ファースト・コンタクト
20 人革連領内のミッションを無事完了させたガンダムマイスター達は、カリブ海の孤島にある駐屯施設に帰投していた。イアン・ヴァスティによる機体のメンテナンス終了後、それぞれの潜伏先へと移動することになる。 いつもならその間ティエリアは、完璧な空調に整えられた施設内から一歩も出ずに過ごしているのだが、今日は何故か外に出てみようという気になった。 なんとなく見咎められたくなくて、人目を避けるようにこっそりと施設を抜け出す。本当ならばそんなことをする必要はまったくないのに、どういうわけか自分でも理由のつかない行動をしてしまっていた。 そうしてやってきたのが海辺だった。世界をオレンジ色に染めながら、遥か遠い地平線の彼方へゆっくりと太陽が沈んでゆくその姿を、ティエリアは波打ち際に佇みながら暫くの間無言で見つめていた。 太陽が沈みゆくその姿を、美しいがどこか寂しいと言っていたのは誰だったか。 地球の自転によって毎日繰り返されるその自然現象に、これまでティエリアは何の感傷も抱いたことはなかった。 太陽は昇り沈むものと、今までのティエリアなら即座にそう答えただろう。人類が誕生する遥か昔から行われてきた自然の摂理に意味を持たせるなナンセンスだと。 なのに、今のティエリアは違っていた。寂しいという気持ちは正直よくはわからないが、沈む夕陽を見ていると何故か心が締めつけられるような気がするのだ。 およそ感傷などという言葉と縁のなかったティエリアにとって、こんなことはもちろん初めてで、自分は一体どうしてしまったのだろうと惑いを隠せない。 揺れる心を抱きながらぼんやりとその場に立ち竦んでいると、砂を踏む音が近付いてくる。誰だろうと思いながらも敢えて振り向かずにいたティエリアの耳に馴染みの声が届いた。 「こんなところにいたのか、ティエリア。…どうした?」 「……別に。何でもありません」 視線も向けないティエリアに気を悪くした様子もなく傍らに立ったロックオンは、見下ろしたその硬質の横顔がいつもと様子が違うことを敏感に感じ取った。ミッション中は流石に平静を保っていても、機体から降りてしまえばあれこれ思い悩んでしまうらしい。 絶対に弱音を漏らすことのないティエリアだから、ロックオンにできることはただ黙って見つめていることだけだ。いつか心の中を打ち明けてくれる日がくればいいと願いながら、敢えて何も訊かずに見守るスタンスでいる。それは少しばかり切なく寂しくもあったが、一度決めたことだとロックオンは自らに課していた。 「………綺麗だな」 「……そうですね」 思わず零れ落ちた言葉に対してティエリアが相槌を打つと、ロックオンは苦笑を浮かべた。 ティエリアの相槌は間違いなく「夕陽」を指しているだろう。だが、ロックオンが「綺麗」と言ったのは夕陽でも海辺の風景でもなく、「ティエリア」を指しているのだ。 「いや…。そうじゃなくて、だな……」 そんな口説き文句のような浮ついた台詞が言えるはずもないロックオンの返答は、当然歯切れが悪くなる。そんな彼を怪訝そうにティエリアが仰ぎ見ると、黄昏色に染まったターコイズブルーの瞳にぶつかった。途端にうろたえたように逸らされる視線に、ティエリアは微かに首を傾げた。 「どうかしましたか? ロックオン・ストラトス」 見上げるワインレッドの瞳も夕焼け色に染まっていた。フレームレスのレンズ越しに映る瞳はどこかあどけなくさえあって、見つめられたロックオンの心拍数が瞬時に跳ね上がった。慌てて顔を背けたロックオンは、ぶっきらぼうに言い捨てる。 「―――なんでもねえよ」 「………」 ティエリアは下手な言い訳をするロックオンに納得していない様子だったが、すぐに興味がなくなったようにまた視線を海に戻した。 「―――――人は何故……」 「え?」 ティエリアの微かな呟きに、ロックオンが聞き返した。 「………いえ。なんでもありません」 そう言ってティエリアはゆるゆると首を振った。どこか痛みを堪えているかのような表情に、ロックオンが口を開きかけた途端、 「戻ります」 今ほどの不安定な様子など微塵も感じられないほど凛とした声でティエリアは告げると、ゆっくりとだがしっかりとした足取りで歩き出した。残されたロックオンは半ば茫然とその華奢な背中を眺めていたが、すぐに後を追って歩き始めた。 ほんの少し近付くことができたかと思ったら、するりと離れてしまう。人に心を許さない孤高の存在を、どうやったらこの腕に繋ぎ止めることができるのか。 強引に振り向かせるのは簡単だ。けれど、そんなことをしたらティエリアは心を閉ざしてしまうだろう。あのワインレッドの瞳に冷たく拒絶されるのは、想像するだけでも嫌なものだ。 だが、同時に今までのように見守るだけの立場では埒が明かないこともわかっていた。それでも一歩踏み出せないのは、自分が臆病なせいだ。今の関係を壊して決裂してしまうよりは、今のままで甘んじていた方がいいと。そんな消極的な思いがロックオンにはあった。 けれど。永遠に不変なものなどあるはずもなく、ティエリア自身も少しずつ変わってきている。それが外部の人間の影響によってとなれば、ロックオンが焦るのも無理はなかった。ティエリアが不安定になったのも、あの男に会ったせいだ。そう思うと、腸の煮えくりかえる思いがする。 もう二度とあの男をティエリアに近付けさせやしない。何があっても絶対に阻止してやる。 そんなことを考えていると、急に立ち止まったティエリアの背中にぶつかった。 「…っ。なんだ? どうした、ティエリア。こんなとこで立ち止まって」 怪訝そうに顔を覗き込むと、ティエリアは薄暮れのなかでもはっきりわかるくらいに顔を引き攣らせていた。その尋常でない様子に、ロックオンの顔が険しくなる。 「どうした? ティエリア」 素早く背中でティエリアを庇いながらロックオンは辺りを注意深く窺うが、何も変わった気配は感じられない。 「何かあったのか?」 振り向いて顔を覗き込むと、怯える視線がおずおずと動かされた。その先を辿ると、熱帯植物の葉の先から一匹の蜘蛛が垂れ下がっていた。 まさか…と思いつつ、訊ねてみる。 「……蜘蛛が嫌いなのか?」 するとティエリアは弱々しく頷き、原因がわかったロックオンは一気に脱力した。 「まったく…。焦らせるなよ。何か起きたのかと思ったぜ」 ロックオンは無造作に手の平を返して蜘蛛を追い払う。 「ほら、もう大丈夫だ。こんな小さな蜘蛛もダメなんて、案外怖がりだな、ティエリア」 大きな手で頭を撫でられ、緊張が解けてほっと息を吐いたティエリアは、まだ震えの残る身体をそっと抱きしめてくれる腕の温かさに安堵しながら、こんなことが前にもあった気がするとぼんやり考えた。 そう。 同じように蜘蛛に怯えた自分を、同じように追い払ってくれた人がいる。 小さな蜘蛛に怯える自分に「大丈夫だよ」と優しくささやいて、宥めるように背中をそっと撫でてくれた。その温かな腕のぬくもりとやさしい声音に包まれると不思議と安心できて、何も怖くなくなったのだ。 瞳を閉じれば思い出せる。 その力強い腕と温かなぬくもりと甘やかなテノールを―――――。 「――――――――――−っ!」 ―――――違う……! ティエリアは突然夢から覚めたように瞳を開いた。 この腕じゃ、ない―――! はっとして身を離したティエリアをロックオンは怪訝そうに見つめた。 「ティエリア…?」 わ…、わたしは、今何を考えて…っ!? うろたえるティエリアにロックオンが気遣わしげに声をかける。 「どうした?」 けれど、動揺したティエリアにはロックオンの声は届かない。 ―――ロックオンの腕を、誰と比べた? ―――誰だといいと思った…っ!? ―――わたしは…っ! ありえないことにふるふると力なく首を振り、泣き出しそうに顔を歪ませたティエリアは、そのままロックオンに背を向けて駆け出した。 「あ、おいっ! ティエリア!」 呼び止めるロックオンの声も制止にはならず、ティエリアはがむしゃらに走った。 自分を絡め取ろうとする、得体の知れないものから逃れようとするかのように。 |