「自立にむけて」 

  


  

1994年4月1日 土(842)

 今日はお父さんが病院へ行く。いつもの週末は土曜日はお母さん、日曜日はお父さんが

病院なのだが、今週は明日、恒例の「川ざらえ」がある為交代になった。

 病院で中学校2年5組のクラスメートが書いてくれた「便り」を読んだ。1人1人が

「真摯な姿勢と頑張る姿に感動した」事を書いてくれていた。読んでいてついつい目頭が

熱くなった。

 昼頃に37.2℃。午後からは横になっている時間が多かった。

 

1994年4月5日 火(845)

 急に温かくなったと思ったら、桜が一気に満開。菌を振り撒

ないよう「完全装備?」で桜見物に外に出る。ほぼ1ケ月ぶり

の外気は気持ちよかったようである。

 部屋では”SkyBall”というバトミントンのような遊

具を使ったリハビリを始める。とにかく「いろいろやってみる

事」である。

 弟の春休みも今日で終わり。あまり楽しい春休みではなかっ

ただろう...。今度の夏休みはもう少し楽しい休みにしてやりたいのだが...。

 

1994年4月8日 金(848)

 今日から点滴と吸入液にMRSAの治療薬を入れる。ただ”強い”薬の為、副作用の心

配があるとの事。

 お母さんが病院に着くと”SkyBall”でリハビリをやっていた。もともとスポー

ツが好きだっただけに気にいった”道具”だったのだろうか...、それともリハビリの為

と言う事で、動かない手を一生懸命動かしていただけ...?。

 

1994年4月15日 金(855)

 MRSA治療の点滴は一応終了したが、検査は陽性のまま。それでもここ何日間は風呂

に入れてもらっている。

 MRSAに罹って1ケ月。養護学校への転校も1時中止なり、又、気管を閉じる手術の

予定も立たない為、再び糸貫中学校に”在籍”と言う事になってしまった。クヤシイMR

SA罹患である。

 

1994年4月21日 木(861)

 新築する家の「第3案」が出来てきた。家で母さんと「ああしたい、こうしたい...」と

話しているとついつい弟の事はそっちのけになってしまう。さみしそうに2階の自分の部

屋に行ったのに気が付いて2人で顔を見合わせる。

 

1994年4月26日 火(866)

 お父さんが帰宅すると、弟を始め皆が沈んだ様子。お母さんが「事故を起こしてしまっ

た。」との事。「少しでも早く帰ろうとして、ガソリンスタンドから出た所でヤッテしま

ったの...、もう限界だわ!!」。

 家に帰ってからの家事を色々考えながら”少しでも早く帰ろう”と思っていたのだろ

う。人身事故にならなかった事がせめてもの救い?。

 

1994年4月29日 金(869)

 今日からゴールデンウィークが始まる。1月半ぶりに外泊が許可され帰宅。久しぶりの

ビデオ三昧で疲れた様子。

 弟は友達と「ゲンゲ祭」に行ってしまった。5年生にもなると行動範囲も広くなり、自

分の判断で”勝手”に動くようになる。これも又心配の種である。

 

1994年5月1日 日(871)

 2年4ケ月ぶりに、小学校の時に使っていた2階の部屋に

上げてやった。目にする物全てが懐かしかったのだろう、4

時間程ズーとその部屋に居て、1つ1つの物を”確認”して

いたようだ。事故以来そのままにしてある部屋であるが、何

時かはその思い出と共に「整理」してやった方が良いので

は?。

 

1994年5月5日 木(875)

 長かったはずのゴルデンウィークも今日で終わり。何となく終わってしまったようだ

が、子供達と長時間接することができた事、アルバムを整理できた事が収穫か?。母さん

が少しでも休養を取れると良かったのだが、結局は忙しい毎日になってしまったようであ

る。

 

1994年5月25日 水(895)

 MRSAの3回目の検査もマイナスになる。16日の検査でマイナスになり、今回で連

続3回のマイナスとなった。ただ、リハビリの先生からの情報であり、正式には担当の先

生から許可が出て個室から”脱出”となる。

 今日、希望が丘の先生が見舞いに来てくださったとの事。学校では生徒さん達が「どん

な子が来るの?」と関心があり、ビデオを撮って帰られたということである。

 父さんは市内出張があり久しぶりに早い帰宅であったが、家では弟の宿泊学習の準備で

テンヤワンヤ。兄の時の記憶は全然無いのだが(父さんの知らない内に準備が出来てい

た?)、今のような状況ではいやでも世話をすることになる。

 

1994年5月26日 木(896)

 朝方は曇り、昼頃からは雨。弟は宿泊学習で今日の登山を楽しみにしていたのに、きっ

と中止になっただろうな?。

 正式ではないがMRSAから開放。部屋から出ても良いとの許可があり、明日の帰宅も

OKになった。ただ、個室での生活はこのまま(別の患者さんが使うまで)続くそうであ

る。自由に動けるのであれば、「個室の生活の方が良いワー」。

 

1994年6月3日 金(904)

 個室を出て6人部屋に移る。

 希望が丘の先生が又お見舞いにきて下さった。「いつ頃から学校に来れますか?。」と

言う話になり、担当医「早ければ7月にも。」との事。来週の手術が無事に終われば...

と言う事だが。本当にそうなって欲しい!!。

 

1994年6月5日 日(906)

 今日はお父さんが病院に行く。

 「歩けんし、走れんし...寂しいというか、むなしいというか...」。ひとり言を偶然聞

いて、胸にグサリ!ときた。これからも何度か同じ事を感じることだろう。しかも次第に

重さを増していくのでは?。早く「生きる」事の意義を見つけられるようにしてやらね

ば。

 

1994年6月8日 水(909)

 午後から気管の手術。今回の手術で、上手くいけば自然に切開した場所が閉じるという

事である。

 会社の帰りに病院に寄ってみると、顔をしかめて痛そうにしていた。手術は予定どうり

に終わったそうで、特に問題は無いとの事である。

 今日は、お母さんは病院に泊まるので、弟とオバアチャンの3人で外食。家族が揃って

いない夕食は何となく落ち着かない。

 

1994年6月10日 金(911)

 手術後の熱が下がらず心配だし、それに唾液が気管に入らないよう拭き取ってやる必要

がある為、お母さんは今日も病院に泊まる。昨日は加納のオバアチャンが泊まってくれ

た。

 

1994年6月12日 日(913)

 今日も午後には38℃。座薬で熱を下げる。1日中ほとんど寝たままで、唯一の楽しみ

はTVの音声を聞く事。

 日中はお父さんが病院、夜はお母さんが病院に泊まる。

 弟は久しぶりのスポ少の公式戦であったが、お父さんもお母さんも応援に行ってやれ

ず。

 

1994年6月14日 火(915)

 父さんが早めに帰宅したところ、弟とオバアチャンが夕食の準備をしていた。3人でい

つもより早めの食事。お母さんが居なくてもやるべき事はキチットやろう、いう気持ちは

あるのだが、日常の細々とした事は良く分らず適当になってしまう。こんなところがお母

さんは気にいらない様子で、最近、帰ってきた時の母さんはため息や愚痴が多い。聞いて

いた弟も父さんも何となくやりきれない気持ちになってしまう。皆それなりに頑張ってい

るつもりなのに気持ちのズレが出てしまう。

 

1994年6月19日 日(920)

 今日はお父さんが病院へ行く。

 1週間ぶりに見た様子では結構元気そう。しかし、午後からは37度を越えていた為、ズ

ーと横になってラジオとテープを聞いていた。お父さんは何もやる事が無く、困った?。

 弟とお母さんは久しぶりに「楽しい時間を過ごした」との事。弟には必要な時間である。

 

1994年6月23日 木(924)

 先週実習にきていた学生さんから貰ったプロミスリングが大層気にいっていて、「もう

一つ欲しい」。色々お店を探したもの見付からず、結局お母さんが作ることになった。

 プロミスリングはその輪が切れた時に「願い事が叶う」、と言う事で女子高中生の間で

流行っているそうだ。

 しかし、2つの「願い事」って何だろう?。

 

1994年6月25日 土(926)

 今日はお父さんが病院に行く。午前中に担当医の診察があり、「今日から口から水分を

摂る事にしましょう、食事が摂れるようになるのは週中ぐらいかな?。」との事。又、気

管に埋め込んだスピーチバルブをテープで閉じて声も出せるようになった。来週末には外

泊が出来るようになる?。

 

1994年7月1日 金(932)

 最近は、手を引いてもらって800歩程は歩く。トイレの往復や病院内の散歩の時には結

構歩いている。看護婦さんから「ベットでの小用は禁止、必ず歩いてトイレに行く事」と

言う指示が出たそうである。結構厳しい看護婦さんであるが、一生懸命考えてくれている

看護婦さんでもある。

 

1994年7月4日 月(935)

 今日からお粥を食べるようになった。「マズイ、マズイ」と言いながらの食事であった

が、とにかく口から食べる事が出来るのは良い!。

 最近は万歩計を付けており、今日のカウントは1,000。しかし、昨日はトイレの往復が

出来ず、往きだけで息が弾んでかなり苦しそうだったので帰りは車椅子だったとの事。ナ

カナカであるなー...。

 

1994年7月7日 木(938)

 今日からご飯は普通になったが、副食は”キザミ”になる。昨日まで

副食は普通だったのに...。病院の処置も時々ワカラン事もある。

 

 

1994年7月10日 日(941)

 午前中に先生の診察をしてもらって、午後、1泊の予定で帰宅。弟も

オバアチャンも久しぶりの”再会”を喜んでいた。

 先生の話では20日頃に退院の予定、との事。”迎える”準備で忙しく

なりそう。

 

1994年7月19日 火(950)

 母さんと2人で希望が丘に行く。本人は授業参観で一生懸命聞いていた為か、病院に帰

ってからはかなり疲れた様子。それ以上に疲れた母さんは病院で昼寝?、精神的にも疲れ

たのだろう。

 退院は7月25日と決まり、翌日から学校に通うことになった。いよいよ病院と離れた

生活になる。親子共に不安は隠せないが通るべき道である。

 

1994年7月20日 水(951)

 小中学校の一学期の終業式。お母さんはいつもより早く病院に行き、一緒に希望が丘の

終業式に出席させてもらった。病院に帰って来てから腹痛。やっぱり緊張したのだろう。

「横になっていれば治るよ。」と言っていたそうだが...。

 弟も明日から40余日の夏休み。3年、4年とお母さんお兄ちゃんのいない寂しい夏休

みだったが、今年は家族揃って過ごす事が出来る。だだ、あまり長期の遠出は無理だろう

なー。

 

1994年7月25日 月(956)

 遂に退院!!!。朝からお母さんと父さんが病院に行き、お礼

の挨拶や、最後の診察、注意事項の話などで結局病院を出たのは

夕方近くになってしまった。しかし、余りにも長かったからか、

これからの不安からか、今1つ感動が無かった。

 夜は、明日から希望が丘学園に入る為の準備。お母さんが寝た

のは12時を過ぎていた。

 

 

 

 

1994年7月26日 火(957)

 今日から希望が丘学園へ入所。現在は夏休みの為、授業は無く、リハビリのみの「学園

生活」と言う事になる。

 希望が丘養護学校は病院(=希望が丘学園)に付属しており、通常は”学園(病院)”

から”学校(同じ建物の2階)”に通う事になる。

 3時頃お母さんが帰る時には、かなり心細い様子だった。暫くは、様子を見る為にお母

さんは通うそうである。

 

1994年7月29日 金(960)

 1年ぶりの家族旅行。今日から明日にかけて鳥羽の水族館とス

ペイン村に行く。

 1日目の今日は、9時頃に慌しく出発。普通の家族旅行の必要

品に加えて持っていく物が多く準備が大変である。結構確認した

もののそれでも重要な物を忘れていた。吸引器である。本人は

「大丈夫。」と言って横になったものの心配で、心配で...。

 弟はホテルのプールで泳いだりホテルのあちこちをうろついた

りで「大満足!」。両親も気持ちの良いホテルで、本当に久しぶ

りにユッタリした気分に浸ることが出来た。

 

 

1994年8月6日 土(968)

 連日猛暑が続く。週末に帰って来てもエアコンの効いた部屋に入ったままで、部屋から

外に出るのは食事の時のみある。そして鼻水を出しているのだから...。マア、熱がない

から良いか...。

 

1994年8月8日 月(970)

 学校から「明日早く迎えに来て下さい。」と電話。先週検査に出していた痰から再びM

RSAの菌が発見され、学園に入園している訳にはいかない、と言う連絡だった。

 「明日から又入院しなアカンかったらどうしょう...」。病院に入院し個室に入れられ

ることにもなったら、退院前と変わらない辛い毎日になってしまう。弟にとっても3回目

の寂しい夏休みになってしまう。

 

1994年8月9日 火(971)

 「夏休みの間(8/31まで)家に居て下さい。」と言うのが『学園(病院)』の指

示。特に治療の指示はなく、とにかく様子を見ようと言う事である。 MRSAは「健康

な人は誰でも持っており、特に治療薬は無い。」と言う事であるが...。

 しかし夏休み以後はどうすればいいんだ?。「『学校』には通学出来るように考えま

す」と言う事である。

 

1994年8月16日 火(978)

 お盆で叔父さんの家族が揃って東京から帰って来ており、今日は一緒に外食に行った。

 車椅子に乗ったままで食事が出来る場所は以外と少ない、それに8人が同席出来るとな

ると更に少なくなってしまう。

 そんなことにはお構いなしで、本人は本当に嬉しそうだった。出来るだけこんな機会を

作ってやろうと思う。

 

1994年8月22日 月(984)

 夕方5時からの養護学園「夕涼み会(学園の夏まつり)」に

お母さんと子供2人が出かけて行った。ここ数日は不安定な天

候が続いており、今日も雷雨があった為体育館での会であった

が、本人は勿論、弟もお母さんもそれなりに「楽しかった

ヨ」。

 

 

 

 

1994年8月31日 水(993)

 夏休みも最後という事で、お父さんを除く3人で名古屋の科学館へ行く。7月末の家族

旅行以来の遠出になる。弟はこの夏休み「〜へ行きたい。」とは言わなかったが、それな

りにお兄ちゃんの事を意識していたようである。昨年の夏休みの宿題に比べると今年の宿

題はかなり充実しているし...、弟も成長しているのである。

 

1994年9月5日 月(998)

 今日から希望が丘学園に”通学”。8時頃に車で出かける。お母さんは一旦帰宅したも

のの12時までに再び学校へ昼食の世話に行く。今日はそのまま学校に居て、一緒に帰っ

てきた。

 学校からは「週3回、昼食の世話をして下さい。」とのことで、お母さんは送迎と食事

の世話で週3回は学校と家とを1日に3往復することになる。なんともタマラナイ「行政

指導」である。早くMRSAから開放されて入所出来れば、と願うのみ。

 

1994年9月7日 水(1000)

 担任の先生が毎日やった事、気がついたことをテープに吹き込んでくれる。一種の連絡

帳である。本当にありがたい事であるが、最後に「〜を家でも毎日繰り返してやって下さ

い」とあった。現在でも時間的に精一杯だと思っているのに、「これ以上何が出来るん

だ!!」と考えてしまう。

 

1994年9月9日 金(1002)

 少しずつではあるが学校の生活に慣れて来ているようで、今日は初めて運動会の練習。

「車椅子に座ったままの体操を、担任の先生に手伝ってもらってやった」。「腕が痛い」

、「知らないうちに手に擦り傷が出来ている」と言った調子である。少しづつではある

が、成長が”再開”した?。

 

1994年9月10日 土(1003)

 家族で伊自良青少年の催しに行く。オリエンテーリング、バーベキュウ、リクリエーシ

ョン...等。そんな中、弟が「お兄ちゃんが車椅子から落ちた!。」と連絡に着た。駆け

つけてみると、池の縁でうつ伏せになって倒れていた。チョット目を離した時の出来事で

あったが、池にはまっていたら、と思うとゾーとした。

 

1994年9月14日 水(1007)

 「O・T君の国語」、担任の先生が手書きの教科書を作ってくれた。B4画用紙に{6

〜7文字}×{5〜6行}で大きな文字が書いてあった。漢字も使われており、読めない

漢字にはフリガナが付いている。宿題は「これを3回読んでくる事」。学校では、1人1

人の状況に合わせた教材を作り指導を行ってくれるようだ。

 

1994年9月16日 金(1009)

 「言語」の時間にパソコン(WP)のキータッチの練習をやる。家にはキーボードをも

って帰って来た。「家で練習をして来い!。」との事。大変ダー!!。

 

1994年9月18日 日(1011)

 事故に遭うまで使っていた部屋を弟に譲ることにして、午後から部屋の移動をする。机

を始め子供の生活用具一式を入れ替えるは結構大変である。

 「何時までも過去ばっかりにこだわっていてはいかんヨ」。前に居た部屋を見せなが

ら、お母さんが本人に話していた。

 

1994年9月20日 火(1013)

 学校で文字を書く練習もやっている。家に帰ってからも、お母さんに付いていてもらっ

て文字を書く練習をする。お母さんの補助があれば何とか読めるのだが...。

 

1994年9月22日 木(1015)

 運動会。以前であれば最も得意とした学校の行事である。個人の参加種目は20m競争(車椅子に乗って足で進む競

技)。余り多くは語らなかったが、昔を思い出したのか、現

在との落差はかなりのショックだったようである。しかし、

こうした現実を1つ1つ乗り越えていかねばならない。

 

 

 

1994年10月5日 水(1028)

 会社でS社長との懇談会。その中で「最近は不可能が可能になる時代だな。」と言われ

ていたのが印象に残った。話の対象は違うが障害を持っているからといって「〜は不可

能。」と決め付けず、可能性を信じて色々な事に挑戦させてやろうと思う。

 

1994年10月7日 金(1030)

 学校からリトルワールドへ遠足。お母さんはいつもより1時間ほど早く起きて弁当の用

意。何かあると忙しい。

 帰宅した本人に「どうだった?。」と聞いてみると「ウーン??。」と言う返事。あま

りおもしろくなかったのかな。お母さんは付き添いで一緒に行ったのだが「疲れたー、足

が痛い」。付き添いでは気分転換にもならんのだろう。

 

1994年10月17日 月(1040)

 毎日、毎日宿題がでる。だいたいはA4用紙1枚程度のテスト形式のものである。こう

した宿題の面倒をみるのは大抵お父さんの役目である。教科書を読んでいる訳でもない

し、持って帰ってくる訳でもないので、調べるのに結構時間がかかる。

 

1994年10月22日 土(1045)

 今日はお父さんが迎えに行く。教室の壁に事故に遭う前の思い出を綴った作文が貼って

あった。最後に「車椅子でも出来るスポーツがやりたい。」と書いてあった。

 

1994年10月25日 火(1048)

 今日から2泊3日の修学旅行。お母さんも付き添いで一緒に出か

けて行った。

 夜お母さんから電話。「元気なんだけど、夕方になってお腹が痛

い、といってるワ」。

よくある事で、余り心配そうでもなかったが、せっかくの修学旅行

である、少しでも楽しい思い出が残ると良いのだが...。

 

 

 

1994年10月31日 月(1054)

 夕食後「お腹が痛い。」と言って、9時頃にはベットで横になって就寝。

 お母さんは、糸貫中学校で世話になった2年5組のクラスメートにお礼のテープ作り

(ダビング)と品物の包装で夜遅くまで忙しい...。

 

1994年11月2日 水(1056)

 今日は希望が丘の学校を休んで糸貫中学校の文化祭に行った。旧2年5組のクラスメー

トが担任の先生に頼んでくれたのである。「行って良かったヨ!、皆にも会えたし、色々

話も出来たし...」。養護学校とはやはり違った雰囲気なのだろう。

 

1994年11月7日 月(1061)

 ここ数日喉の具合が悪いらしく、よく咳き込んでいる。今朝もかなりひどく咳き込んで

いた為、県立病院へ行く事にする。

 病院では気管のカニューレを換えてもらうと共に、喉に出来ていた肉芽を切除してもら

った。「調子良いヨ。」との事で、まずは一安心。とにかく咳き込んだ時の苦しそうな姿

を見なくて済むだけでもホッとする。

 

1994年11月8日 火(1062)

 学校で授業中にカニューレが外れてしまう。先生の話がおもしろくて大きな口を開けて

笑ったのが原因だそうである。しかしその後が大変。学園(病院)へ急いで連れて行かれ

医師の先生に押し込んでもらったそうである。

 帰宅してからも咳き込んだ時に外れてしまい、「明日からも心配だわ。」とお母さん。

 

1994年11月11日 金(1065)

 養護学校の授業参観と懇談会があった。校長先生から「今の状態では関養護学校へ推薦

することは出来ない。」との事。MRSAが主要な原因で、もう一つの要因として送迎バ

スの席が無い、と言う事だそうである。そんな理由で子供の教育を受ける権利を奪って良

いのだろうか!。

 

1994年11月15日 火(1069)

 学園で改めて、本人の状態や学校の様子を関養護学校側に話すよう頼んでみる。お父さ

んの叔父さん達(中学校の校長、叔母さんは前に関養護勤務)に頼んで見る方法もある

が、”正道”でやった方が良い。

 

1994年11月17日 木(1071)

 天候が不安定で、雨の日は車の乗り降りをはじめ車椅子の移動は大変である。せめて家

から出かける時や帰って来た時ぐらいは雨を気にしなくても良いようにしてやりたい。農

機具小屋の建て直しを考えてからもう何ヶ月になるかナー。建築屋さん「早く何とかして

ちょうヨ!」。

 

1994年11月22日 火(1076)

 3時半頃、学校へ迎えに行っていたお母さんから「様子がおかしいの、直ぐに来

て!。」と電話が入る。

 リハビリの最中に痰が詰まって呼吸困難な状態になり、丁度その時に学校に着いたお母

さんが「顔が真っ青で口から泡をを吹いていた」のでビックリしてしまったのである。

 学園(病院)で救急措置をしてもらい県立病院へ行ったのだが、お母さんは「こんな状

態では関養護では受け入れてもらえんナー。」とかなりのショックを受けた様子。

 

1994年11月28日 月(1082)

 学校で首以外はほとんど動かせない人の講演会があった。講演後の懇談会で「若いのだ

からこれから色々出来る、頑張りなさい。」と励まされた。

 パソコンやワープロの事も話題になったが「あまり慌てて購入せず、色々試してからの

方が良いですよ。」との事。拡大読書器についても同様な意見だったそうである。

 

1994年12月8日 木(1092)

 お父さんの叔父さんが関養護学校で聞いてきた話をしてくれた。関養護の先生の個人的

な見解のようであるが、お父さんが現在考えて(捉えて)いる状況とあまり差は無いよう

に思う。大体以下のような話であった。

 @長い期間をかけ、ユックリした気持ちで考える事

 A病院の先生と良く話して、本人に合った養護学校を選ぶ事

 B関養護では,MRSAの罹患者は受け入れられない。又、入学待ちの人が多くいる

 C関養護へは何時でも転校出来る

 D長良養護は話し合いによっては通学も可能

 E希望が丘では分っていない事もあり十分説明しきれていないかもしれない 等々。

 お母さんも筋道を立てた説明に納得した様子である。

 

1994年12月13日 火(1097)

 事故から3年経った。三年前の事故から家族の生活は根本的に変わってしまった。現在

は一応退院し少しは良くなってきたものの、事故以前の穏やかな生活とはほど遠い状態で

ある。お母さんの時間が送迎・昼食の世話、病院の定期検診、家でのリハビリ・介護等に

費やされ、ままにならない事が大きい。元の生活状態に戻る事は無理にしても、もう少し

家族全体が落ち着いた生活をしたい。

 MRSAに罹患している事が「生活の回復」に大きな阻害要因の1つになっている。

 

1994年12月15日 木(1099)

 保健会社に提出する書類の為の検査を受ける。色々な検査項目があり「×がほとんど

で、所々に△がある程度」だそうである。当初に比べると本当に変わってきているように

思うのだが、「自立した生活を行う為の機能」と言う事になるとこのような評価になって

しまうのだろう。

 分っているとはいえこの様にハッキリ示されると本当に辛い。直接話を聞いていたお母

さんはもっと辛かっただろう...。それでも頑張らねばならない!。

 

1994年12月22日 木(1106)

 2学期が終了し、明日から冬休み。

 慢性的に「腹が痛い、頭が痛い...。」と言っていたが、この休み中はユックリして身

体全体を「修復」して欲しい。

 しかし、お母さんにとっては、ズーと面倒を見ながらの年末年始の準備・大掃除もあ

る。またまたお母さんのイライラがつのる?。

 

1994年12月23日 金(1107)

 午前中はチョット早めの年末大掃除。午後からは購入したパソコンを置く場所を作るの

にテンヤワンヤ。

 物置きになっていた部屋を整理していたら、事故前の小学校の作品や教科書が当時のま

ま保管してあり、思わず見入ってしまった。細かく作った作品や整理されたノートを見

て、ついつい”残念”と言う言葉が頭に浮かんでしまった。

 

1994年12月28日 水(1112)

 お父さんの会社は今日が仕事納め。

 帰宅してみると購入したパソコンが到着していた。早速、弟とお父さんとでセッテン

グ。

 

1994年12月29日 木(1113)

 夕食後、兄弟とお父さんの3人でパソコンの使い方を研

究?。弟はカンで次々と色んな操作をやっていく。頼もし

い!。しかしお兄ちゃんが使うには...、途方に暮れる。まず

はそれなりの周辺機器が必要だな。

 

 

1995年1月5日 木(1120)

 今日でお父さんの正月休は終わり。

 今日もパソコンを中心とした1日となり、何とか使えんものかと色々調べてみるもの

の、目が良く見えない事が決定的な障害になっている。別の「機能」を付ける以外に方法

は無さそう?。

 弟は次から次へと新しい操作をマスターして行く。”やってみる”事は強い。「まずマ

ニュアルを読んで理解して...。」と言っていたお母さんは何時の間にか寝てました。

 

1995年1月13日 金(1128)

 今冬初の積雪。お父さんはノーマルタイヤでノロノロと出勤。

 希望が丘学校は丁度授業参観日と重なってしまったが、「遅れても仕方がない」ととに

かく車で出発。結果的にはメイン道路は雪もほとんど無くて問題なし、ただ橋のみ注意と

いう状態だったそうだ。それでも、会社にいたお父さんは「無事学校に着いたかな

ー...、何事も無く家に帰れたかなー...?」と不安でしょうがなかった。

 

1995年1月17日 火(1132)

 早朝5時46分頃、突然ガタガタ、グラグラと来た。かなり強い地震だな、と思った程度

であったが、これが『神戸・淡路大震災』であった。

 今日1日中、TVもラジオも震災の報道ばかりだったが、時間を追うにつれてその被害

がどんどん大きくなっていった。

 

1995年1月24日 火(1139)

 遅れていたパソコンのプリンターが到着。最近は弟がワープロを覚えて日記を書いてい

たが、それをプリント出来ると大喜び。ところが接続がなかなか上手く出来ん!!、弟の

就寝時間に間に合わなかった。

 

1995年1月27日 金(1142)

 午後から半休を取って、お母さんと「コミュニケーション福祉機器展」に行く。点字、

拡大読書機の類が多かった。1つの障害であれば、その機能をカバーする機器を揃えれば

良いのだが、複数の障害を持っている子供にあった機器はなかなか...。ジックリ探し、

複数の機器を上手く組み合わせて考えないと無理なようだ。必要な機器から1つ1つ揃え

ていくより仕方がないだろう。

 

1995年2月5日 日(1151)

 午後からお母さんと2人で音楽会に出かけていった。会場はどのような設備になってい

るのだろうか。最近の施設は障害者を意識してそれなりの設備を備えている所もあるが、

古いままの施設では係りの人が苦労する所もある。

 お父さんと弟は野球の練習の後、パソコンをやりながらゆっくりする。それにしても弟

のパソコンの操作はすごい。最近買ったゲームはかなり素早い操作が必要だと思うのだ

が、それで結構楽しんでいる。

 

1995年2月17日 金(1163)

 パソコンのキーボードカバーを作ってくれる所がやっと見つかった。

 今まで会社の関係とか知人に教えてもらった所に電話等で確認していたのだが、『会

社』ではなかなか採算に合わないようである。障害者用のみならず今後は需要が増えると

思うのだが。

 大阪の身障者の支援を目的とする協会=「自助具の部屋」に電話をしたところ、「ボラ

ンティアでやってますので材料費と送料のみで良いですよ。」との事。早速依頼した。

 

1995年2月22日 水(1168)

 自助具の部屋から電話があり、後1週間程で出来るとの事。ようやくキーボードカバー

の目処がついた。有り難いと思うと同時に、こうした世界に光が当てられるのは何時にな

るのだろうと思う。経済的に成り立つ世界ではなさそうだし、このような分野にこそ公的

な資金が使われて良いと思うのだが...。

 

1995年2月28日 火(1174)

 お父さんが帰宅すると「キーバードカバーが来たよ、キーボードカバー」と大きな声で

叫んでいる。皆がパソコンに取り組んでいる中、自分だけとり残された気分になっていた

のだろう、大変な喜びようである。

 しかし、今日は帰宅が遅かったので面倒を見てやれなかった。明日にでもお母さんが少

しでも触れるよう、面倒を見てくれると良いのだが。

 

1995年3月1日 水(1175)

 キーボードカバーを使って、弟にパソコンの操作指導をしてもらう。「オモシロカッタ

ー」との感想であったが、本当に「何か出来る」ようになるのは何時の日かな?。

 

1995年3月3日 金(1176)

 拡大読書機が届く。まだ試用と言う事で借り物である。お父さんが帰宅した時はまだ箱

に入ったまま。明日にでも使えるようにするか。

 宿題がプリント2枚。昨日は1枚だったが教科書、参考書とニラメッコして1時間程か

かっている。今日は普通の時間に寝れそうにない?。

 

1995年3月6日 月(1179)

 拡大読書機を学校に持っていく。家で使おうとしたものの、思うように文字の認識が出

来ない。慣れが必要なのか?、と思っていたところ、学校から「皆で使い方を研究します

から。」との事である。何か奇策でもあるのかな...、マア、お父さん達が考えるよりは

良い智恵が出るだろう。期待したい。

 

1995年3月10日 金(1183)

 自助具の部屋の人が「片手入力のソフト」を送ってきてくれた。説明書が付いていたも

ののこちらの知識不足でチョット手強わそう。現在パソコンに入っているソフトについて

も隠れている機能を調べる必要があるし...。時間が無いなー。

 

1995年3月14日 火(1187)

 「片手入力のソフト」のインストールを試みるものの、やはり知識不足を痛感する。関

連する書籍を読んでみたのだが結局はダメ!。別のソフトを探すか、諦めるか...。

 

1995年3月21日 火(1194)

 お彼岸にピッタリの好天気。

 午後はポカポカ陽気の下、テニスボールを投げる練習をする。弟が

ズーと付き合ってくれた。勿論まともに投げられる訳ではないが、そ

れでも一生懸命練習する態度は大したものである。こうした事の積み

重ねが何時かビックリするような変化に繋がってくれれば、と思う。

 

 

 

 

 

1995年3月22日 水(1195)

 糸中旧2年5組の担任の先生が寄書と文集を持って来てくれた。当時の思い出や卒業し

てからの進路についての話が中心であったが、それぞれが素直に心の中を書いていたよう

に思う。貴重な”宝物”になるだろう。

 先生の手紙の中に、1人の生徒さんが「T君にも卒業証書を渡してあげて下さい。」と

校長先生に頼んでくれた事が書いてあった。流石にそれはダメだったようであるが、最後

まで仲間として考えていてくれた事が嬉しい。

 卒業を真近にして、このような文集を作ってくれた生徒さん達が、今の感受性をズーと

持ち続けてくれれば、と思う。

 

1995年3月23日 木(1196)

 希望が丘学校の卒業式。卒業証書もチャンと貰って来た。

 弟も明日終業式。4月からは小学校の最高学年である。お兄ちゃんが

事故に遭ったのは弟が2年生の時、早いものだ。

 

 

 

1995年3月26日 日(1199)

 午後から、弟も加えて3人でパソコン。

 「これから一行日記を書く事にした。」そうだが...。

 

 

 

  

 

「希望が丘養護学校編」は以上で終わりです。

MRSAに罹患した状態だったこともあり、

希望する養護学校には進学出来ませんでした。

その為1年間は自宅と、希望が丘へ通院して、

リハビリ生活を送る事になりました。

従って(?)続きは

「@ホーム編」です。

 「@ホーム編」からは、本人の日記も収録しました。

その事もあり、長編になってしまいましたので

「@ホーム・前編」

「@ホーム・後編」

に分けました。

 又、感想や助言等がありましたらお寄せください。

   

 

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