ファースト・コンタクト 10



「本当に横にならなくて大丈夫なのか?」
 部屋に戻るとベッドで休むよう気遣うグラハムに、ソファに座ったティエリアは小さく首を振った。
「ええ。もう大丈夫です」
 もともと気分が悪かったわけではなく精神的なショックが大きかっただけで、それも部屋に戻るまでの間に落ち着きを取り戻していた。だが、あんなことぐらいで取り乱しそうになった自分の意外なもろさが、今度はティエリアの心を沈ませていたから、答える声もどこか力なくなってしまう。
「ならばいいが」
 そんなティエリアの様子を敏感に感じ取ったのか、まだ心配そうなまなざしを向けてくるグラハムに、ティエリアは苦笑を浮かべてみせた。
「随分と心配性ですね」
「誰にでもというわけではないさ。きみに関しては最初から平常心でいられない。まったく、こんなことは初めてだよ」
「……本当にお口がお上手ですね。その言葉で一体何人の女性を口説いてきたんです?」
 その言葉のどこに引っ掛かりを覚えたのかはわからないが、妙に攻撃的な気持ちになったティエリアがワインレッドの瞳を細めて揶揄すると、グラハムは弱った表情を浮かべて言った。
「…痛いところを突かれたな」
 否定しないところがなんとも憎らしい。だが、この男に少しでもこんな顔をさせたことでティエリアは僅かに溜飲を下げた。
 しかし、役者はグラハムの方が一枚上手だった。
「だが、それが嫉妬故の言葉ならば、どんな謗りも甘んじて受けよう」
「な…っ!」
 予想外の言葉に大きく目を瞠ったティエリアは、動揺のあまり声を荒げてしまう。
「何を馬鹿なことを言ってるんですか! そんなこと、あるはずがないでしょう!」
「そうか。少しは期待したんだが、残念だな…」
 にやりと人の悪そうな笑みを浮かべてグラハムは言った。オリーブグリーンの双眸にはどこかしたたかな光が宿っていて、ティエリアは結果として彼に乗せられてしまった自分に舌打ちした気分だった。
 戯言にムキになるなんて愚かすぎる。もっと冷静に対応できたはずなのに、何を焦っているのだろう。グラハムの余裕めいた表情にさらに苛立ちが募って、ティエリアはひどく悔しそうに眉を顰めた。
「……案外意地が悪いんですね、ミスターエーカー」
 それでもやり込められたままではいられなくて憎まれ口を叩いてみせるが、どこか拗ねたような響きが滲んでしまうのは隠せない。
「私も今気付いたところだ。どうやらきみの前ではローティーンの頃に戻ってしまうらしい。私自身新鮮な驚きだよ」
 そう言ってひどく楽しそうな笑みを浮かべながら肩を竦めるグラハムに、ティエリアは嫌そうに言った。
「こんな可愛げのない子供の相手は願い下げです」
 途端にぷっと吹き出したグラハムに、ティエリアの眉がますます顰められる。
「何がそんなに可笑しいんですか。失礼な人ですね!」
「いや、すまない。流石にこの年になって子供扱いされたことなど初めてなのでね。つい可笑しくて」
 そう言いながらも肩を震わせるグラハムをティエリアは不機嫌そうに睨みつける。
「それは貴重な体験をされましたね。わたしもご協力できて嬉しいですよ、ミスターエーカー」
「他人行儀な。グラハムと呼んでくれと言っただろう?」
「親しくもない人をファーストネームで呼ぶ理由がわたしにはありませんと、申し上げたと思いますが」
「理由…ね。ならば親しい関係になるよう努力するのはやぶさかではないが? もちろんきみさえよければの話だけと」
 ちらりと流し目を送ってくるグラハムの言わんとしていることを察したティエリアは冷たく言い捨てた。
「謹んで辞退します」
「即答とはひどいな。考える余地もないのかい?」
「ありません」
 きっぱり否定するティエリアに気落ちするかと思っていたら、グラハムはにやりと笑った。
「やっぱりいいね」
「は?」
「そうやって冷たくあしらってくる方がきみらしくていいと言ったんだ。ますます気に入った」
「…勝手にしてください」
 いい加減答えることも面倒になってきたティエリアは、会話を放り投げることで強引に話を終わらせた。
 なにも律儀に付き合うことはないのだ。そもそもいつものティエリアなら、誰に対しても必要最小限の会話しかしていない。それで成り立っていたし、他人とコミュニケーションを取る必要も感じていなかったからだ。だが、グラハムに関しては最初から彼のペースに巻き込まれてしまって、そのままずるずると流されてしまっている。このあたりで自分のペースを取り戻さないと手遅れになりそうだった。
「怒らせたかな?」
 今度は下手に出て顔を覗き込んでくるグラハムに、ティエリアは溜息を吐いた。
「……怒ってはいません。不毛な会話にあきれているだけです」
「不毛って…。私は真剣なのにひどいな」
 そう言って傷付いたような瞳をみせるグラハムに、これが彼の手口だとわかっているのについ口を開いてしまう。
「会ったばかりの人間に対して口説くなど、退屈しのぎにからかっていると思われても仕方がない行為では?」
「きみは一目惚れを信じないのかい?」
「一目惚れ…?」
 唐突な言葉に訝しむようなまなざしを向けてくるティエリアに、グラハムは大きく頷いた。その手を取り、すぐ隣へ腰を下ろしてくる。
「そう、一目惚れ。私はきみを一目見た瞬間、強く惹かれるものを感じた。これは嘘偽りのない私の気持ちだ」
「…会った瞬間になんて、そんな非論理的なことあり得ません。相手の人となりを知った上で、初めて好ましく感じるものなのではないのですか?」
 誰かを好きになったことのないティエリアにとって、グラハムの主張は理解の範疇を超えていた。それでも、可能な限りの知識を使って反論を試みてみる。至極真面目な顔のティエリアにグラハムはふわりとやわらかく笑んでみせた。
「ティエリア。恋は頭でするものではなく、ここでするものだよ?」
 そう言ってグラハムは、人差し指でティエリアの心臓の上をトン、と叩いた。
 ―――恋? それこそ、ティエリアには理解不能の言葉だ。恐らく一生縁のないものだろう。
 そんな考えが顔に出たのか、グラハムがそっと聞いてくる。
「ひょっとして、きみは恋をしたことがないのか?」
「ええ。ありません」
 あっさりと肯定されてグラハムは軽く目を瞠った。半ば予想していたこととはいえ、ちょっと驚きを隠せない。
「まあ、考え方は人それぞれだから私がとやかく言う権利はないが、少し勿体ない気がするね。周りの人間に誰か好ましく思った人はいなかったのかい?」
「なるもならないも、必要最低限以上の会話を交わしたことはないので」
「では、こうして私と会話をしていることは、きみにとって必要なことと認識してくれているということなのかな?」
「………」
 グラハムが再び顔を覗き込むと、ティエリアは今度はうろたえたように視線を逸らした。それだけで、彼の心の戸惑いが目に見えるようだ。
 恐らくティエリアにとって、自分とのこの会話も本来ならば必要のないものの部類に入るものだろう。それがこうして会話を続けていること自体、破格の待遇といっていいものではないか。それが何故なのかその理由をティエリアが思い当たった時、グラハムの望んだ答えが返ってくる気がする。
「私がきみに恋することの素晴らしさを教えてあげられたらと思ってる。そのチャンスをくれないか?」
 ティエリアが自分に心を開きかけてくれているのではないか。そう思ったグラハムは少し浮かれていたのかもしれない。自身の言葉にティエリアのまなざしがすっと細められたことに気付くのが遅れた。
「……そうですね。貴方は随分と経験豊富そうですから」
 まるで氷点下のように凍りついた声が耳に届く。その響きの冷たさに、グラハムは漸く自分の失敗に気付いた。握っていた手を振り払われ目を瞠ると、ソファから立ち上がったティエリアが優美な笑みを浮かべて見下ろしていた。当然ながらそのワインレッドの瞳は笑っていなかったが。
「部屋の電話をお借りしたいのですが、よろしいですか?」
「…あ、ああ。もちろん」
「ありがとうございます」
 そう言ってティエリアは冷ややかな視線をグラハムに残したまま隣室へ向かった。その後姿を見送ったグラハムは、自身の犯した失態に深い溜息を吐いた。
 これでティエリアを怒らせたのが二度目。この数時間のうちに何をやっているんだと、不甲斐ない自分に流石に落ち込みたくなる。
 らしくなく焦りすぎたようだ。堪え切れずに襲いかけてしまったことといい、どうもティエリアに関しては今までの相手のようにスマートに運べない。それが何に起因しているのか悟ってしまえる自身の優秀な自己分析能力が忌々しい。
「―――まったく。ハイティーンの子供か、私は」
 だが、一度や二度失敗したくらいで諦めるほどグラハムは諦めがよくなかった。むしろ相手が手強ければ手強いほど燃える性質だ。欲しいと思ったら我慢がきかない。あらゆる手段をもって手に入れる努力を惜しまない。グラハム・エーカーとはそういう男だ。
「本気でいかせてもらうよ、ティエリア」
 不敵な笑みを浮かべたユニオンのトップファイターの瞳には強い決意が滲んでいた。