バプテストとは

概要紹介

 バプテストとは、イエス・キリストが教会に命じられた教えの全てを守り続けてきたクリスチャンの一派といえます。特に、バプテスマ(浸礼。日本語で一般的には洗礼と呼ばれるものです)の教理を厳格に守り続けてきました。
 聖書によると、バプテスマ(浸礼。古代ギリシャ語で”沈め”)とは、『新約教会の権威』によって『イエスの弟子となりたい信仰者(すでにイエスを信じて救われている人)』に対して『沈め(一時的に水の中に全身を沈める)』を行い、『教会に加わる』儀式です。
 このため、バプテストは、イエスを信じることができない幼児に洗礼を授けるカトリック教会、およびカトリック教会から分かれ出たプロテスタント教会とは、歴史的に関わりを持っていません※。

※あくまでも教会としての関わり・お付き合いがない、ということです。どなたでも(他教派の方でも)一個人として当教会の礼拝にご出席いただけます。
※なお、現代では、プロテスタント教会が洗礼の様式だけを沈めに戻してバプテスト教会を名乗ったり、逆に元々バプテスト教会であるにもかかわらずプロテスタントを自称するようになった”プロテスタント・バプテスト”教会や、歴史的また教理的にバプテストと何の関わりもないのにバプテストを名乗る教会も存在しますが、私どもはそのような教会とは関わりを持っていません。

 以下に、バプテスト教会が守って来た教理とその歴史について、詳しくご説明します。

教理

 バプテストが歴史的に保守してきた教理であり、現在ではミショナリー(宣教)・バプテストに受け継がれ、ひいては当教会の教理でもある「バプテスト信仰告白」をご紹介します。
 次いで、このバプテスト信仰告白の中でも、特に私どもバプテストの特徴ともいえる「バプテスマ」「主の晩餐式」「新約教会」について、それぞれご説明します。

バプテスト信仰告白

宗教法人我孫子バプテスト教会は、以下の日本バプテスト連合信仰宣言、および、米国バプテスト連合(American Baptist Association:ABA)信仰宣言の第22,23条の箇条を信じます。



日本バプテスト連合信仰宣言(2002年第39回年次総会で採用、2003年第40回年次総会で一部修正)

1.主イエスが弟子たちに示されたように、互いに愛し合うならば、私たちは神を愛する者の集まりであって、権威ある新約教会としての姿を表している。それ故に、愛することは、主イエス・キリストの大いなる戒めであり、他のすべての教えの基となり、宣教の原動力となる。
◇マタイ22:35-40、ヨハネ13:34ー35、ヨハネ15:12、第1ヨハネ4:7-21、第1ヨハネ5:1-3、 黙示録2:4-5
 

2.聖書はすべて、一言一句、誤りなき、神の霊感によって書かれた言葉であり、信仰と実践とに必要かつ十分な規範である。
◇詩篇119:160、第2テモテ3:16-17
 

3.創世記における天地創造の記述は正しく、そのまま受け入れるに足るものである。
◇創世記1章・2章
 

4.人格的な三位一体なる神。父・子・聖霊の三位が、神性において完全に等しい。
◇マタイ28:19ー20
 

5.イエス・キリストは神である。
◇ヨハネ1:1-14、ヨハネ10:30、第2コリント5:19
 

6.イエス・キリストは処女から生まれ、人となり、罪なき生涯を全うした。
◇マタイ1:18-20、第2コリント5:21、ピリピ2:6-8、第1ペテロ2:22
 

7.サタンは、天使が堕落し、神と人の敵となったこの世の神であり悪霊のかしらである。その終局のさばきは永遠の火の池である。
◇イザヤ14:12-15、エゼキエル28:11-19、マタイ25:41、第2コリント4:4 エペソ2:2、エペソ6:10-17、 黙示録20:10
 

8.聖霊は、教会のかしらなるイエス・キリストに代わる導き手であり、執行者である。
◇ルカ24:49、ヨハネ14:16-17、使徒1:4-5・8、使徒2:1-4
 

9.聖霊の超自然的な賜物は、聖書が完成されたときに廃れた。信仰と希望と愛とが、いつまでも存続する。
◇ヨハネ4:48、使徒1:15-26、使徒2:43、第1コリント12~14章、ヘブル2:3-4
 

10.人は神のかたちに創造され、罪なき状態を保ったが、自らすすんで罪を犯したため、その子孫である全人類は罪人となった。
◇創世記1:26、創世記3:6-24、ローマ5:12・19
 

11.イエス・キリストの苦難と死は、全人類の罪の贖いであり、ただ信じる者にのみ罪の赦しが与えられる。
◇イザヤ53:6、ヘブル2:9、第1ペテロ2:24、第1ペテロ3:18、第2ペテロ3:9、第1ヨハネ2:2
 

12.罪人は、神の恵みにより、イエス・キリストを信ずる信仰よってのみ救われる。
 神の子となる必要条件は 神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰である。聖霊は罪人に罪の意識をもたせ、新しく生まれかわらせ、神の子として証印し、安全を保証し、信者ひとりひとりのうちに宿る。
◇ヨハネ3:6、ヨハネ3:16-18、 ローマ8:9-11、 第1コリント6:19-20、エペソ4:30、テトス3:5
 

13.イエス・キリストを信じて救われた者は、すべて、永遠に主に守られて安全であり、絶対に滅びることがない。
◇ヨハネ3:36、ヨハネ5:24、ヨハネ10:27-30、ローマ8:35-39、ヘブル10:39、第1ペテロ1:5
 

14.神は信じる者自分の子として扱い、従順な者には報酬を与え、不従順な者には懲らしめをもって導く。
◇マタイ16:27、マタイ25:14-23、ヨハネ1:12、ヘブル12:5-11、第2ヨハネ1:8、黙示録22:12
 

15.イエス・キリストは肉体をもって復活し昇天した。聖徒たちも同様に肉体をもって復活する。
◇マタイ28:1-7、使徒1:9-11,第1コリント15:42-58、第1テサロニケ4:13-18
 

16.キリストは千年王国時代の前に体を持って再臨する。それは異邦人時代の幕を閉じる最も栄光に満ちた出来事である。その時、義人の復活が起こる。そして義人は千年王国時代の後に新天新地の天国に入る。不義なる者の復活は、千年王国時代の終わりに起こり、永遠の刑罰受けるために火の池に投げ込まれる。
◇ヨハネ14:1-6、第1テサロニケ4:13-18、第2テサロニケ2:8、黙示録19章、黙示録20:4-6、黙示録20:11-15、黙示録21:8
 

17.イエス・キリストは、宣教中に御自身の教会を創立した。その教会は、聖書に従ってバプテスマを受けた信者が、主イエス・キリストの宣教命令を遂行するために誓約し合った個別集会である。個々の教会は独立自治の集会であり、他のいかなる教会や宗教団体からも支配されない。イエス・キリストは、新約教会に対してのみ、その不滅を約束し、宣教命令を一任した。
◇マタイ4:18-22、マタイ16:18、マタイ28:19-20、マルコ1:14-20、ヨハネ1:35-51、 エペソ3:21
 

18.主の教会には、バプテスマと主の晩餐の2つの「定め」がある。聖書に述べられているバプテスマはキリストの死と埋葬と復活を表す。また、それは悔い改めた信者が全身水面下に沈められる浸礼であって、父と子と聖霊の名において、主の教会の権威により執行されるものである。主の晩餐は、これを行う教会の会員に限定される。パンはキリストの体を、杯はキリストの血を記念する。
◇マタイ28:19、使徒8:12、ローマ6:4、第1コリント5:11-13、第1コリント11:1-2・17-20・26
 

19.教会には、神によって定められた2つの職務がある。牧師職と執事職であり、テモテへの第一の手紙とテトスへの手紙の中で明らかにされているように、資格を有する男性によって職務を全うされるべきである。
◇Ⅰテモテ3:1-13、テトス1:6-9
 

20.連合、協議会、委員会等すべて協力体は、まさしく教会の下に置く。
◇マタイ20:25-28
 

21.私たちは国家の干渉なく自由に礼拝し、聖書の教えに従い、良き国民として国家の法律や規則を遵守する。ただし、神の教えと異なる場合には、神に従う。
◇使徒5:29、ローマ13:1-7、第1ペテロ2:13-15
 



米国バプテスト連合(American Baptist Association:ABA)信仰宣言 第22,23条

22.私たちは、結婚の聖書的な定義が一人の男性と一人の女性の間においてのみ成立する結合であると信じます。
◇創世記2:21-24、マタイ19:4-6、マルコ10:6-9、第1コリント7:2-4、エペソ5:22-31
(参考:同性愛の罪について:ローマ1:26-27、第1コリント6:9、レビ記18:22,20、レビ記20:13)
 

23.私たちは、神が一人ひとりの性別を決めておられると信じています。神は男性と女性という2つの性別を定められました。人間は、神によって定められた生物学的性別と異なる自分を認識する権限を持っておらず、自分の性別を変えようとする試みは罪です。
◇創世記1:27,5:2、マタイ19:4、マルコ10:6、ヨブ記40:8、エレミヤ13:23
 


バプテスマについて

バプテスマについてくわしくご説明します。

1.バプテスマの始まり


バプテスマのヨハネ

 バプテスマのヨハネはイエスの親戚でザカリヤとエリサベツの子でした。母エリサベツはなかなか子供が出来ない女性でしたが、聖霊の預言の通り、夫ザカリヤとの間に身ごもりヨハネが誕生したのです。ヨハネという名前も、人が勝手に名付けたのではなく、神が直接「ヨハネと名付けなさい」と言われた故、その名前が付きました。このことはルカによる福音書の1章に詳しく書いてあります。
 ヨハネは神から「水でバプテスマを授けるように」(ヨハネ1:33)と使わされ、また神から委ねられた権威によって始めました。それがバプテスマの始まりです。ですから、ヨハネの前にバプテスマというものは存在していませんでした。ヨハネが自分勝手にバプテスマを始めたのではなく、神の正しい権威によって始めたということはイエス・キリストがヨハネの元にバプテスマを受けに行ったことからも明らかです。
 イエス・キリストは「全て正しいことを成就するのは、われわれにとってふさわしいことである」と言っています。もし、イエス・キリストがヨハネのバプテスマを認めなければ、このような言葉を語られるはずはありません。ヨハネのバプテスマは神の子イエス・キリストによってその有効性と正当性が正式に認められたものなのです。
 

バプテスマという言葉の意味

 まず初めに、バプテスマに対する誤解を解いておきます。バプテスマは「洗礼」という意味を持ちません。洗礼という名称は、後世になって、バプテスマの意味が歪められて付けられたものです。
 では、バプテスマという言葉の意味は何なのでしょうか。まず語源を確認しましょう。バプテスマはギリシャ語です。そして「沈める、浸す」を意味します。つまり、ある対象を水の中に沈める行為をバプテスマといわけです。バプテスマはそれ以外を意味しません。
 ですから、聖書にバプテスマとあったら、それは「沈める、浸す」という行為を表します。「沈める、浸す」という行為は、どこまで行っても「沈める、浸す」であり、それ以外は意味しないからです。これは日本語で「沈める、浸す」という言葉が「水を垂らす、振りかける」ということを意味しないのと全く同じです。バプテスマと聴いたら「洗礼」ではなく、単純に「沈め、浸す」ということをイメージしてください。

 

2.バプテスマの4条件


(1)バプテスマを施す対象

 バプテスマを施す対象を見ていきましょう。まずヨハネから考えて見ましょう。ヨハネは、「自分の罪を悔い改めた者」にバプテスマを授けていました。これがバプテスマを施す対象の大原則です。
 では、その後はどうなっていたかといいますと、これも「悔い改めた者」に授けることが原則となります。使徒行伝でペテロがバプテスマを施したのも、悔い改めた人たちへですから。よって「悔い改めた者」、すなわち罪を悔い改めて、キリストを信じた者へのバプテスマという大原則はバプテスマのヨハネ~使徒行伝~現代まで何ら変わることはありません。
代表的な聖句
〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った 。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕(使徒8:37)
「会堂司クリスポは、その家族一同と共に主を信じた。また多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた。」(使徒18:8)
他 使徒2:41、使徒8:35-38
 


(2)バプテスマの方法

 バプテスマ「沈める、浸す」の意味の通り、人を水の中に沈ませます。
   


(3)バプテスマの目的

①イエス・キリストの命令に対する従順を表すため。
 キリストもバプテスマを受けましたし、また受けるように命令されているからです。
代表的な聖句
「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:21)
 

②罪の中に生きてきた自分を葬り去り、新しい命に生きるため。
 バプテスマはキリストの死と埋葬と復活を象徴しています。つまり水の中に沈めるということは死と埋葬を意味し、水から引き上げることは復活を象徴します。よって、自分を水の中に沈めることは、古い自分を葬りさることを意味し、水から引き上げることはキリストと共に新しい命に生きることを表すのです。死・埋葬・復活を象徴的に表すため水の中に沈めるという行為が必要になるのです。
代表的な聖句 ローマ6:3-4、コロサイ2:12  
※ちなみに、旧約聖書でバプテスマを象徴しているものがあります。それはノアの箱舟時の水と、神が海を割り、モーセに率いられたイスラエルが紅海の海底を歩くという行為です。ペテロとパウロがこう説明しています。
「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」(Ⅰコリント10:1-2)
「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:21)
 

③教会に加わり、福音宣教の使命を担うため。
代表的な聖句
「 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し、」(マタイ28:19)
「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、 一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(Ⅰコリント12:13)
他、使徒行伝2:41-42
 


(4)バプテスマを行う権威

 バプテスマはイエス・キリストが建てられた新約の教会の流れを継承し、かつイエス・キリストの命令に忠実に従っている教会のみが執り行うことができます
 バプテスマを行う権威は牧師や宣教師にあるわけではありません。牧師は、教会の委任を受けた代表者として救われた者にバプテスマを施します。
 ありもしない権威を用いて、個人で勝手に施したバプテスマは無効です。(使徒行伝19章にあるアポロのバプテスマの是非について読まれるとおわかり頂けると思います。ヨハネは自分の名〔権威〕によってバプテスマを授けたのではありませんし、アポロは教会によって承認された宣教師ではありませんでした。)

代表的な聖句
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20)
  他、使徒18:24-19:7

以上(1)~(4)の4つの条件を全て満たしていなければ、たとえ浸礼を行ったとしてもその浸礼は無効です。


 以上の条件の1つでも欠けるなら、そのバプテスマは、聖書的な有効性を失います。
 従って、もし正しいバプテスマを受けていないなら、正しくバプテスマを受け直すことが正しく、聖書的です。 ◇使徒18:24-19:7

★このため、他教会の方が当教会への入会を希望される場合、もし上記の4条件を満たす聖書的なバプテスマを受けていない方は、当教会で聖書的バプテスマを受け直す(再浸礼)必要があります。
 このことは、わたしどもの教会が、聖書的なバプテスマの権威を持つ新約教会で在り続けるために必要不可欠なことです。
 これは、もし、バプテスト教会が、カトリック教会やプロテスタント教会などから、幼児洗礼、滴礼、異質浸礼の信者を再浸礼なしに会員として受け入れるなら、それらを聖書的なバプテスマであると公認することになり、自らをプロテスタント教会と同じ立場に置くことになり、ひいては、教会のバプテスマの聖書的な有効性を失うことになるためです。



3.バプテスマに関する誤解


誤解1「バプテスマは旧約聖書の割礼を意味するのでは?」

 この誤解は、簡単に解くことができます。
 まず、旧約聖書でバプテスマを象徴するものは、(割礼ではなく)ノアの箱舟時の水と、モーセとイスラエルが紅海の海底を歩いたことであるということがペテロとパウロの言葉で書かれています。再度、引用します。
「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。」(Ⅰコリント10:1-2)
「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(Ⅰペテロ3:20-21)
 では割礼は何かというと、それはバプテスマではなく、「心の割礼」すなわち「義認と新生」を意味しています。
「かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」(ローマ2:29)
※沐浴がバプテスマを象徴すると考える人もいますが、聖書著者で誰1人そういったことに言及している者はいないので、採用されるだけの説得力は持ち得ません。
   


誤解2「バプテスマは救いのために必要です。」

 この誤解を解くことも簡単です。
 ルカ23:42ー43のイエス様と強盗の会話をみれば一目瞭然です。
 「そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 もし、救いにバプテスマが必要不可欠なのであれば、この、すでに十字架にかかりバプテスマを受けることのできない強盗に対して、イエス様はこのように言われなかったでしょう。
 あるいは、この強盗だけバプテスマを受けないで救われた例外中の例外と考えた方が正しいのでしょうか?いえ、この強盗を例外と考えるのは間違えています。
 救いの原理は、旧約時代も新約時代も現代も変わりません。むろん、旧約時代は悔い改めて罪を贖うメシア到来を信じて救われ、新約時代と現代は悔い改めてメシアが来たことを信じて救われるという違いはあるものの、罪の悔い改めとキリスト(メシア)への信仰という救いに必要な原則は何ら変わることはありません。
 日本語訳の聖書には、さもバプテスマが救いに必要不可欠であるように感じさせるニュアンスの聖句がたくさんありますが、このイエス様と強盗の会話によって救いのためにバプテスマは必要ないことを理解することができます。
そもそも罪がなく救いを必要としないお方であるイエス・キリストも、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから「バプテスマ」を受けた。
全身が水の中に沈められた。


 他、詳しい神学的議論については、当教会の天利信司師が書いた「バプテスト」をご参照ください。
 (右にあるリンクボタンより、バプテスト文書刊行会の購入ページへジャンプできます。)   


主の晩餐式(ばんさんしき)について

 主の晩餐式(聖餐式とも呼ばれる)は、イエス・キリストの引き裂かれた体を記念するパンと、イエス・キリストの流された新しい契約の血を記念するための葡萄液の杯教会員が共に与る教会の制度です。
 この制度は、イエス・キリストが十字架にかけられる前夜、ユダヤ人の過越の祭りの除酵祭の第1日に教会の中に主によって創設されました。(マタイ26:17-31 ルカ22:19)ユダヤ人が、モーセの時代から守っていた過越の祭りの預言かつ象徴的な意味がキリストの十字架において成就したのです。
 次の表は、旧約時代のユダヤ人の過越の祭りと、新約時代における教会の主の晩餐式に関する共通事項、また相違点を示しています。過越の祭りと主の晩餐式の間には密接な関係があり、これらの関係を確認することで、主の晩餐式の正しいあり方を学ぶことができます。

旧約時代の過越の祭りと、新約時代の主の晩餐式の対比
過越の祭り 主の晩餐式
方法 ①1才の傷のない雄羊の血を玄関の柱とかもいに塗る
※その意味は、神がその血を見て、裁きを過越して、イスラエルの長子が救われたことを記念する。

パン種(酵母)を取り除いたパンを食べる。
パン種(酵母)は、聖書では罪や不義といった悪いものを意味しているからです。

イエス・キリストの血を記念する葡萄液に与る。
※その意味は、罪なきキリストの血によって罪を赦され、救われたことの記念。(ルカ22:19)

②キリストの体を記念するパンを食べる。
パンは必ずパン種の無いもの

参加資格 割礼を受けた者のみがこれを守る。

各家ごとに守る。食べ物などを一切家の外に持ち出してはならない。(出12:43-48)

心の割礼(新生体験)をもち、バプテスマを受けて教会員となった者のみがこれに与る。

各地方教会単位で行う。同グループの教会員であったとしても、自分の教会以外の晩餐式には参加できない。(Ⅰコリント10:16-17)
晩餐式は、神の家なる教会の定めである。

目的 ①イスラエルがエジプトの奴隷から救われた事の記念

真の救い主を待ち望む

③神の家イスラエルの内から不信仰や不義を取り除くこと。(除酵祭の意味)
※パン種の入っていないパンで祭りを行う。

罪の奴隷からキリストの血によって救われたことを記念する。(ルカ22:19)
(注意・・救いのために行うのではない。記念である)

②人々にキリストの十字架の死を告げ知らせ、再臨の主を待ち望む

自分を良く吟味し、主と血と御言によって清くされること、そして、教会の交わりを清く保つため。
(Ⅰコリント5:6-8、I コリント11:23-28)


新約教会について

新約の教会(聖書的バプテスト教会)とは何かを説明します。

1.新約の教会(聖書的バプテスト教会)を一言で表すと・・・

 新約聖書が定義する教会、すなわち新約の教会(新約教会)とは、短く述べると


「新約教会とはバプテスマを受けた教会員の地方的な集まりである(普遍的・全世界的な集合体ではない)」

です。バプテスマとは何かについてはすでに述べた通りです。ですので、聖書的バプテスマのないところには新約教会はなく、新約教会なしには聖書的バプテスマはありません。
 また、新約教会とは、バプテスマを受けた教会員の地方的集まりです。目に見える物理的な集まりです。逆に、聖書には目に見えない普遍的・全世界的な教会といったものは存在しません。
 このため、たとえインターネット上の会議システムなどで電子的・論理的に集まったとしても、新約教会とは言えません。私どもの教会でも礼拝のインターネット中継をしておりますが、これは諸事情により教会に集うことが出来ない方にも福音を提供するためであり、たとえ中継を視聴されたとしても新約教会に集ったことにはなりません。

2.バプテストは、他の教会と同じと考えていいのだろうか?

 新約聖書は、はじめに神なるイエス・キリストがお建てになったものであり、その意味で特別な存在です。この世には、教会と名の付く人間が建てた組織体も数多く存在しますが、神が創始者である新約教会と、人が創始者である教会とは異なるものです。特に以下の点で異なり、新約教会が優ります。


①キリストが創立された教会は、人間が創立した教会に優る。
②聖書の真理を教える教会は、誤りを教える教会に優る。
③真理全部を教える教会は、その一部の真理しか教えない教会に優る。
④主とキリストに栄光を帰する教会は、人間に栄光を帰する教会に優る。
⑤すべてのことにおいて主に権威を認め、主とその御言葉に従順に従う教会は、人間の権威や伝統に従う教会に優る。


3.新約教会をより詳しく定義すると・・・

 新約教会をより詳しく定義すると、以下のようになります。


「新約の教会とは、福音宣教によって、主イエス・キリストを個人的な救い主と信じて救われた信者が聖書的なバプテスマを施され、教会の頭であるキリストの聖旨を遂行するためにこの世から呼び出され、主イエス・キリストにあって一体とされた聖徒たちの地方的会衆である。」

 この定義で特に重要な点は以下の2つです。
①キリストにより集められ一体とされた聖徒たちの地方的会衆
 新約聖書は元々は古代ギリシャ語で書かれています。日本語の新約聖書で「教会」と訳されている言葉は、古代ギリシャ語ではΕκκλησια(エクレシア)と言い、その意味は「呼び集められた会衆。集まり。」です。新約教会であるには、教会の頭であるキリストによってこの世から呼び集められた聖徒たちの目に見える集まりでなければなりません。また、教会とは集まりを指すのであって、教会堂(建物)が教会ではありません。
 また、新約教会は目に見える集まりですので、私たちは、他の教派の一部で教えられているような普遍的な目に見えない教会観を持ちません
 また、教会の頭はイエス・キリストのみです。キリストは聖霊を通して牧師を立てられますので、新約教会は自教会の牧師の指導を仰ぎますが、それ以外の団体・個人の影響下・支配下にはいません。このため、わたしたちは、他教派で見られる「教派あるいは教団」といった教会の上に立つ組織を認めませんし、「教派や教団、教会の集まりを教会と見なす」こともしません。
 また、教会は、イエス・キリストが建てられた、特別な組織です。後で触れますが、イエス様はマタイ28章19-20節にある大宣教命令(全世界宣教、バプテスマ、イエス様の教えの保守)を教会に命じました。わたしたちはこの大宣教命令に従って、新約教会の働きを続けています。他教派の一部では教会を持たず認めない「無教会主義」を掲げるグループもありますが、わたしたちは主イエスの命令を忠実に守る「新約教会」を保守します。

②主イエス・キリストを個人的な救い主と信じて救われて、聖書的なバプテスマを受けた人々の集まり
 教会員はすべて、イエス・キリストを個人的に自分の救い主だと信じた後、バプテスマを受けた人でなければなりません。
 ですので、バプテスマを受ける前に、イエスを信じ救われていなければなりません。そもそも、人が救われるのはイエス・キリストを信じる事のみによるのであり、他に必要なことはありません。残念ながら、カトリックをはじめ他の多くの教会では、人が救われる条件にバプテスマ(洗礼)を加えたり、逆に幼児など未信仰者に対して洗礼を施して教会に加えるために、信仰に関係なく洗礼を受ければクリスチャンだと考えたりしますが、これは誤りです。
 そして、教会員となるには、イエスを信じた信仰者が、聖書的なバプテスマ受ける必要があります。聖書的なバプテスマ無くして新約教会はありません。聖書的なバプテスマは、主から与えられたバプテスマを授ける権威をもつ新約教会のみが実施可能です。このため、大宣教命令に背き信仰者(イエスの弟子)でない者にバプテスマ(幼児洗礼など)を施す教会や、そもそも教会の権威がわからない教会は、すでに主イエスが教会にあたえた権威(マタイ28章18節)を失っており、聖書的バプテスマを施すことは不可能です。


4.新約教会の起源と永続性


新約教会は、イエス・キリストが十字架で死なれる以前、公生涯(公に宣教活動を開始された以降の生涯)のはじめに、ヨルダンの向こうのベタニヤで設立されました。(ヨハネ1章28節)

 教会は、主イエスによって呼び集められた、バプテスマを受けた聖徒たちの会衆です。イエス様ご自身、父から権威を授かったバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、次いで、すでにバプテスマを受けていた弟子たちに対して「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4章18節)、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」(ヨハネ1章39節)、「わたしに従ってきなさい」(ヨハネ1章43節)と呼び掛けて、弟子たちを集められました。すなわち新約教会の誕生です。
 このことは、ヨルダン向こうのベタニヤ(ヨハネ1章28節)付近でのできごとです。
 キリスト教界では一般に、エルサレムで起こったペンテコステの日の出来事が教会の起源だと教えられていますが、これは不正確です。使徒行伝2章にペンテコステ(五旬節)の日に、すでにあった教会(会衆)に聖霊が降り、3000人ほどが教会に加わった(新設ではなく加入)ことが記されています。この出来事は、教会が新設されたのではなく、すでにあった教会が、イエス様が直接主導される(このときはすでに天に昇られ、地上には不在だった)教会から、イエス様が聖霊を介して主導される教会(現在の教会の形態)へと変わり、全世界宣教の力が与えられたことを示しています。これによって、1つしかなかった新約教会が、その後全世界に建てられてゆくようになりました。

 なお、キリスト教界(おもにプロテスタント)では、バプテスト教会はプロテスタントの一派であって17世紀頃にイングランドで始まったとされていますが、これは「プロテスタント・バプテスト」の起源であり、ヨルダン向こうのベタニヤで始まった初代教会に起源を持つわたしどものバプテスト教会とは異なるものです。
 私どもの教会は、その歴史において、カトリック教会およびそこから派生したプロテスタント教会と一切の接点を持っていません。


新約教会は、永続します。(マタイ16章18節)

 マタイ16章18節で、「そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」とイエス様が語られています。主イエス・キリストが建てられた新約教会は、地上から絶滅することはありません。これは神なるイエス・キリストの約束ですので、絶対不変の真理です。
 ということは、イエス様が建てられた初代教会の教えや権威をそのまま受け継ぐ新約教会が、現在もどこかに必ず存在するということです。
 わたしどもの我孫子バプテスト教会も、この新約教会によって建てられ、初代教会の教えや権威をそのまま受け継いでいます。(くわしくは、後述の「バプテストの歴史」「我孫子バプテスト教会の歴史」をお読みください。)


5.新約教会の目的・使命

 イエス・キリストは、新約教会に目的・使命を与えています。それはマタイ28章19-20節の大宣教命令です。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
 この大宣教命令は、3つの部分から成っています。


①世界への福音宣教
②悔い改めてキリストを信じた者へバプテスマを施すこと
③真理の保守と教育

 この3点が、主イエス・キリストが教会を建設した目的であり、使命です。
 ですので、わたしどもの教会の使命は、全世界へ福音を伝えるだけではなく、バプテスマを施し新約教会を建てること、そして、イエス様の命じた一切の教えを守るよう教えることです。これらの使命を教会という組織でチームワークで行います。


6.新約教会の性格

 聖書の中で、新約教会の性格、位置づけ、特徴がいくつか描かれています。その中の大きなもの6つを紹介します。

①真理の柱、真理の基礎
②キリストのこの地上での代理機関
③キリストの体
④キリストの花嫁
⑤神の国のキリストと共なる統治体
⑥キリスト者の霊的家庭、キリストの愛による交わり、教育と訓練の場

上記①~⑥について説明します。


①真理の柱、真理の基礎


(テモテへの第一の手紙3章15節)
万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。
 真理とは、イエス・キリストそのものです(ヨハネ14章6節)。新約教会とは、地上において真理なるイエス・キリストを上に掲げる柱であり、神の言葉なるイエスの教えを伝える土台・基礎です。
 ですので、新約教会は、時が良くても悪くてもイエス・キリストを掲げて宣べ伝え、イエスの教えを曲げることなく教え続けます。


②キリストのこの地上での代理機関


(マタイ28章18-20節)
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
 この大宣教命令は、イエス様が教会に対して与えた命令です。そしてこの命令は、イエス様が父なる神から授けられた権威のもとに命じられました。
 ですので、新約教会は、与えられたキリストの権威をもって、イエス・キリストに代わって大宣教命令を実行します。


③キリストの体


(ローマ12章5節)
わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
(エペソ1章23節)
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
他の代表聖句:第1コリント12章12-28節、エペソ1章21-23節
 教会の会員は、それぞれ異なる賜物を持っています。教会員は互いの賜物を生かして互いに助け合い補い合い、共に悩み、共に喜び、調和して、1つのキリストの体なる教会として働きます。


④キリストの花嫁


(エペソ5章26-27節)
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
他の代表聖句:エペソ5章22-32節、黙示録19章7-9節、黙示録21章1-2,9-14節
 今、天におられるイエス・キリストは、将来再びわたしたちが住んでいる地に来られることを、聖書は約束しています。これを再臨と言います。そのとき、イエス・キリストは新約教会をご自身の花嫁として迎えらえると約束しています。イエス様が花嫁として迎えられるのは、しみも傷もない教会、すなわちイエス様の教えに忠実な教会です。わたしたちも、聖書にあるイエス様の教えに忠実であり続けます。
 イエス様はキリスト者個人に対する教えのほか、教会に対する命令を与えています。イエス様が教会に対して明らかに命じられたことが、大宣教命令(マタイ28章19-20節。全世界宣教、バプテスマの教理、真理の保守・教育)と、主の晩餐式(ルカ22章19節,第1コリント11章24-26節)です。
 新約教会として、わたしどもの教会はバプテスマの教理を含む大宣教命令と主の晩餐式の教え・教理を守り続けます。


⑤神の国のキリストと共なる統治体


(黙示録20章4-6節)
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていたそして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
 イエスを証し、歴史上カトリック・プロテスタント教会などから数々の迫害を受け、この世の支配者や偶像を礼拝せずこれらに与しなかった者、それはすなわち汚れのない新約教会です。そして、イエス様のご再臨のときに新約教会はイエス様の花嫁となり、その後に続く千年王国の時代に主イエスと共に支配します。


⑥キリスト者の霊的家庭、キリストの愛による交わり、教育と訓練の場


(エペソ2章19-22節)
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。
 聖書は、教会は神の家であり、その会員は神の家族であると表現しています。教会員は同じ霊的家族の構成員として交わりを持ち、教会で真理なる御言葉を学び、信仰訓練を受け、神のすまいへの成長していきます。

7.教会の2つの職と2つの定め

 聖書において、教会の職として定められているものは、


牧師(長老、監督)職と、執事職

です。
①牧師(長老、監督)職について
 牧師、長老、監督という語は、実は同じ役職です。使徒行伝20章17および28節と、第1ペテロ5章1-2節で、長老たちに神の羊の群れを牧する(牧師)ように命じられています。また、使徒行伝20章17および28節と、テトス1章5-9節で、長老たちを監督者として立てたと書かれていたり、町々に立てる長老を監督たるものと呼んだりしています。よって、牧師=長老=監督と解釈できます。
 そして、第1テモテ3章2-7節には、牧師(長老、監督)職の条件が書かれています。さまざまな条件があり、良い人間性など「どのくらい良ければよいのか、その線引きがあいまい」な条件が多いです。
 ただし、これらの条件の中で線引きがはっきりしている条件が1つあります。それは、監督はひとりの妻の夫であるということ、つまり、牧師は既婚の男性でなければならないということです。
 これは、聖書の定め、つまり神様が定められたことですので、人間には変えられませんし、曲げてはいけません。
②執事職について
 執事職とは、「牧師が祈と御言のご用に専念できるように、教会内の諸問題の解決を図る」役職です。わたしどもは、使徒行伝6章1-7節が、執事を選出する場面であると解釈しています。
 また、執事職の条件が、第1テモテ3章8-13節に書かれています。その中には、牧師(長老、監督)職と同様に、執事はひとりの妻の夫である、つまり、牧師は既婚の男性でなければならないという条件があります。
 これも、聖書の定め、つまり神様が定められたことですので、人間には変えられませんし、曲げてはいけません。

 また、教会には、イエス様から守るように命じられている2つの定め、礼典があります。それが、


バプテスマと、主の晩餐式

です。詳しくは既述の「バプテスマについて」「主の晩餐式について」をお読みください。
 これらの礼典は、方法や対象者などが明確であり、主が命じられたとおりに守ることが出来るものです。わたしどもはイエス・キリストに従順な教会でありたい、イエス様に喜ばれる教会でありたいと願い、これら2つ礼典の教えを忠実に守ります。

8.新約教会に加わることの祝福と、神の国と神の都の違いについて

 現実には、イエス・キリストを救い主として個人的に信じたのだけれども、新約教会に加わっていない人や、教会から離れてしまっている人がいらっしゃいます。
 人は一度イエス・キリストを信じたなら、その救いは決して失われません。仮に、その人が教会に加わらなかったとしても、堕落し信仰生活から離れてしまったとしても、罪ゆるされ、すなわち神のに入ることが出来ます。
 なぜなら、イエスを信じて与えられる命は、永遠の命(ヨハネ3章16節)だからです。神様の言う永遠は、無条件に永遠です。人間の行いによって変化するようなものではありません。
 では、人がイエスを信じた後、教会に加わるのと加わらないのとでは、何が違うのでしょうか?


 新約教会に加わるのと加わらないのとでは、大きな違いがあります。

 新約教会に加わるならば、「6.新約教会の性格」で述べた以下の新約教会の特徴、その恩恵を受けます。
①真理の柱、真理の基礎
②キリストのこの地上での代理機関
③キリストの体
④キリストの花嫁
⑤神の国のキリストと共なる統治体
⑥キリスト者の霊的家庭、キリストの愛による交わり、教育と訓練の場
 地上においては、揺らぐことのない真理・価値観に立つことができること(①による)や、信仰者としての成長が促される(⑥による)といった恩恵を受けるでしょう。
 それだけでなく、将来、イエス・キリストの花嫁として主と一体となり、イエス様から最も大切にされる存在となります。

 このことを理解する上で、「神の国(天国)」と「神の都(新しいエルサレム)」の違いを理解する必要があります。この理解がないと、神の国と神の都を混同し、無理な聖書解釈につながってしまいます。


「神の国(天国)」と「神の都(新しいエルサレム)」の違い

【神の国(天国)とは】
 国(国家)とは、主権(統治者)・国民・領域の三要素をもつ存在です。
 ですので、神の国(天国)も、これらの三要素を持ちます。
 神の国(天国)の
 主権(統治者)=イエス・キリスト
 国民=イエスを信じた信仰者(ヨハネ3章3,5節)です。
 領域については、
 現在は、領域=信仰者の心(ルカ17章21節)
 イエス様ご再臨直後から1000年間は、領域=全地(黙示録20章4-6節)
 さらにその後は、領域=新天新地(黙示録21章1-7節)
です。
 ここでポイントになるのは、神の国の国民は、イエスを信じた人である、ということです。バプテスマを受けているか、教会に加わっているかに関わらず、イエスを信じた人は神の国に入ることが出来ます。
 なお、聖書の記述に基づくと、神の国・天国は、万民平等な国ではありません!大いなる者と小さき者が存在する国(マタイ5章19節)です。

【神の都(新しいエルサレム)とは】
 都(首都)は、国家の中枢である都市であり、通常は中央政府が置かれている都市です。
 そして、神の国の首都、すなわち神の都は、聖書で「新しいエルサレム」「聖都エルサレム」とも称されます。
 その正体はイエス・キリストの花嫁となる新約教会です。(黙示録21章9-10節)
 新約教会の会員は、やがてキリストと一体となり、神の都に住み、神の都で主イエスとともに神の国を統治します。
 教会に加わっていない信仰者は、神の都の外からやってきて神の都に詣でることはできますが、神の都の住民ではありません。(黙示録21章22-27節)


  新約教会に加わるのと加わらないのとでは、神の都でイエス・キリストと一体となり栄光の主と共に住むか、神の都の外にいて主イエスとある程度離れて住むかという違いが生じます。

歴史

 バプテスマのヨハネから始まる「バプテストの歴史」と、そのバプテストの歴史に連なる「当教会の歴史」をご紹介します。

バプテストの歴史

 バプテストの歴史、それはすなわち新約教会の歴史です。新約教会がどのように建設され、どのように世界に広まっていったのかをご説明します。

1.教会建設の準備期

 教会の起源をお話する前に、教会建設の準備段階について確認しましょう。神様はまず教会建設の準備としてバプテスマのヨハネ(以下ヨハネ)を使わしました。ヨハネは悔い改めた人々に浸礼を施し、弟子としていました。彼は教会の礼典である浸礼と、悔い改めて浸礼を受けた人々、つまり教会員となるべき人々を用意しました。

2.教会建設

(1)イエス・キリストの公生涯中・・・キリスト主導の教会運営
 悔い改め浸礼を受け、ヨハネの弟子となった人々は、ベタニアに現れたイエス様と出会い、ヨハネからイエス様の紹介を受け、イエス様と交流をもつようになります。この出来事は「ヨハネによる福音書」の1章に記録されています。そして、このヨハネの弟子達がイエス様の招きに応えて集ったその瞬間こそ教会が建設された瞬間でもありました。
 教会とは「エクレシア」を語源にしています。エクレシアとは「呼び集められた会衆」を意味します。より細かなニュアンスを加えて意味を説明するならこうなります。「ある一定の資格を有する者が、ある使命を果たすために呼び集められて構成する会衆」を意味しています。すなわち、「ある一定の資格」とは、悔い改めてキリストを信じ、正しい浸礼を受けていることであり、「果たすべき使命」とは福音宣教を指しているわけです。ですから、バプテスマが存在していない前には教会は存在しなかったということは明らかになると思います。
 ここで1つの質問が提出されると思います。「この岩に私の教会を建てよう」というマタイ16章18節~19節の御言をどう考えるのかと。これは簡単です。ヨハネ1章ではヨハネの弟子達がイエス様の元に集ったとき形として教会はすでに構成されていたものの、それはまだ「教会」と公に宣言されていなかっただけのことです。そしてイエス様はマタイ16章18節~19節で初めて公に宣言されたわけです。そこから正式に公開された形で教会の運営が進められることになりました。これがエルサレム教会が名実ともに公になったということです。
 このエルサレム教会は、一時、危機的状況を迎えますそれは、イエスがユダヤ人議会に捕らえられ十字架に架けられて死に、3日目に復活し弟子達の前に現れるまでの約1週間の間です。しかし、復活したイエス・キリストがマグダラのマリアを初め、女性の弟子達、11使徒、他の弟子たちに現れたとき、教会が再び動き出します。それから、イエス・キリストはマタイ28章18節~20節の有名な「大宣教命令」を教会に委ねました。また、最後の晩餐にあるように、十字架にかけられる前、イエス・キリストは12使徒を集めて晩餐を持ちました。ここに、十字架を記念する「主の晩餐式(聖餐式ともいいます。)」と呼ばれる礼典が定められました。
 イエス・キリストの公生涯中に大宣教命令、バプテスマ、主の晩餐式という教会の基礎ができあがったのです。そして、教会はキリストから委ねられた権威によってこれら一切を管理し、行うようになったのです。
(2)キリスト昇天後・・・聖霊主導の教会運営
 40日にわたって、弟子達に現れたイエス・キリストは新しい助け主を使わすという約束を再度確認し、オリブ山で昇天されました。そして、昇天から10日後(その時期はちょうど五旬節という日に当たりました)、弟子達が集まっているところに突然激しい風が吹いてきたような音が天から起こって、集っていた家に響き渡りました。また舌のようなものが炎のように分かれて現れ、一人一人の上に留まるという現象が起きます。これらの経緯は使徒行伝1章から2章に詳しく書いてあります。この出来事は「聖霊のバプテスマ」と言われ、これまでキリスト主導の教会運営が聖霊に代わったことを指しています。
 さて、それから、エルサレム教会はイスラエルの中で伝道活動をしていくわけですが、なかなか異邦人伝道に向かう動きがありませんでした。つまり、イエス・キリストの大宣教命令に従順ではなかったわけです。神様は、このような頑なな心の教会を、エルサレム教会の大迫害という手段を持って各地に散らし、強制的に異邦人伝道への道をお開きになりました。この経過は使徒行伝を読むとよく分かります。
 大迫害の後、ユダヤ全土に福音が伝えられ、後に回心したサウロことパウロ、またシラス(シルワノ)、テモテ、バルナバによってローマ帝国中に宣教が広まり、異邦人伝道が飛躍的に進められて行くことになるのです。
(3)使徒時代以後~現代
 使徒時代の後も教会は増えました。規模の大小を問わず各教会は、自治独立かつ国家と分離した体制を維持していました。ネロの迫害などもありましたが、クリスチャンは増えていきました。その後、テオドシウス帝によって国教と認められることになります。しかし、この「国教化」が教会を腐敗させる元凶となり、また教会を二分することになりました。
 国教化の話が教会にもちかけられたとき、国家と教会の分離を主張していた教会は、国教化を望む教会と袂を分かちました。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という聖書の言葉に従順であろうとしたからです。また、聖書の信仰というものは、国家からの強制によってなさせれるものではないという大原則をわきまえていたからです。信仰はその人個人とキリストとの関係においてのみ生まれるのです。国教会化は、法律という強制、さらにそれは紀元416年に法律化された幼児洗礼によって、救われていない者を教会に所属させるという悪弊を生み出しました。その結果、救われていない教職者が多数誕生し、教会の大堕落が起こってしまいました。今、多くの教会にキリスト像やマリヤ像、イコンなどへの偶像へ礼拝が捧げられているのは良い例です。
 この時に、国教化に反対した教会は、国教会化した教会によって迫害され、歴史の表舞台からは姿を消しました。そして、国教会化した誤った教会の歴史が「キリスト教の正当な歴史」として、記録されていくことになってしまったのです。国教となるのを潔しとしなかった教会は、歴史の影の中で苦しい時代を過ごさねばなりませんでした。多くの歴史書はこの国教化に対する批判精神が足りません。さも全ての教会が国教に賛同したかのような書き方は間違えです。 (注・・・国教化に反対した全ての教会が正しい教会であったかどうかは別の話です。中にはとんでもない教会もあったでしょうから。ここではそういう教会ではなく聖書に忠実であろうとするががゆえに国教化や幼児洗礼の法制化に反対した聖書的な教会を対象にお話をしています。)
 この国教化に反対し、迫害された人々はさまざまな名前で呼ばれました。ノヴァチアヌス派、モンタヌス派、ドナチスト派、パウロ派、ワルド派、アナ・バプテスト、カタ・バプテストと呼ばれるようになり、最終的にバプテストとなりました。これが、現代のバプテスト派です。
 もともとバプテストは教派を指すのではなく、国教会派や幼児洗礼を認める教会側が自分たちの権力に従わない聖書的な教会に付けた蔑称です。しかし、いつしかそれは聖書を愛し、聖書の御言を忠実に守ろうとする教会を指す名称ともなったのです。バプテスト教会は数々の迫害に耐え抜き、エルサレム教会~異邦人教会の流れを今に伝える教会なのです。
 しかし、残念ながら、多くのバプテストは1900年にわたり守り続けてきた正しい聖書の教えを放棄し、堕落していってしましました。現代においては、バプテストであっても聖書を忠実に教える教会は少なくなる一方です。これからの時代、黙示録にあるように聖書から離れていく教会はバプテストのみならず、世界規模で増え続けるでしょう。※余談になりますが、「あなたはペテロである。私はこの岩の上に・・・」というところがよく議論になります。ペテロは岩を意味します。ですから、言葉の流れ上「教会はペテロの上に建てられた」と考えてしまいがちです。しかし、岩は岩でも語源までさかのぼると意味が大きく異なることに気づきます。「ペテロ」の語源は「ペトロス」といい「小岩」を意味します。そして「この岩に」の岩の語源は「ペトラ」といい、意味は「土台となる大きな岩」を指します。そして2つは全く異なるものです。それは「小岩」と「土台の岩」という日本語の意味からも明確です。よって、「教会がペテロの上に建てられた」という説は意味を失います。
  ちなみにこのペトラ(土台岩)とはイエス・キリストを指しています。例えばコリント人への第1の手紙3章10節から11節お読み頂ければより明確になると思います。
「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」(1コリント3:10-11)

参考文献:
 「バプテスト」天利信司著 バプテスト文書刊行会
 「バプテスト教会史」 ジョン・T・クリスチャン著 天利信司訳 バプテスト文書刊行会
 「バプテスマ」 天利信司著 バプテスト文書刊行会

聖書の預言は必ず成就します

 キリストが再び人の目に見える形で戻ってくるという預言が、新約聖書だけでも60回以上も書かれています。
「見よ、彼(キリスト)は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」ヨハネの黙示録1章7節

  

我孫子バプテスト教会の歴史

我孫子バプテスト教会の歴史(略歴)をご紹介します。

1.開拓期(教会組織以前)

1972年 新契約バプテスト教会(横浜市中区本牧町)から、天利信司宣教師が我孫子市へ派遣され、我孫子市並木の自宅で集会をはじめる。
1973年 集会所を我孫子市下ヶ戸に移す。
1974年 集会所を我孫子市東我孫子に移す。伝道活動の一環として「サムエル幼児園」を開設。
1980年に独立した教会となるため教会組織を行うことを決議。
1979年 集会所を我孫子市東我孫子に移す。伝道活動の一環として「サムエル幼児園」を開設。
キリスト教ラジオ番組「希望の灯」を茨城放送で開始する。(その後短波放送も開始。中波での放送は2011年まで、短波での放送は2016年まで継続した。)

2.教会組織後~2022年6月現在

1980年 母教会である新契約バプテスト教会からの承認を受け、我孫子バプテスト教会を組織した(9月23日)。初代牧師:天利信司師。
1981年 教会堂建設着工・完成。これに伴い、サムエル幼児園を閉園。
宗教法人格を取得。
1982年 キリスト教霊園「ラザロ霊園」の開設を教会で決議する。(その後、1983年に認可、1984年第一期工事完成。その後造成を繰り返し現在に至る。)
1989年 下館市にて、我孫子バプテスト教会伝道所「下館バプテスト聖書集会」を始める。(後にシオン・バプテスト教会(伝道所)となり、現在に至る。)
1991年 フィリピンでのピナツボ火山噴火による被災者支援活動を行う。(このことを契機として、当教会はフィリピン宣教に注力し、現在に至る。)
宮崎市で伝道所「宮崎バプテスト伝道所」を開所する(後に閉鎖するも、この伝道所から伝道者が起こり宮崎県綾町で集会が始まり、さらにその後、現在の綾バプテスト教会となる。)。
1992年 東埼玉地区で家庭集会を始める。(その後、埼玉県栗橋市で伝道所を開設し、さらにその後、現在の東埼玉バプテスト教会となる。)
1993年 「日本宣教バプテスト神学校」が、我孫子バプテスト教会教育館を校舎に開校し、現在に至る。
2003年 ウェストクロセット宣教バプテスト教会のつくば伝道所(茨城県牛久市)が、我孫子バプテスト教会に移管された。(後にエターナルライフ・バプテスト教会(伝道所)となり、現在に至る。)
2011年 千葉市内にて「聖書を学ぶ会 千葉集会」を開始する。その後2023年2月に閉会した。
2021年 (3月21日)天利信司師が牧師を退役されて巡回宣教師となる。後任の第二代牧師に、天利信勝師が就任し、現在に至る。