「自立にむけて」 

  


 

1998年4月1日 

  総合のノートを見直す

 昨日までは、外出する用事が色々とありましたので、学校関係の事は全くと言って良い

ほどできませんでした。でも、今日は朝からひまだったので、お母さんに頼んで総合のノ

ートをズラッと読んでもらいました。

 僕が1番興味があった世界の国々を拡大読書機で見てみました。しかし、総合のプリン

トがノートの立て向きに張ってあったのでとても読みにくかったです。でも、右手を使っ

てノートの落ちている所をあげまして読もうと努力しました。でも、右手の努力も空しく

ノートは右へ右へ傾きながら落ちて行くのです。そんなこ事を2度3度繰り返しました。

これはいかんなと思いまして、やめました。でも、総合のプリントを見直してみると、そ

の時の友達の発言や行動が目に浮かんできました。

 いよいよ、高等部最高学年です。心を引き締めて、授業や行事に取り組みたいです。

と、書いても半分以上はできないと思います。

 

1998年4月2日 

  Ty先生の診察を受けに

 4月から、希望が丘の僕の担当の先生がAt先生からTy先生に変わったので、「新学

期からも希望が丘で訓練を受けさせてもらえるように。」と言うような事を頼みに、Ty

先生の診察を受けに行きました。

 Ty先生はどんな先生かなと不安と疑問で僕の心は張り裂けそうでした。メチャクチャ

厳しく、怒りっぽい先生だったら心ズタズタだろうなと思いました。

 それで、看護婦さんが僕の名前を読んだのです。僕は、どんな先生かなと心をおちつか

せて診察室へ入りました。Ty先生は、メガネをかけた背の高そうな先生でした。

 Ty先生は、僕とお母さんに色々と聞いてきたのです。視力の事、右手の事、僕が交通

事故にあった日の事など色々と聞いてきました。僕やお母さんは聞かれるまま答えていま

した。

 次に、Ty先生は僕に「下に下りてごごらん。」と言われて、参ったなと思いました。

でも、最初に直立ができるかどうか、歩行が介助なしでできるかとありました。僕はある

程度はできたと思いました。

 次に、床の上に寝てTy先生が僕の足の曲がり度などを言われたのです。僕はいったい

ぜんたいどこの角度を言っているのか見当も付きませんでした。僕に分らないのは当たり

前かと思いましたが、僕の右手の事について話してくれたのです。

 「O君の右手の筋の辺りを手術すれば少しは動くようになるかもしれないよ。」「T君

もその手術受けたよ。」と、教えてくれました。たしかに、手術をすれば少しは使いやす

くなるかもしれません。でも、僕の右手はそこまでしなくても良いと思いました。

 Ty先生も、僕の事色々と考えてくださっているのだと嬉しく思いました。

 

1998年4月3日 金

  Ty先生の宿題、半分クリヤー

 昨日のTy先生の診察の最後にTy先生は僕の事を、「砂上の楼閣だな。」と言われま

した。僕は下に落ちたら身動きが全くできないのです。なので、下に降りた状態で寝転ん

で、どうやって体を起こすか色々とやってみました。

 そしたら、僕がいつも寝ている状態から、四つ這いに行く工程を少し変えるだけで腹這

いになれるのを発見しました。まずは最初に体を起こして、四つ這いの姿勢になるかなら

んかの所で足を伸ばす、そうすれば腹這いの姿勢になれたのです。これは、左手の反動で

できたもので、左手が体の下にあったからできたもので、右手が体の下にあったら腹這い

の姿勢にはなれないのです。この問題は、僕の一生の課題になりそうです。

 

1998年4月4日 土

    たまりにたまった落ち葉を、カサカサメロディーを聞きながら

 今日は、お母さんに言われてテラス掃きをしました。久しぶりにテラスを見てビック

リ。出入口の辺りはそんなに落ち葉は見当たらなかったのですが、パソコンの前辺りは落

ち葉が集まって、なんか話をしているかのように重なり合っていました。

 毎週テラス掃きをしていれば、こんなふうに落ち葉は集まらなかっただろうに、と思い

ながら落ち葉を箒で掃きました。

 落ち葉を掃く時の音が弦楽器のメロディーに聞こえたり、クラスメイトがワイワイガヤ

ガヤ話をしているかのようにも聞こえました。そんな時、ジュリーアンドマリーが歌う

「散歩道」のメロディーも、こんな落ち葉たちの奏でるメロディーを使ったのだな、と思

いました。たしかに、落ち葉は葉っぱのしがいだけど、箒で掃いたり、風に揺られたりし

ていると、カサカサメロディーが聞こえてきます。自然界のものはしぶといなと思いまし

た。

 

1998年4月5日 日

 午後からお兄ちゃんとお母さんは、岐阜の「道三まつり」に出かけていった。目的はX

XXの募金活動である。

 弟は午前中は部活、午後から従兄弟を連れて魚採りに行った。この地区全体が川の清掃

の為に水を止めているので、魚を採るには都合が良い。午後はズーと出かけたままだっ

た。今年は3年生だけれど、イイノカナー?。

 

    初めての街頭募金

 今日は、昼食を早めにすませて、街頭募金をしに岐阜市へ行きました。すると、歩行者

天国になっている所で募金活動は始まっていました。僕は担当の人から募金箱を膝の上に

乗せてもらいました。僕は、募金活動をしている人たちの言っている事をまねして言い続

けました。障害者甲子園での、街頭1分間スピーチよりは比べ物にならないくらい緊張は

しませんでした。

 僕は女子中学性らしき女の子のとなりで募金活動をしていました。その女の子はスカー

トをはいて、かわいく笑顔を振りまいていたから、募金が集まるのなんの、こうゆう時は

女の子が有利なのかと思いました。たしかに、そんな気がしないでもないかと思いまし

た。僕は、その女の子に負けじと募金の呼びかけをしました。

 すると小学校5年生か6年生の女の子2人が、恥ずかしそうに募金箱に小銭を入れてく

れました。僕は感謝の気持ちで「ありがとうございます。」と言いながら頭を下げまし

た。まだ、小学校に入学するかしないか、と言うような男の子も、わずかですけど募金し

てくれました。その子にも礼をしながらお礼を言いました。

 そんな募金をしてくれる人たちの中に、僕に「こんにちわ。」と、言って募金してくれ

る女の子がいました。その子は、地元中学で前髪がかわいいな、と意識していた女子生徒

に瓜二つて感じでした。

 僕は幼い頃になんかで学んだと思うのですが、僕の前辺りに来た人に「募金よろしくお

願いします。」と何度も言ったのですがききめはあまりなかったです。でも、お札と小銭

を一緒にして入れてくれる人もいました。

 今日の街頭募金を通じて、健常者も障害者を少しは助けたいな、と言う気持があるのだ

なと初めて思いました。

 

1998年4月6日 月

     職業的に産声をあげようとしている杉の子園

 今日は、春休み最後の杉の子園に行きました。

 今日は花壇に花の種まきをする日でしたが、あいにくの天気で雨が朝から降っていまし

た。これは種まきはできんな、と思いながら杉の子園の中に入りました。そしたらTd先

生が「これから朝の会を始めます。」と言われたので、オイオイここでも朝の会やるのか

よ、と思いました。学校とほぼ同じような内容でしたが、体の健康などは大事だなと思い

ました。

 その後、僕の知らない歌を歌ってラジオ体操をしました。僕は毎朝運動をしているの

に、次はラジオ体操か、と心の中でぶつくさ言いながらラジオ体操をしました。

 その後にHo先生の指導を受けて組紐をやり始めました。立て枠組をやりました。最初

はHo先生が、僕の組み方をじっくりと見ていました。僕は、今日初めて右手を台を押さ

えるのに使いました。台を固定させるために使っていたら、Ho先生が「私が組紐を始め

た頃とよく似ているわ。」と言っていました。僕は、Ho先生もこんな時があったのだな

と思いました。

 慎重に丁寧に組紐をやっていました。今組んでいる組紐はループタイぐらいの紐の太さ

で、中々仕上がった組紐が見れないのが少しばかり嫌です。と、思っているうちに話は

「ここで作った組紐を売れる形にして売ったり、草木染のスカーフやハンカチを売ったり

しなかんに。」、「仕入れ値と販売値を差し引いた値段がもうけやに。」と、Orさんと

お母さんとHo先生が話していました。

 去年、H君が職業の授業でやっていた事と似ているなと思いました。今年の職業は、詩

の入力だけではなく職業的な事をやるみたいですので、シッカリと勉強して杉の子園に入

れたら使って行けたらいいなと思いました。

 

1998年4月8日 水

     校長先生が変わるとこんなに違うものか

 今日から高等部最高学年の3年生が始まりました。僕は、誰が担任になるか楽しみにし

ながら式場となる体育館へ入りました。そして「始業式、ならびに入学式を始めます。」

と言われて、僕はステージ側を向きまして先生方の話を聞いていました。

 僕は、そこで疑問が1つ頭の中を通り抜けたのです。校長先生などが前に立たれた時、

絶対と言って良いほど「礼。」の一言がかかっていたのに、今年の始業式では「礼。」

の一言が1度も聞こえなかったのです。これは、校長先生が変わられたからと思ったりし

ました。でも、例の一言が聞こえないだけで、なんとなく寂しい気がしました。

 僕は後から考えてみたのですが、僕たちの卒業式も「礼。」の一言が全く聞こえない卒

業式なんて、全然思い出に残らない卒業式になりそうな気がしてならないのです。僕は、

こんな寂しい始業式を受けたのは生まれて初めてでした。

 

1998年4月11日 土

     2つの運動&1つの仕事

 今日の8時40分ぐらいから母屋で訓練をしました。母屋での訓練は、畳の上にぶ厚い

マットを2つ縦に並べます。毎週やっているのですが、今日はなぜか左足にかなりの痛み

が走ったのです。しまった、左足だけの力だけで下りようとしてしまった。だから、耐え

きれないほどの痛み走ったのではないかと思います。

 その後、平行棒で歩行の訓練をしました。その次に、寝た状態から起き上がる訓練をし

ました。これが、前までは中々体を起こす事ができなかったのです。でも、最近は左手の

反動と足の振りおろしで簡単に起き上がれるようになりました。次に、膝歩きをして母屋

での訓練は終わり。

 今度は、秘密の運動をやりました。今から3年ぐらい前に僕が住みやすいようにと、母

屋の隣に家が建ったのですが、その家には外にも手すりが付いていまして、僕はその手す

りに捕まって懸垂と屈伸を毎日100回やっています。午前に20回、午後から80回や

っています。この運動は、筋肉トレーニングとお腹の脂肪を取るために去年の秋口から始

めた秘密の運動です。

 次に、僕の家の中を横切りまして、テラスへ出て箒で落ち葉を掃きました。前までは、

何カ月かに1回の割合で掃いていたので、腰が痛くなるは、左腕は疲れるはで、地獄の中

をさ迷っているような地獄を感じたので、1週間に1度テラス掃きをすれば少しは楽にな

るだろう、と思いまして今日テラス掃きをしました。野球のバットをふるように、落ち葉

を集めてちり取りに入れました。こんな感じが僕の休みの日の1日です。後、やるとした

ら詩の入力ぐらいです。

 

1998年4月21日 火

 MRSAの検査がマイナス(−)になった。まだ1回目なので、後2回連続でマイナス

にならないと、MRSAから開放されたことにはならない。学校の理解が良く(?)休校

とはなっていないももの、学校では授業のやり方等かなりの制限があるようだ。早く普通

の状態にしてやりたい。

 家でも、毎日毎日の吸入等、治療も大変である。

 

1998年4月23日 木

 お母さんがボランティアに行っている「杉の子園」で、その在り方について話し合いが

持たれたそうである。

 障害の程度の合った仕事を行いながら交流を中心にやっていきたいボランティアの人の

意見と、効率を上げて採算を重視した町側の人との話し合いである。合意は難しいだろう

ナー。自由気ままな生活が公共の施設を使って出来る訳でもないし...。

 園を含めて、町の福祉に対する取り組み方が問われている課題でもある。

 

1998年4月25日 土

     Ty先生の宿題がやっとできた

 昨日、学校を早退して希望が丘の訓練へ行った時の事です。Ty先生の方から「左右ど

ちらでも寝返りができるようにしてきなさい。」と言われたのですが、うつぶせになる時

に、どうしても右手が僕の胸の下にきてしまうのです。でも、Ib先生の指導を受け右手

が胸の下に来ないようにできたのです。胸の下に来る右手を頭より高い位置に持ってゆけ

ば右手はフリーになるのです。でも、余り動かしていない右手ですから、変な力が入って

しまうのか分りませんが、硬直状態に近い形になってしまうのです。

 肩や腕に痛みが走ってきたりしました。その運動を母屋でやったのです。やろうとした

のは良いのですが、寝転んだ所は頭の上に車椅子があるという最悪の条件。でも、体を蛇

のようにくねらして車椅子から放れてました。そこで、右手をあげて寝返りをしてうつぶ

せになったりして各筋肉を伸ばしたりしました。今日の母屋での訓練は、疲れてヘトヘト

でした。

 

1998年4月26日 日

     僕には、難しすぎた

 昨日の事ですが「僕に表計算をやってみ。」とお母さんが言うのです。

 僕は最初誰に言っているのか分りませんでした。だって、僕に表計算なんかできるはず

ないから、お母さんはいったい誰に言っているのか分らなかったのです。

 と言うより、お母さんは学校の商業に怒れてきたみたいです。「関養護学校のパソコン

の授業はたいしたもんや、と言っているわりには何にもやってくれないのや。」と言う事

で、パソコンの表計算をやるはめに。

 これが、僕の予想をはるかにこえて難しかったのです。たしかに、僕の前に座っている

子たちだったら簡単にやるのでしょうが。そんなんで、お父さんの指導のもと表計算をや

りました。でも、僕には難しすぎてチンプンカンプンで、今何をやっているのか全然分ら

ない状態でした。しかし、Hy先生の授業を受けていれば、少しは分ったかもしれないと

思いました。

 

1998年4月29日 水

 お兄ちゃんとお母さんはXXXの開所式で、海老の天ぷらを25匹持って出かけていっ

た。弟は部活、オバアチャンはお花の会。結局残ったのはお父さんだけとなった。

 午前中は焼却炉を移動していて疲れたー。

 午後は読書とパソコンで、久しぶりにユックリできた感じである。

 こんな形でゴールデンウイークは始まったのだが、子供達は明日から学校がある。

 

     XXXの開所式

 今日の10時頃「市民病院の近くにできた。」と言われた、XXXへ行きました。どん

な所かなと思っていたら、ローソク工房YYYとよく似ていて、余り目立たない所にXX

Xの作業所がありました。

 すると、去年の卒業生のSさんのお母さんが、XXXの中に入れてくれました。する

と、中には人がおおぜいいて、話し声があちらこちらから聞こえてきました。その中に

は、Fさんや僕とパソコン通信をしているM君などがいました。それと、今年大垣養護学

校に転勤されたKd先生もいました。

 僕が知らないうちに開所式が始まっていました。僕の名前の知らない人たちがいた中

で、司会担当の先生が「Kd先生お願いします。」と言われたので、Kd先生はたくさん

いるなと思いました。そしたら、声を聞いてビックリ、Kd先生ではありませんか。それ

で、色々な先生方の話を聞きました。

 各生徒の紹介や、今度XXXの指導などをする先生やボランティアなどの紹介がありま

した。でも僕は情けない事に、近くに座っていた女の子をチラチラと見ながら先生の話を

聞いていました。

 その後、長い昼食を取りました。それでも、僕は女の子の方に目が行ってしまいまし

た。

 でも、僕が1番驚いたのはトイレの広さでした。僕が卒業したら行く杉の子園のトイレ

も公共施設のトイレも僕にとっては使いにくいのです。狭い広いも関係しますが、男性用

と女性用と分けて作ってあったので感心してしまいました。XXXで働く人たちの事を良

く考えているな、とトイレを見て思った僕でした。

 

1998年5月3日 日

     クリップアート

 今日の朝、僕がお母さんに訓練をしてもらっている時に、お父さんは

パソコンをやっていたのです。でも、お父さんがやっていたパソコン

は、クリップアートと言うものでした。

 僕が毎日の日記や詩などに付けている絵がたくさんあったそうです。

僕はその時ベットに寝ていたので、いったいどんな絵があるのか全然見

当もつきませんでした。でも、お母さんが「ピラミットやタツノオトシ

ゴなんかがのってるよ。」と教えてくれました。お母さんが言うには

「驚くほど絵がたくさんあるよ。」と言っていました。

 僕は思いました。たしかに、絵はたくさんあるみたいだけど、CDを入れなくては使え

ないみたいだから、1人で日記を書いている時は使えないなと思いました。でも、CDが

パソコンに入っていれば、日記や詩はもちろんの事、県外の友だちの手紙にもいろんな絵

を付けて出せますので、ラッキーかなと思いました。

 

1998年5月5日 火

 弟にパソコンのトランプゲームを教えてやったら、それに熱中してしまった。しかし、

今まで1人でテレビを見ている時間が多かった事を考えると、皆のいる所でワイワイ言い

ながら過ごした方がまだ良いか?。

 ゴールデンウイークはどこにも行けなかったけれど、家の雑用が色々出来た、本も2冊

読めたし...。ゴールデンウイークも最後の日、子供の日と言うこともあって、夕食は

外へ食べにいった。

 

1998年5月7日 木

     タッチパネルで、罫線引き

 今日の職業の授業の最初の1時間は、黒井先生の指導の元、タッチパネルを使って罫線

をパソコンの画面上に色々と書きました。それが、僕の左手の人差し指だけを出そうとす

ると、中指や薬指まで出てしまうのです。それで、画面に触ろうとすると、何本かの指が

パソコンの画面に触ってしまって、パソコンに悲鳴を上げるかのような音を出されて、僕

はどのように画面に触れば良いのか一瞬考えました。

 そしたら、家のパソコンでキーボードカバーがなかった時、手を広げてキーを打ったの

を思い出したのです。僕は、カーソルのある位置まで指を持って行きました。そして、指

を横へ持って行くと、細い線が指の後ろから引けてくるのです。僕は、情けない事に、罫

線が簡単に引けるとなったら、遊び心が僕の心に芽生えてしまって、罫線をあちらこちら

に引いてしまって、職業の授業で遊んでしまいました。

 それで「罫線を引きすぎてしまった時に、シフトを押しながらデリートを押すと消える

よ。」と言われましたが、僕は右手が使えないので、黒い先生にやってもらいました。

 今日やった、タッチパネルさえ僕が自由に使いこなせるようになれば、コズカイ帳や一

週間の予定帳も作る事ができれば嬉しいなと思いました。

 

1998年5月12日 火 

 梅雨のような天候が続いている。今日で3日連続の降雨である。鬱陶しい気分である。

 お母さんが、昨日1時間半かけて作ったメールが消えてしまった?。そして今日再挑

戦。「2度とこんなことはヤーヨ!」と矛先がお父さんに向けられて...。パソコンに

慣れるのも大変なようである。

 3回目のMRSAの検査も無事マイナスだった。ヨカッター。これで、色々制限されて

いた学校の生活も、他の生徒さんと一緒にできる。

 

1998年5月13日 水

 夕食後に、お母さんと弟のインターネット操作の指導。

 お母さんは、メールの返事を待ってメーラーの操作。弟は6月の修学旅行の材料集めで

ブラウザーの操作である。少しずつではあるが、家族の生活が変わっていく?。

 

1998年5月17日 

     授業を思い出して、ミラメモ帳に書く

 昨日、今日の休みを利用して、総合の授業でやった県名を全部覚えてやるぞ、頭の中に

全て叩き込むぞ、と思っていたら、僕の総合のノートは山根先生の手にありまして、総合

のテスト勉強ができない事に気が付きました。絶体絶命のピンチなのです。

 でも、いまさらアーダコーダ言っても始まりませんので、総合の授業の内容を思い出し

まして、ミラメモ帳に九州から書き始めています。こんなテスト勉強は、高等部に入学し

て初めての事です。

 

1998年5月19日 火

 弟を塾に迎えに行って帰ってくると、庭にホタルが飛んでいた。そのまま2人で近くを

流れる川を見に行った。ここ何年かでは見たことの無い(見に行く余裕も無かったか

な?)数のホタルが飛び回っていた。

 川がきれいになったのだろうか?、自然が戻ってきたようで、なんとなく嬉しかっ

た。2人で暫く光りの乱舞(と言う程ではないが)を見ていた。

 

1998年5月20日 水

 学校で地理のテスト。ここ1週間以上に渡って一生懸命暗記をしていたテストである。2種類のテストがあり、1つは満点だったが、もう1つの県の場所を指摘する方が散

々だったようだ。今日はその勉強の為の資料作りをやっていたが、どのように作っていい

のか分からず途方に暮れていた?。お父さんがパソコンを使ってイッパツで作成。お兄ち

ゃんとお母さんはパソコンの凄さを絶賛!。

 

1998年5月22日 金

    一夜漬けでは無理ないか

 今日の総合の授業は、僕にとっては簡単かと思えた。昨日の晩に、日本の地理には詳し

いお父さんと苦手なお母さんと日本の地方と県名を覚えました。一夜漬けでどこまで頭に

叩き込めれるか心配でした。

 そして、中間テスト第2部開始。僕は、お父さんにパソコンから抜き出してもらった大

きな地図で第2部を受けました。中間テスト第1部では、東北地方の宮城県と山形県があ

る位置が逆でした。でも、昨日の家での勉強で教えてもらったのでそこは間違えてはいな

いと思います。後、危なかったのが関東地方の東京都と埼玉県と神奈川県の地図上ではゴ

チャゴチャとなっている所でした。あぶなかったのが九州地方でした。なぜなら、熊本県

と宮崎県を逆に言ってしまった事です。これはしまった、宮崎県に近い方が熊本県だ、僕

は慌てて言い直すと、丸山先生はたぶん僕が慌てて言い直した方を書いてくれたと思いま

す。それと、昨日の家での勉強で、愛媛県が近畿地方よりではなく九州地方にある事も初

めて知りました。

 テストの結果は、70点か80点ぐらいだと思います。

 

1998年5月23日 土

 最近のお兄ちゃんの日記は、クリップアートで満載である。CD−ROMからもコピー

できる事が分かって、CD−ROMの装置には盤がはいったままで、毎日使っている。少

しずつではあるが出来る事が多くなっていく。

 

1998年5月24日 日

     Mu先生の詩の指導で、難しい詩から簡単な詩へ

 金曜日に「虫になったとした自分の気持、性の違う自分の気持などを詩にしてみるとお

もしろいよ。」と、箕浦先生に言われました。そうなのです、「O君の詩は、難しい。」

と、Mu先生は言うのです。

 たしかに、僕の詩は一般常識では聞き慣れない題名がほとんどでした。テレビから得た

知識を詩にしていたからです。

でも、Mu先生の詩の授業で、僕がどんなに難しい詩で、どんなにわかりにくい詩を書い

ていたか初めて知りました。

 なので、簡単な題名の詩を土日の休みに3つ書きました。「働きアリ」「アサガオ」

「雨のち雨」。詩は、自分の気持や心の動きなどを短文として書けますので好きです。

高等部を卒業しても書いてゆきたいと思っています。

 

1998年5月28日 木

 明日はお兄ちゃんが遠足で名古屋市科学博物館へ行く。その為にお母さんが「早ヨ寝

ヨ、早ヨ寝ヨ、明日の朝は4時半に起きてお弁当を作らなアカンデ!」。と言いつつ、結

局いつもと変わらない時間になってしまった。このところの蒸し暑い天候に、布団を肌が

けに替えようと、押し入れから出したりしていたからナー。

 

1998年5月29日 金

     高等部最後の春の遠足は、最悪の上の最悪

 今日は、幼い頃の遊び場だった名古屋市科学館へ行きました。

 楽しみにしていたのですが何が何が、最悪の遠足でした。バスが静かすぎたのです。

 車椅子の生徒ばかりバスの中に押し込んで出発。音楽もないし、会話も少ないし、こん

 なのあるかと思いました。総合の授業で勉強した日本の地理

 の青森県から沖縄県まで県名と特産物と有名な物を場所を確

 認しながら小声で言っていました。

 それでも、名古屋市科学館には着きそうもなかったので、昨

 年と一昨年の楽しかった春の遠足を物静かに思い出していま

 した。楽しかったあの日に戻りたいなと思ったりしました。

 名古屋市科学館に着いても、僕の心の最悪と言う気持に襲わ

 れていました。

 次に、鏡をトリックにした物がありました。人の顔と手が余りにも放れて見えるので

す。そこも、最悪と言う自分勝手が僕の心を操り、S君やSさんが見たがっていたのに、

なかなか退こうとはしなかったのです。

 S君やsさんに「大平君は、最低な先輩だな。」と、言われてもしかたがないと思いま

す。みんなみんな最悪と言う感情が僕の体を操ったと考えてください。次からは気を付け

たいと思います。

 

1998年6月1日 月

 もうすぐ梅雨に入るのだろうか、午前中は晴れていたのだが午後から曇ってきた。明日

は大雨だそうである。

 家に帰ってみると、お母さんが「もう寝る、胃腸風邪みたいで、熱が37.5度。お兄ちゃ

んのが伝染ったみたい」。明日はお兄ちゃんを病院に連れて行かなければならないのだ

が...。「お父さん、会社を休んでヨ!」と言われているみたい?。

 

1998年6月6日 土

 子供達は第一土曜日で学校に行った。お母さんは「杉の子園」の仕事の名刺作り。お父

さんもそれの付き合いである。将来はお兄ちゃんの仕事の1つにしたいようである。マ

ア、今は色々やってみる事か!。

 

  ふれあい祭に出品

 今日の美術クラブは、土粘土で鯨でも作るかと思いながら造形室へ行きました。

そしたら、Sh先生がガラス細工で作って焼いた皿を持ってきてくれました。そして、S

h先生が「その皿にコメントを付けると、皿にもっと品が付くよ。」と、言われたので僕

は考えました。

 鬼の1文字の皿で、どんなコメントを考えればよいのか暫く考えました。でも、1文字

の皿を見てコメントなんか中々考えれなかったのです。そしたら、代筆を頼んだBj先生

が、「鬼を書きました、と書いたら。」と、言われました。

 そこからはスラスラと言いたかったのですが、文章作りの下手な僕ですから、Bj先生

に少し直してもらいまして、鬼の皿の下にはってもらいました。するとSh先生が「鬼の

皿の上に盛りつけてある物を食べると、頭から角がはえてきそうだな。」と言ってくれま

した。

 先生が僕の皿を見てあんな事を言ってくれるなんて、とても嬉しかったです。僕は絵は

書きませんが、色々な字を皿に書いて僕の心を描きたいと思っています。

 

1998年6月7日 日

     H君と一緒に行動した

 今日は高等部に入学して3回目のふれあい祭りでした。

 去年までは、担任の先生の目のとどく所で行動していたような気がします。でも、今年

は僕とH君と一緒に行動しました。と言ってもMo先生も一緒でした。

 ゲームコーナーを3人で回っては、あーだこーだ言いながら楽しく回りました。でも、

Mo先生は「Hと回るのは気が進まんのやけどね。」と言っていました。でも、僕の車椅

子を押してくれたりして、芝の所は動くのが少しですが楽だったような気がします。

 ボーリングやサイコロ投げに磁石の魚釣りなどをして楽しくすごせました。

 でも、給食を食べてからH君は行方不明になってしまったのです。僕は、恥ずかしかっ

たけど、周りの人たちの視線を気にしながら、僕は大声でH君を呼び続けました。する

と、YさんとNさんが通りかかって「H君は、背が高いからすぐ見つかるのじゃない。」

と言われて僕は考えた。考え抜いた結果出た答は、校舎の中にいるのではないかと言う事

で、校舎の方へ行こうとしたら、Ym先生とH君が一緒に出てきました。

 この時ばかりは、僕の考えがあまかった、と自分の心を攻めました。相手は、僕の考え

ている所にいるとは限らないと言う事を知った1日でした。卒業したら、このような行き

違いや思い違いが絶対にないとは限らないので、今年のふれあい祭はとても良い経験をし

たと思います。

 

1998年6月8日 月

 昨日の「ふれあい祭」の代休でお兄ちゃんは休校。お兄ちゃんとお母さんは2人で「杉

の子園」へ出かけて行った。園では、昨日お母さんが一生懸命作った名刺が色々と話題に

なったそうである。

 当面は、お母さんに名刺の作り方を教えてもらって、自分で出来るようにする事か

な?。色々やってみて、その中から本当に自分に合った物を見つける事なんだから...。

 

1998年6月11日 木

 今日から1週間(実質5日間)の実習がはじまる。実習と言ってもお兄ちゃんの場合は

「杉の子園」での実習であり、良く知った人達の中に入っての作業であるから、他の生徒

さんに比べてチョット違うかな?。

 今日は、元盲学校の先生が来てくれて、作業を観察し、色々と助言をしてくれたそうで

ある。お兄ちゃんはパソコンを使って意思表示が出来るし、リハビリにもなっているの

で、点字の習得はまだやらない方が良い、とのことである。まずは、現状維持とリハビリ

か。

 

1998年6月15日 月

 弟が修学旅行に出かけて2日目。明日にはもう帰ってくる。しかし、家族の1人が欠け

ると言う事は、何となく落ち着かない事なんだ、と改めて思う。楽しい思い出を沢山持ち

帰ってこれると良いのだが...。

 お兄ちゃんの実習ももうすぐ終わる。2人はかなり疲れている様子。やはり緊張もする

のかネー。

 

1998年6月17日 水

 実習が終わった。「杉の子園」での1週間だったが、卒業後の進路の1つであり、かな

り真剣に取り組んで来たようである。お母さんも半日から1日、それに付き合って来ただ

けに「疲れたー」。

 

天気 :晴れ

家を出た時刻 :9時00分

家に帰宅した時刻 :4時10分

仕事内容 :フラワーアレンジメント 水道管の止め具の袋づめ

ほめられた事 :礼儀正しい言葉使い お礼の言葉がいえる

注意された事 :右手を使う事

1日の反省

 

 〇 今日は、進路週間最終日だったので、水道管の止め具の袋づめ

を4袋やるぞ、と思って頑張りました。50個全部並べてからの袋づ

めが、上手くできるかどうかが問題なのです。

 僕は、袋の真ん中辺りまで持ってしまうのです。ですので、50個

の半分ぐらいまで入れたら袋を握っている右手から放して入れまし

た。Td先生の目を盗んでやっていました。

Td先生に見つかると「O君、右手使おうね。」と、絶対言われるか

らです。ですが、その卑怯な手を使ったからこそ4袋できたのだと思います。

 

 〇 働く前などに右手をほぐして仕事がスムーズに行くように努力した。

 水道管の止め具の袋づめの時も、右手をできるだけ使おうと努力をしましたが、力が入

ってしまうと水道管の止め具が入れにくかったので、右手を普段でも使っていき、杉の子

園に入る頃にはもう少し動くようにしたいです。

 

 〇あいさつやお礼の言葉が礼儀正しく言えました。

 進路週間を振り返って、水道管の止め具の袋づめは弱視の僕に

 はつらかったですが、弱視の事を言えば、組紐も押し花のハガ

 キ作りもフラワーアレンジメントも一緒なので、猫背からくる

 肩や背中の痛みは慣れるしかないか、それともボランティアの

 人に歩かせてもらうかぐらいしかありません。僕が、学校で友

達同士で話しているような言葉が、出ないように気を付けたいと思います。

 

1998年6月22日 月

 このところ梅雨も一休みの状態で、今日も1日ほとんど曇り。

 お母さんは、最近凝っているパソコンの名刺作りの延長線上で、押し花をラミネートし

それを額縁にいれていた。色々やってみるのも良いが、お金がかかってカナワン?。しか

し「将来のお兄ちゃんの仕事を探している」と言われると何とも言えんナー。

 

1998年6月23日 火

     歩行杖を使って1メートルから2メートル

 今日の擁訓の授業は出席せず、県立病院の診察へ行きました。

 耳鼻咽喉科の待合室を見るとゴミのような頭数でした。ですので、地下1回の訓練室へ

お母さんと行きました。僕が、入院している時に訓練でお世話になったKm先生に会いに

行きました。なぜかと言うと、僕は足のける力はあるのですが、歩行となると砂上の楼閣

でふらついたらただ転ぶだけなのです。そんなもんで、歩行を助ける歩行杖を、ためしで

使ってみようと言う事になって、訓練室へ行きました。

 Km先生に頼んでみたらすぐに使わせてもらえて、1メートルから3メートルぐらい介

助なしで歩く事ができました。歩行杖さえあれば、家の中ぐらいは1人で歩けるようにな

ると嬉しいなと思いました。

 

1998年6月25日 木

 今日は、弟の期末テスト。終わって帰ってくると、そのまま寝るまでTV三昧。

 一方お兄ちゃんは来週のテストに備えて一生懸命暗記をしている。「アカンナー、アカ

ンナー」と言いながらも何度も繰り返している。お兄ちゃんは努力家である。兄弟を足し

て2で割れればナー?。

 

1998年6月30日 日

 お兄ちゃんは今、夏休みの「障害者甲子園」に参加条件である作文作りに一生懸命であ

る。昨年初めて参加し「何かが変わった」と感じて1年、もう1度それを確かめたい?。

昨日、今日と「目が痛い」と言いながら、それでも10時頃までパソコンに向かってい

た。

 

     白団の皆さんには申し訳ないのですが、リレーはマラソンの練習

 今日の掃除の時間だったと思いますが、運動会のリレーの事についてYm先生が「運動

会のリレーどれだけ走る。」と聞かれたのです。

 僕は真っ先に「リレーではない競技に出ます。」と言ったのです。僕は、1年2年とリ

レーを避け続けて来たのです。

 僕は、右半身麻痺が強いので、リレーなんて出たいとも思いませんでした。でも、Mo

先生が「O君、リレーじゃないやつだと3組4組の子と一緒だよ。」と言われたのです。

 僕はその時、頭にある事が横切ったのです。僕は今、両手漕ぎで秋と冬に開かれるマラ

ソン大会に向けて練習をしているのですが、運動会のリレーの時も両手漕ぎで頑張ったろ

うかなと思いました。去年の運動会の昼休みに、両手漕ぎでトラックを1週した事がある

のです。でも、その時は右手の手首で車輪を回していましたが、今は右手の手のひらを使

って車輪を握ったり開いたりしていますし、上半身の上下で前よりは進む距離が多くなっ

た気がします。

 それに、運動会のリレーは勝負を左右する得点の多く入る競技です。「こんな大事な時

に、マラソンの練習を兼ねてリレーをしてはいけません。」と言われるのは充分承知して

います。でも、僕の右手は大事な時になると、絶対と言ってよいほど緊張が入って、使い

ものにならないのです。でも、最近は両手漕ぎで頑張っているので、運動会当日は両手漕

ぎでリレーに出れるようにしたいです。

 

1998年7月6日 月

 お兄ちゃんは「障害者甲子園」の作文と宿題でパソコンを使いっぱなし。お父さんも会

社の仕事に使いたいのだが、お兄ちゃんが終わるのを待つより仕方なし。

 結局お兄ちゃんが終わったのは9時頃で、お父さんがそれから2時間余り使う。お兄ち

ゃんもお母さんも「明るい所で寝なアカンナー。」と言いながら就寝。もう1台パソコン

が欲しいノー。

 

     障害者甲子園の作文が、1200字書けない

 今日の総合の授業は、テスト直しと現場実習を終えての作文でした。

 でも僕だけは違いました。テストの方は僕の勘違いで99点でした。総合のテストは勘

違いだけですむのですが、障害者甲子園の作文はそう簡単には行かないのです。僕は、文

章を作るのは余り上手ではないので、作文となるとダメなのです。

 それに、山根先生は作文の文の上から鉛筆で線を引っ張って文章の字の数がドンドンな

くなっていったのです。これでは、1200字はかなり難しいなと思いました。

 また今年も、障害者甲子園に参加して、愛媛県から参加している車椅子の女子生徒にあ

って、去年教えれなかった事を教えてあげたいと思うからです。

 

1998年7月8日 水

 今日も9時頃までパソコンで「障害者甲子園」の作文を作っていた。パソコンもここま

で使ってもらえると満足だろう?。それにしてもお兄ちゃんの作文は、なかなか良く出来

ているように思う。文才がある?。

 

1998年7月11日 土

  覚えるのに、てこずりそう

 昨日の晩、お母さんにアルファベットとローマ字を、大きな紙に書いてもらって知らな

い字との格闘が始まりました。日本語とは発音のしかたが全く違うので、覚えるのにも一

苦労します。昨日の日記に書いたのですが、授業では全くやっていないので、覚えるのに

も一苦労するのです。それに、MとNとの違いがまだ分かりきっていない状態が昨日だっ

たので、総合の授業でH君やKさんに笑われるかもしれません。

 もし、笑われたら僕にも手があるのです。H君やKさんをだまらせる英単語を言ってや

るのです。たしかに、友達は英語などを色々と知っていると思います。でも、僕は友達が

知らないような英単語を色々と知っているつもりです。嫌いな英語ですが、将来海外に出

るような事があるかもしれません。世界共通語の英語をいまのうちに覚えておかないと、

ひょっとかすると僕の未来は真っ暗かもしれないのです。

 

1998年7月12日 日

  晩にやる運動が苦しかった

 先週の火曜日に買った歩行杖を使って、昨日の夕方頃歩きました。介助無しで歩く事が

できますので、こんなに嬉しい事はありません。

 しかし、この杖は1.5キロありまして、みなさんには「こんな軽い杖を重たいと言っ

ていては恥ずかしいぞ。」と、言われるかもしれません。でも、晩にやる運動の事も考え

てやったのですが、終わりの方の運動になると左手の筋肉が、痛いよう、苦しいよう、と

言っているかのようでした。なので、毎日やっている運動の4分の3ぐらいでやめまし

た。

 歩行訓練のためにも続けたいし、歩行杖を使ってあるきたいし、腕の筋肉をつけ、衰え

ないようにしたいし、脂肪を燃やしてお腹もへっこませたいし、この2つの運動をどうや

ればちゃんとできるか検討したいと思います。

 

1998年7月16日 木

 お兄ちゃんの風邪がひどく、今日は県立病院へ行った。点滴を打ってもらって帰ってき

たが、朝出かけて、帰ってきたのは4時頃だったそうである。とにかく病院は時間がかか

る!。帰ってきてパソコンをやりたそうな様子だったが「今日は早く寝ろ!」。

 

1998年7月17日 金

  一学期を振り返って

 僕が一学期に頑張った事や、力を入れて勉強したのは総合の授業でした。

最初は「日本の地理を勉強します。」と、言われた時は嫌な思いが心を襲いました。だっ

て、僕は物を覚えるのは一番嫌いな事だからです。でも、僕はその苦手とする事を克服し

ようと努力しました。それは、何度も何度も声に出して覚え込む事でした。

 僕は、中間テストはかなり苦しんだと思います。47都道府県の場所と特産物や有名な

物を覚えるのに一苦労しました。苦しみぬいて取った100点だったと思います。

 期末テストは、僕の得意分野の生物だったのでこれは楽ができる、と思っていたのが間

違いでした。人の消化と栄養素の働きでした。しかたがないのでこれも声に出して覚えま

したが僕の勘違いで、100点にはとどきませんでした。

 でも、総合のテストは、丸暗記をすれば100点近い点数が取れると中間テストと期末

テストで感じた僕でした。

 

 

 

  

 

「関養護学校V・前編」は以上で終わりです。

宜しければ続けて、

「関養護学校V・中編」

を読んで下さい。

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