開局までの推移
寿都町は左図の通りテレビ電波が直接届くには障害の多い地区であり、昔からテレビ電波だけでなくラジオ放送も届きにくい難視聴地域であったため、近くの山に共同アンテナを建てて各戸にテレビを配信して観ていました。当時は真空管式増幅器(約20kg)を何カ所も設置し、電圧が降下しないよう途中で電圧安定器も併設していた。冬期間は何度も雪崩があり、その度に「かんじき」を履いて山を登り雪に埋まった機器を掘り起こして修理をした事があった。その後、隣町の黒松内町に中継所が設置され、さらに寿都町(蘭越町と寿都町の間)に中継所が設置されたため、個別にアンテナを建てて見られる状況になったが、本町は海岸線にあるため塩害の腐食促進、名物の強風や雪による折損、カラス等による鳥害でアンテナの寿命が極端に短い(早い時で3年程度)という環境下にあります。(札幌で建てているようなアンテナの施工では半分の寿命になるかも?)
さらに地元の行事等を長年放送している自主放送「テレビすっつ」(コミュニティチャンネル)はたくさんの町民の支持をいただき、現在でも寿都本町は引き続きケーブルテレビで視聴していただいています。
◎当局は昭和37年(1962年)に山の手地区テレビ共同受信施設組合として設立。
将来的に、この施設を使い、スタジオからカメラの映像をそのまま放送したいと考えておりましたが、当時は撮影機材も高価な(ビデオもない時代だった)ため不可能でした。
その後、撮影機材が一般に購入できる価格まで下がる(当時で50万円位、今なら150万円位?)
◎昭和52年から足かけ3年を経て北海道電波監理局より個人局として北海道で初めて許可を受ける。
◎昭和53年(1978年)初めてカラーカメラ(ビジコン管式)とVHSビデオデッキを購入。ビデオ収録開始する。経費がかけられないためVHSテープで保存。VHSテープは当時5000円と高価だったため一部は放送後消去して使っていた(今なら絶対あり得ないが)
※歴代の機材を「撮影機材」のコーナーで紹介しています。
◎昭和54年(1979年)1月8日より自主放送開始(第1チャンネル)。倉庫の一部に機材を置いて放送する。
◎昭和55年(1980年)専用スタジオ完成。番組プログラム表(25日間分)発行開始。
◎昭和56年(1981年)ビデオ自動送出装置を自前で製作する(設計から製作まで1年かかる)。これにより3台のビデオを駆使して連続6本のビデオテープを定時から送り出しすることが可能になる。(現在もそのまま稼働中。すでに25年以上経過し次世代機の製作が急務となっているが、他の事でいっぱいなのとコンピュータプログラムよりリレーを使ったアナログ知識しか駆使できない)
◎昭和57年(1982年)2台撮影用リモートスイッチャーを自作。カメラ2台でメインカメラがVTR・音声担当し、サブカメラにスイッチャー機能を割り当て、2人で5役で撮影が可能に。(電源・インカム・VTRリモート等の機能も備え、現在も原理は変えずに使用している)
◎平成4年CS放送受信アンテナ設置(スカイAのテスト放送受信)
◎同年7月放送スタジオ拡張工事。
◎平成9年7月スタジオ拡充工事完了。併設されていた土蔵を改築し、アンテナ受信タワーを屋上に設置。
◎平成15年、収録テープがすでにDVになっていたことによりノンリニア編集を開始。記録はSVHSで収録して保存。
◎平成16年、もう一つの共聴施設の「寿都町テレビ共同受信」を合併し届出施設から許可施設に変更となる。
◎平成18年6月1日電波の日情報通信月間記念式典において当社、(株)田中電機商会が北海道総合通信局長から情報通信の発展に貢献したという事で表彰状をいただきました。内容は「長年にわたり、寿都町内において自主放送を重視した有線テレビジョン放送を運営し、情報発信基地として地域の住民生活の向上と情報化の推進に多大な貢献をされました」
◎平成21年、当地でのNHK・民放がデジタル放送が予定される中、当局もデジタル化するために、まず最初にNHK・民放の再送信のためミッドバンド伝送(3と4チャンネルの間)できるように施設を改修する。
◎平成22年2月、NHK及び民放の地デジ再送信の改修完了。寿都中継所から受信しミッドバンドC14〜C20で配信。
なお自主放送含む残り3チャンネルはデジタル放送化には当局には莫大な(権利保護スクランブル500万円+デジタル変調器一式500万円)設備投資が必要なため、具体的な設備計画を策定。当分アナログ放送で継続。
◎平成23年 従来のアナログテレビで視聴できるようにする「デジアナ変換装置」の設置は断念、地上アナログ放送を7月24日で終了し、地デジテレビ・チューナーが一台もない世帯に当施設から地デジチューナーを無償貸与する方針に変更する。その他の加入世帯にはチューナーの有料リースも行う(台数制限)
※十勝管内池田町営有線テレビ(昭和48年開局、平成23年3月31日廃止)が終了した事によって、当有線テレビ(自主放送)が道内で最も古い施設となった。
◎平成24年 自主放送「テレビすっつ放送」デジタル放送開始 10月より試験放送を行なう。さらに同時に第2コミチャン(自主放送)も申請して、寿都お天気カメラを24時間放送。
第1コミチャン(自主放送)はハイビジョン編集環境が整っていないためハイビジョンではなくアナログS−VHSデッキからSD(3:4)サイズで放送。
◎平成25年 自主放送の放送をハイビジョンで送れるようになる。
技術的な話:ブルーレイプレーヤーのHDMI出力をOFDM変調器(デジタル放送変調器)に直接入力するとデジタルコピーガードのせいで出力されない掟があるため、プレーヤーのアナログハイビジョン出力からアナログ−HD,SDIの変換器に通せば出力できる事が判明、ディスク(ブルーレイ・DVD)で送り出し可能となった。過去のVHS放送テープはDVDに録画してから送出するが前記の方法だと画面が2分割されるため(原因不明)ブルーレイに焼いて再生している。設備する予算がないのでブルーレイプレーヤーをタイマーで起動するため、1番組しか自動的に放送しかできない。
さらに第2コミチャンの第2放送に寿都町のwebカメラ3台を同時に見られるようにパソコンでマルチ画面にして放送。
◎平成28年 道の駅みなとま〜れ寿都の海側にカメラを設置したのでweb伝送して放送中。(予算がないため画面キャプチャ機器を使ってSDサイズで放送しているため、時々伝送状態が悪くなると画面が停止している事がある)
放送時間は毎日午後7時より1〜2時間、内容は寿都町内の行事をはじめ、近隣町村のイベント等を放送。あくまで記録ビデオとして放送しているため、ナレーション等は入れていない。(今後も入れる予定はないし、アナウンサーも雇えないので)
地元の町議会議員選挙等の場合、スタジオから生放送で選挙速報も行っています。(当然、視聴率は限りなく100%!?)
当初はプロのアナウンサーを呼び町民もゲストに呼んでいたが、終了後に一部の人からゲストに心ない批評がされたため町民が出演を拒否したため、アナウンサーのみの出演となり、近年ではデジタル化の費用をかけたため予算もないため取材映像とパソコンの切り換えで放送を行っている。
昭和54年頃より、HBC北海道放送の報道カメラマンとしても撮影取材しています。おもに周辺町村の事件、事故の取材で、一例として、積丹半島の豊浜トンネル崩落事故の際、報道TVカメラマンとして1番早くトンネル内(古平側突き出し部分:発破をかけた側、まだ警察の規制線が張られる前だったので自由に出入りできた)に到着し、映像を放送局に提供しています。現在まで500本以上撮影。
当局の様子は地元のマスコミ(北海道の全テレビ局、新聞各社)に紹介されておりますが、平成になってからの主な番組を紹介すると
なお、昭和ではあるがかなり昔にUHBの「おもしろザウルス」という番組でも十勝管内池田町と寿都町を合わせて取材し北海道で古いケーブルテレビ局の1.2として紹介された事もありました。
平成6年3月には、「日本一小さい放送局」として、関西のABC放送の「クイズ紳助くん」(司会島田紳助、当時アシスタント藤原紀香)でジミー大西がレポーターとして訪れ、クイズに出題されました。(まだ全国放送されてなく関西方面だけの頃でした)
平成20年9月 HTB「ハナタレナックス」で戸次重幸氏が来町し、当局を含め2週にわたり紹介されました。
平成21年2月 NTV 所ジョージの「笑ってコラえて」ダーツの旅のコーナー(寿都町)に一部紹介されました。
平成22年2月 NHK BS−2の「CATVネットワーク〜すばらしき私の街〜」で当局が取材され放送されました
平成26年7月 NTV 月曜から夜ふかし(関ジャニ∞村上&マツコデラックス)で「思わず応援したくなる人達」という中で放送されました。
平成28年8月 北海道新聞全道版に3回シリーズ連載。「たった一人のケーブルテレビ局」と題して、8月16、17、18日の「発信」というコーナーに連載される。
平成28年12月25日 北海道放送HBCラジオの番組「ほっかいどう元気びと」30分番組に出演する。28年最初のゲストがファイターズ栗山監督で、28年最後のゲストとして呼ばれ、番組開始からちょうど300人目(重複も含め延べ)という節目の記念の回に出演させていただきました。
※放送内容は「HBCラジオ」→土日番組「ほっかいどう元気びと」→「バックナンバー2016」→「12月」→「25」とクリックすれば録音を聴くことができます。
「村井裕子のインタビュー後記」もご覧いただくと放送内容をもっと詳しく知ることができます。