ファースト・コンタクト 26



「……だから地上は嫌いなんだ」
 トレインから降りて搭乗ロビーに向かっていたティエリアは、苛立たしげに眉を寄せた。
 搭乗手続きを終えて乗車したまではよかったのだが、まさかのトラブル発生でトレインが発車中止となってしまったのだ。これでやっと宇宙に戻れると気分も少し浮上していたのに肩透かしもいいところで、電気系統の不具合が原因とアナウンスされたが、そんなことで苛立ちが治まるはずもない。
 想定外の事態に機嫌は悪くなる一方で、代替のトレインの準備が整うまで時間がかかることも、ティエリアを憂鬱にさせていた。このトラブルのせいでコロニー到着予定時刻を過ぎるのは間違いなく、エージェントに遅延の連絡を入れなければならないからだ。今回は自身の責によるものではないのだが、そもそもの予定を変更させてしまった負い目がティエリアにはあるので、コンタクトを取るのもつい躊躇われてしまう。
 それでも、生真面目なティエリアには連絡をしないという選択肢は初めからない。人目を避けるように壁際へ移動したティエリアは、若干のきまりの悪さを抱きつつ、携帯端末を操作して王留美に遅延する旨の暗号通信を送った。これで彼女の元から関係者に連絡が行くだろう。
 肩の荷を一つ下ろした心地になったティエリアは、軽く息を吐くと携帯端末をしまおうとしてふとその動きを止めた。そのまま手の中の携帯端末をじっと見つめる。
 忘れなくてはいけないと思って、ずっと忘れようと努めてきた彼―――グラハム・エーカーの存在。
 ティエリアを揺るがす危険な彼を、抱いてしまった感情ごときれいに削除したはずだった。けれど何の皮肉かロックオンに抱きしめられたことで、その温かな腕のぬくもりとやさしい声音ごと、あっさり彼の存在を思い出してしまった。
 そうして気付かされた。忘れたつもりで忘れてなどいなく、また消せるはずもないことを―――。
 会いたくて、せめて声だけでも聞きたくて。縋るように彼のプライベートナンバーを押したのは昨日のことだ。でも、臆病な自分は、いざとなると急に不安に苛まれてしまい、怖くなって逃げてしまった。
 正直に言えば、今でも心が揺れている。グラハムに会いたいと思う気持ちは強くなるばかりで、それは偽らざるティエリアの本心だ。
 ―――――けれど………。
 もし、グラハムに会ってしまったら、ティエリアは自分を律せる自信がなかった。会った瞬間、今まで抑え込んでいた感情が溢れ出てグラハムに向かってしまいそうで。そうなったら自分はどうなってしまうのかわからない。
 会いたくて、会いたくなくて。相反する想いは、そのままティエリアの不安に揺れる心を如実に表してる。
 それでも。一度抱いてしまった感情は、なかったことになどできない。ガンダムマイスターとしてのティエリア・アーデを、今まで生きてきた自分自身を根底から覆してしまうような感情であっても、なかったことにはできないのだ。
「―――――わたしは……どうしたら………」
 たったひとりの人間に、ここまで心を掻き乱されるなんて滑稽すぎる。こんな脆弱な自分は許せないと思うのに、自身ではもうどうすることもできないのだ。
 辛うじてわかるのは、このままでは自分は本当にダメになるということだけ。マイスターであることだけが唯一の存在意義だった自分からその誇りをなくしたら、後には何も残らない。それは、身を震わすほどの恐怖だった。
 ならばどうすればいいのだろうと思い悩んだティエリアがようやく出せた結論は、端から見ればひどく消極的なものだったが、今の彼には精一杯のことに思えた。
 忘れることができないのなら、消し去ることが困難なら、諦めるしかない。この胸に初めて抱いた感情ごと、グラハムを諦めるのだ。
 ティエリア・アーデがティエリア・アーデで在るために。
 ガンダムマイスターで在り続けるために―――。
 そのためには、一度グラハムと向き合わなければならないとティエリアは思った。自分の気持ちに決着をつけるためにも、グラハムを思い切るためにも、それは避けられないことだと。
 そうして自分で自分に引導を与えないと、前へ進めない。
 だから、これが最初で最後のコール……。
 ティエリアは諳んじたナンバーをゆっくり押した。



 グラハムに繋がるコール音が鳴る。
 ティエリアには密かに心に決めていたことがあった。コール音が10回を数えたらそのまま切ること。これがグラハムの答えだと思って、もう二度とかけないと―――。
 ティエリアは心臓をどきどきさせながら、息を潜めて食い入るようにディスプレイを見つめていた。
 出てほしい。出てほしくない。相反する二つの感情にティエリアの心は揺れ動いた。
 ―――3回……4回……5回……。
 頭の中でカウントをする。
 こんなに緊張するのは初めてだった。心臓の音が自棄に大きく聞こえ、危うくコール音がかき消されそうになる。
 ―――6回……7回……。
 極度の緊張状態に、咽喉は干上がり、手が震える。
 ―――8回……9回……。
 繋がらない回線に、ああやはりと悲痛な表情を浮かべたティエリアが、絶望の思いで10回目のコール音を聞こうとしたその時。
『………ティエリア?』
「―――っ!?」
 聞きたくて聞きたくて堪らなかった甘やかなテノールが、鼓膜を震わせた―――。



『ティエリアだろう?』
 微塵も疑わない声音に、ティエリアは息を飲んだ。映像は切ってあるから自分だとわかるはずがないのに、力強く断定してくるその声に心臓が早鐘を打つ。
『連絡をくれて嬉しいよ、ティエリア。きみからの電話をずっと心待ちにしていたんだ』
「………っ」
 柔らかなトーンのテノールに胸を射抜かれ、じわり…とこみ上げてくるものをなんとか抑え込んだティエリアは、努めて冷ややかに答えた。
「―――――そんな風に断言して、もしわたしじゃなかったらどうするんですか。いらぬ恥をかきますよ」
『そんな心配は無用だ。恋する者の直感が外れることはない』
 自信に満ちたグラハムの軽口に柳眉を顰めたティエリアは、吐き捨てるように言った。
「……戯言を」
『ひどいな。偽らざる私の本心だよ。あの時、きみの連絡先を聞かなかった愚かな自分を何度呪ったことか。きみからの電話を一日千秋の思いで待ち焦がれていたんだ』
「……………」
 グラハムの声は真摯で、偽りを言っているようには思えなかった。けれど、これも彼の手管の一つかもしれないと思うと、浮き立つ心とは裏腹に心は沈んでいく。
『顔を見せてはくれないのか?』
「その必要はありません」
 映像を切っておいて本当によかったとティエリアは思った。たとえ小さな画面越しとはいえ、グラハムの顔をまともに見る勇気はまだもてなかったから。
『声だけしか聞かせてくれないとは、きみに恋焦がれている私を苛めて楽しいのかい?』
「そんな趣味はありません」
『ならば、顔を見せてくれ。きみに会いたくて、何度もきみの夢を見た愚かな男を哀れと思うのなら、慈悲をくれないか?』
「……随分と調子がいいですね。今まで何人もの人に同じ言葉を告げていたのでしょう?」
『こんなに焦がれるのは、きみが初めてだよ、ティエリア。今すぐにきみの元へ行って、この腕に抱きしめたい衝動を堪えきれない』
 何度も重ねられる真摯なテノールに、信じたい気持ちがこみ上げてくる。その思いを必死で飲み込みながら、ティエリアは努めて冷ややかな声で答えた。
「―――ならば、今すぐここに来てください。そうしたら貴方の言葉を信じてさしあげてもいいです」
 グラハムを信じたいけれど、信じられなくて。軋む心が反射的に言わせた言葉だった。
 どう考えても無理なことだ。グラハムは自分が今どこにいるのかわかるはずがないし、仮にわかったとしても今すぐ来るなど物理的に不可能なことなのだから。
『その言葉、本当だね?』
 ところが、グラハムはやけに自信ありげに答えた。
『今すぐ私がきみの元へ行ったら、私の言葉を信じてくれるね?』
「ええ、信じます」
 ティエリアは半ば自棄になって吐き捨てた。どうせできもしないくせに、調子のいいことを言うグラハムに苛立ちが募る。
『わかった。じゃあ、いますぐ飛んで行くよ』
「……っ! 貴方という人は…っ!」
 挨拶をするかのように平然と嘘を吐くグラハムにティエリアは激昂した。不可能なことをいかにも可能だと言う彼が堪らなく憎らしい。
 言葉で期待させておいてあっさり裏切るなどひどい仕打ちだ。無理だとはっきり言ってくれた方がまだ傷も浅いのに。
 そう。一瞬だが期待してしまったのだ。単なる口説き文句だと、グラハムにとっては言い慣れた言葉だとわかっているのに。その甘やかなテノールに、真摯な響きに騙されて、信じてしまった……。
 ―――本当に…愚かだ、わたしは……。
 悔しげに唇を噛み締めたティエリアの顔が泣きそうに歪んだ。
 もうこれ以上偽りの言葉を聞きたくなくて、いっそこのまま切ってしまおうかと思った時。
「『………見つけたよ』」
 二重に聞こえてきた声に、ティエリアははっとした。
 鼓膜を震わすこの声音は、確かに携帯端末の音声と、そして―――。
「―――っ!」
「『約束どおり、飛んできたよ、ティエリア』」
 信じられない思いでのろのろと顔を上げたその先には、会いたくて会いたくて堪らなかった男の顔があった―――。