ファースト・コンタクト 13



 すぐにティエリアの後を追いかけたグラハムだったが、ティエリアは何度名を呼んでも応えを返すことはなく、無言のままゲストルームへ入ってしまった。
 閉ざされたドアの前に立ったグラハムの唇から、思わず溜息が零れ落ちた。
 自分でも思ってみなかった激情に突き動かされて、思わぬ醜態を晒してしまった自身に、苦い思いが込み上げてくる。
 初対面の人間にナンパ野郎と侮辱されて、どうしても許せなかったのだ。
 確かにティエリアに初めて会った時、その美貌に一目で惹きつけられたことは否定しない。だが、気分の悪そうな彼をホテルで休ませようとした行為については、下心など微塵もなかったと断言できる。それをさも疚しい気持ちがあったなどと揶揄するのは下種の勘繰りでしかなく、いつものグラハムならば、そんな相手に対して感情を揺さぶられることもなく冷静に対応していただろう。
 けれどあの時、まるで我が物顔でティエリアと話すあの男に頭に血が昇ってしまったのだ。
 おそらく自分とそう変わらない年齢だろう、ブラウンの髪にターコイズブルーの瞳の精悍な顔立ちの男。ロックオンと呼ばれていたその男に、強烈な苛立ちを感じた。それは向こうも同じだったようで、敵愾心も顕な目で睨みつけられた。
 あそこまで徹底的に敵意を向けてくるあの男はティエリアの何なのか。恋人ではないことは二人の間にそんな甘い空気は感じられなかったからわかるが、それでもごく親しい間柄だとういうことはわかる。彼らの間にただの友人や同僚とは思えない絆を感じ、苛立ちがさらに募った。
 この、胸を焼かれるような焦燥めいた苦い感情の正体は―――嫉妬だ。
 初対面の人間に持つべき感情ではないと頭ではわかっていても、自分の心は誤魔化せない。
 そこでグラハムの心に何かが引っ掛かった。
 今まで自分は、嫉妬を覚えるほど誰かにのめりこんだことがあるだろうか…?
 ぽとり、と落とされた疑問は、水面を滑る小波のようにたちまちのうちに広がってゆく。
 貴方は任務以外のことに対して希薄すぎると、かつて恋人に詰られたことがある。事実、恋愛に関して必要以上にのめりこむことはなく、淡々とした付き合を続けていたと思う。勿論、その時々の恋人に対して真剣な気持ちで接していたが、心の奥底に妙に冷めている自分がいて、無意識のうちに一線を引いて誰も中に踏み込ませてはこなかった。それを敏感に感じ取った彼女達と自然と心が離れてしまったのは当然の結果なのかもしれない。
 それが、ティエリアに関しては違っていた。一目惚れと恥ずかしげもなく口にしたように、会った瞬間に心惹かれ、僅かな時間に彼と接してその思いがより深まった。心の奥底から彼が欲しいと、自分でも驚くような激しさでティエリアを求めた。
 こんなことは生まれて初めての経験で、自分にこんな激しさがあったのかと新鮮な驚きでいっぱいだった。
 だからこそ、ティエリアと親しげなロックオンが気に入らず、保護者顔して彼に近付いた自分を排除しようとする彼に、嫉妬してしまったのだ―――。
 グラハムの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
 華やかな恋愛遍歴から恋多き男と囁かれていた自分の、意外なほどの青さが他人事のように可笑しかった。本当にティエリア相手だと、今までにない自分を発見することができて面白い。
 だからこそ、グラハムは負けるわけにはいかなかった。状況は圧倒的に不利だが、ここで諦める気など毛頭ない。
 ティエリアを手に入れるために。そのためにはどんなことでもしよう。
「私の本気を舐めてもらっては困るよ、ティエリア」
 真っ直ぐに扉を見つめるグラハムのオリーブグリーンの瞳には固い決意の色が宿っていた。



 コンコン。
 ノックしても当然返事はない。半ば予想していたグラハムは応えを待たずにドアを開けた。
「―――――入室の許可をした憶えはありませんが」
 中へ入った瞬間、咎める声が鋭く鼓膜を突いた。
「非礼は承知のうえだ。だが、こうでもしないときみは会ってはくれないだろう?」
 苦笑を滲ませながらグラハムがゆっくりと歩を進める。窓際に佇んでいたティエリアは、優雅な仕種で振り返ると不躾な侵入者を冷ややかに見据えた。硬質なワインレッドのまなざしは冴え凍るように煌めいていて、グラハムの心をざわめかせずにはいられない。
 ティエリアの前に立ったグラハムは幾分緊張した面持ちで口を開いた。
「やはりまだ怒っているかい?」
「……愚問ですね」
 素っ気ないものの応えがあったことにグラハムは内心安堵する。少なくとも口をききたくないほど嫌われているのではなさそうだ。
「どうすればきみの赦しをもらえるのかな?」
「何の赦しでしょうか」
 わかっているくせに知らないふりをするティエリアが可愛らしくも憎らしい。
「きみを怒らせてしまったことに対してだよ。電話越しで言い争いをするなんて、大人げなかったと反省している。きみが不快に思うのも当然だ」
「事後に反省するくらいなら、最初からしない分別を持っていただきたかったですね」
「面目ない。まったく、きみの前では醜態を晒してばかりだな」
 冷ややかな声音のティエリアにグラハムは頭を垂れるしかない。それでも、ここはきちんと自分の気持ちを告げるべきだと腹を括り、真剣な面持ちで向き直った。
「ティエリア。彼が電話で疑っていたが、きみをホテルに誘ったときに誓って下心はなかった。気分の悪そうなきみを放っておけなくて、落ち着いて休ませてやりたいその一心だった。それだけは信じて欲しい」
 真摯なオリーブグリーンのまなざしを静かに受け止めたティエリアは、そっと目蓋を伏せて言った。
「……まったくもって愚問ですね。そんなこと、言われなくても最初からわかっています」
「え?」
「これでも人を見る目はあるつもりですから、自分に害をなす人間かそうでないかくらいの判別はできます。そのうえでわたしが貴方について行ったのは、わたし自身が決断したことです。そのことに誰にも文句は言わせません」
 まっすぐにグラハムを見つめるワインレッドの瞳には凛とした気高さが漂っていて、誇り高いティエリアの矜持を如実に表していた。グラハムの瞳が込み上げる歓喜に瞠られる。
「ティエリア…」
「もっとも、今更弁解しようとなさるくらいですから、貴方の方はわたしを下心のある人間に誘われて黙って付いて行くような愚かな人間だと思っていたわけですね? その方が余程屈辱です。貴方に対する認識を改めなければならないようです」
 柳眉を顰め睨み据えるティエリアにグラハムは慌てて口を開いた。
「誤解だ! きみのことをそんなふうに思ったことなどない! ただ…一目会ったときからきみに心惹かれてしまったのは事実だから、そんなわたしの気持ちを彼に見透かされてしまったようで動揺してしまったんだ。それに……」
「それに?」
 言葉を切ったグラハムがらしくなく言いよどむ。ティエリアに続きを促されると、ここで誤魔化しては彼の心には届かない、そう思ったグラハムは躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「……きみが親しげな様子で彼と会話しているのを見たら、馬鹿みたいに苛ついて仕方がなかった。彼がきみの保護者のごとく独占欲丸出しでかかってくるのが面白くなかった。つまりは彼に嫉妬していたんだ。だから受けてたった。でも、それできみを怒らせてしまったのでは元も子もないな」
「―――嫉妬って…。子供ですか、貴方は…」
 溜息とともに吐き出された言葉は、呆れているようでどこか楽しげな響きが滲んでいるようにグラハムには聞こえ、それに勇気づけられたかのように苦笑を浮かべながら言った。
「きみに関しては我儘な子供に成り下がってしまうようだ」
「そのようですね。でも、私はそんな図体の大きな子供のお守りはごめんです」
「きみでなければダメな子供なんだが…。それでも?」
 甘えの滲んだまなざしで見つめると、ティエリアは思案げに首を傾げてみせた。
「どうしましょうか…。いきなり襲いかかられても困りますしね」
 思わせぶりな視線を送られ、途端にグラハムは苦い表情になる。
「……それを言われると謝罪のしようがない」
 本気で落ち込んだ様子のグラハムにティエリアは破顔した。
「冗談です。貴方の自制心には敬意を表しますよ」
「……それは、褒められているのかそのとも貶されているのか、なんとも微妙な台詞だな」
「さあ。どちらでしょう? 判断はおまかせします」
 艶やかに笑うワインレッドの瞳にグラハムの視線が釘付けになる。恐らくは無意識の媚態だろう。蠱惑めいたまなざしがグラハムの理性をゆるりと絡めとる。その甘い誘惑に抗えず、引き寄せられるように伸ばされた掌がティエリアの白皙の頬に添えられた。
「そんなことを言って、私を煽っているのかい?」
 艶を増したテノールが囁くようにティエリアの耳朶に落とされる。熱を帯びたオリーブグリーンの瞳に見つめられたティエリアがコケティッシュな微笑を浮かべた瞬間、グラハムは紳士の仮面をかなぐり捨てた。