ファースト・コンタクト 21



 どうして、どうして、どうして…っ!?
 追いかけてくるロックオンを振り切って施設内の自室へ駆け込んだティエリアは、扉を閉じてロックをかけるなり力尽きたようにその場に崩れ落ちた。
 もう忘れたと思っていたのに。あの男の存在ごと、胸の中から消し去ってしまったはずだったのに…!
 ロックオンに抱きしめられて、そのぬくもりが記憶と違うことに気が付いて、忘れたはずの腕を思い出してしまった―――。
 ティエリアに初めて他人の熱を教えたその腕は、眩暈がするほど優しくて情熱的だった。ずっとそのぬくもりに身を委ねてしまいたくなるほど甘やかなそれは、同時に容易く溺れてしまう危険も孕んでいた。
 だから、必死になって目を逸らし続けてきたのに。一度封印の解けてしまった想いは勢いよく溢れ出して、瞬く間にティエリアの全身を絡めとってしまった。
 グラハムのことを思い出すだけで胸が痛くなる。会いたくて声が聞きたくて、そして抱きしめてほしくなる。
 そんなことができるはずがないのに、頭でわかっていても心が納得できない、この制御不能な激しい感情はなんというのだろう?
 常に冷静に、一切の感情というものを削げ落として、ただガンダムマイスターとしての使命を果たすためだけに生きてきたティエリアにとって、初めて知るその身を焦がすような熱い想いをなんと呼ぶのかわかるはずがなく、けれどそれがたとえようもなく甘美で、そして身を滅ぼしかねないほど恐ろしいものだと本能的に悟っていた。
 こんなことは誰も、養父もヴェーダも教えてくれなかったから、ティエリアにはどうしたらいいかわからない。けれど、誰にも訊けない、訊いてはいけない。それだけは漠然としながらもティエリアにはわかっていた。
 けれど、ひとりで抱え込むには膨れ上がったこの想いは大きすぎて。苦しくて、切なくてどうしようもなくなる。
 ―――――彼に……グラハムに会えば、この苦しさから逃れられるのだろうか? この痛む胸の理由も、溢れる想いの名前も教えてくれるのだろうか…?
 のろのろと身を起こしたティエリアは、ディスクに近付くとその上に置かれた携帯端末を手に取った。
 グラハムから渡された紙片は破り捨ててしまったが、そこに書かれたナンバーは一度見て憶えていた。震える指先で諳んじてしまったナンバーをひとつひとつ押していき、最後の送信ボタンに指をかけたティエリアは、けれど押すことができずにそのまま固まってしまった。
 このボタンを押せば彼と繋がることができるのに。甘やかなテノールに「ティエリア」と名を呼んでもらって、この胸の苦しさを救ってもらえるかもしれないのに、凍りついたように指が動かない。
 ―――もし繋がらなかったら? 何の用だと冷たくあしらわれたら?
 頭の中で次々と嫌な考えが浮かんできて、最後の最後で怖くなったティエリアはボタンを押すことができなかった。
 それに―――。
 ティエリアの脳裏を一つの疑念が掠めた。それはあっという間に彼の中に広がってゆく。
 初めて会ったときからグラハムはひどく口説き慣れた様子だった。そんな彼にとって、プライベートアドレスを教えることなど社交辞令のようなものかもしれない。それを鵜呑みにして連絡をしたりして、迷惑がられない保障はないのだ。自分のプライベートアドレスを訊かれなかったことが、なによりその証拠ではないか。ティエリアにはそう思えた。
 そんなことにも気付かないなんて、なんて愚かなのだろう。
 自分の感情一つコントロールできなくて、醜態を晒しそうになって、こんな自分はガンダムマイスターたる資格など………。
 力の抜けたティエリアの手から携帯端末が滑り落ちる。思いのほか大きな音を立てて床に転がったそれにビクリと身体を震わせ、虚ろなまなざしで見下ろしたティエリアの顔が泣きそうに歪められた。
 初めて知る感情に翻弄される自分が、ひどく滑稽で情けない。
「―――――もう嫌だ……」
 そのままくずおれるように床に座り込んだティエリアは、ぼんやりと虚空を見上げた。
「――――――――――宇宙へ、帰りたい………」
 地上にいると、嫌でもグラハムのことを思い出してしまう。彼のことで頭がいっぱいになって、何も考えられなくなってしまう。自分が自分でなくなってしまうようなその感覚は、ティエリアにとって恐怖以外のなにものでもなかった。
 本当に、このままではダメになる。ガンダムマイスターとして在らねばならないのに、それが自身の絶対的な存在理由であるのに、それをすら凌駕する勢いで自分のなかで急速に大きく膨れ上がったこの想いに呑み込まれてしまう。
 だから、もう帰りたい。本来の自分に還れる場所へ。宇宙へ、あの静寂に満ちた静かな空間のなかへ―――。
「還り、たい………」
 茫然と項垂れたティエリアの視線の先に携帯端末が転がっていた。引き寄せられるようにそれに手を伸ばしたティエリアは、グラハムのプライベートナンバーを表示したままの小さな画面に目を落とした。その瞳がみるみるうちに曇ってゆく。
「――――――――たすけて…っ」
 嗚咽まじりの小さな声は誰に向けられたものなのか。
 それは、ティエリア自身さえもわからなかった―――――。