ファースト・コンタクト 03



 通された部屋は、半ば想像してはいたがスイートルームだった。
「ここしか空いてなくてね」
 そう言って苦笑を滲ませた男の言葉が真実なのかどうか、ティエリアには判断がつかない。それでも疲弊した身体は休息を求めていたし、どうせ休むのならばソファであれベッドであれ上質の方が心地よいに決まっている。そう結論付けたティエリアは、勧められるままソファに腰を下ろした。思ったとおり座り心地も背当てのクッションの柔らかさも申し分なく、ティエリアは初めて深く安堵の息を吐いた。
 ルームサービスで運ばれてきた紅茶をサーヴした男は、ティエリアの向かいに座ると「そう言えば」と口を開いた。
「お互い自己紹介もまだだったな。私の名はグラハム・エーカー。きみの名は?」
 オリーブグリーンのまなざしに見つめられて、一瞬ティエリアは息を飲んだ。いくらコードネームとはいえ、何者かわからない男に安易に名乗ってもいいのだろうか。だが、ここで名乗らないのも不自然だし、かといって適当な偽名を使うのも躊躇ったティエリアは、逡巡の後に小さな声で名を告げた。
「………ティエリア・アーデ」
「ティエリア…。綺麗な名前だ。美しいきみに実に相応しい」
 軽く目を瞠った後、満足そうに微笑んだグラハムに、ティエリアは戸惑った。たかが名乗ったくらいで何故そんなに嬉しそうな顔をするのだろう…?
「……そんなふざけたことを仰るのは貴方くらいです、ミスターエーカー」
 心の動揺を悟られまいと、態と冷たく言ったティエリアに、グラハムは苦笑を浮かべた。
「これは手厳しい。私としては純粋な賛辞を述べただけなのだが、お気に召さなかったかな? それに、よそよそしい敬称などつけず、グラハムと呼んでくれると嬉しいのだが」
「貴方を何とお呼びするかは、わたしの自由でしょう?」
「確かに。だが、私としてはきみにファーストネームで呼んでもらいたい。その方がお互い親近感がわくだろう?」
「貴方の見解はどうあれ、わたしは初めて会った人間に対して、いきなりファーストネームで呼ぶような馴れ馴れしい真似はしない主義です」
 硬質な表情を変えず、清々しいほどにきっぱりと切って捨てるティエリアに、グラハムは笑みを深めた。オリーブグリーンの双眸の奥に楽しげな光が宿る。
「なるほど。手強いね、きみは」
 言葉とは裏腹の余裕の表情がカンに障り、何と言い返してやろうかとティエリアがワインレッドの瞳に好戦的な色を滲ませた途端、グラハムは合わせていた視線をふっと逸らした。
「折角の紅茶が冷めてしまうな」
 そう言って優雅な仕種でカップを取り一口飲んだ。
「………」
 妙に気勢を削がれた格好になったティエリアは、訝しげに目を眇めてグラハムを見つめた。
 一体何を考えているのだろう、この男は…。
 どうにも勝手の違う相手にティエリアは戸惑っていた。もともと対人スキルは皆無といっていいほどで、ことに初対面の人間に対して積極的に会話しようと思ったことはなく、どちらかといえば避ける方だ。それが、彼に対しては自分でも意識しないうちにするりと言葉が出てしまう。こんなことは初めてだった。
「そんなに情熱的に見つめられると照れてしまうな」
 ふいに話しかけられ、はっと我に返ったティエリアは、彼の言葉を反芻して頬に血を昇らせる。
「なっ、何をふざけたことを!」
 忌々しそうにグラハムを睨みつけたティエリアは、動揺を隠すためにいささか乱暴な仕種でカップを手に取り口に運んだ。
「……っ」
 ひとくち口に含んだ瞬間、その熱さに顔を顰めたティエリアは、反射的にカップを戻し指先で唇を押さえた。冷めかかっていたとはいえ、猫舌のティエリアには熱すぎたのだ。気が急いていたとはいえ、迂闊な自分に内心舌打ちする。
「大丈夫か?」
 心配そうに訊ねるグラハムに、ティエリアは俯いたまま小さく頷いた。子供みたいな真似をしてしまったことがなんとも恥ずかしく、とても顔を上げることができない。
 本当に、この男には自分の情けない姿ばかり見られている気がする。こんな醜態ばかり晒す自分は自分ではない。ティエリアは何かを堪えるように両目をぎゅっと瞑った。
 と、傍に人の気配がしてそろそろと瞳を開けると、目の前にグラスが差し出されていた。
「水で冷やした方がいい」
 思わずティエリアが顔を上げると、やわらかい笑みを浮かべたオリーブグリーンの双眸がやさしく見下ろしていた。
「……すみません」
 気の回る男が差し出してくれたグラスを受け取ったティエリアは、冷たい水を少しずつ口に含み、熱くなった口内を潤した。舌先はまだぴりりとした痛みが残っているが、水ぶくれなどができている様子はなく、ティエリアは内心ほっと安堵の息を吐く。そもそもティエリアが極端な猫舌だから過敏に反応してしまっただけのことで、普通の人間なら少し熱く感じる程度だろう。
 一息吐くと、急に隣に座ったグラハムの存在が気になってしまったティエリアは、無意識のうちに僅かに身体を硬くする。すぐ隣に他人が座ることにあまり慣れていないため、条件反射的に身構えてしまうのだ。
 そういえば、テーマパークからホテルまでこの男に肩を抱かれてきたのに、何故か嫌悪を感じなかった。普段なら、見知らぬ人間に触れられる自分を想像しただけで鳥肌ものだというのに。今も、落ち着かない気分にはなっているが、嫌悪はない。それがティエリアには不思議でならなかった。
 そんなことを考えながら手の中のグラスを手持ち無沙汰に弄んでいると、グラハムが心配そうに訊ねてきた。
「痛むかい?」
「…少し」
「どれ」
 突然身を乗り出してきたグラハムに指先で顎を捕らえられた。
「なっ…!」
 驚愕に瞳を瞠ったティエリアに、グラハムは有無を言わせぬ口調で命じる。
「舌を出して」
 今まで振る舞いだけなら紳士的と言っていいグラハムが起こした突然の暴挙に、ティエリアはワインレッドの瞳に静かに怒りを立ち昇らせる。
「……手を放してください」
「やけどしていないか確認したいだけだよ。誓って何もしない」
 そう言って困ったように眉を寄せるグラハムに、ティエリアの中で迷いが生じる。さっさと怒鳴りつけて手を振り払えばいいのに、躊躇う自分がいるのだ。
「…ティエリア。きみが心配なんだ」
 やわらかなテノールとオリーブグリーンの瞳がティエリアの意識を甘く絡めとる。抵抗しなくてはと頭の中で思っても、躊躇いがちに目蓋が伏せられた時点でティエリアの敗北は決定だった。やがておずおずと差し出された舌を観察したグラハムは、ほっと安堵の息を吐く。
「やけどは…していないようだね。よかった」
 誓いどおり手を放したグラハムは、半ば覆い被さるようになっていた身体をゆっくり起こした。
「それにしても、きみは案外あわてん坊なところがあるな。それが私を意識してのことなら嬉しんだが……ティエリア?」
 茫然と宙を見上げたままのティエリアの肩にグラハムはそっと掌を置いた。その感触にはっと我に返ったティエリアは、頬を紅く染めるとソファの背もたれに顔を隠そうとする。しかし、一瞬早く伸ばされたグラハムの手によって肩を引かれ、彼の腕の中に抱き込まれてしまう。
「…っ! 放してくださいっ!」
「……まいったな」
 自嘲めいた低い呟きがグラハムの唇から零れる。なんとか逃れようと抵抗するティエリアの細い身体をさらに強く抱きしめながら、グラハムはティエリアの耳朶に甘く囁いた。
「前言を撤回してもいいだろうか…?」
 びくんと肩を震わせたティエリアの滑らかな白磁の頬に手を這わせたグラハムは、そっと身体を離すと不安げに揺れるワインレッドの目尻に宥めるようなキスを落とした。そのまま額に目蓋に頬にやさしいキスをおくると、腕の中の華奢な身体から次第に力が抜けてゆくのが感じられた。
「……ティエリア」
 吐息のようにそっと名を呼んで。
 グラハムはティエリアのやわらかそうな唇に、自分の唇をゆっくり近づけていった―――。