ファースト・コンタクト 07



 え?と思う間もなく、息がかかるほど近くに端整な貌を近づけられた。慌てて顎を引くように身を引きかけたティエリアだったが、視界の端にグラハムの唇を捕えてしまったせいで、一瞬動きが止まる。
 ―――さっき、この唇が自分に触れたのだ……。
 その熱さを思い出した瞬間、背筋に震えが走った。押し当てられた唇の柔らかさまで記憶に甦ってきそうになり、ティエリアは慌てて目を瞑った。
「ティエリア…」
 身を乗り出してきたグラハムに囁くように耳元で名を呼ばれ、ティエリアは子供のように首を横に振って逃れようとする。だがそんなささやかな抵抗は、伸ばされたグラハムの腕に捕えられ、その胸の中に抱き込まれてあえなく霧散してしまう。
「放してください…っ」
 抗おうとしてみても、思いのほか強い腕の力に僅かに身を捩るくらいしかできなくて。それでもこのまま大人しくしているのは癪で逃れようともがいているうちに、気付いてしまった。
 他人に触れられ抱きしめられ、あまつさえキスまでされてしまって、本来ならば嫌悪感でいっぱいになっているだろうに、グラハムのペースに流されてしまっていることに困惑はあるものの、それ自体は嫌だと思っていない自分に。
 こうして腕の中から逃れようとするのは、彼に触れられるのが嫌なのではなく、その腕のぬくもりを心地よいと思ってしまいそうになる自分がいることに。
 こんな感情を持ったことなどなかったティエリアは愕然とした。
 まるで自分の知らなかった自分を目の前に曝け出されてしまったようで、焦燥感に思わず身を震わせる。
「……私が怖い?」
 その震えが伝わったのだろうか。自嘲めいた声で揶揄され、思わずティエリアは瞳を開いた。途端に負けん気が顔を覗かせ、グラハムの胸を両手で押しのけると、何時の間にか拘束を緩められていた腕の中から案外あっさりと解放された。
「そんなこと…っ」
 手加減された悔しさも手伝ってきつく睨みつけると、真摯な光を宿したオリーブグリーンの瞳にぶつかる。
 まずい、とティエリアは本能的に思った。
 さっきもそうだったが、グラハムの瞳にはなにか魔力でも備わっているような気がする。あの瞳に見つめられると魅入られてしまったかのように身動きができなくなるのだ。
 咄嗟に視線を逸らそうとするが、深みを増したグリーンに目が離せなくなる。
 逃げろと、頭の中で声がするのに身体は命令に従ってくれず、近付いてくる端整な貌をただ成す術もなく見つめるしかない。
 堪え切れずにぎゅっと目を瞑ってしまったティエリアは、眉間にちょんとキスを落とされぴくんと肩を揺らした。節ばった長い指に額の生え際から後ろに撫でるように髪を梳かれ、顕になった額にもやさしく唇を押し当てられる。そのまま両手で頬を捕えられ、目蓋にこめかみに頬に宥めるようにキスをされて、強ばった体から次第に力が抜けてゆく。
 この感覚はどこかで憶えがある――と頭の中でぼんやりと考えたティエリアは、先程も同じように宥められたのだと思い至る。これがこの男の癖なのかと、手馴れた様子に軋む心が何故なのかティエリアにはわからない。他人の腕もぬくもりもキスも、彼にとって初めて知ることだから、戸惑いばかりが先に立って、その理由まで考えることなどできるはずがなかった。
 やがて再びグラハムの腕の中に抱き込まれ、ティエリアの唇から零れたのは安堵のそれだった。他人の腕の中で安心するなんておかしいと思うのに、心地よいぬくもりに傾斜してゆく心が止められない。
「―――会ったばかりなのにこんな気持ちになるなんて、不実な人間だときみは軽蔑するだろうか」
 今までの余裕な態度が嘘のようにどこか急いたような口調でグラハムは言った。苦しげなその声音を訝しんだティエリアが顔を上げようとすると、激情を抑えるかのように抱きしめる腕の力が強くなる。
「……ミスターエーカー?」
 ティエリアの髪に顔を埋めながら、グラハムが衝動を抑え込んだ低い声で囁いた。
「……きみが欲しい」
「……え?」
 聞き返そうとした言葉は、耳朶に熱い吐息を感じて途切れてしまった。ぞくりと背筋を走った甘い痺れに動揺したティエリアが逃れようと頭を振ると、顎を捕えられ視線を合わせられる。
「―――な、んの冗談……」
「冗談ではない。私は本気だ」
 紳士的であったはずのオリーブグリーンのまなざしに宿る野性的な熱情に気圧されたティエリアが、こくりと息を飲む。すると、その隙をつくようにくちづけられ、はっとして抵抗するが顎を捕える力は強く、逃れることは叶わない。
「んーっ、…ん、ん…っ」
 押しのけようとする腕は容易く捕えられ、身体ごとソファへ押し付けられた。
「やめてください…っ!」
 僅かに離れた瞬間に拒絶の言葉を告げるティエリアの唇を、グラハムのそれがまた塞ぐ。口を開いたことが仇となり、ぬるりと口内に入ってきた感触に、ティエリアはビクンと身体を強ばらせた。
 な、なに…っ!?
 それが舌であることくらいさして考えなくてもわかるだろうに、混乱していたティエリアは滑ったその感触に拒絶反応を起こしてしまい、殆ど脊髄反射さながらに歯を立ててしまう。
「…っ」
 微かに呻き声が聞こえたかと思ったら急に呼吸が楽になり、茫然と目を開ければ苦い表情を浮かべたグラハムの顔があった。
「―――――すまない。理性が外れてしまったようだ。きみを護りたいと言っておきながら、ナイト失格だね私は」
 端整な貌を後悔の色に曇らせながらグラハムがのろのろと身を引く。そんな彼の姿をぼんやりと目に映していたティエリアは、内心の動揺をなんとか収めるとゆっくり身体を起こした。
 流されてしまった自分が信じられなくて。抵抗できなかった非力な自分が悔しくて。怖いと思ってしまった自分が何より情けなくて、ティエリアはぎゅっと唇を噛み締めた。
「…………すぐ溶けるような理性など、ないも同様だと先程申し上げたと思いますが?」
 苛立ちまぎれに当てこするように言うと「面目ない」と力なく返される。
 無理やり人を襲っておきながら、傷付いたような顔をするのは卑怯だ。こんな男は二度と浮上できないくらいとことんまで罵って痛めつけてやるべきだと思うのに、嫌味なくらい自信に溢れていた彼のここまで沈んだ様子を目の当たりにすると、いつもの毒舌も出てこない。
「………まるで貴方が強姦されたような顔をしていますよ」
 それでも何か言わないと悔しい気がして口を吐いた皮肉に、グラハムは自嘲を浮かべてみせた。
「…耳が痛いな。他人を力ずくで意のままにしようなど人として最低の行為だと思っていたのに、自分がその過ちを犯してしまうなんてね」
 そこで言葉を切ったグラハムは、ティエリアに視線を向けた。オリーブグリーンの瞳には翳りが落ちていて、彼が心底悔いていることが察せられる。それでも真っ直ぐにティエリアを見つめるまなざしには潔さがあり、生真面目な彼の気質を窺わせるには十分だった。
「きみが暴行を受けたと訴えたいのならば甘んじて受けよう。逃げも隠れもしないよ」
「そんな無駄なことする気はありません。第一、何て訴えるんですか? キスされて押し倒されたって? 暴行どころかセクハラがせいぜいでしょうよ」
 呆れたような視線を向けてくるティエリアに、グラハムは言葉を続けた。
「それでも、きみの尊厳を傷つけてしまったことは事実だろう? こんなことで償いになるとは思えないが、きみの好きなようにしてくれないか」
「生憎とこんなことで傷つくほど柔な神経はしていませんし、償いはさらに必要ありません。ですが、そうですね…」
 そう言ってティエリアは思案げに眉を寄せる仕種をする。
「ディナーをご馳走してもらいましょうか。朝からロクなものを口にしていないので、いい加減辟易していたところです」
「……え?」
 どんな無理難題を持ち出されるのかと身構えていたのだろう。ぽかん、と間の抜けた表情を浮かべたグラハムに、ティエリアは内心溜飲を下げた。
「で? どうなんですか?」
 上目遣いで返答を求めると、慌てたようにグラハムは承諾してみせた。
「それはもちろん喜んで。だが、そんなもので本当にいいのかい?」
「結構です。あと、ディナーの時間まで少し休ませていただきますので、寝室をお借りします。ああ、時間はそうですね。7時でどうでしょう」
「わかった。予約しておくよ」
「では、よろしく」
 言うだけ言うと後は用なしとばかりにティエリアはソファから立ち上がった。そのまま真っ直ぐに寝室へ向かい、ドアノブに手をかけたところでくるりと後ろを振り返る。
「言っておきますが、寝込みを襲ったりしたら今度は叩き出すだけではすませませんよ?」
 冷ややかなワインレッドのまなざしで見据えると、真摯な表情を浮かべたグラハムが重々しく頷いた。
「神に誓って二度と卑劣な行為はしないよ。心配ならば鍵をかけてくれていい」
 その言葉にティエリアがふっと微笑を浮かべる。
「貴方の理性に期待していますから、その必要はないでしょう?」
 そう言って扉の向こうへ消えた麗人にグラハムは苦笑を浮かべた。
「まいったな……。惚れ直しそうだ」