き、京師または通州等の倉場の米を管理させた。

洪武 初め 軍儲倉を二十ヶ所設置し、それぞれに管理する官を置いた。
永楽   北京に遷都し、京倉(京師の倉)及び通州にも倉を設置して、戸部の人員に処理させた。
宣徳 五年 李昶を戸部尚書に任命し、これらのことについて集中して監督させたところ、最後には制度を定めるに至った。それより後、尚書も侍郎も部の政務を行なわなくなった。
嘉靖 十五年 さらに戸部尚書は西苑の農業関連の監督も兼任するよう命じられた。
隆慶 始め 兼任は廃止された。
万暦 二年 戸部主事一人を分けて倉庫の番をさせるようにした。毎日管庫主事とともに貨幣の出し入れを行う。一季(三ヶ月)が終われば交代となった。
  九年 ようやく戸部主事を廃止し、戸部侍郎に倉庫の番を兼務させるようにした。
  十一年 再び(戸部主事を)設置。
  二十五年 戸部右侍郎の張養蒙に、遼(遼東?)の兵糧のことを監督させた。
  四十七年 督餉侍郎を増設した。崇禎年間には、遼の兵糧、進軍の際の兵糧、宣(宣府?)・大(大同?)の兵糧を監督させるのに、督餉侍郎を三〜四人増設した。
天啓 五年 さらに督理銭法侍郎を増設した。

 

明史のメニューへ