ファースト・コンタクト 17



 パソコンのキーボードを優雅に操っていた指先がピッというエラー音を叩き出してしまい、ティエリアは優美なラインを描く眉を顰めた。手馴れた操作のはずなのに先ほどから同じようなミスを連発してしまっていて、自然と眉間の皺も深くなってゆく。
 苛立たしい気持ちのまま舌打ちしたティエリアは、組んでいたプログラムを強制的に終了させ、自らを静めるように深く息を吐くと席を立った。気に入りの紅茶でも飲んで落ち着こうと備え付けのミニキッチンに向かうが、生憎茶葉を切らしていたことを思い出し、仕方なく支給品のティーバックを使って紅茶を淹れる。
 味も香りも数段落ちる紅茶を不機嫌も露に口に運びつつ、ティエリアは最近の自身の不安定さに唇を噛んだ。
 今日も食事中にロックオンに揶揄され、かわせばいいのについムキになって、大嫌いなにんじんのグラッセを口にしてしまった。途端にあの甘ったるいなんともいえない嫌な味を思い出してしまったティエリアは、慌てて紅茶を啜り、今度はその渋さに眉を顰めた。
 昨日まで口にしていた紅茶はティエリアの好みのものを地上で買ってきたものだ。いつもなら切らすことのないよう定期的にオーダーしているが、今回はミッションで地上に降りるからとオーダーしなかったのが仇となってしまった。本当ならば一ヶ月前のミッション終了後に仕入れてくるはずが、その後起こったハプニングにすっかり動揺してしまい、きれいに忘れてしまったのだ。
 まったくもって自分らしくない失態で、お陰で不味い紅茶を飲む羽目になってしまったが、それでも珈琲などというさらに不味いものを飲むよりは遥かにマシだ。
 ティエリアは半ば無理やり飲み干したカップをデスクの上に置くと、ベッドに横になった。
 このところ、ティエリアは自分がひどく情緒不安定であることを自覚していた。
 いつもならば他人と距離を置いて冷静に対応できるのに、うまくコントロールできずにいる。そこをロックオンに突かれ、今日のように感情的になってしまうのだ。
 ティエリアにしてみればそれは醜態以外のなにものでもなく、早く以前の自分のように他人と必要以上の接触を断ちたいところだが、一ヶ月前のあの事件でロックオンに心配をかけてしまった負い目がなかなか消えず、彼の手を強く拒絶できずにいた。
 こうあるべき理想の自分と成し得ずにいる現実の自分とのギャップにティエリアは葛藤し、抑えようとして抑え切れぬ苛立ちが感情を爆発させてしまう。まさに悪循環だ。
 こんなふうに感情がコントロールできないのは、すべてあのあの男のせいだ。あの男に会ってからというもの、氷のように冷たく鉄のように硬い鎧で覆われたはずのティエリアの心は乱れっぱなしなのだから。
 あの男―――グラハム・エーカー。
 テーマパーク内のカフェで偶然出会った傲慢で不遜な男は、会ったばかりのティエリアにひとめぼれしたと情熱的に口説き、決して他人を寄せ付けなかったティリアの強固な壁を壊して心の中にするり入り込んで蹂躙した挙句、他人の肌の熱さをティエリアに初めて知らしめた不埒者だった。しかも最悪なことに、彼はユニオンMSWATのトップファイターで、ティエリアにとってはヴェーダの計画遂行を妨げる敵となる可能性の高い男だ。
 思い出しただけで腹立たしくて、あんな男のことは一刻も早く忘れようとするのに、ふとした瞬間に真摯で熱いオリーブグリーンの瞳が脳裏に甦って胸が高鳴る。それがまた悔しくて情けなくて、ティエリアの心は千々に乱れるばかりだ。
 不要なものは一切削げ落とし、冷徹なまでに沈着冷静にミッションを遂行しなくてはいけないのに、自分でも掴みきれない感情に振り回される自身は、ヴェーダの申し子と呼ばれたガンダムマイスターとしてあるまじき失態だった。
 今は待機期間だが、間もなくスメラギ・李・ノリエガによってミッションプランが立てられ、行動しなくてはならなくなる。こんな状態で与えられたミッションを完璧に遂行できるのか、ティエリアには自信がなかった。
 このままではいけないと、強い危機感がティエリアを襲う。
 なんとしても元の自分に戻らなければ。ガンダムマイスターとして正しい姿に立ち戻らなければ、自分の存在意義はないも同じなのだ。
 硬い表情でベッドから離れたティエリアは、デスクの抽斗にしまいこんでいた紙片を取り出した。ゆっくり開いたその紙片に書かれているのはグラハムのプライベートアドレス。別れ際に彼が「いつでもいいから連絡をくれと」よこしたものだった。
 まるでティエリアから連絡をよこすのが当然といわんばかりの不遜な態度がカンに障ったが、忌々しいことにティエリアはこの紙片を破り捨てることができなかった。そんな自分がグラハムの術中に嵌まってしまったかのようで悔しい。それでも、もういい加減決断しなければならない時だ。
 瞳を閉じたティエリアは、心を落ち着かせるように何度か深呼吸をすると静かに瞳を開いた。そして、手の中の紙片を無表情のまま黙って見つめると、しばらくして意を決したように破いた。
 細かい紙屑になるまで紙片を破り続けた彼のワインレッドの瞳が、今にも泣きだしそうに歪んでいることに気付くことのないまま………。


 スメラギ・李・ノリエガからミッションプランの提示があったのは、この三日後のことだった―――――。