満開の桜の木の下で、俺達は出会った。
「運命」に導かれるように―――。
やわらかな陽射しの下で道の両側に植えられた満開の桜が競うように咲き誇り、時折はらりと零れた薄紅色の花びらがひらひらと中を舞って、音もなく地面へ舞い降りている。
アカデミーの正門から施設までの数百メートルに及ぶ見事な桜並木は、関係者だけの隠された名所となっており、来賓として卒業式に招かれたイザーク・ジュールは、舞い散る花びらの祝福を受けながら、久しぶりに見る美しい情景を懐かしく眺めていた。
顎のラインで整えられた冴え凍る月の雫を編み上げたかのような銀色の髪、雪花石膏の如き透き通るように滑らかな白い肌。すっと通った鼻梁に、仄かに色づく薄すぎず厚すぎず絶妙なバランスの唇。優美なラインを描く眉の下には、理知的な光を湛えた蒼氷の瞳が静かに桜を見つめていた。
その身に纏うのは、最高評議会議員の証である青い評議員服。最近、漸く違和感なく着こなせるようになったと感じられるのは、評議員として過ごした時間の長さの表れだろうか。
ユニウス条約の締結から間もなく2年。その間、自分は変わったとイザークは思う。海千山千の評議員に揉まれて、腹芸も少しは覚えた。何より、直情型で激昂しやすい性質の自分が、感情を抑える術を身に付けたことは我ながら驚くべきことだ。それが成長したということなのかどうかは、いささか判断に悩むところだが。
ザフトの赤い軍服から評議員のそれに着替えて、180度違う政治の世界へ飛び込んだのは、この凄惨な戦争を前線で経験した者の生の言葉を、思いを為政者へ伝え、もう二度と戦争を起こすことがないよう働きかけたいと強く願ったからだ。
しかし、現実は思いどおりにはいかない。
プラントと地球――コーディネーターとナチュラルの溝はやはり深く、幾度となく協議が繰り返されてもなかなか歩み寄る姿勢は見られないばかりか、競うように新しいMSの開発に力を入れ、軍備の縮小など程遠いのが現状だ。
何のために多大な犠牲を支払ったのか、その意義を両者が見失っている現在、このままでは遠からず破綻するであろう危うい関係をイザークは危惧していた。
この状態を憂いているのは、彼の地に身を置く彼も同じことだろう。ザフトを裏切り、ラクス・クラインらの率いる第三勢力に組したとはいえども、プラントを護りたいと思う気持ちに変わりはないはずだ。それは、置かれている立場も状況も違えど、あの戦場で共に戦った自分にはわかる。
もし再戦となったら、自分は、そして彼は一体どうするのだろう……。
イザークは秀麗な眉を曇らせ、そっと唇を噛み締めた。
彼―――アスラン・ザラのことを考えると、今でも胸が痛む。
2年という歳月は、一人の人間を忘れるのに十分な時間だろう。事実、何度も忘れようと努力したし、戦後復興の忙しさに紛れて忘れかけもした。だが、ふとした瞬間に彼の顔が甦り、イザークを苦しめる。自分は、まだアスランを忘れられないと、その度に思い知らされる。彼への想いと共に―――。
初めは、なんて気に食わない奴だろうと思った。全てにおいて自分より秀でていながら、それを決してひけらかすことをしない、冷静で物静かな態度が逆にカンに障った。彼を見返してやりたい、何事にも深い関心を示さない彼の意識に「自分」という存在を植え付け、その取り澄ました顔を歪めさせたい―――そう思い、度々アスランに食って掛かった。
異常なまでにアスランを敵視するのは、行き過ぎたライバル心のなせる業―――ただそれだけだと思っていたのに……。
それがいつ恋情に変わったかなんて、知らない。気が付いたら、どうしようもないほどアスランに焦がれている自分がいた。
ひょっとしたら、自分で認めなかっただけで、初めて会った時にもう惹かれていたのかもしれない。
そういえば…と、イザークはふいに思い出す。アスランと初めて会ったのも、この桜並木の下だった。
今となっては甘くも苦い記憶に、イザークの頬に苦笑が滲む。
あれは、アカデミー入学の時。やはりこんな風に一人で桜を眺めていた。
こんな見事な桜並木を見たことがなかったから夢中になって眺めていて、前方から誰かが歩いて来るのにも気付かなかった。
人の気配にはっとして顔を向けたその瞬間、突風が吹き、音を立てて揺れる枝から桜の花びらが散った。
舞い散る花びらの向こうに、見えた人影―――。
そこには、濃紺の髪に翡翠色の瞳を持つ、どこか甘さを残しつつも端正な面立ちの少年が立っていた。
互いに気付いた二人の、アクアマリンの瞳とエメラルドのそれが絡み合う。
やがて自分を呼ぶディアッカの声にイザークが視線を逸らすまで、二人は声もなく暫く見つめあった。
―――それが、アスランとの出会いだった。
『―――僕達の出会いは運命だったね』
初めて二人で過ごした夜に、ぽつりとアスランが言った言葉。何を戯言をぬかすと、照れ隠しにシーツに潜ったイザークをその上から包み込むように抱き締めたアスランは、耳元で詠うように熱く甘く囁いたのだ。
『桜の下に佇むイザークは、まるで桜の精みたいに綺麗で。あの時からずっと、イザークが好きだった―――』
イザークの脳裏に、アスランと共に過ごした甘やかな時間が甦る。戦時中で、明日をも知れない戦いの最中だったけれど、確かに自分は幸せだったと思う。
アスランがザフトを去るまでは―――。
そして、あれから2年が過ぎ、今、自分はここに一人いる。
『僕達の出会いは運命だったね』
運命なんて、簡単に言ってくれたものだと、イザークは皮肉げに嗤った。
優しくて、誠実で、そして残酷な彼……。
一番いて欲しい時に、傍にいなかったくせに。
ずっと傍に、一緒にいるよと言ったくせに。
―――――嘘つき。
薄紅の花びらを映しているイザークの視界が急にぼやける。
「―――――雨……?」
見上げたアクアマリンの瞳から、涙が一筋頬を伝い落ちた―――。
どのくらいそうしていたのだろうか。
上着の胸ポケットから聞える微かなアラーム音に気付いたイザークは、乱暴に頬を拭うと、内ポケットから携帯端末を取り出した。掌サイズの小型のモバイルの蓋を開けたイザークは、一呼吸置いた後、画像スイッチをオンにする。小さな画面に映し出されたのは、ザフト式の敬礼をした長い茶色の髪を後ろに束ねた少女の姿。
「隊長。――いえ、ジュール議員。今、どちらにいらっしゃるのですか? もうすぐ式典の始まるお時間です」
相変わらず「隊長」と呼ぶクセが抜けない部下に微かに口元を綻ばしたイザークは、短く答えて敬礼を返す。
「すまない。すぐに行く」
ほんの少しの間だけのつもりが、存外に長い時間だったらしい。警備の人間も遠ざけて暫く一人になりたいと告げた珍しいイザークの我儘を黙って聞いてくれたシホだったが、さすがに式典の時間が迫って不安になったらしい。
通信を切ったイザークは、携帯端末を胸ポケットにしまうと、深く息を吐いた。
今の自分にはすべきことが山積している。いつまでも感傷に捕らわれているわけにはいかなかった。
想いを振り払うかのように軽く頭を振ったイザークが歩き出そうとした時、ざあっ…と一陣の風が枝を揺らして吹き抜けていった。思わず顔に片手を当て風をしのいだイザークが、舞い散る薄紅の花霞の向こうに見たのは……。
「―――――アスラ…っっ!!!」
イザークの形の良い唇から、忘れよう忘れようと何度も自分に言い聞かせ、けれど片時も忘れられなかった想い人の名が零れた。
その声に、アカデミーの赤い制服を身に纏った少年が、ゆっくりと顔を上げる。
風に乱された髪は漆黒。あどけなさの残る面立ちを大人びせてみせる、どこか陰の孕んだ暗赤色の瞳が、イザークの姿を認めて見開かれた。
顔かたちに似たところなどないのに、何故か印象がアスランと重なる、この既視感―――。
心がざわめくのを抑えられず、イザークは目の前の少年を食い入るように見つめた。少年――シン・アスカも、雷に打たれたようにその場に立ちすくむ。
アクアマリンの瞳とダークレッドのそれとが絡み合い、二人を取り巻く世界からすべての音が消える。
新しい「運命」の輪が回り始めた瞬間だった―――――。
* * * * *
「―――――イザーク・ジュール……」
シンは壇上で祝辞を述べるイザークを、卒業生の最前列から見つめていた。
なんとなく心が落ち着かず、卒業式の始まる前だというのにそっと抜け出して、あの桜並木の下へやってきた。暫くぼんやりと桜を眺めていると次第に心も落ち着いてきて、そろそろ会場へ戻ろうとした時だった。
突然風が吹いて思わず瞑った目を再び開いたその瞬間、視界に入った人影に愕然とした。
舞い散る薄紅色の花びらの祝福を受けるかのようにそこに佇んでいたのは、奇跡のように美しい一人の青年だった。
やわらかな陽射しを受けて艶やかに輝く銀色の髪。白皙の美貌によく似合うアクアマリンの瞳は自分を見てとても驚いて、けれど次の瞬間、ひどく哀しい色が滲んだ。それは、見ず知らずの人だというのに思わず抱きしめて慰めたくなるほどに、切ない彩だった。
オーブで父を母を、妹を喪ってから、何事にも動かされることのなかった彼の心に深く刻み込まれた、その美しい姿。
あんなに綺麗な人に出会ったのは初めてだった。
そういえば、あの時彼は何と言ったのだろうか。
たしか……。
「―――アス……何とか?」
事情はわからないが、それが彼を哀しませているものだということだけはわかる。そして、自分が何の役にも立てないことに、何故かひどい苛立ちを感じた。
自分でもわからない感情に突き動かされるまま、シンは真っ直ぐにイザークを見つめ続けた。その視線に気付いたイザークが眼差しを向けると、どくんと音を立てて鼓動が鳴った。
彼のことが、もっと知りたい。彼に近付きたい。
シンは、心の底から強くそう思った―――。
満開の桜の木の下で、俺達は出会った。
「運命」に導かれるように―――。