ファースト・コンタクト
06 冷めてしまった紅茶の代わりにグラハムがルームサービスで注文したのは、三つの皿にそれぞれスコーンと一口サイズのサンドイッチとプチケーキが乗せられた、所謂英国式のアフタヌーンティーセットだった。 「ランチには少々時間が過ぎてしまったし、かといってディナーまでは時間がありすぎる。よければ付き合ってくれないか?」 とは言いながら、半分は同じく昼食抜き――正しくは朝食もだが――の自分を気遣ってのことだということぐらいティエリアにもわかっていた。この男に貸しを作るようであまり気が進まなかったが、いい加減空腹も限界に近付いてきていたのでここは甘受することにする。 「…もう届いてしまったものを、今更いらないと返すわけにもいかないでしょう?」 それでも素直に頷きがたくて憎まれ口で返答するティエリアを、グラハムはにこやかに受け止める。 「悪いね。このホテルのアフタヌーンティーは結構有名だから、きっときみも気に入ってくれると思うよ」 その余裕の様子が気に入らなくて、ティエリアは眉を顰めた。 「まるで、以前どなたかといらっしゃったような口ぶりですね」 「おや。妬いてくれるのかな?」 「まさか」 吐き捨てたティエリアは、これ以上会話をする気がないといわんばかりに、皿に手を伸ばした。 あまり味に期待はしていなかったのだが、オーソドックスなキュウリのサンドイッチはバターの塩気とキュウリの瑞々しさ抜群で、一口食べて思わず目を瞠った。味わうようにゆっくりと咀嚼して、残りも口に運ぶ。次に手に取ったハムのサンドイッチも、ハムの芳醇な味わいと絶妙な塩使いが好みに合っていた。焼き立てのスコーンも表面は狐色に香ばしく焼き上げてあり、割ると中からふんわりと漂ってくる小麦の香りが食欲をそそった。添えられた甘さを控えたイチゴのジャムもマーマレードもバターもスコーンによく合っていて、ティエリアの舌を満足させるのに十分だった。 「どうやら気に入ってもらえたみたいだね」 プチケーキの程よい甘味に知らずうちに口元を綻ばしていたらしい自身に気付き、はっとしたティエリアは慌てて口元を引き締めた。いくら空腹だったとはいえ、この男の前で無防備にも程がある。舌打ちしたい思いで視線を上げると、頬杖をついて自分を見つめるグラハムと目が合った。 「遠慮せずにどうぞ?」 手が止まってしまったティエリアにグラハムは笑顔で促した。だが、そう言われても視線が気になって食べるどころの話ではない。 「カフェでも殆ど何も口にしていなかっただろう?」 驚いて目を瞠ったティエリアに、オリーブグリーンの双眸を和ませてグラハムは言った。 「言っただろう? きみに見惚れていたって。きみみたいに綺麗な子が不機嫌そうな様子で一人で座っていて、気にならないはずがない」 「サングラスをしていたのに、顔の美醜がわかるんですか?」 「当たり前だ。そんな無粋なもので隠そうとしたところで、滲み出る美しさは隠しきれない。私は、きみを待たせていたそのサングラスの持ち主に、思わず嫉妬してしまったよ」 嫌味で言ったつもりなのに更に辟易とするような戯言を言われ、すぐさま会話を打ち切りたくなったティエリアだったが、後半部分の言葉が気になって仕方なく会話を続ける。 「何故サングラスがわたしのものでないと?」 「どう考えてもそのサングラスはきみには大きすぎる。きみが自らかけたものでないとするなら、理由はただ一つ。きみの素顔を他人から隠しておきたいからだ。私がもし同じ立場だったら、同様のことをしただろうね。いや、その前にきみを一人で置くような真似は絶対にしないが」 「仰る意味がよくわかりません」 訝しげな表情のティエリアに、グラハムは苦笑を浮かべて言った。 「やれやれ。どうやらきみは自分の容姿に自覚がないようだね。肝心のきみがその調子では、きみのナイトの苦労もさぞや多いことだろう」 同情してしまうよと肩を竦めてみせるグラハムに、ティエリアは不機嫌を顕にした眼差しを向けた。 「ミスターエーカー。わたしは冗談が嫌いです。貴方が口にされたナイトとは文字通りの意味ですか?」 「グラハム、と呼んでくれ。いつまでも他人行儀で悲しいよ。ああもちろん、冗談なんかじゃない。きみの言うとおり騎士の意味だよ」 「わたしは男です。その喩えは適切な表現ではないと思いますが」 「麗しの姫君を護るのがナイトの役目だろう? その意味では間違っていないと思うよ」 「…つまり、貴方はわたしを姫だと仰ると?」 ワインレッドの瞳がすっと細められる。室温が一気に三度は下がったと思わせる冷ややかなオーラを身に纏ったティエリアに気付いているのかいないのか、グラハムは謳うように言葉を続けた。 「勿論。そのアメジストの輝きを纏った艶やかな髪に、雪をも欺く白い肌、熟成したワインを思わせる深紅の瞳。滑らかな頬に可憐な唇。まさに完璧な美貌。私は一目で恋に落ちてしまったよ。叶うことなら、きみを護る唯一無二のナイトに志願したい」 「……ふざけるのもいい加減にしてください」 地を這うような剣呑な声が僅かに震えているのは、込み上げる憤りを抑えているせいだ。ひたりと見据えたワインレッドの双眸が、それ以上の戯言を許さないとでもいうようにグラハムを威嚇する。 「わたしは貴方の冗談に付き合うほど暇ではないんです。そのふざけたジョークを仰りたいのであれば、レベルに見合った方をお捜しになったら如何です?」 僅かに紅潮した頬は彼の自制心の現れだろう。怒鳴りつけたいのを必死で抑えているその様子は、グラハムにないはずの嗜虐心を煽られるようだ。 それにしても、ティエリアの怒りを滲ませたその瞳のなんと美しいことか。ボルドー色の煌めく二つの宝玉の奥で顕になった剥き出しの感情が、どこか作り物めいた硬質なその美貌に生気を注ぎ、匂い立つような美しさを醸し出していた。こんな彼の姿を間近で見れる自分は本当に幸せ者だと、グラハムは内心感嘆せずにはいられない。 「私の言葉がきみの気に障ったのならば謝罪するよ。だが、きみを一目見て惹かれてしまったのは偽らざる私の本心なんだ。それだけは疑わないでほしい」 切々と訴えるオリーブグリーンの瞳に嘘は見えず、情熱が込められたそのまなざしを受け止めきれなくなったティエリアの双眸が逸らされる。 ここでこの男のペースに乗せられてはいけないと思い直したティエリアが口を開こうとしたその瞬間、ぽとりとテーブルの上に何かが落ちる音がした。なんだろうと目線で追った瞬間、ティエリアは声にならない悲鳴を上げて身体を硬直させた。 「……っ!?」 ティエリアの視線の先には、直径一センチにも満たない小さな蜘蛛が落ちていたのだ。 もともとティエリアは昆虫の類があまり好きではない。とはいえ、自ら望んで触ってみようとは思わないだけで、悲鳴を上げて逃げるほどのものではなかった。 だが、たった一つだけ例外がある。それが蜘蛛で、たとえそれがどんなに小さなものであっても、生理的な嫌悪で身体が萎縮してしまうのだ。たかが蜘蛛一つ怖がる自分が情なくて、ティエリアなりになんとか耐性をつけようと努力を試みたのだが、結局蜘蛛嫌いに拍車がかかっただけで、何の成果も得られなかった。 ティエリアは声を上げなかった自分を褒めてやりたいと思いつつ、嫌悪に震える身体をなんとか抑え込んだ。この男の前でこれ以上の醜態を晒すことだけは、ティエリアのプライドに懸けて絶対に許せない。たかがこんな小さな蜘蛛一つ、耐えてみせると拳を握り締めた。 だが、そんなティエリアの悲愴な決意を嘲笑うかのように、蜘蛛は自分の方へとやってくる。ここで席を立って離れてしまえば話は簡単なのだが、それでは彼に気付かれてしまう危険性があった。ここは意地でも席についたままやり過ごすしかないと腹を括ったが、次第に近付いてくる蜘蛛にだんだん恐怖心が増してくる。ティエリアは関節が白くなるほどぎゅっと掌を握り締め、震えそうになる身体を必死で抑え込もうとした。 だが、そんなティエリアの不自然な様子に気付かないほどグラハムはマヌケな男ではなかった。 「―――ティエリア? 気分でも悪くなったのか?」 急に俯いて黙りこんでしまった彼の様子をいぶかしんだグラハムが声をかける。 「……いえ。大丈夫、です…」 震えそうになる声を必死で抑えようとするが、語尾の掠れまでは誤魔化せない。急変してしまった彼の様子に眉を顰めたグラハムは、ふとあるものに目を止めた。 それは、ティエリアの方へゆっくり近付いてゆく小さな蜘蛛だった。まさかと思いつつそっと様子を窺うと、どうみても腰が引けている様子だ。 「ひょっとして…蜘蛛が嫌い?」 途端にびくっと肩を震わすティエリアに、グラハムは「なるほど」と内心苦笑した。硬直してしまうほど嫌いならば席を立てばいいのに、そうしないのは自分に気付かれるのを避けるためだろう。どこまでも意地っ張りなこの佳人に、グラハムは口元を綻ばした。そして、すいと手を伸ばすと、ティエリアに近付こうとしていた蜘蛛をナプキンで掬い上げる。 ………え? ばれてしまったと頭の中が真っ白になってしまっていたティエリアだったが、グラハムの手によって蜘蛛が取り除かれるのを見て目を瞠った。 ……どう、して…? こんな小さな蜘蛛に怯える自分を見て笑われると思っていたのに、何も言わずに目の前から取り払ってくれた。彼の行動の意味がわからなくて、何故とかどうしてとか疑問符ばかりが頭の中をぐるぐると巡ってばかりいて、隣室へ去ったグラハムが戻ってきたことにも気付かなかった。 「―――ティエリア」 そっと頭を撫でられて、反射的に身体が強ばってしまう。そんなティエリアに苦笑したグラハムは、隣に座ると細い肩を腕の中に抱きよせた。 宥めるように背中をそっと撫でられ、「大丈夫だよ」と耳元でやさしく告げられ、グラハムの温かな腕のぬくもりとやさしい声音が強ばったティエリアの身体を少しずつときほぐしてゆく。やがて詰めていた息を吐き出すようにティエリアがグラハムの腕の中に身を委ねると、満足そうに笑んだ彼は艶やかな髪に唇を押し当てた。 「……落ち着いた?」 甘やかなテノールに耳元で囁かれ、ティエリアは小さく頷いた。 「―――醜態を晒してしまって、すみません…」 伏せた顔を上げられぬままティエリアが恐縮そうに告げると、グラハムは笑って言った。 「誰にだって苦手なものの一つや二つはあるさ。私だって食卓にオートミールが出された時は、一目散に逃げ出すよ」 「……あんなに栄養のあるものを?」 意外に思ったティエリアがゆっくり顔を上げると、グラハムが至極真面目な様子で聞いてくる。 「いくら栄養があっても不味いだろう。きみはオートミールが平気なのかい?」 「ええ」 頷いたティエリアに、グラハムは少し大袈裟に驚いてみせた。 「すごいな。尊敬に値するよ! 私は子供の頃ナニーに無理やり食べさせられたせいで、すっかりトラウマなんだ。今でもオートミールを見ると、眉をつり上げたナニーの凄い形相が思い浮かんでしまってダメだね」 少年のようなその表情と仕種に、思わずティエリアが小さく笑みを零した。それを見たグラハムは、オリーブグリーンの双眸をやさしく和ませる。 「やっと笑顔を見せてくれた。やっぱりきみは怒った顔より笑った顔の方が素敵だね」 掌で包むようにそっと頬を撫でられ、戸惑ったようにワインレッドの瞳が見開かれる。何と返していいのかわからずに逡巡するように視線を逸らすと、艶めいたテノールが意地悪く囁いてくる。 「下心のある男の前で、そんなに無防備な顔をみせるものじゃないよ?」 |